綺瀬くんと会った翌日、私は登校してすぐに先生の元へ行った。
 おそるおそる、修学旅行に参加したいということを告げると、先生は最初驚いていたけれど、すぐに嬉しそうに笑って、「そうか、分かった。一緒に楽しもうな」と言ってくれた。

 そして、私はその場で先生に不安に思っていることを相談した。

「実は、海や水族館に行くのが怖いんです。私、事故のあと一度も海に行っていなくて……だから、それが少し心配というか」
「そうか。そうだよな。それなら、放課後時間あるか? 先生とちょっと話そう」
「……はい」

 放課後、先生は相談室に私を呼ぶと、さっそく旅行の計画を話し始めた。

 飛行機は大丈夫。あぁでも、できるなら窓際じゃないほうがいいか。学校全体で海に入る予定はないが、自由行動のときにそれぞれでマリンスポーツを選ぶ班もある。だから、それは同じ班の奴らと話し合おう。班決めはこれからやるつもりだが、揉めないよう、班を決める前にみんなの前で言うか……いや、でもそれはそれでちょっと辛いよな。班はだれとがいいとか決めているか?

 嫌な顔ひとつせずに真剣に向き合ってくれる先生を、
少しだけ意外に思った。

 そして、先生と相談した結果、私は班決めをする前に朝香たちに相談してみることにした。

 修学旅行には行きたいと思っているけれど、ただ、海や船に乗るのは怖い。だからきっと、同じ班になると迷惑をかけると思う。

 正直に胸の内の不安を吐き出すと、朝香は「なんでもっと早く言わないの!」と少し怒って私を抱き締めた。

「ご、ごめん……みんな楽しみにしてたようだったから、ちょっと言いづらくて」

 歩果ちゃんと琴音ちゃんも、
「もしかして、前に修学旅行の話をしたときに少し変だったのって、そのせい?」
「気付かなくてごめんね。そうだよね……怖いよね」

 三人の反応は私の予想と少し違った。もっと張りつめた空気になるかと思っていたのだが、三人はぜんぜんそんなことはなく、むしろ私の気持ちに気づかなかったじぶんに対して落ち込んでいるようだった。

「海が怖いなら、食べ歩きとか買い物に徹すればいーんじゃない?」
「そうだね。海はダメでも、動物園とか探したらあるかも。沖縄って、固有種とかたくさんいるんでしょ?」
「たしかに。沖縄の観光地とかぜんぜん知らないけど、これからたくさん調べるんだしなにかしらあるでしょ。とりあえず海と関係ない候補を上げていって、みんなで行けそうなところ中心に回る計画立てよう」
「えっ……ちょ、ちょっと待って。みんな、本当にそれでいいの?」

 さくさくと計画を立てていく三人を、私は慌てて止めに入る。

「いいって、なにが?」

 朝香も歩果ちゃんも琴音ちゃんも、みんなきょとんとした顔をして、私を見た。

「なにって……だってせっかくの修学旅行だよ? 沖縄だよ? それなのに海にも行かないなんてみんなに申し訳ないし……だから」

 私なんかのために我慢することになるなら、班に入るのはやめようと思う、と言おうとしていたのだ。先生が、友達同士で気を遣ってしまうようなら、先生が一緒に回ってもいいと言ってくれたから。

 と、本心を告げる。すると朝香は、ちょっと待ってよ、と少し声を鋭くさせた。

「これってそんな気にすること?」
「え?」
「だれにだって苦手なものくらいあるでしょ?」

 続けて琴音ちゃんも、
「そうそう。海行かないっていうの、実は私もちょっとホッとしてる」と言う。
「え?」
「私、実は泳げないんだよねぇ」
「えっ!? うそ!? あの運動神経抜群の琴音ちゃんが!?」

