葦原瑞穂には、幼い頃の記憶が欠落している。
まだ一人歩きもままならない頃にこの浜辺ですやすやと眠っているところを救われ、葦原家の一員として育てられた。
粗雑に扱われた後はなく、汚れも、縫い目すらも無い真白のおくるみに包まれ、泣き声ひとつ立てずにぐっすり眠っていたのだと言う。
その時のことを大袈裟に美化して語るのは兄である葦原翡翠だ。
赤子である瑞穂を腕に抱いた瞬間から母性本能と父性本能、そして家族の則を超えた愛情を一度に開花させた、感情表現が賑やかで真っ直ぐな兄である。
這うも歩むにも目を細め、浜辺で砂遊びをしていた瑞穂が小蟹に指を挟まれようものなら、即座に蟹を文字通り握り潰して、薬師の元へ音速で運んだことがある。

姉の葦原八重はそんな翡翠を冷ややかな目で見る、冷静沈着な女性である。
彼女いわく、蟹の件に関しては「双頭の交わりが戯れに躍り出てはその息吹を響かせる──と言ったでしょう。わたくしの託宣を無視して瑞穂を連れ出すからこうなるのよ」だそうである。
八重には類まれな霊力がある。天翔る星の囁きが、彼女にだけ事象の行く末を告げるのだそうだ。それを彼女は内から湧き出る言の葉に乗せて伝える。
彼女の託宣は百発百中だが、このように迂遠な表現なので、真意が伝わるには少々時間がかかるのが玉に瑕である。

このように正反対な兄と姉だが、共通点がひとつある。
それは、瑞穂が可愛くて仕方ないということだ。
八重とて瑞穂の指が蟹に挟まれたと聞くや否や、彼女の持ち得るありとあらゆる霊力を総動員して瑞穂の治癒に全力を注いだ。
傷口が化膿することもなく痕ひとつ残らず成長できたのも、八重の鬼気迫る形相に恐れを成した病の神が裸足で逃げ出したからだと翡翠は揶揄するが、あながち冗談ではないかもしれない。

このような兄と姉の行き過ぎた愛情に押し流されることなく健全に瑞穂が成長できたのも──

「お前たち、おかえり。朝から浜辺の散歩かな」

太い眉と理知的な群青色の瞳。ゆるく波打つ前髪の奥に覗く目元には皺が刻まれているものの、若い頃は黄色い声を思うままに受け止め、応えていたことが伺える甘い声。
優男と切って捨てるには精悍すぎる凛々しさは、今も尚保たれている。

「父さん、ただいま」

父、葦原出雲(あしはらいずも)の豊かな見識と愛情があってのことである。

博識な父は子どもたちに己の持てる智慧を、知識を与えた。
血を分けた子ではない瑞穂にも、それは分け隔てなく注がれた。
「私も教えてもらったことだがね」と前置きしてから語り出すのは父の癖である。
博識でありながら奢らず、そうした謙虚な振る舞いを是とする父を、瑞穂は尊敬していた。

「八重、いくら卵が珍しく瑞穂にも見せてやりたいからといって、放り出して行ってはいけないよ。この生命をこの場まで繋いでくれた者への敬意を忘れないように」
「……はい、お父様」

殊勝にも八重は口答えすることなく素直に頭を下げる。その姿に頷きながら出雲は言葉を続ける。

「翡翠、朝の鍛錬は済んだのか? 己に課した約定を違えるのは慢心の元だ。今日の己の振る舞いを踏まえて、今後どうするかは自分で考えるように」
「はい、父上」

翡翠は背筋を正して出雲に向き合う。きゅっと真一文字に結ばれた唇が何も言い訳をしないことを見定め、出雲は最後に瑞穂を見つめた。

「瑞穂」

瑞穂の胸の中で小さく鼓動が跳ねる。
体の前で不安そうに手を握った瑞穂に、出雲は優しく微笑んだ。

「朝の散歩は楽しかったか?」
「は、はい」
「そうか。だが、翡翠と八重を心配させてはいけないよ。もちろん私もだ。特に最近のお前は不安定になっている。用心するに越したことはない」
「……はい」

瑞穂が静かに頷けば、出雲は目元の皺を緩ませて微笑んだ。

「さあ、お前たち。朝餉にしよう。私も魚を釣ってきたからおあがり」

優しく諭すような声音から切り替えた出雲は、手を軽く叩いて支度を促す。
3人共、それぞれの役割に向かうが、出雲は瑞穂の肩を軽く叩いて自室へ戻るように促した。

「裾が濡れている。着替えてきなさい」

小声で窘められて、バツの悪い顔で瑞穂は頷いた。