「ふざけるな!!」

力強い怒声が瑞穂の意識を覚醒させた。
翡翠が瑞穂の手を引き抜いて己の腕の中へ引き寄せる。

「……またお前か。懲りないな」
「それはこっちの台詞だ。たとえ瑞穂が天つ乙女だろうと、ヒルメが瑞穂を捨てたことに変わりはない。あの時浜で眠る瑞穂を見たか!? なんと頼りなげなことか! なんと寂しげに鼻を鳴らしていたか……! 赤子をぽいと放り出しておいて、何が天つ神だ! 幼気な赤子を他人に押しつけ育てさせ、時が満ちたから譲り渡せだと? そんな横暴が通ると思うなよ! 大事な妹を、否、それ以上に愛しい瑞穂をそんなところに帰してやるものか!」

激昂する翡翠に小さく舌打ちをしたカナメは「お前に跪いている訳では無い」と言わんばかりに立ち上がる。視線の高さを同じくすると、傲然と顔を上げた。

「捨てた訳では無い。ヒルメ様にも事情がおありだったのだ。あの時は 実の弟君との戦の真っ最中だった。誓約(うけい)によりひとまず場を収めたが、あの暴君はそれでおとなしくなる神ではない。事実、増長した。瑞穂のことは、大切な存在だからこそ安全な場所へ避難させたのだ。その辺りは、出雲が詳しいはずだがな」

その言葉に、翡翠と瑞穂は父を見る。出雲は黙って頷いた。

「知っているの……父さん」
「……ああ。話してはいなかったが、私は二度、実の兄達に殺されている。それを生き返らせてくれたのは、母上と高天原の天つ神だ。葦原という名も、今話にあったヒルメ様の弟神から賜ったもの。他にも多くの神達からの手助けがあったからこそ、私は今此処に居る。それに報いるつもりでお前を引き取った。無論、高天原は数多の知恵を貸してくれた。お前がこうして健やかに育ったのは、我々だけの力では無いよ」
「そんな……」

この数刻で、今まで生きてきた十数年の土台がぐらぐらと傾いていく。受け止めきれず滲む涙は指先で拭い切れるものではなかった。

「瑞穂……」

自らの出自。父の秘密。
突如現れた雷と戦の神。
数々の衝撃は不安となって瑞穂の中でとぐろを巻く。
足元すら覚束無いのに、進むべき道だけが示されてもそこへ連なる一歩が踏み出せない。
瑞穂はそれに背を向けたくとも、方角すら覚束無いのだ。

翡翠は、腕の中で小さくしゃくりあげる妹を見下ろす。
唐突に、幼き日の隠れ鬼が思い起こされた。
鬱蒼とした深い森の奥。
陽の光を拒むように、わさわさと葉を茂らせた木の陰。
ちょこんと足を揃えて座り込んで、膝に顔を埋めるように縮こまっていた幼い瑞穂。
次第に落ち着きなく首を振り、寧ろ見つけてくれと言わんばかりに足を伸ばしたり葉をがさがさと持ち上げたりして、鬼役の翡翠を待っていた丸い背中。
声をかける直前に聞こえた鼻をすする音は、翡翠にとって隠れ鬼の高揚感ではなく、こんな遊びを始めてしまった罪悪感を呼び起こすものだっだ。
翡翠は二重写しになる思い出を振り払い、瑞穂を父に押しつけるように手放すと、自らの剣を抜き即座に構えた。