 朝香が驚いた顔をして身を乗り出すと、琴音ちゃんは少し恥ずかしそうに舌を出した。

「ははっ! 陸の上では無敵なんだけどね〜」と、琴音ちゃんはおどけたように笑った。
「あ、あのね、水波ちゃん。私も実は、水着着るのちょっとやだなって思ってたから、よかったな、なんて思ってて……えへへ。実は今年、ちょっと太っちゃったんだよね」
 歩果ちゃんは頬を染めて、はにかんだ。もしやと思う。
「……みんな、もしかして私に気を遣ってくれてるの?」

 訊ねると、朝香たちは顔を見合わせて黙り込み、どっと笑った。

「違う違う、水波ってば考えすぎ! 私たちはそんなできた友達じゃないよ。私も勉強は苦手だし、琴音は泳ぐのが苦手で歩果は身体の露出が苦手。苦手なものがあるのはぜんぜん変なことじゃないし、むしろふつうだよ」
「ふつう……」
「そ、ふつう。だからそんなに気にしないでよ」
「そうそう。考え過ぎだよ、水波」
「水波ちゃんは、私たちのことを気遣ってくれたんだよね。ありがとう」

 ようやく気付く。
 『被害者』であると特別視していたのは、周りではなくほかでもない自分自身だったのだと。
 優しい声に、心がじんわりとあたたまっていくようだった。

「みんな……ありがとう」
「もう。だから、お礼を言われるようなことじゃないってば」
「うん……うん」

 私は手で目元をごしごしと拭った。

「水波は泣き虫だなぁ。まったく、そんなことで悩むなんて」
「……泣いてないもん」
「水波ちゃんてば可愛い」

 琴音ちゃんにくすくすと笑われて、歩果ちゃんにきゅっと抱き締められて。恥ずかしいのにすごく嬉しい、不思議な気分になる。

 知らなかった。
 私は、いつの間にこんなあたたかい世界にいたのだろう。この間まで、右も左も分からない真っ暗闇の中にいたはずだったのに。
 ずっとひとりぼっちで暗闇の中を彷徨っていたはずだったのに。

 綺瀬くんに出会って、綺瀬くんがはるか遠くにあった光のほうへ導いてくれて。

 今はこうして、たくさんの光に包まれている。
 私は涙を拭って、笑う。

「私、みんなと修学旅行行きたい。思い出作りたい」

 素直な言葉を、心からの言葉を告げる。喉はつるつるとして、なにも引っかからない。

「じゃあ、決まりね。班はこの四人で!」
「うん!!」
「修学旅行、楽しもう!」

 こうして、私たちは高校で一度きりしかない修学旅行への準備を始めた。


 その日の放課後、家に帰ってお母さんとお父さんに修学旅行に参加したいと言うと、ふたりともすごく喜んでくれた。くれぐれも無理だけはするなと言って私を抱き締め、もし苦しくなったらすぐに先生か友達に言いなさいと言った。

 私は素直にその忠告を聞きながら、ふたりにひとつ、頼みごとをしたのだった。


 そして、十二月の初め。念願の修学旅行の出発日がやってきた。

 南高の修学旅行生一行を乗せた飛行機は、無事沖縄の那覇空港(なはくうこう)に到着。

 空港から出ると、十二月とは思えない初夏のような爽やかな空気が私たちを出迎えた。
「暑っ!」
 朝香が驚いた声を上げる。

「うーん、長袖はちょっと辛いかもね」
 私も頷きながら制服のブレザーを脱ぎ、脇に抱えた。
「さすが沖縄だ。南国って感じ〜」
「半袖シャツ持ってきててよかったね」

 手をうちわ代わりにして顔を仰ぎながら、琴音ちゃんが晴れた空を見上げる。

「おーい、お前ら。もうバス来てるから集合しろー。出欠取るぞー」
「はーい」
 初日は平和記念公園へ行って、その後ひめゆり平和記念資料館へ行く。

 当時の資料や実際に経験した人の話を聞き、戦争の無惨さと平和の尊さを学ぶ校外学習だ。

 記念館の人の話を聞きながら、となりで朝香が「悲しいね」と小さく呟いた。資料を見上げたまま、頷く。

 ジオラマや当時の女学生たちの白黒写真、実際に使われていた道具などの展示品を見ていると、彼女たちが実際に生きていたという生々しい実感が湧いて、どうしても気分が沈む。
 きっと、この時代に生きていた人たちは、悲しいなんてたった四文字の言葉では表せないくらいに辛い経験をしたのだろう。戦争を知らない私たちでは、想像できないくらいの絶望を味わったのだろう。

