――尋ぬべき道こそなけれ人しれず心は慣れて行きかへれども
――あの人のもとへ訪ねてゆける道はないのだ。だれにも知られぬまま、私の心は何度も行き来して、通い慣れてしまったのだけれど。
***
僕の身体には、彼女の言葉が息づいている。
彼女の言葉は毒のように静かに僕を蝕んでいって、今やきっと骨の髄にまで回っているのだろう。
でも、それでいい。そばにいられないのなら、忘れたくても忘れられないくらいに、僕のすべてを蝕んでほしい。
血が、梅の香りを放つくらいに……。
***
「――いつまで絵なんて描いてるの。あなたはもう高校三年生なのよ。いい加減勉強しなさい」
「――お前、また絵描いてんの? よく飽きねーな」
「藤原、なんで進路希望調査票が白紙なんだ? 絵もいいけど、そろそろ現実を見なさい」
親にも、クラスメイトにも、先生にも、いつも『絵なんて』とバカにされてきた。
周りが心配するのも無理はない。
僕には、絵しかない。勉強なんて学校以外でしたことないし、だからといって、絵で食べていけると確信できるほどの実力があるわけでもない。
もし僕が『美大に行きたい』と言ったら、親はきっと大反対するだろう。
美大に行って、そのあとはどうするの? どうやって食べていくの? 絵で食べていけるひとなんて、ほんのひと握りなのよ。そんな才能があなたにはあるの?
きっと、そう言われて終わりだ。そんなことを言われたら、僕はなにも言えない。言い返せない。
親の言い分が正しいことは、僕にだって分かっている。
だから、言えない。
バカにされることが怖くて、無理だと否定されることが怖くて、周りとの差を目の当たりにするのが怖くて。
……そう、思っていた春だった。あなたに出会ったのは。
「わぁ! 藤原くんって、絵上手いんだねぇ」
その声は、まるで昼間の雷のように、突然僕の頭上に降り注いだ。
「……冬野先生」
「それ、セキレイでしょ? 上手いねぇ」
――冬野美月。
中庭の梅の木の下に腰かけてスケッチをする僕に話しかけてきたのは、古典の非常勤講師である冬野先生だった。
冬野先生は、長い黒髪と大きな黒目が印象的な女性教師だ。
「……いや、先生、そんなとこでなにしてるんですか」
思わず引き気味に訊ねた。だって、冬野先生がいたのは僕の真上。梅の木の上だったのだ。
ぽかんとした僕を見て、冬野先生はからっと笑いながら木から降りてきた。
「藤原くん、最近いつもここにいるよね。なにしてるのかなって思ってたんだけど、スケッチしてたんだ」
「……教室も家も、気が散るので」
ぼそぼそと答えると、冬野先生はくすっと笑った。
「たしかに。教室って埃っぽいよね」
そして、冬野先生はほっそりとした両手を空へ伸ばしながら声を上げる。
「ここって空気いいんだね。梅の木がすごくいい香りでよく眠れた」
そう言われて始めて、ずっと中庭を満たしていた香りが梅だったことを知った。
「……で、冬野先生は、こんなとこでなにしてるんですか」
「サボり!」
あっけらかんとした返答が返ってきて、僕は目を丸くした。
「……サボり?」
「あ、タバコ吸っていい?」
「えっ」
「ははっ! 冗談冗談」
言いながら、冬野先生は小さく咳払いをする。
「はぁ……?」
「構内は禁煙ですからね〜。さて、そろそろ先生は先生に戻ります」
去っていく冬野先生の後ろ姿を見送りながら、変な先生だな、と思った。
冬野先生は、『私はダメな先生だから』が口癖だった。
ほかの先生のように偉ぶっていなくて、授業中騒がしい生徒や居眠りをする生徒にも、まったく注意をしない。
では、やる気のない先生なのかというと、そうではなくて。
騒がしい生徒や居眠りをする生徒には、その場で叱ることはせず個別で話す時間を設け、じっくり生徒の話を聞く先生だった。
今まで中庭にいたのは、教室や家では気が散るし、息苦しいからだった。でも、今はもうひとつ理由がある。
愛煙家で、いつもは屋上でこっそり煙草を吸っていたという冬野先生だが、屋上のフェンスのメンテナンスで屋上に入れなくなってしまったため、梅の木の上で花を目隠しにして吸っていたいう。
「バレなきゃいいのよ」
とても教師とは思えないセリフ。どれだけ煙草中毒なんだと思ったけれど、周りにバカにされても絵をやめない僕も似たようなものなのかもしれない。
それから、冬野先生とよく中庭で遭遇するようになった。
僕が中庭に行くと、先生はさすがに煙草を消した。だからといって立ち去ることはなく、そのまま僕のスケッチを見ていたり、目を閉じて鼻歌を歌ったり、たまに会話をしたり。