「……ほう?」

カナメは冷たく目を細める。

「瑞穂を泣かせたな。そんなやつに──瑞穂は譲らない!」

そう言うが早いか、翡翠の剣がカナメの脳天めがけて振り下ろされる。
しかし、カナメは片手でそれを鷲掴みにして止めた。

「……聞こえなかったのか?」

カナメが刀身を握る手に力を込める。

「我は」

めきりと厭な音が鳴り

「瑞穂を」

焼け爛れたような煙が刀身を覆い隠し

「譲れと命じたはずだが!?」

雷が爆ぜるように翡翠の剣が砕け散った。

「っ!? ばけものか!」

手に残った柄をかなぐり捨てた翡翠は、すかさず己めがけて振り抜かれた鋒を寸でで避けた。
剣筋の残像を稲妻が駆け、空気が焦げる匂いがする。

「なまくらなど相手にもならぬ。我が剣、布都御魂(ふつのみたま)の斬れ味を味わうがいい!」

低く体勢を整えたカナメの容赦ない突きに反撃の糸口を掴めず防戦一方となる翡翠だが、粘り強く剣筋を見極め、振りかぶったところに懐めがけて飛び込んだ。
カナメの手首に己の手のひらを撃ち当てるようにして掴みあげ、動きを止める。

「馬鹿力、め」
「お褒めに預かり光栄だな、天つ神サマ」

歪んだ顔で笑い合い、重なる拳は相手を砕いてやろうと歓喜に湧いている。
お互いに一歩も引かぬ膠着状態が続く。
しかし、翡翠は手首を刺すような痛みにはっと飛びすさった。

「な……んだこれは……!」

カナメの手首を起点として、凍てつく氷が腕を覆い、腕自体が剣のように鋭く尖っていく。
ぱきりぱきりと分厚く鋭く凍りつく腕を見て、翡翠に駆け寄っていた瑞穂は悲鳴を上げた。

「その程度か。瑞穂を護るには力不足よ」

鼻で笑ったカナメの頭上に黒雲が垂れ込めていく。獲物を探して唸る獰猛な獣の如く、不穏な雷鳴が黒雲の中で飛びかかる時を待っている。

否、待ては必要なかった。

瞬く間に夕立の如き稲妻が海めがけて降り注ぐ。
のたうつ海面が踊り、逆巻いた海の中身は海原という巨大な盆から逃げ惑っている。

「いや、こんなの、やめて……」

耳を塞ぐこともできず、世界が終わりそうな光景にかたかたと震える瑞穂の肩を抱き寄せた翡翠は、顔を歪めてカナメと対峙している。

「瑞穂、逃げるぞ」

ぼそりと耳打ちされた言葉にはっと見上げると、目の前に翡翠の顔があった。
今朝もこの距離で会話をしていたことを思い出す。
戯れのように肩を抱かれて、幾度目かの睦言を聞いて。
今は遠い昔のことのようだ。

「逃げるって、どこへ」
「どこでもいい、こいつらに見つからない、どこか遠くへ──」

「そうだな。か弱き者は瑞穂には必要ない。いずこへでも去るがいい」

己がもたらした荒れ狂う海を見てもそれが日常であるように、眉ひとつ動かすことなく気負わずふたりに歩み寄ったカナメは、とても静かに翡翠の手を取った。
まるでお互いの健闘を称えて握手をする良き友人のようだ──と場違いにも瑞穂はそう思った。
しかしその時、何かを察知した八重は瑞穂に体当たりするように翡翠から引き離すと、砂浜に倒れ込む瑞穂の上からすかさず覆い被さって押さえ込んだ。

「八重姉さん、なに──」

瑞穂が身を起こす直前、風が鳴った。
それも瞬きの間のことで、もう一度瞼が開く前に、のしかかっている八重越しに何かが物凄い勢いで通り抜ける衝撃が浜辺を貫いた。

「え、な、なに──」
「翡翠……翡翠!?」

上体だけ起こした八重の声が、聞いたこともない程に切羽詰まっている。
最悪の事態が脳裏に浮かぶ。
普段の八重からは考えられない程強い力で押さえつけてくる腕からなんとか逃れて、瑞穂も体を起こす。
しかし──翡翠の姿は何処にもなかった。