 資料からは、親を亡くした人、恋人を亡くした人、子供を亡くした人、目の前で死んでいく人を助けられない虚しさ、孤独感……当事者たちの悲しみすべてが溢れてくるようで、胸がちりちりと焦げたように痛んだ。

 展示の自由観覧時間。流れに沿ってひとつひとつ展示品を見ていると、同級生たちが楽しげに会話をしながら私たちの横をすり抜けていく。

「てかさ、暗くない? ここ」
「あー雰囲気出すためじゃない?」
「いつまでここにいるんだっけ?」
「せっかく沖縄まで来たんだから、もっと楽しいとこ行きたいよねぇ」
「ね、明後日晴れるって! 海楽しみだね」
「私新しい水着買ったんだ!」
「マジ? いいなぁ」

 ほとんどの生徒たちは、資料なんてほとんど見ていないようだった。

「…………」
 たぶん、彼女たちの反応はふつうだ。
 まだたった十七歳である私たちの多くは、死なんてものは概念的で、目の当たりにしたことのない年齢だ。それに、今戦争の渦中(かちゅう)にいるわけでもない。
 もしかしたら私だって、あの事故がなかったら、彼女たちと同じような反応をするだけで見向きもしていなかったかもしれない。

 でも、今は……。

 この人たちの悲しみが、ひしひしと伝わってくる。
 いなくなってしまったあの子に会いたいという叫び声が聞こえる。助けを呼ぶ声が聞こえる。

 私もそうだったから、分かる。

 ある日突然奪われた平穏。どこにぶつけたらいいか分からない怒り。悲しくて泣きたくても、あまりの絶望に泣き方すら分からなくなってしまう。呼吸の仕方すら忘れてしまう。

 これは物語などではない。
 本当に起こったできごとなのだと、他人事のように笑って通り過ぎていく人たちに、当事者は声を上げて訴えたくなる。

「……水波、大丈夫?」

 ふと視線を感じ、ハッとする。気が付くと、琴音ちゃんがそっと私の手を握ってくれていた。私は微笑みを返し、「ありがとう、大丈夫」と告げる。
「そっか」
 琴音ちゃんは優しく微笑んだ。

「水波はすぐぼけっとするから、迷子になりそうで心配」

 そう言って、琴音ちゃんは私の手を握ったまま、ゆっくりと歩き出す。繋がれた手から伝わる体温は、泣きたくなるくらいにあたたかい。

「ぼけっとって……そんなことないけどね。でも、ありがとう」

 心がぽかぽかと陽だまりに包まれたような心地になる。私は琴音ちゃんの手をぎゅっと握り返し、微笑みを返した。

 その日の夜。大広間での夕食を食べ終えた私は、ひとりホテルのロビーにいた。

 今日泊まる部屋は四人部屋で、メンバーは班と同じ朝香たちだ。
 きっと今頃、部屋ではお菓子を広げながら女子トークやらトランプ大会やら、怖い話大会が行われていることだろう。

 私にとって、修学旅行の最大の問題は夜だった。
 夜は、どうしたってうなされる。夢を見ずに眠れるのは、綺瀬くんがとなりにいてくれるときだけだ。これだけはどうしようもない。

 ロビーの時計を見る。とうに消灯時間は過ぎていたけれど、今はまだ部屋に戻る気にならない。
 みんなが寝た頃に戻って、みんなが起きる前に起きればいい。
 自動販売機で買った水をちびちび飲みながら、スマホをいじって時間を潰した。

