翌朝、私は寝不足で授業を受ける羽目になった。
 昨日の夜は肌を刺すほど寒かったのに、どうやら今日は暖かくなるらしい。なんとも気まぐれな気候だと思いつつも、今の私にとっては天敵以外の何者でもなかった。
 やけに重い瞼、いつもより遠くに聞こえる先生の解説、ミミズみたいに折れ曲がった歪なノートの文字たち。端的にいえば、眠い。ただただ眠かった。
 それもこれも、右斜め前の席で頬杖をつきながら授業を受けている彼のせいだ。

 昨日、夜のお散歩から帰った私は、早々にベッドに潜り込んだ。頭を冷やすために外へ出たのに、帰ってきたらむしろ悪化していた。当然宿題どころではなく、もう何も考えたくないと思ったのだ。
 けれど、いつもならすぐ眠くなるのにその日はまるで寝付けなかった。毛布にくるまり、枕に顔を埋めても、眠気はちっともきてくれなかった。代わりにちらつくのは、見慣れないクラスメイトの笑顔ばかりだった。

「私……あ〜〜もうっ」

 本当にどうかしている。べつに何があったわけでもないのに。
 くだらない、とこきおろしてみるも、どうしようもなく喜んでいる気持ちがあるのも事実だった。
 私は、前々から小鳥遊涼くんのことが気になっていた。
 最初は、一種の親近感のようなものだった。
 周囲に壁を作っていて、誰にも心を許していない。他人はもちろん、自分すらも信じていない。常に醸し出している不機嫌さは、他人というよりも自分自身に対してのもので、そのやり場がわからない。そんなふうに見えた。
 私に似ている、と思った。
 自分を好きになれず、信用できず、ずっと過去の自分に、今の自分に腹を立てている。兄の人生を犠牲にして、のうのうと好きに使える時間がある。有意義で、生産性のある使い方ができるわけでもないのに。いったい何様なのだろうか。
 やり場のない怒り。けれど、怖さゆえにどうすることもできない。本当に情けなくて、みじめだ。
 それとわかるほどに表には出さないまでも、沸々と心の底に怒りを宿している日常で、私は彼の存在に気づいた。それからは、なんとなく目で追うことが増えた。
 教室では、授業に集中することなく呆然と窓の外を眺めているか、明らかに板書ではない何かをノートに書いているか、延々とペン回しをしている。
 休み時間は、引き続き窓の外を見ているか、机に突っ伏して寝ている。
 放課後は、ホームルームが終わるとすぐに立ち上がって一人で帰っていく。
 偶然、校舎裏で見かけた時は驚いた。茂みで怯えていたらしき野良猫を優しく撫でていた。その時は、珍しく子供っぽくて穏やかな笑顔を浮かべていたけど、どこか苦しそうな表情もしていた。
 あとは、休日に遭遇したこともあった。彼は、ショッピングセンターにある本屋さんで立ち読みをしていた。漫画と文庫本だった気がするけれど、何を読んでいたのかまではわからなかった。それに、あまり楽しそうな感じではなかったと思う。
 空き教室の掃除をしていたこともあった。用事を済ませてからまた寄ってみると彼はいなくて、教室はピカピカになっていた。
 美化委員が忘れがちな、校舎裏の隅にある花壇の水やりをしていたこともあった。とても丁寧で、慣れているように見えた。
 彼は、小鳥遊涼くんは、優しい人だった。
 そして、何かに苦しんでいるようだった。
 いつのまにか、小鳥遊くんのことを考えている時間が多くなっていた。
 直接話したことはない。そんな勇気もきっかけもないし、関係性を変えたいとも思っていなかった。
 恋愛なんて、私には過ぎたものだ。遠くから見つめる片想いだけでいい。それを叶えようなんておこがましいし、何より兄に申し訳ない。
 だから、昨夜に彼と出会したのは完全に想定外だった。
 無意識に渦巻く雑念や想いを消そうと出かけたのに、むしろそれらは増えてしまった。
 私に向けてくれた彼の笑顔が、頭から離れてくれなかった。
 
 悶々として寝返りを打つこと数十回。寝たのか寝てないのかわからない夢うつつの中で、気がつけば窓の外が明るくなっていた。
 調子に乗るなよと自らに言い聞かせ、なんとか気持ちを落ち着けてから登校してみれば、異常なほどの睡魔が襲ってきた。当然のいえば当然なのだけど、私と同じように真夜中にお散歩をしていたはずの小鳥遊くんは、余裕そうに授業を受けていた。きっと、私と違ってあのあとすぐに眠れたのだろう。

「……それにしても」

 少しでも眠気を紛らわせようと、私は視線の先を黒板から彼に向ける。相変わらず不機嫌そうに頬杖をつき、黒板ではなく窓の外を眺めている。まるで授業を聞いてない。それが後ろからでも一目でわかるほどだった。
 ……本当に、昨日話したのはあの小鳥遊くんなのだろうか。
 一度は解決したはずの疑念が、再び浮上する。
 朝のホームルームが始まる前も、一限が始まってからも、彼が昨日のように笑う気配は微塵もなかった。まあ、楽しいことがないと人は笑わないから当たり前なのだが、今の小鳥遊くんからはあんなに純粋に笑う姿はどうにも想像できない。けれど、クラスでの私のことを知っているみたいだったし、この高校に小鳥遊という苗字は彼だけで、顔が似ている人もいないから本人で間違いないはずだ。
 つまり、昨日の彼はやっぱり今私の視界にいる小鳥遊涼くんその人であるわけで……。
 他人のことをとやかく言えないほど授業そっちのけで、あれやこれやと考えているうちに、一限目終了のチャイムが鳴った。

「次どこだっけ〜?」

「あー、視聴覚室だったはず」

「おっけー。さっさと行こうぜ〜」

 ガタガタと椅子を引く音とともに、クラスメイトが友達と連れ立って教室を出て行く。私には特に仲の良い友達もいないし、記憶にある限り彼にもいないはずだ。
 寝不足の頭が、いつもの私なら絶対にしないであろう行動を命令するのに、そう時間はかからなかった。

「ねえ、小鳥遊くん」

 クラスメイトの大半が出て行ったのを確認してから、私は未だに机でボーッとしている小鳥遊くんに声をかけた。

「……え?」

 驚いたように、彼は振り返った。昨夜ぶりに目が合う。昨日感じた子供っぽさは全く感じられず、苛立たしげな視線が私を射抜いた。

「あの、その……昨日は、近くまで送ってくれて、その、あ、ありがと……」

 びくつきながら、私はどうにか言葉を絞り出した。昨日の別れ際に言えなかったお礼と、自明ともいうべき確認も兼ねて。

「……は? いったいなんのこと?」

 頭の中に漂っていた睡魔が、一瞬で消し飛んだ。