お互い人好きなほうではないからいつも会話をするわけじゃなかったけれど、必ず僕が帰る時間になるまで、そばにいた。
そんな日々が二週間ほど続いたある日。
「ねぇ、冬野先生」
いつの間にか口を開いていた。
絵が好きなこと。
でも、そのことをだれにも理解してもらえないこと。美大に行きたいと思っているけど、絵が上手いひとたちの中でやっていける自信もないということ。
ずっとだれにも言えなかった心の内。親にすら言えなかった思い。
僕の本音を、冬野先生は茶化すことなく静かに聞いてくれた。
話を終えると、途端に恥ずかしさが込み上げた。
僕ったら、なに改まって悩み相談なんかしてるんだろう。
よりによって、冬野先生なんかに……。
心の中で笑ってるんじゃないだろうか。こんなちっぽけなことで悩んでるなんて、と。
そう思ってちらりと冬野先生を見ると、彼女はとても真剣な顔をして、僕を見ていた。
「そっか。君はずっと悩んでたんだね」
「…………」
――なに考えてるんだろう。冬野先生が生徒の悩みをバカにするようなひとじゃないことくらい、分かっていたはずなのに。
一瞬でも言わなきゃ良かった、恥ずかしい、と、冬野先生を疑ったじぶんを恥ずかしく思った。
だけど恥ずかしさはまだ消えなくて、僕は鉛筆を持つ指先を見つめたまま「すみません、いきなりこんな話して」と、小さく呟く。
冬野先生はしばらくなにも言わなかった。僕は沈黙がいたたまれなくなって、スケッチを再開していた。
静寂が落ちた中庭に、冬野先生がふと言葉を吐き出した。
「……あのね、君はひとつ誤解してるかもしれない」
「え? 誤解……ですか?」
手を止め、僕は梅の木を見上げる。立ったまま梅の木に寄りかかっていた冬野先生は僕と目が合うと、にこっと笑った。不意打ちの笑顔にどきりとする。
「藤原くんは、理解してもらえてないんじゃないと思うんだ」
「どういうことですか……?」
「たとえば」
冬野先生は、ポケットからカラフルな包み紙の飴玉を取り出した。
「これ」
「……飴ですか?」
「そう。この可愛い飴ちゃんですが、たとえば授業中、これをとなりの席の子が食べるところを見たら君はどう思う?」
「え……?」
唐突になんだろう、と思いながらも僕は少し考え、ありのまま思ったことを答える。
「授業中なのにずるい……って思います、たぶん」
冬野先生が目を伏せ、頷く。
「そうだね。きっとみんなそう思うでしょう。でも、その子は実は糖尿病を患っていて、そのとき低血糖症を起こしていたから糖分を接種するために飴玉を食べざるを得なかった。そう聞いたら、授業中に飴玉を食べることをずるいとは思わないでしょ?」
「それは、まぁ……そういう病気があるって事前に知っていれば、そうですね。大丈夫かって声をかけると思います」
もしその境遇を知っていたら、きっとずるいという感情なんて一ミリも湧かないだろう。
大丈夫かな、先生はこの子の体調に気付いてるのだろうか、と心配のほうが大きくなるに違いない。
「大丈夫……か、そっか。君はやっぱり優しいね」
冬野先生はどこか嬉しそうに、噛み締めるように微笑んだ。
「冬野先生?」
「……でも低血糖っていうのは、はっきりと目で見て分かる症状はないからね。本人が話してくれなきゃ分からない」
「……そうですね」
飴玉を舐めているクラスメイトを目撃したところで、そもそも病気かも、なんて発想にすらならないだろう。
「君も今同じ状態。低血糖を起こしているから飴玉を食べたのに、そのことをだれにも言っていないからみんなから理解されない」
「……言わなきゃダメってことですか?」
「君の気持ちも分かるけどね。……本音をぶつけるのは怖い。心の中で思ってることは目で見えない。だから、まずはちゃんと口に出して、頼んでみなきゃなにも始まらない」
「……でも、頼んだところできっと」
「心の中は見えない。それは君だけじゃなく、ほかのひとも同じこと」
「え?」
「君の親がどういう思いでいるのかも、聞いてみなきゃ分からないよ。それに、もし否定されるかもって思うなら、武器を用意すればいい」
「武器?」
「そう。親が子供の好きなことを否定するにはそれなりに理由があるんだよ。子供の好きなことを奪いたい親なんていないからね」
「理由……?」
「そう。それを考えて、その理由を論破できる武器を持つんだよ」
「親が僕の夢を否定する理由……」
――美大に行って、そのあとはどうするの?