 スマホの連絡先一覧をスクロールしながら、とある名前のところで手を止める。

 ――穂坂(ほさか)陽太(ようた)さん。

 今回、修学旅行に来る前に両親に頼んで教えてもらった恩人の連絡先だ。

 修学旅行へ行く前に連絡しようと思っていたのだが、ごちゃごちゃと悩んでいるうちにあっという間に修学旅行になってしまったのだった。

 もう一度時計を見る。
 もう夜遅いけど、連絡してみてもいいだろうか。いや、でもさすがにこの時間に電話するのは不謹慎……いやいや、でも今を逃したらきっと、沖縄に来ることなんてないかもしれない。
 またずるずると悩みの沼にハマりそうになり、いけない、と頬を叩く。

 きっと、連絡するなら今しかない。
 しばらくスマホ画面とにらめっこしてから、えいっと発信ボタンを押した。


 数秒のコール音ののち、パッと音が途切れた。

『はい』

 男の人の太い声が聞こえ、どきんと心臓が跳ねる。声を聞いた瞬間、用意していた挨拶が頭から吹っ飛び、真っ白になってしまった。

「あ、あの……夜遅くにすみません。私、榛名水波といいます」

 上擦った声でなんとか名乗ると、スマホの向こうから、『ハルナ……?』とかすかに戸惑うような声が聞こえた。
『……あ!』
 しかしすぐに私だと気付いたのか、穂坂さんは音割れしそうなほど大きな声で、

『水波ちゃん!? うそ、本当に水波ちゃんなの!?』
「は、はい……」

 穂坂さんは『うわぁ、そうか。そうか』と、何度も繰り返す。本当に驚いているようだ。

『あ、ごめんね。うるさかったよね。ええと……こんばんは、穂坂です』
「こんばんは……」
『元気にしてた?』
「はい。元気です」

 穂坂さんの声なんてほとんど覚えていないはずなのに、なんだろう。すごく懐かしくて、ホッとした気分になった。

『いやぁ、それにしても嬉しいなぁ。水波ちゃんから連絡くれるなんて夢にも思わなかったからさ。あ、忘れてたわけじゃないからね! むしろ忘れたことなんてないし……水波ちゃんは今、高校生だっけ? 学校は?』

 矢継ぎ早に質問が飛んできて、実は今修学旅行中なんですと告げると、穂坂さんは再び驚きの声を上げた。

『へぇ、修学旅行か、そうかぁ。楽しんでる?』
「はい」
『場所はどこに行ってるの?』
「沖縄です」

 短くそう答えると、スマホの向こうで穂坂さんが黙り込んだ。

『……あー……そっかそっか』

 正直、穂坂さんのことはほとんど覚えていない。

 病院で目が覚めてしばらくしてから、フェリーの中に取り残された私を助けてくれたのは穂坂さんという海上保安庁の潜水士さんなのだと親から知らされた。

 入院中、穂坂さんは病院に一度だけお見舞いに来てくれたことがあった。けれど、そのときの穂坂さんはこちらが心配するくらいに泣いていて、ほとんど話はできなかった。

『あ、そうだ。美味しいものなにか食べた? 沖縄は本土の人の口に合うものが少ないっていうけど、ソーキそばとかは美味しいよ。あとね、海ぶどう! あれはぜひ食べてほしいなぁ。ぷちぷちってして、食感が楽しいからすごくオススメ!』

 電話口の穂坂さんは、事故や海のことには一切触れず、沖縄をアピールし続けている。

 小さく相槌を打ちながら、優しい人だなぁと感心した。
 あの事故以来、初めて連絡したのに。
 きっと、彼のほうもいろいろ気遣いたいだろうに、それは逆に私を苦しめることだと思って、穂坂さんはあえてふつうに接してくれる。

「……あの、今日は穂坂さんにお話があって電話しました」
『おっ、なになに? なんでも言ってごらん』
 一度言葉を止めて、息を吸う。
「……沖縄にいる間、少しの時間でいいから会っていただけませんか」
 思い切って告げる。
『俺に?』
 穂坂さんの声が、少し低くなった。

「やっぱり急だし、迷惑ですか……?」
『いやいや、そんなことはないんだけど……水波ちゃん、もしかして俺に礼でも言わなきゃとか考えてる?』
「……それもあります。助けてもらったお礼もまだちゃんと言えてないし……でも、それだけじゃなくて、穂坂さんに話さなきゃいけないことがあるんです」

