次の日。
 私はいつもより1時間早く登校した。

「スーハー、スーハー……よしっ」

 丹田に力を込め、気合を入れる。
 時刻は朝の7時。朝練のある部活動に入っている生徒以外は、まだ家で支度をしている時間帯。当然、校舎内にはほとんど人影がなく、教室のドアも閉まっている。
 それでも私は、一欠片の勇気と昨日の言葉を信じて、そのドアを開けた。

「え?」

 間の抜けた声が聞こえた。朝日が差し込む黄色の教室には、一人の男子生徒が立っていた。

「お、おはよう。小鳥遊くん」

「お、おはよう……?」

 まんまるに目を開いて私を見ているのは、昨日の夜も話した小鳥遊くんだ。その手には、ほうきとちりとりが握られている。

「私も、手伝うよ」

「へ? なんで?」

「た、たまたま早く起きたから」

 足早に教室へ入り、自席に鞄を置くと、私は掃除ロッカーからほうきを取り出した。小鳥遊くんがはいていた教室前方とは逆の、後方から掃除を始める。

 昨夜は、少しの間だけど、小鳥遊くんといろんな話をした。
 今ハマっている小説と、それをコミカライズした漫画の話。猫が好きで、毎日寝る前には猫動画を見ていること。朝は早起きで、みんなより早く登校していること。綺麗好きであること。などなど。
 その話の中で、私はピンと来た。いつも不思議に思っていたのだ。朝登校すると、教室が前日の放課後に比べて妙に綺麗なことに。

 本当に、こんなことまでしてるなんて。

 朝、教室のドアの小窓からのぞいて予想の正否を確認した時は驚いた。まさかとは思ったけれど、現実にそんなことをしている人がいるなんて思わなかった。
 でも、さすがに本人の前で言うわけにはいかない。当人も褒められることは望んでいないだろうし、昨日の話も手伝ってほしいとかそういうことを期待したわけじゃないだろうから。

「小鳥遊くん、ちりとり貸して」

「え? あ、うん」

 ぎこちない動作でちりとりを受け取る。なんだか恥ずかしい。私はちりとりを持ってからも、無言で教室の最後尾の列をはきつづけた。横目で小鳥遊くんの様子をうかがうと、彼も黙って黒板の下をはいていた。


 放課後になると、私は決心の変わらないうちに校舎裏へと向かった。

「あ、いた」

 校舎に沿うようにして植えられた垣根の下から、2つの小さな耳がひょっこり出ていた。

「わー可愛い」

 続けて、丸くて黒い瞳と小さな髭が顔を出す。いつの日かに見た、あの野良猫だった。
 これも、昨日の夜の話から予想したことだった。
 前に小鳥遊くんが校舎裏で野良猫を撫でていたのは知っていた。あれ以来、この辺りにはなるべく近づかないようにしていたからわからなかったけれど、小鳥遊くんが毎晩猫動画を見るほどの猫好きなら、きっと一度ならず二度目以降も来ているはずだ。
 そして、可能性として高いのは、きっとすぐ教室から出て行く放課後のはずで……。

「あれ? 雪城?」

「や、どうも」

 思った通り、私が来て数分としないうちに小鳥遊くんがやってきた。なんだか、待ち構えていたみたいで気持ち悪いな、私。事実その通りなんだけど。

「どうしてここに?」

「んーん、たまたまだよ」

「ふーん」

 朝に続いて苦しい言い訳かなと思ったけれど、小鳥遊くんは何も聞かなかった。もう少しだけなら、踏み込んでみてもいいかな。

「小鳥遊くんは、いつもこの子の面倒見てるの?」

「え、なんで?」

「えと、先々週だったかな。昼休みにたまたまこの辺りに用事があって、その時に小鳥遊くんを見かけたから」

 バクバクと心臓がうるさい。猫を撫でる手に、じんわりと汗がにじむ。

「そうなんだ。まあ、うん。いつも、朝と、昼休みと放課後に見に来てる」

「え、朝も?」

 すごい。じゃあ今朝はもっと早くに学校に来ていたのか。

「家じゃ飼えないし、餌をあげたり、ちょっと撫でたりするくらいだけどな」

「そっか。優しいんだね」

「……べつに」

 不機嫌そうに、小鳥遊くんは明後日の方向を向いた。怒らせちゃったかな、と内心焦るも、頬が赤いのを見てすぐに照れているのだと気づく。意外と可愛いところがあるらしい。

「ね、私も猫好きでさ。たまに、ここに来てもいい?」

「べつに。野良猫みたいだし、好きにすればいいと思うよ」

「うん、わかった」

 それからは、無言で猫の世話をする小鳥遊くんをなんとなく見ていた。



「小鳥遊くんってさ、昼間はすごくぶっきらぼうだよね」

「恥ずかしいんだよ。高校生って、そんなものでしょ?」

「えーそうかなあ」

 その日の夜。また私は公園まで来ていた。今日は、小鳥遊くんが先にベンチに座っていた。

「そういう雪城だって、まさか朝に掃除に来るなんて思ってもみなかった」

「いやだから、あれはたまたま早起きしただけだって」

「放課後も?」

「うん、たまたまだよ」

「たまたま多いな」

「いいでしょ、べつに」

 今になって指摘してくるのか。やっぱり小鳥遊くんには少し意地悪なところがあるらしい。

「でも雪城、少し柔らかくなったよ。一昨日会った時とか、挙動不審だったし」

「だ、だって小鳥遊くん、普段けっこう怖いから」

「それはごめんて。でも、今日とか普通に話しかけてくれたし、少しは軽減されたってこと?」

「んーまぁ、まだちょっと、怖いけど」

 前よりは、大丈夫だと思う。
 元々、怖さもさることながら、それ以上に恥ずかしさのほうが勝っている。最近はこうして夜に少し話すようになったし、慣れてきたけれど。
 それに、もうひとつ。

「えー、そんなに怖い怖い言われるとわりと傷つくなぁー」

「ぜんぜん傷ついているように見えないけど」

「大正解。はははっ」

 朗らかに笑う彼を見て、思う。
 私も、こんなふうに笑えるだろうか。
 笑えるように、なるだろうか。
 私は、ずっと幸せになってはいけないと思って生きてきた。
 兄の人生を犠牲にして成り立っている毎日。罪悪感を覚えない日はなかった。腹立たしかった。
 だから、同じように、何かに怒っている小鳥遊くんが気になっていた。
 そして最近は、それだけじゃなかった。
 あの小鳥遊くんが、真夜中に会うといつも笑っている。笑顔になっている。
 どうしてだろう。
 なにが、彼を笑顔にさせるのだろう。
 以前よりもっと気になっていた。もしかしたら、彼と過ごすうちに、私も心から笑えるようになるんじゃないだろうか。
 兄の人生を犠牲にして、ただなんとなく過ぎていく毎日を変えられるんじゃないだろうか。少なくとも、そのヒントくらいは得られるんじゃないだろうか。
 それに何より、小鳥遊くんと話せるのが純粋に楽しくて、嬉しかった。

「それでさ、良かったら明日は朝も猫見にこないか?」

「うん、そうだね。じゃあ行こっかな。起きれたら、だけど」

「おー、たまたまに期待してるよー」

「うるさい……です」

「あははっ! ですってなに、ですって」

「うるさい」

 ずっとこんな日が続けばいいのにな。
 柄にもない考えが浮かんで、私は恥ずかしくなって慌てて首を振って掻き消した。
 また、小鳥遊くんが笑っていた。