それから、どれくらいの時がたったのだろう。名無しはまるで赤ん坊になったようにエミリアの胸の中に埋もれていた。

「……くしゅん」
「あ……すまん」

 夜の冷気にエミリアが小さくくしゃみをしたのを聞いて、名無しはハッとした。

「落ち着きましたか」
「ああ」

 名無しは背を伸ばしてエミリアの腕の中から離れた。

「それは良かったです。アル(・・)
「……」

 名無しはエミリアが呼んだその名を聞いて後悔した。なぜよりにもよって仇とも言えるあの第二王子にちなんで名乗ってしまったのだろう。

「どうしました?」
「いや……あんまりこうしてるとまた風邪ひくぞ」

 名無しはエミリアの持って来たランプを手渡して、手を引いて立たせた。

「すまなかった。みっともないところを見せて」
「いいえ。……こういう時はありがとうでいいんですよ」
「ああ、ありがとう。あと……」
「……ん?」
「酒も案外悪くない、と思った」

 名無しがぶすっとして答えるとふふふ、とエミリアは微笑んだ。それから彼女が何度も振り返りながら帰っていくのを見送って、名無しも家の中に戻る事にした。

「おかしいよな……この犬にだって名前があるのに」

 名無しは眠りこけているラロを見ながら自嘲気味に薄く笑った。

「確かに……名前を付けると愛着が湧くな」

 ラロの平和な寝顔を見ていると首領の気持ちがちょっと分かった気がした。

「いつか名前のことも話せるだろうか」

 そう呟いて夜空を見上げた名無しの目に、白く小さな埃のようなものが映った。

「……雪、か」

 この雪がつもって、溶けたら。そうしたらエミリアは聖都に旅立つ。彼女にとってここは単なる中間地点だ。



 翌朝、雪はそのまま降り続け、朝にはうっすらと積もっていた。クロエは積もった雪を見て目を輝かせた。

「わぁー! 雪だぁ!」
「わんっわんっ」
「ほほほ、クロエ。もうちょっと積もらんと遊べんよ」

 ヨハン爺さんは暖炉の前で手をさすりながらはしゃぐクロエを見て笑っていた。

「爺さん、寒いか」
「年寄りにはちと堪えるが、今年は家も直しでもらったし随分ましじゃの……ありがとう、デューク」
「……ふん」
「それより畑の様子を見にいかんとな」

 ヨハンと名無しが畑に向かうと、畑は雪に覆われていた。

「ちっ……」
「まてまて」

 雪を払おうとした名無しをヨハンは止めた。

「なんだ爺さん」
「そこの葉野菜はそのままでええ。この冬の寒さでよりおいしく育つ」
「へぇ……」
「麦にはこの砕いた炭を撒いておくれ。これで雪が溶けるのも早くなるでの」

 名無しはヨハンに手渡された炭を畑にまいた。

「こんなんでいいのか」
「ああ」

 ただ汚れたようにしか見えないが、これで雪が溶けるのかと名無しは不思議に思った。

「自然の力をちょっといただいてわしらは生きている。うまいこと出来てるんよ」

 それからヨハンと今日食べる分の野菜を収穫して、家に戻るとクロエは倉庫の周りをウロウロしていた。

「あーパパ達帰ってきた!」
「どうしたクロエ」
「雪がうんと積もる前に出したいものがあって……」
「なんだ?」

 クロエはだまって倉庫の上の方を指差した。そこにはソリがあった。

「そうだの、ソリがあれば野菜や水の運搬も楽だの」
「あんな上にしまってあるからずっと取れなくて……パパ取ってくれる?」
「ああ」

 名無しは台に手をかけてソリを降ろしてやった。

「わー! これでソリで遊べる!」
「運搬用じゃなかったのか」
「いや……それにも使うけどねー」
「わふっ」
「そうだラロにひかせればいい」
「パパ……それはまだ無理だと思うよ」

 クロエはラロの前足をむんずと掴んだ。子犬だがラロの足は結構大きい。

「でも、こういう足が大きい犬は体も大きくなるんだって! そしたらソリも引けるかもね」
「そうか」
「来年の冬までそれはお預けかなぁ……」
「来年、か」

 名無しはクロエの言葉を噛みしめた。

『泣きなさい。そして残されたものは生きていくのです。死んだものの為にも頑張って生き抜くのです』

 そして昨夜のエミリアの言葉をふいに思い出した。生きていく、こうしてここで土にまみれて作物を育て、たまにはラロと狩りに出て……。

「こういうのでいいんだ。それでよかったんだよ……」

 何も国の中央の表に立って生きることだけが幸福ではない。

「知らなかったのかもな」

 首領にはこうした暮らしがある事が分からなかったのかもしれない。知っていればただがむしゃらに力を欲してしまったゆえの悲劇は避けられたのかもしれない。

「あんたのおかげだ……デューク」

 名無しはソリに乗って遊んでいるクロエの胸元に光っている指輪を見ながら、小さく呟いた。