 それから、事故のことも聞きたいと思っている。そう告げると、穂坂さんは少しの間考えるように沈黙した。

 どきどきしながら返事を待つ。きっと一分もなかっただろうに、私には、その間が十分にも二十分にも感じられた。

『……分かったよ。そういうことなら会おう。俺も久々に君の顔が見たいしね。水波ちゃんは、いつまでこっちにいる?』
 いい返事が返ってきてホッとしつつ「明後日までいます」と答える。

「特に明日は自由行動なので、時間の融通が利くかもです。場所は……」

 明日の日程を伝えると、
『分かった。それじゃあ、時間見つけたらまた連絡するね』
「急だったのにすみません」

 最後におやすみと言って、穂坂さんとの通話は終了した。
 切れて待ち受けに戻ったスマホの画面を見下ろして、いつの間にか溜め込んでいた息をどっと吐く。
 心臓に手を当てると、まだばくばくしていた。

「き、緊張したぁ……」

 恩人とはいえ、穂坂さんは私の中ではほぼ知らない人に属する。大人の人に電話するのも、そんな人に会いたいと言うのも、人との接触をついこの間まで絶っていた私にはとても高いハードルだった。

 ガラスに映る自分を見つめる。見つめて、私ってこんな顔してたっけ、と思う。

 ……きっと変わったのだ。
 あの人の……綺瀬くんのおかげで。

 たった四ヶ月で、じぶんがこんなに変わるだなんて思いもしなかった。

 あの日、夏祭りの広場で綺瀬くんと出会っていなかったら、私は修学旅行に来ることは諦めていただろう。
 いや、それどころか両親や朝香たちと向き合うこともできていなかっただろうし、そもそも生きていたかどうかさえ分からない。

 綺瀬くんのことを思ったら、少しだけ眠くなってしまった。寝不足なんて、慣れっこなはずなのに。

 膝を抱えて、ため息混じりに「会いたいなぁ」と呟く。
 そのまま目を閉じようとしたときだった。

「会いたいって、だれに?」

 突然耳元で声がして振り返ると、朝香がいた。
「わっ! あ、朝香!? なんで!? え!? いつから……」

 驚いて声を上げると、慌てた様子の朝香に口を塞がれた。もごもごと暴れていると、私を押さえ込んだまま、朝香が耳元で言う。

「ちょっ、声がでかい! もう消灯時間過ぎてるんだから静かにしてよ! 先生にバレたら怒られるじゃん!」

 そういえばそうだった。こくこくと頷くと、朝香はようやく手を離してくれた。
 ここぞとばかりに大きく息を吸う。
「……ふぅ」
 ……死ぬかと思った。

 朝香は私のとなりに腰を下ろすと、顔を覗き込んできた。

「で? だれに会いたいって?」
 どきりとする。
「あ……そ、それは」

 サッと目を逸らすと、朝香はにやにやしながら私を見つめてくる。

「ねぇ水波、もしかして好きな人いる?」
 ぎくりと肩を揺らす。
「今の電話って、やっぱり彼氏と!?」

 朝香は瞳を輝かせながら、私にぴたりとくっついてくる。
「ち、違うよ! ぜんぜんそんなんじゃなくて、沖縄に住んでる知り合いがいるから、ちょっと連絡してみようと思っただけ。その……この旅行中に、できれば会えたらなって思って」

 どぎまぎしながらそう言うと、朝香はあからさまにつまらなそうにため息をついた。
「なぁんだ、つまんない」
「つまんないって……」

 慣れないノリに若干呆れて笑みを漏らしていると、朝香は一転、静かな声で訊いてきた。

「……だったら、なんで部屋に戻ってこないのよ?」

 責めるような口調ではなかったが、少し不満を含んだ声だった。顔を上げ、朝香を見る。

「消灯時間を過ぎても部屋に戻ってこないし、真面目な水波らしくないって、ふたりも心配してたんだよ」
「……あー、ごめん。ちゃんと言ってから出てくればよかったね」

 なんでもないように謝ると、朝香は首を横に振る。

「まぁいいけどさ。だけど、知り合いに連絡するだけなら、ひとことくらいくれてもいいじゃん。いつも言うけど水波は遠慮し過ぎだよ。いつになったら私と本音で向き合ってくれるの?」
「……うん、ごめん」
「言いたくないことを無理に言えとは言わない。けど……私は水波の親友のつもりだったから、ちょっと寂しかった」