「兄さん? 翡翠兄さん! どこ!?」
「翡翠! 返事をしろ!」

瑞穂達と同じく浜辺に突っ伏していた出雲も、起き上がるや否や息子を呼び回っている。
変わらずそこに佇むカナメに瑞穂は駆け寄った。

「翡翠兄さんをどこへやったの!」
「さて、どこだろうな。いくばくかの古い木が止めているとは思うが」
「森にいるの? 私、探しに行く」

くるりと踵を返して駆け出そうとする瑞穂の手首を、カナメは掴んで止めた。

「そなたの足で行ける範囲の話をしていない。そうだな……」

カナメは天鳥船を稲光に戻すと指で弾く。
ちかりと光ったそれは、東の空へ飛び去った。
光の軌跡を目で追うまでもなくカナメは「ご苦労」と頷いた。

「諏訪だそうだ」
「諏訪?」
「知らぬか? ここから東にある。これから国の成り立ちを学べば嫌でも場所はわかる」
「それはともかく……どうして翡翠兄さんが諏訪にいるの? さっきまでここにいたでしょう!」

こんなにも瑞穂が動転しているのにカナメは何も心を動かすことなく、さらりと話を続けてくることに苛立ち、自然と語気が強くなる。
しかしそれにすらカナメは事も無げに答えを寄越した。

「逃げよう、などと言っていたからな。逃がして──否、投げ飛ばしてやった。殺すつもりはなかったから生きている。安心しろ」

カナメに掴まれたままの手から力が抜ける。
それに気づいているのかいないのか、彼は声音を弾ませて言葉を続けた。

「ちょうどいい。これで終いにしよう。神殺しの血より産まれた我だが、別に手当り次第に殺戮を仕掛けたい訳ではない。あの者は諏訪へ封じる。そこから一歩たりとも出ること能わず。さすればこれ以上のことはせぬと誓おう」

それでいいな、とカナメの視線は瑞穂を通り越して出雲を見ていた。
表情の抜け落ちた父が、どこまでも傲慢な天つ神を凝視している。
固く握られた拳から血が滴っていることに息を呑んだ八重が、唇を噛み締めて割って入った。

「わかりました。翡翠が此処に居らぬ今、父の跡継ぎはわたくしひとり。僭越ながら申し上げます」

そう言うと、八重は再び柏手とは逆に構えて手を打った。乾いた音の欠片が砂浜に落ちると、そこから青葉のついた柴で編まれた垣根が瞬く間に姿を現した。

「葦原出雲の血を引く者はこちらの垣根の向こう側へ参ります。見えども交わらぬ狭間の彼方──幽世(かくりよ)の理がわたくし達を隠すでしょう。よろしくて?」

最後は父にも向けて発した確認──否、決定事項だった。冷静な娘の託宣に、父は頭に上った血の気を下ろす。咳払いをして発した声はいつもの声音に近かった。

「それに、条件がある。私を今日まで助けてくれた天つ神との約束を果たしたい。あの御方は空まで届く社を建てよと仰った。追放された御方とはいえ、天つ神との約定を違える訳には行かぬ。こちらもよろしいな?」

ふたりの託宣と条件を聞き、カナメは鷹揚に頷いた。

「もちろんだ。これからも高天原は葦原に敬意を払うと合わせて誓おう」

さて、とひと区切りしたカナメは瑞穂を見下ろす。カナメに繋がれた手はそのままに、彼を見上げる瑞穂の瞳からは雫が零れ落ちそうだった。

「此度は振りほどかぬか。利口だな」

この状況で駄々がこねられる程に瑞穂は馬鹿ではない。既に日常はなく、このままずるずると引き伸ばして明日を迎えたとしても、それは昨日の続きではない。
翡翠が足掻き、八重が幕を引き、出雲が決着をつけた。
ならば瑞穂にできるのは、離れ離れになろうともこの決着によって得た安寧を壊さぬようにすることだけだ。

そうした決意を込めて、瑞穂はカナメを見つめた。
八重とも、翡翠とも違う瞳の色で。
葦原出雲の血を引く者ではない、豊秋津国の要たる、瑞々しい稲穂の色で。

「──良い目だ」

そう噛み締めるように言うと、カナメはそっと手を離す。声高らかに両の腕を広げて宣言した。

「さて、譲り受けるにあたって交わした約定を果たそう。この荒れ果てた海を戻さねば社どころの話ではないな」

カナメの言う通りだった。
浜辺は抉れ、崖は崩れ落ち、木々は焼け焦げて倒れ、海は稲妻で引きちぎられたように割れている。

「瑞穂、御力を貸して頂けないだろうか」
「ど、どうやって」

一からの植樹を始めたにしても、途方もない作業となる。そもそも割れた海を直すなど、父から教わった知識では太刀打ちできそうにない。
瑞穂が顔を引き攣らせていると、カナメはそっと瑞穂の手を取った。
諌めるためではない、寄り添う温度の手のひらだった。