――どうやって食べていくの?
「そっか……僕のことが心配だから、ふたりは……」
「それでも理解されなかったら仕方ない……好き勝手やっちゃえばいいよ!」
膝に置いていた肘が落ちた。
「は!? 最後の最後そんなオチ!? いい話だと思ったのに、真面目に聞いて損した気分なんですけど……」
冗談交じりでシラケた視線を送ると、冬野先生はからからと笑った。
「こんなこと言ってるけど、私は逃げた人間だから」
「逃げた……? なにからですか?」
冬野先生は木に寄りかかり、空を見上げる。
「理解してもらうことから」
ぽつんとため息を零すような、か弱い声だった。
「さっきも言ったように、本音を言うのは怖い。勇気を出して話しても、受け入れてもらえるとは限らない。否定されるかもしれない」
「冬野先生は、理解してもらえなかったんですか……?」
冬野先生は切なげに微笑んだ。
「みんな、煙草は嫌いでしょう?」
「え? た、煙草?」
「そ。受動喫煙がどうのとか言われはじめたと思ったら、あっという間に吸える場所がどんどんなくなっていっちゃった」
まったく、愛煙家には生きづらい世の中よ、と冬野先生はわざとらしく肩を縮めて嘆く。
「最初は屋上でならこっそり吸ってかまわないって言われたんだけどね。保護者からクレームが来たとかで、すぐに屋上も禁煙になっちゃった。それで、どれだけ私が吸いたいっていってもだれも理解してくれないから、仕方なくここで隠れて吸ってたってわけよ」
「……そこまでして吸いたいんですか、煙草……。身体に悪いのに」
若干呆れ気味にそう口走ってから、ハッとした。見ると、冬野先生は僕を見て悲しげに笑った。
「ほら、理解できないでしょう」
「……あ、すみません」
「いいよいいよ。君の言葉に悪意がないのは分かってるから」
冬野先生は静かな笑みを浮かべて、言った。
「藤原くんはどう? 突然絵を描くなって言われたら、やめられる? 君の絵には価値がない、金にならないって言われたら、その絵を捨てられる?」
言われて、戸惑う。
「……それは……できないですね、たぶん。だれになにを言われても、描き続けると思います」
……そっか。ようやく、冬野先生が言いたかったことを理解する。
ひとによって、大切なものは違う。いくら熱心に話しても、受け入れてもらえない場合もある。
それは僕を否定したとかそういう話では決してなくて、ただ……。
――それについての価値観が違った。ただ、それだけ。
「価値観って厄介だよね。恋愛でも仕事でも、ひとと関わる以上必ず出てくる問題だもの。この言葉がいちばん、ひととひととを隔てるものなのかもしれないね」
そう呟く冬野先生はどこか寂しげで、胸が揺さぶられた。
……たしかに厄介だ。
だけど。
「厄介だけど……面白いと思います」
「面白い?」
「はい。冬野先生と僕も、きっと違う考え方だけど、冬野先生の言葉で僕、だいぶ前向きになれました。だから価値観が違うっていうのは、案外厄介なだけじゃないかもです。新しい価値観に出会えるってことでもあるから」
そう言うと、冬野先生はぷっと小さく吹き出した。
「そっかぁ。たしかに、そうかもね。すごいな。君は思ったよりも前向きだ」
「そうですか?」
「藤原くんのおかげで、私も新しい価値観に出会えたよ。ありがとう」
……もしかしたら、僕と同じように冬野先生も悩んでいたのだろうかと、冬野先生の学生時代を思う。
伺い見ると、冬野先生はいつの間にか僕を見ていた。不意打ちで目が合い慌てて逸らすと、くすくすという声が聞こえてきた。
もう一度冬野先生を見ると、冬野先生は既に僕から視線を外し、両手を上げて大きく伸びをしている。
その自由な姿に、まるで猫のようだと思った。
「……私はやりたいことがなくて、なんとなくで教育学部に行ったから、大学生活はそれなりに楽しかったけど……結局、本当にやりたいことじゃないから勉強に身も入らなかったし、今だって非常勤のままでべつにいーやって思っちゃってる」