 ハッとして朝香を見る。

「ご、ごめん、朝香……私、そんなつもりじゃなくて……朝香のことは本当に親友だと思ってるよ」

 すると、朝香は首を横に振って笑った。

「ううん。私もごめん。これは完全に私の八つ当たり。実は私、今日ちょっともやもやしてたんだよね」
「もやもや?」

 朝香は私から目を逸らし、少しだけ赤くなった頬をかりかりと掻きながら言った。

「……ほら、資料館にいたとき。水波、琴音と仲良くしてたでしょ。それ見たら、なんかちょっと寂しくて。水波と一番に仲良くなったのは私で、親友は私なのになぁって。まぁちょっと嫉妬……みたいな?」
「え、朝香が?」

 ちょっと意外だ。

「あ、べつにそれで怒ってるとかじゃないからね! そこは誤解しないで」
「う、うん……分かってるけど」

 頷くと、朝香は私の手を取った。あたたかく包み込まれ、少しの照れくささとくすぐったさを感じる。

「水波は優しくて可愛いから、みんな本当はもっと仲良くなりたいんだよ。私だってそうだったもん」

 まだ仲良くなる前の頃、私、ずっと水波に話しかけたくてうずうずしてたんだよ。だから今こうして水波と一緒にいられて、すごく嬉しいんだ。
 だから、水波の一番そばにいるのは私だって思ってた。けど、今日の水波と琴音を見て、水波はべつに私が一番っていうわけじゃないんだよなぁって気付いたんだ。

 そう、朝香は寂しそうに言った。


 そういえば、今日はどこか口数が少なかった。
 戦争体験の話を聞いて落ち込んでいるのかと思っていたら、そうではなかったのか。

 私はぶんぶんと首を振った。

「朝香は、私の親友だよ。朝香がいない毎日なんて考えられないもん」
 そう言うと、朝香はにこりと微笑んだ。
「ありがと。でも、いいよ。無理しないで」
「無理なんてしてないよ」
「……私ね、中学のとき友達関係でいろいろあって……だから高校は友達にあんまり深入りしないようにしてたんだ」
「いろいろって?」
「私、ちょっと独占欲が強いっていうか……仲良くなった子を独り占めしたくなっちゃうんだよね。べつに、他の子が嫌いとかそういうわけじゃないんだけど、なんか……不安になっちゃうんだ。私には歩果とか琴音みたいな人としての魅力がないから、いつか離れていっちゃうんじゃないかって」

 だから、本当はふたりきりがよかったなって思っちゃったんだと、朝香は言う。

 朝香は気まずそうに笑って、「ごめんね」と言った。

「なんで謝るの?」
 謝られるようなことを言われた覚えはない。
「だってこんなの、重いでしょ」と、朝香は私から目を逸らした。その瞳は所在なさげに揺らめいていて、もしかして、と思う。

 朝香は、いつだって明るくて優しくて、笑顔だった。
 でもそれは、強がりだったのかもしれない。私と同じように、ひとりぼっちが苦しいと、だれかに助けてと言えなかっただけなのかもしれない。

 それなら、今度こそ。
 私は朝香の手を取り、まっすぐに見つめて言う。

「私の一番は、朝香だよ。朝香がそんなふうに思ってくれてたって知って、すごく嬉しい。ありがとう」
「水波……」

 朝香の瞳に涙が溜まっていく。

「朝香が私に話しかけてくれた日にね、私の人生は変わったんだ。つまらなかった毎日が、楽しくなった。うさぎのキーホルダーを見るたびに、笑顔になれた。学校に行くのが楽しみになった。テレビを見て面白かったときとか、明日朝香に話したいって思うようになったんだよ」

