八重や出雲が駆けつけた頃には、鏡の中はいつも通り、目の前だけを映すものに戻っており、当惑する面々をありのまま見せるだけだった。
もちろん瑞穂の額には何も描かれておらず、家が波に覆われた訳でもない。
しかし翡翠が事の次第を話すと、八重はハッとしたように目を見開いて手で口を覆い、出雲は苦虫を噛み潰したように眉間に深く皺を刻んだ。
翡翠とて、慌てふためくばかりではない。
彼が動転していたのは瑞穂の悲鳴によるものであって、家族に説明する時は驚くほど落ち着いた──否、押し殺したような低い声で告げたのだ。

高天原(たかまがはら)の紋様が出た」と。

瑞穂とて高天原が何かは知っている。
天つ神(あまつかみ)と呼ばれる神々が統治する天空の国。この世のすべてを寿ぎ、呪い、産み落としては奪い去る神々が棲まう異郷。
それの紋様とはどういうことか。
どう見ても事情を知っているであろうそぶりに、瑞穂は戸惑いを隠せない。

「ねえ、どういうことなの。何か知ってるの? 教えて。今のは何?」

父、兄、姉を見渡しながら尋ねても、彼らは口を噤むばかりだ。
しかし父だけは瑞穂の背中をそっと抱くと、己の背を丸めるようにして、額を瑞穂の肩に押し当てじっとしていた。
肩に感じる父の温もりと重さに戸惑いながら、瑞穂は後ろに倒れこまないように腹筋に力を入れて父の腕に触れる。
いつも堂々とした父が初めて見せた頼りなげなふるまいに、取り返しのつかないことが起きていると悟った瑞穂の血の気が引いていく。

「瑞穂。大きくなったな」
「……え?」

ゆっくり顔を上げた出雲は目を細めて瑞穂を見つめる。

「私に抱えられてはしゃいでいた時は、あんなに小さかったのに……そうだな。誰にでも時は流れる。そういうことだ」
「父さん? どういうこと? 私に何があるの?」

はっきりとした答えがないままに瞳を揺らす父に戸惑いと苛立ちをぶつけると、八重がその背に手を添えた。

「父様。もう隠し通せません。凪は終わります。(いわお)もやがては砕かれ、砂は新たな地平へ運ばれる。寄せる波に抗えるものは誰ひとりおらず、流れはただ滴る潮の如し」
「八重姉さん、何の神託? もっとわかりやすく──」

瑞穂は声を荒らげかけたが八重を見上げて息を呑んだ。
色白を通り越して青白い肌。
表情の抜け落ちたかんばせ。
蒼い薄物の合間に見える虚ろな瞳に光は無い。
このままぐらりと崩れ落ちそうなほど生気のない八重を目の当たりにして、咄嗟に瑞穂はその細い手首を取った。
確かに脈は打っていたものの、何の安心材料にもならない現実が、変わらず瑞穂たちにまとわりついている。

「それでいいのか、父上、八重!!」

あまりに突然の大声だったので、瑞穂は弾かれたように八重の手を振りほどいてしまった。
しかしこれには八重も驚いたらしく、丸く見開いた瞳にようやく光が射している。
心なしか頬に色が戻ったようにも見えた。

「翡翠」

出雲は息子を見上げて痛みを堪えるような顔をした。

「瑞穂に何も知らせぬままここまで来た。だがもう隠し通せない。じきに高天原の奴らが来るんだろう? だが、状況は昔と違うんだ。何より瑞穂の意思をそっちのけにして、おめおめとあいつらの言いなりになるつもりか!?」
「翡翠、お前は」
「父上があいつらから受けた恩義は知っている。しかし充分それに報いてきたはずだ! それは今の瑞穂が何よりの証だ」
「ちょっと待って、あいつらって誰? 父さんはいったい何をしてきたの?」

具体的なことは語らずとも、翡翠が一番話が通じそうな気がして瑞穂は翡翠に縋る。
上半身を反らして後ろに立つ翡翠の袖を引いて詰め寄れば、翡翠は父親そっくりに眉間に皺を刻んだ直後、奥歯を噛み締め瑞穂を掻き抱いた。
無理な体勢のせいで背筋が捻れそうだが、翡翠がそれにも構わず出雲の腕から瑞穂を引き抜くように抱き上げた。