「え……冬野先生って、先生になりたかったんじゃないんですか!?」
「もちろん、教師を目指して先生になったひとはたくさんいると思うけど……世の中そんなひとのほうが少ないんじゃないかな。だってみんな、君と同じ歳のときに進路を決めてるんだから。目標を持って進路を決めてる子のほうがずっと少ない。でも、夢が見つからなくても、なにかを選択しなきゃいけない。働かなきゃ食べていけないからね」
そう呟く冬野先生は、どこか寂しげで。僕は冬野先生から目を逸らせなかった。
「……だからね、やりたいことがある君は立派ってことだよ」
「……でも、好きなことがあっても、それを仕事にするって厳しいですよね。調べれば調べるほど、現実を見せつけられるっていうか」
冬野先生に言われて、ネットでいろいろ調べて愕然とした。美大の生徒も、予備校に通っている僕と同じ高校生の作品も、みんなプロのように上手かった。僕の絵なんて、遠く及ばない実力だった。
……この世界で生きていくには、一体どれだけの努力が必要なんだろう。
絵を描くたび、じぶんに絶望する。だれかの絵を見るたび、やめたくなる。
……だけど、好きだからやめたくない。好きだから、やめられない。
「夢を叶えるって、こんなにも苦しくて、難しいものなんだって、初めて知りました」
呟くように言うと、冬野先生は僕に訊ねた。
「……ねぇ、藤原くんは、どうして絵を好きになったの?」
「え?」
「君が絵に没頭したきっかけは、なに?」
「僕が絵を好きになったのは……」
ずっと前、小学生の頃に見たアニメがきっかけで、模写をするようになった。それから、いろんな絵を描くようになって、絵を描くことそのものが好きになった。
「……でも、これといってはっきりとしたきっかけは分かりません。気が付いたら、描いてました」
「そう。ひとがなにかを好きになるきっかけって、本当に些細なことなんだよね。うっかりしたら、覚えていないくらい。本当に、いつの間にかなんだよ」
いつの間にか、好きに……。
「万人受けする絵を描けば売れるかもね。じゃあ君は、万人受けする絵を描きたい? それで売れたら満足?」
「えっと……」
……どうだろう。たしかに、売れれば親は安心してくれるだろう。でも、それなら僕が絵を描くのは『安心』のため?
「芸術のことは私にはよく分からないけど……せっかく好きなものなんだから、もっと身近に考えていいんじゃないかな。たとえば、届けたい相手たったひとりに向けて描けば、ほかのだれに分からなくても、そのひとには必ず藤原くんの想いが伝わる。そうしたらその絵は、送った相手にとっては宝物になるよ。価値ってそういうもの」
「そっか……」
僕は少し、難しく考え過ぎていたのかもしれない。
冬野先生の横顔をじっと見つめる。
「……冬野先生は、いつから煙草を吸ってるんですか?」
訊ねると、冬野先生は長いまつ毛を空へ向けた。小さく咳き込む。
「さて、なんでだったっけなぁ……忘れちゃった。まぁ私も、些細なことだったと思うよ」
さて、と冬野先生が立ち上がる。
「長くなって悪かったね。気を付けて帰りなさい」
「いえ……僕こそありがとうございました。少し、気が楽になりました」
多くの子供たちが、大学はお金を稼いで食べていくための手段を勉強をする場所だと勘違いしている。
大学は、夢に手を伸ばす場所。はたまたまだ見ぬ夢が隠れた宝島だ。
好きなことがあるなら、大声で好きって言っていいんだよ。
でも、なくても怖がらなくていいんだよ。
迷っていいんだよ。
大学は、そういう場所だよ。
「……そうなんだ」
直接的な解決にはならないけれど、冬野先生の言葉は、曖昧だった僕の輪郭をくっきり明確に照らしてくれた。
僕は、絵を描きたい。絵について学びたいんだ。
親と向き合うことにした。
美大に行きたいと言ったら、案の定想像通りの反応が返ってきたけれど、それでも諦めずに訴えた。
理解してもらうため用意したのは、意志と武器。
絵が好きだと。
絵を勉強したいと。
それから、大学を卒業したあとのこと。