 この経験は、一生変わらない。これから先、どんな経験をしようと、朝香が私に話しかけてくれたときの嬉しかった気持ちは絶対になくならないし、変わることはない。

「前、ある人に言われたの」

 目を閉じ、綺瀬くんがくれた言葉を口にする。

『いつかきっと、喧嘩してもまた会いたいって思える運命の子に出会える』

「私……朝香がその運命の子だと思ってるよ」
 まっすぐに朝香を見つめて言い切る。瞳を潤ませる朝香に、私は続けた。
「今も、心配して探しに来てくれてありがとう」
「……ううん」
「ごめんね」
「え?」
「私、まだ馴染めなくて」

 もうひとりじゃないのに、気を抜くとすぐひとりになろうとしてしまう。
 これは私の悪い癖だ。直さないといけない。
 だって、私には相談できる人がいる。意地を張らなくても、受け止めてくれる人たちがいるのだから。

「……ねぇ朝香。私の話、聞いてくれるかな?」
 朝香が「なんでも言って」と大きく頷く。
「あのね、私……夜、眠れないんだ」
「……夜?」
「事故のあとから、寝ると悪夢を見るようになったって、前に言ったでしょ」
「うん。……あ、もしかして、それで部屋に戻って来なかったの?」
 小さく頷く。
「悪夢を見ない日はほとんどない。眠っても、すぐに悪夢にうなされて起きるんだ。……だから、部屋でうなされてたら、みんなを起こしちゃうし悪いかなって思って部屋を出た。みんなが眠ってから戻るつもりで」

 すると、朝香がぽんと私の頭を叩いた。驚いて朝香を見ると、直後朝香は私を強く抱き締めた。

「ごめん。前に聞いてたのに、気付いてあげられなくて……ごめんね」
「ううん。ぜんぜん」
「そういうことならオールだオール!」
「え……いや、でもそれじゃみんなが寝不足になっちゃうし」
「いやいや水波サン? 修学旅行でちゃんと寝る生徒のが少ないっての!」
「え? そ、そうなの?」

 朝香は「そうだよ! 知らんけど!」と強く言い、私と目を合わせた。

「ぶっちゃけ、私だって寝る気とかぜんぜんなかったよ」
 言うなり、朝香はすくっと立ち上がった。
「よし。そうと決まれば部屋に戻ってお菓子パーティーしよう! ふたりもまだ起きてると思うし、四人で!」
「でも、もう消灯時間過ぎてるよ!? 電気付けてたら先生にバレちゃうんじゃ……」
「大丈夫! 先生たちジジババは寝ちゃうって! よぅし、夜はこれからだよ! ほら、立って! 今日は寝かさないぞ〜!」

 朝香にぐいっと手を引かれ、私はつんのめりながら歩き出す。ちょっと強引だけど、慈愛に満ちた力強い朝香の手を見つめる。
 思えば、綺瀬くんに導かれた光の先にはこの手があった。

 不思議なものだ。
 今の私は、この手がない明日を想像することができない。

「……朝香、ありがとね」

 小さく呟くと、朝香はくるっと振り向いて、「なに?」と聞き返してきた。私は首を振って「なんでもない」と笑い、そのまま朝香のとなりに並んだ。私たちはぴったりとくっついたまま歩いた。

 部屋に戻ると、歩果ちゃんと琴音ちゃんが待っていた。ふたりは布団の中にもぐって息をひそめていて、部屋に入るなりいきなり私たちに襲いかかってきた。

 どこに行っていたのかと責められ、私は琴音ちゃんに、朝香は歩果ちゃんに押し倒され正直に事情を白状する。そうしたらやはり、そのまま四人でお菓子の宴が始まったのだった。

 布団の上にお菓子を広げて女子トーク。
 枕をお腹に抱えて恋バナで盛り上がる。歩果ちゃんも朝香もそれぞれ好きな異性がいたらしく、話を聞いて驚いた。琴音ちゃんは、今は好きな男の子よりもバスケ一筋らしい。大学もバスケで推薦を狙っているのだとか。