「どのような海を好む?」
「……穏やかな」
「他には?」
「魚が、生き物がたくさんいて……」
「そうか。そのまま目を閉じて思い浮かべるんだ。波の音、鳥の声、潮の香り……多ければ多いほど良い」

カナメの言葉を糸口として、瑞穂は昨日までの海を思い出す。
親子で飛んでいた名も知らぬ鳥。
妙な曲がり方をした木々の枝振り。
寄せては返す波が運ぶ潮風は、肌にしっとりとその名残をまとわりつかせる。
すると、頭の中で描く景色が鮮明になりゆく度に額の一点──天つ乙女の印が熱と共に脈打ち、カナメと繋がった指先にその温もりが伝っていく。

「いいぞ、その調子だ──よし、目を開けていい」

カナメの指から伝わってきた鼓動が瑞穂の温もりと重なり満ちた頃、体の中で何かが弾ける感覚がして目を開く。

そこには──昨日と同じ、穏やかな稲佐の浜が息づいていた。

「これ……」

砂浜に空いた大穴は塞がり、海は凪ぎ、水平線の向こうに踊る魚が、虹を描いて海原に飛び込んだ。

「これが、そなただけが成し得ること。秋津国の要たる証だ」

頭の中で思い描いた通りの光景が実際に目の前に広がっていることに、瑞穂はただひたすらに目を奪われる。
言葉もなく見渡す大海原にばちりと火花が散り、瞬きの間に天鳥船が浮かんでいた。

「さて、刻限だ」

光の束が(きざはし)となり浜と船を繋ぐ。

これをたどれば、もう戻れない。

「瑞穂」

出雲の声だった。
瑞穂は振り向くか振り向くまいか迷って、結局父に向き合う。
声と同じく穏やかな、いつもの出雲だった。

「子細を黙っていたことは本当にすまない。お前がただの人の子ならどれほど良かったかと──長い夢を見ていた」
「人の子でなくても、私は……」

そこから先を言ってはいけない気がして口ごもる。出雲は力強く頷いた。

「貴方の力がある限り、ここ稲佐も、あの馬鹿力がいる諏訪も安泰よ。これは餞別(せんべつ)の託宣ね」

出雲の隣で八重も頷く。
垣根の向こうに行くと宣言してから、彼らの輪郭が霧に包まれたように朧になってきている事実が、瑞穂の胸にずしんと重くのしかかる。
そんな瑞穂の肩を抱いたカナメは、安心させるように軽く叩いた。

「天つ神に抗った彼らは、いずれ天にも届く社の中で然るべき民に祀らせる。諏訪でも同じだ。さすればかの地でも、彼奴の猛き御名は永久に語り継がれるだろう」

──さあ、大八洲が豊葦原の要、瑞穂。高天原にて日の神ヒルメ様がお待ちだ。

カナメに促されて瑞穂は階を上り、天鳥船に乗り込む。
高天原へと飛び立つその影は、大海原に一瞬だけ焼けつき、消えた。

「瑞穂」

浜から船を見上げるふたつの影が霞んでいく。
そこから遠く離れた森深い地で空を見上げる男も、何かを悟って目を閉じた。



瑞穂が高天原へ迎え入れられると、待ちかねていたように時が動き出した。

「よう来てくれました。おかえりなさい、瑞穂」

甘く香るおしろいすら輝く日の神、ヒルメは彼女を優しく抱きしめた。
知らぬ故郷、知らぬ神々の中に歓迎される中、瑞穂はヒルメの庇護の下で天つ乙女としての力を発揮し、国を豊かに拓いていくことになる。