本当の意味での花嫁になりたいと、黒耀に告げた。黒耀が好きだとも伝えた。けれど、どうすれば本当の花嫁になれるのか雪華にはわからなかった。
 今の状態でも、屋敷の人たちは雪華を黒耀の花嫁だと思っている。それ以上を求めるとするなら、なにがあるのだろう。

「なにかお悩みですか?」

 座卓に肘をつき、ため息をつく雪華に文が心配そうに尋ねる。雪華の前には、果物と冷たくしたお茶が並べられていた。

「あ、ううん。そうじゃないんだけど」
「本当ですか?」

 文の目は、雪華の言葉を疑っていた。
 それも無理はない。先日の生家での一件で、文にはひどく心配をかけてしまった。
 黒耀の屋敷に戻った雪華を待っていたのは、泣きじゃくりながら雪華の汚れてぼろ切れのようになった着物に縋りつく、文の姿だった。
 あの日から数日が経ったけれど、文は前にも増して雪華のそばを離れなくなった。離れるとすれば、黒耀が部屋にいるときだけだ。

「えっと、黒耀様がいらっしゃらなくて寂しいなと思って」

 嘘ではない。今日は朝から黒耀は外出している。父親のところへ行くと言っていた。

「……ここのところ、お身体の具合がよくないそうですね」

 声をひそめると、文は沈んだ様子を浮かべる。
 文の言う通り、黒耀の父親の具合がよくなく、どうやら夏が終わらないのもそのせいだと話してくれた。けれど、当代の龍王である黒耀の父親の容態が、いくら黒耀の屋敷の人間だとしても一介の使用人である文の耳にまで入っているというのは、よほどのことのように思えた。

「心配ですね」
「そうね……」

 龍王も心配ではあるけれど、雪華はそれ以上に黒耀が心配でならなかった。自分の肉親である父親の具合がよくない状況にどれほど黒耀の心を痛めているのか、雪華には想像もできなかった。


 その日の夜遅く、黒耀は屋敷へと戻ってきた。とっくに夕餉の時間は過ぎ、普段であればそろそろ床につこうかという頃だった。

「おかえりなさいませ」
「雪華。まだ起きていたのか」

 外が騒がしくなり黒耀が戻ったことに気づいた雪華は、玄関へと向かい黒耀を出迎えた。疲れた顔をした黒耀だったけれど、雪華の姿を見て少しだけ表情を緩めた。

「お食事は取られましたか?」
「ああ。いや、どうだったかな。雪華は食べたか?」
「少しだけですが」

 ひとりで食べる夕餉はどこか味気なくて、うまく喉を通らなかった。

「そうか。葛葉に頼んで、なにか準備してもらおう」
「そんな、申し訳ないです」

 そこまで空腹を感じるわけではない。寝てしまえば、明日の朝まで我慢するのは容易だった。けれど、黒耀はふっと柔らかい笑みを浮かべた。

「俺が食べたいんだ。悪いが、付き合ってくれるか?」
「……はい」

 そう言われれば断れない。頷く雪華に満足そうに笑うと、黒耀は後ろで控えていた葛葉に「頼む」と声をかけた。
 黒耀は優しい。きっと雪華が気を遣わず食事を取れるように、わざとああいう言い方をしてくれたのだ。

「ありがとう、ございます」
「俺がお前を付き合わすんだ。礼などいらん」

 黒耀は口角を上げると、まっすぐに雪華の部屋へと向かった。そんな黒耀の後ろを、笑みを浮かべたまま雪華は追いかけた。


 食事を取り、縁側に並びふたりで夕涼みをする。例年なら、そろそろ秋の虫が鳴き始めるころだけれど、未だにその気配すらない。
 黙ったまま庭を見つめていた黒耀だったけれど、ポツリと口を開いた。