 四人で笑いながら語り合っていると、夜はあっという間に明けていった。

 ……ただし朝、部屋で騒いでいたことがだれかの密告により先生にバレて、めちゃくちゃ怒られたのは言わずもがなだ。

 修学旅行二日目の今日は、学年で二手に分かれて、美ら海水族館と熱帯ドリームセンターという施設へ行くことになっている。

 ドリームセンターは今年急遽追加されたツアーで、水族館が怖いという私のわがままを聞いてくれた先生の配慮である。先生は、私以外にも魚が苦手な子もいるだろうからということで主張を通したと言っていた。

 そういうわけで私たちは今、植物の楽園ドリームセンターにいる。

 ドリームセンターには、南国の植物たちがまるで絵画のように鮮明に美しく咲き誇っていた。関東では馴染みのない植物ばかりで、まさに南国といった感じで夏を感じる。
 ……まぁ、今は冬なのだけれど。

「見てみて水波! めちゃくちゃハワイっぽい花咲いてる! あっ! こっちには食虫植物もいるよ! やば! こわ!!」

 朝香は昨晩の夜更かしなどぜんぜん堪えていないというような顔をして、温室の中で人一倍はしゃいでいた。まるで、花と花の間を飛び回るミツバチのようにせわしない。

 元気だな、と思いながら、私はひっそりと欠伸をかみ殺した。すると、朝香が駆け寄ってきた。

「水波、眠い? 大丈夫?」
「あ、ううん。これはいつもの癖みたいなものだから、大丈夫」
「そっか」
 朝香がホッとしたように笑う。

「ありがとね、朝香」と礼を言うと、朝香は黙って微笑み、首を振った。

 色鮮やかな花の楽園を歩きながら、私は前を行く朝香に「ねぇ」と声をかける。朝香が振り向く。
「みんなで写真撮ろうよ」
「おっ! いいね! 撮ろ!」

 歩果ちゃんと琴音ちゃんを呼んで、四人ではしゃぎながらたくさん写真を撮った。

 撮った写真を見つめながら、綺瀬くんにも見せてあげようと思う。
 そういえば、お土産はなににしよう。キーホルダーでいいだろうか、なんて考えていると、パシャッと音がした。
「え?」
「隙ありだね!」
 音のしたほうへ視線を向けると、朝香がスマホのカメラを私に向けていた。
「あー撮ったな!」
「えへへ〜油断してるからだよっ」
「いいもん、私も変顔撮ってやる」
「えー、そこは可愛いショット希望なんだけど!」
「じゃあ気を抜いちゃダメだよ」

 肩を並べて温室を歩いていると、「水波ー、朝香ーっ!」と、後ろから私たちを呼ぶ声がした。

「ちょっと水波ちゃんたち歩くの早いってばー!」
「早く来ないと置いてくよ」
「おおっ、なにこの花、きれいだな。見てみて歩果、これさっきの虫にちょっと似てない?」
「ちょっと琴ちゃん!」
「ははっ! 冗談だって」

 楽しそうにはしゃぐ私たちのうしろで、歩果ちゃんは琴音ちゃんにぴったりと張り付いて歩いている。
 歩果ちゃんはただの花や草が揺れただけでもびくびくしていた。どうやら、さっき見た虫が相当怖かったらしい。

「うわぁ、もう早く出ようよ〜」

 青白い顔をした歩果ちゃんは、もしかしたら水族館のほうがよかったのかもしれない。少し申し訳ないことをしてしまった気分になる。

 じっと見つめていると、歩果ちゃんと目が合った。

「水波ちゃん? どうしたの?」
 歩果ちゃんがきょとんとした顔で私を見てくる。
「……いや。なんでもない」

 それでも、文句一つ言わずについてきてくれた歩果ちゃんはすごく優しい子だと思う。

 色鮮やかな世界をゆったりと歩きながら、私はこの三人を大切にしようと思った。