瑞穂(みずほ)

手を伸ばしたまま一歩踏み出した葦原瑞穂(あしはらみずほ)は、背後から抱き留められた。
足元の浜辺には、寄せては返す波の跡が刻まれている。素足はおろか、()の裾が波に洗われてじっとりと湿っていた。
誰かに引き止められなければ、瑞穂は波の導きのままに海へと進んでいってしまっただろう。
がっしりした腕が彼女の体に回されているおかげで、彼女はこうして浜辺にいられるのだ。
裸足で砂を踏みしめる感触と、周りを見渡せるだけの暁の光量に、瑞穂は自分が今存在している場所と時間を思い出す。
ここは家からそう離れていない砂浜、稲佐(いなさ)
そして今は朝餉前の散歩の最中だった。

ここのところ、瑞穂はふらりとひとりで出歩くことが増えた。
周りが煩わしいわけでも、ひとりで考えをまとめたい訳でもない。
何かに呼ばれたように、ついこの浜を訪れてしまうのだ。
夢うつつ、だとか寝惚けて、ではない。しっかりと覚醒して支度を済ませている記憶はある。だからこそ手に負えないのだが。
何かのきっかけではたと我に返ると、こうして海へ向けて歩き出していることが多い。
ある時はその冷たさで。ある時は貝の破片で皮膚が切れた痛みが、そのきっかけをもたらしている。
そして今日は──後ろから彼女を抱きとめている腕の主のおかげだ。
瑞穂は自分を支えている腕に触れる。
聞き慣れた、力強く覇気に満ちた声音が瑞穂の名前を呼んだ。
その響きに、瑞穂は瞬きを何度か繰り返すと肩の力を抜いた。

翡翠(ひすい)兄さん?」

振り向くと、名前と同じ翡翠色がきらめく端正な顔が思ったよりも近くにあった。少し動いたら唇が触れ合う距離である。年頃の少女らしく、瑞穂はわずかに頬を染めながら俯きがちに視線を泳がせた。
しかし、瑞穂には視線さえ逃がすことが許されないらしく、たくましい腕はしっかり彼女を抱きかかえると頬を寄せた。

「もう、恥ずかしいよ」
「俺は恥ずかしくない」

照れ隠しに笑いながら身をよじる瑞穂だが、そんな身じろぎはさしたる抵抗にもならないらしく、ますます彼女を腕の中に閉じ込める。

「こんなの、兄妹の距離感じゃないって」
「お前を妹とは思っていない。本当の意味で家族になりたい。まだ父に許可は貰えていないが、きっと話せばわかってくれるはずだ」

真面目くさった口調で追い詰められて、瑞穂は眉を八の字にして狼狽えるが、これも彼女にとっては困った──そしてかすかに胸のときめく日常だった。

「……また、導きを受けたのかしら」

きゅ、きゅ、と砂浜を踏むもうひとつの気配に瑞穂は顔を上げる。
蒼い薄物を目深に被った細い人影が近づいてきていた。

八重(やえ)姉さん」

名前を呼ばれた影はゆるりと首を傾げる。

「このところ、貴方の行く末に光が見えるの。吉兆と判断することはたやすいけれど、どうにも手放しで喜べなくて」

倒れるようにしゃがみこんだ影は、砂浜に触れると一掴みの砂を手で弄ぶ。
白い手からさらさらと流れ落ちる砂粒は、砂浜に小さく歪な山を作った。

「あるべきものは掬い上げられ分かたれる……そしてあるべきものはあるべき場所へ導かれるのね」

託宣を告げるように厳かな口調で言い放った影が瑞穂を見上げる。
薄物に隠れた瞳はやはり蒼色をしていた。

「八重。もう少し明るい話題は選べないのか。せめて朝なんだからおはようくらい言うべきだろう」
「あら、お告げを受けたから報せに来ただけのことよ。おはよう、瑞穂」
「……おはよう、八重姉さん」
「俺は無視か」

がみがみと煩い男の声には一瞥もくれることなく、影は立ち上がり瑞穂に向けて微笑んだ。
朝日に照らされているにも関わらず血の気のない佳人の、腰まで伸ばされたまっすぐな黒髪が静かに揺れた。

「そうそう、朝餉の支度を手伝って。これは託宣ではなくお願い」
「最初からそう言え。そして俺への挨拶は」

滑るように近づいてきた手が、すんなりと瑞穂を抱きすくめる腕を引き剥がして連れて行く。

「さあ瑞穂、行きましょう。新鮮な卵を分けてもらったのよ。きっと割ったら双子が出てくるわ。これは託宣ではなく願望ね」
「双子の卵? いいな、見てみたい!」
「ふたりでお祈りしながら割りましょうね」
「……おい、八重!」

女ふたりが仲睦まじく肩を寄せて歩き出す中、置き去りにされた大柄な体躯は大股で砂浜をずんずん進んでいった。

これが、葦原瑞穂の日常である。