「に、にいさ……?」
「このまま稲佐を離れるとして、着いてきてくれるか?」
「え?」

突然のことに瑞穂は絶句する。
自分は何か得体の知れないものに追われているのか。
その危険を省みず、翡翠達は今まで匿ってくれていたのか。
もしそうなら、翡翠は更に瑞穂のために身を危険に晒すことになる。いくら家族のように可愛がってくれた兄代わりとはいえ、そこまでする義理はないはず──
瑞穂がそこに思い至ったところで翡翠は顔を近づけた。
名前と同じ翡翠色の瞳に瑞穂が映っている。
眉を寄せた翡翠の表情は切羽詰まっているのにどこか切なげで、この状況と翡翠の仕草に戸惑う瑞穂は呼吸を止めて彼を見つめた。
ゆっくりと、翡翠の額が瑞穂の額に触れる。
ちょうど、鏡に映った知らない瑞穂に「高天原の紋様」が刻まれていた位置だった。
すり、と肌と肌が合わさる。ぬくもりが薄い皮膚から溶けていく。
幼い頃、病に伏せった瑞穂の熱を測るために額を押し当てた時と何も変わらない仕草なのだけれど、にいさん、と呼ぶのがなぜか憚られた。
これは妹を慈しむ兄の愛情表現ではない。

翡翠は己の腕の中で所在なさげにやんわり握られている瑞穂の手を取ると、指を絡ませるように動いた。

「……瑞穂、俺の名前を呼んでくれるか」
「……ひすい、にいさん?」
「兄さんはいらない。ただ、翡翠と──」

翡翠の求めるままに呼ぼうと思うのに、瑞穂の口の中がカラカラと渇き、舌が張りついて動かない。
この懇願に応えてはいけないと、何かが瑞穂に命令しているように頭の中がごちゃごちゃと騒がしい。
目の前の翡翠を置き去りにして、瑞穂の瞳には見たこともない知っているものが次々と現れては立ち消えていく。

荒れ狂う海。
赤く揺れる焔と血。
尾を揺らす鶺鴒。
噛み砕かれる剣。
矢を射られ落ちる鳥。

“我こそ使者に相応しいと存じます。──をお迎えにあがりましょう”

聞き覚えのある低い声が瑞穂の思考に入り込む。
歪に曲がった白い光が忙しなく爆ぜる。

「……ひ」

出雲が立ち上がった。
八重がその背に手を添える。

「瑞穂、俺に応えてくれれば、俺たちは本当の家族に──」

翡翠が何と言ったのか、最後まで聞き届けるより前に、光が声を遮った。

瞬間、昼間より明るくなった室内で瑞穂は鏡が光ったのかと思った。
そうではない。

海の光る音が部屋を、否、邸を覆う。
耳を覆うことも忘れて瑞穂が窓の外に目をやると──

黒雲から歪な光の槍が幾度も海原を刺し貫く。
それが稲妻であると認めるよりも速く、ひときわ激しい雷鳴と共に海の底をえぐりとる勢いで鋭い光が叩きつけられ、海が溢れかえって潮の満ち干きを逆さまにした。

「あれは……!」

あれが何なのか、瑞穂の深いところが知っていた。
しかし、意識に上って認識するより先に、瑞穂は翡翠の腕から抜け出て立ち上がる。
そうしなければならない──と、足が教えるままに、光る海へと駆け出した。

「瑞穂! 待て!」

出雲が唸る。しかし止まることは出来なかった。
本来、出雲は来るべきではないのだ。
瑞穂ひとりが呼ばれている。
何故かそう信じ込んでやまない瑞穂の足はひたすらに動いて邸を出た。
浜に出る頃には海を満たす光は止み、陽の光だけが辺りを照らす正常な光景が戻ってきていた。
しかし、海の上だけは──異なる理が支配していた。

落ちた稲妻がそのまま形を成して天への(きざはし)にならんばかりにじぐざぐと折れ曲がっている。
その中でもひときわ長く尾を引いた切っ先に──それは、舞い降りた。