「父上の具合が芳しくない」
「……はい」
「医師の話では、このままだと、もって数日だと」

 悲痛な黒耀の言葉に、雪華は頷くしかできない。

「意識が戻らなくてな。本当はお前を父上に話して、きちんと紹介するつもりだったんだが、今の状態では難しそうだ」
「紹介、ですか」

 その言葉がなにを指しているのか、雪華にはわからなかった。思わず尋ね返した雪華に、黒耀は口角を上げた。

「花嫁だと紹介するつもりだったのだが、違ったか?」
「え、あ……」
「本当はもっと早くに連れていくつもりだったんだが、春先から体調を崩したり落ち着いたりを繰り返していてな。ただ、だが、それでも無理やり会わせておくべきだったのかもしれない。このままでは……」

 苦しそうに言う黒耀の拳は小刻みに震え、手の甲は血の通り道が浮き出ている。いったいどれほどの強い力で、握りしめているのか。
 雪華はその拳に、自分の手のひらをそっと重ねた。雪華にはなにもできない。けれど、こうやってそばにいることはできる。

「ありがとう」
「いいえ……。なにもできなくて、申し訳ございません」

 白姫だなんだと持てはやされていても、雪華にできることは限られている。黒耀の父親が同じ龍につけられた傷が原因で寝込んでいるのであれば、雪華の力で助けられたかもしれない。それこそ、この命と引き換えにしても。けれど、それ以外では雪華は無力だ。なんの役にも立てない。
 俯いた雪華の頭を、黒耀は大きな手でポンポンと叩く。

「なにもできないなんてことはない。こうしてお前がそばにいてくれるだけで、心が安らぐ。お前の存在は俺にとってなににも代えがたい大切なものだ。だからもう少しだけ、待っていてくれ。必ずお前を――」

 言葉の続きが気になって顔を上げると、黒耀の真っ赤な瞳は瞬きひとつすることなく雪華を見つめていた。

「黒耀様?」
「なんでもない。そろそろ休め。遅くまで付き合わせて悪かったな。俺は明日も遅くなる。悪いが、食事はひとりで食べておいてくれ」

 黒耀は縁側に雪華を残したまま立ち上がり、部屋をあとにした。


 翌日も黒耀は屋敷を留守にした。けれど、どうやら行く前に文へ命じてくれたらしく、今日の食事は文と一緒に取ることになった。
 文は『一緒に食事を取るなんて、そんな!』と困り果てていたけれど、『雪華の友人として一緒に食べてやってくれ』と言われてしまえば頼まれれば断れないと笑っていた。
 楽しく昼餉を終え、文がお膳を下げてくれる。手伝うという雪華の申し出は、即座に却下された。そこの線引きはきちんとしなければいけないそうだ。
 ひとりで部屋に残った雪華は、昨日の黒耀の話を思い出していた。

「紹介するつもりだって言っていたけれど、紹介してどうするんだろう」

 ついつぶやいてしまった独り言。

「そりゃあ、兄上とのご結婚のためではありませんか?」
「え? って、玲様?」

 縁側からひょこっと顔を出したのは、いつものように無邪気に笑う玲の姿だった。
 先日の一件以来、玲に会うのは初めてだ。玲を気にかける余裕はなく、あのあとどうしただろうとは思っていたのだけれど、無事戻っていたようだった。

「玲様」
「ん? なんですか?」

 当たり前のように縁側に座り、振り返るようにしてこちらに笑顔を向ける玲に、雪華は頭を下げた。

「この間は、申し訳ございませんでした」
「え……?」

 雪華の謝罪に、玲は戸惑うような声を出す。

「連れていってもらって、待ってくださっていたのに、私……」

 いくら捕まってしまったからといって、玲を忘れ、あまつさえ黒耀とともに戻ってきてしまった。屋敷に帰ってきてからふと玲のことを思い出し、あのまま森の中でずっと待っていたらどうしようかと不安で仕方がなかった。

「あ、ああ。ううん、大丈夫ですよ。それに、白姫様の弟御が来てくれましたから。『姉様はしばらくここにいるので、帰ってもらって大丈夫です』って。どうしようか悩んだんですけど、本当に戻っていらっしゃらなかったので先に帰ってきたんです」