将来どうやって食べていくつもりか。
両親は、僕が志望校や大学を卒業した先のことについて調べた資料を出すと、驚いているようだった。
最終的には、美大で美術の教員免許も取るつもりだと言ったら、両親は安堵して進学を許してくれた。
そしてそれを冬野先生に言ったら、煙草を携帯灰皿ひ押し当てながら「よかったじゃん」と笑って煙を吐いた。
あまりに軽い反応に、僕は肩透かしを食らったような気分になる。
まぁ、冬野先生らしいといえばらしいのだけど。
「さて。進路が決まったなら、あとはまっすぐ努力するのみだね」
「はい」
「それじゃ、頑張れ〜」
冬野先生はひらひらと手を振って、校舎の中へ消えていった。その後ろ姿を見て、僕は唐突にじぶんの想いを自覚した。
――冬野先生のことが好きだと。
きっかけはなんだっただろう。いつからだろう。
分からない。冬野先生の言ったとおり、いつの間にか、だった。
***
それからも僕は、梅の木の下でスケッチを続けた。今はべつに、教室や家が息苦しいからではない。
親にはちゃんと理解してもらえたし、教室でも絵が好きということを隠すことはなくなった。みんなべつに興味を示さないけれど、否定もしない。
中庭に来るのはただ、冬野先生に会えるから。それだけ。
しばらくは冬野先生も僕に付き合ってちょこちょこ顔を出してくれていたけれど、二学期になるとぱったりと来なくなった。
なんでも、木に登って煙草を吸っていることが校長にバレて、中庭を出禁になってしまったらしい。
放課後、たまたま渡り廊下ですれ違ったとき、冬野先生はそう僕に愚痴を零して嘆いていた。
だからもう、ここに冬野先生が来ることはない。
でも、この中庭からは冬野先生がいる国語準備室が見える。
窓際の席の冬野先生は、たまに眠そうに、たまに真剣に、たまにほかの先生たちと笑ったりしながら仕事をしていた。
だから僕は、冬野先生が来なくなっても変わらずここでスケッチを続けている。
今の冬野先生は、少し遠い。
国語準備室のガラス窓には、たまに邪魔者が入ってくる。西陽が強い日なんて、光が反射して冬野先生の姿はぜんぜん見えない。
それでも、彼女の笑い声が風に乗って聞こえてくるだけで、僕の心は優しく、あたたかくなった。
たまに、冬野先生は僕に気付くと、窓を開けて声をかけてくれたり、飴をくれたりした。
冬野先生との何気ない会話や小さな贈り物は、僕の心の栄養となっていた。
冬野先生は僕よりずっと歳上で、自立していて、そしてとても美人だ。
僕にはとても手の届かないひと。
しかも教師だから、生徒である僕をそういう目では見てくれないだろう。
卒業してからも、僕たちの立ち位置は変わらないような気がした。
教師と生徒として出会ってしまった時点で、僕の恋は終わっていた。
恋人同士になることなんて望んでいない。
ただ、生徒でいる間だけは、だれより近くにいたかった。
それから半年。桜が舞う季節がやってきた。
あっという間に受験が終わり、卒業の日。式が終わって、僕は真っ先に冬野先生の姿を探す。
しかし、いない。国語準備室にも、中庭にも、屋上にも。
どこに行っているんだろう――と、屋上のフェンスから、街を見渡す。
蕾を付け始めた桜が風にそよぐ校庭。卒業生たちの華やかな声が響く校門。その先――。
ふと、見慣れたシルエットが視界に映った気がした。
「冬野先生!」
「おー卒業おめでとう」
どこにもいないと思ったら、冬野先生は学校の敷地外にあるコンビニで煙草を吸っていた。
華やかなスーツを気だるげに着崩して煙草を吹かすその姿は、とても教師とは思えない。まぁ、らしいといえばらしいが。
「そんなに慌ててどうしたの」
「どうしたのって……冬野先生を探してたんですよ。どこにもいないから」
「そうだったの? ごめんごめん。式が長くてニコチン不足で死にそうだったのよ」
「このニコチン中毒め……卒業式の日くらい、先生らしくしてくださいよ」
「ははっ。無茶言うな〜」
冬野先生は笑いながら煙草を消して、僕に向き合う。
「それで、どうしたの」
向かい合い、目が合うと心臓が大きく跳ねた。
「あ、あの……冬野先生にお願いがあって」
「お願い?」
「……僕、今日で高校を卒業しました」
「うん、おめでとう?」
「学生の期間はまだまだ続くけど……えっと、でももう僕は、先生の生徒ではなくなります」
「そうだね?」
「だから、友達になってもらえませんか」
僕の渾身の告白に、冬野先生は一瞬きょとんとしたあと、どっと声を上げて笑った。それはもう、周囲のひとたちが驚いて振り返るくらいに。
「ちょっ、笑わないでくださいよ! こっちは真剣に……」
「ごめんごめん。いやぁ、なんていうか、予想の斜め上だったからさ」
冬野先生はそう言って、目元を拭いながら僕を宥めた。涙を指の腹で拭い切ると、晴れやかな顔をして言った。
「いいよ。友達になろっか、藤原くん」
こうして僕たちは、『教師と生徒』から、新たに『友達』になった。
***
――わすれては、打歎かるる夕哉われのみしりて過る月日を
――この長い月日の間、“片思い”と気付いては嘆く夕べだった。あのひとが私の気持ちなど知らないということを忘れてしまうくらい、私はあなたのことを好きでたまらない。
***
別れの季節の象徴である桜が散り、僕は晴れて美大生になった。
ひとり暮らしを始めた僕は、新たな学び舎で、新たな同級生たちと絵の勉強をしている。
大学は高校よりずっと自由だと聞いていたけれど、案外忙しかった。けれど、今はそれが楽しくてたまらない。
そんななかでも、僕と冬野先生の交流は続いている。
卒業式の日に連絡先を交換した僕たちは、メッセージでやりとりをするようになった。
それから、月に一回お茶に行く約束をした。
そこでお互いの近況を話し合い、ときに相談する。
高校のときは毎日どこかで顔を合わせていたから、離れたらどうなるのだろう。この気持ちもいつか醒めて、べつの(たとえば同じ美大の)女の子を好きになったりするんだろうかなんて思ったりもしたけれど。
離れてみると、会うたび新たな発見がいろいろとあって、むしろもっと想いが募っていった。
冬野さんは、美人だ。
美大やアルバイト先でたくさんの女性と接する機会が増えて、気付いた。
真っ白な雪のような肌と対照的に、漆黒の長い髪。りんごのように赤い唇はつやつやしていて、煙草を持つ指先は、触れたら壊れてしまいそうなほど細い。
「なぁに、じっと見て」
「あ、い、いえ……」
目を逸らす僕に、冬野さんは肩を揺らしながらひとつ咳をした。
「相変わらずだね、藤原くんは」
僕にとっては、もう冬野先生ではなく冬野さんとなっているのに、冬野さんのほうは僕に対しての態度はあまり変わらない。
相変わらず愛煙家だというのに、冬野さんがやってくると不思議と煙草の葉の香りではなくて、梅の花の香りがした。その香りを嗅ぐたびに、僕はあの中庭にいるような錯覚を覚えた。
「ねぇ、最近絵は描いてる?」
「はい、まぁ……大したやつじゃないですけど」と、僕はカバンを漁る。タブレットを取り出し、いちばん最近描いた絵のデータを見せた。
「わぁ。なにこれ可愛い。トイプー!?」
「はい。友人に頼まれて……この子たち、カップルなんだそうです」
「へぇー。そうなんだ」
冬野さんはタブレットをスライドさせながら、嬉しそうな笑みを含んで言った。
「……私、藤原くんが絵を描いてるの見るの、好きだったんだよね」
「……描いた絵じゃなくて、描いてるとこが好きなんですか?」
「描いた絵も好きだけどね……」と、冬野さんは僕が描いた絵を細い指先で優しくなぞる。
「ねぇ、藤原くん」
「あの、冬野さん」
お互いの名前が呼ばれたのは、ほぼ同時だった。
僕は息を詰め、冬野さんを見る。
「なんですか?」
冬野さんは穏やかに微笑んで、言った。
「私に、絵を描いてくれない?」
「え……いいんですか?」
「うん。頼みたい」
冬野さんは唐突に、僕に絵を描いてと頼んできた。
――それから三ヶ月後、冬野さんは突然高校教師を辞めた。