 心配しているような口ぶりとは裏腹に、玲はにこやかな笑みを浮かべていた。

「そう、だったんですね」

 そんなこと夏斗はひと言も話してくれなかった。せめて教えてくれたら、と思ったけれどあの軟禁状態で雪華になにかを伝えるなんてできなかったはずだ。抜け出して玲に戻るように言ってくれただけでも感謝すべきなのだろう。

「なら安心しました」

 安堵して笑みを浮かべる雪華に、玲は無邪気に笑う。

「そういえば、あの日ご家族とはお話できましたか? しばらく過ごすと聞いていたので、白姫様がご家族と一緒に過ごすことを選んで、もう戻ってこなかったらどうしようかと心配していたんです」
「そう、ですか」

 家族のことを言われると、なんと答えていいのか返事に詰まる。うまく答えられずにいる雪華に玲は小さく微笑んだ。

「ご家族と仲がよさそうですね」
「そんな、こと……」

 家族を思い出して、胸が苦しくなる。
 彼らと会うことはきっともう二度とない。
 家族に捨てられたのではない。雪華が、家族を捨てたのだ。

「私の家族は……」
「羨ましいです」
「え?」

 そうつぶやいた玲の言葉にどこか寂しさが含まれているような気がして、首を傾げた。

「玲様は黒龍様と仲がよろしいではありませんか」
「え? ……ああ、うん。そう、ですね」

 どこか歯切れの悪い返答に、雪華は変なことを言ってしまっただろうかと不安に思う。

「れ――」
「僕にはね、もうひとり兄がいたんです」

 雪華の言葉を遮ると、玲は庭に視線を向ける。その目はどこか遠くを見ているように思えた。

「すごく優しくて、頼りになって、兄様なんて目じゃないぐらい強くて」
「その方が、玲様は大好きなのですね」

 玲は力なく頷いた。
 玲がそんなふうに言うほどの人であれば、雪華も一度会ってみたい。玲の兄ならば、黒耀の兄でもあるのだから。
 けれど、その人の話を雪華は今まで誰からも聞いたことがなかった。

「その方は、今は?」
「兄上は……」

 そこで玲は言葉を途切れさせた。
 なにか悪いことを聞いてしまっただろうか。不安に思って腰を上げ、縁側に座る玲の元へと向かおうとした。けれど雪華が立ち上がるよりも早く、玲は笑顔を見せた。

「兄上は、今は旅をしているのです」
「旅、ですか?」
「はい。強くなったら必ず帰ってくるからって……。だから僕はお戻りをずっと待ってるんです」
「そうなのですね」

 嬉しそうな玲の声に、雪華の頬も緩む。

「玲様がそこまでおっしゃるのですから、とても素敵な御方なのですね。私もいつかお会いしてみたいです」
「そうですね、僕もぜひ会ってほしいと思いますよ」

 そう言って玲が笑う。それと同時に、雪華の部屋の襖が開いた。

「ただいま戻りまし――って、玲様? どうしてこちらに」
「白姫様とお話したくて遊びに来たんだ」
「そう、ですか」

 文は疑うような視線を玲に向けた。
 あの日、雪華を連れ出したのが玲だと知り、文は玲が連れ出さなければあんな騒ぎにはならなかったと、行き場のない怒りを玲へと向けていた。
 玲のせいではない。雪華自身が行くことを選び、玲はそんな雪華の願いを叶えてくれたのだと何度説明しても文は受け入れてくれなかった。
 玲が唆したのだと黒耀の耳に入れると言い張る文を、雪華はなんとか引き留めた。そもそも雪華の心の甘さが招いた事態だ。
 雪華は縁側で人懐っこい笑みを浮かべる玲へと視線を向ける。
 それに、もうきっと二度と会えない大切な弟の存在を玲に重ねてしまう。悲しい顔をすることなく、ああやって笑っていてほしいと願ってしまうのだ。

「しょうがないですね」

 座卓の前に座る雪華から少しだけ離れたところに文は腰を下ろした。玲がなにかしようものなら、自分が雪華を守るとでも言わんばかりだ。
 そんな文に、玲はふっと笑いかけた。

「あれ? 文はお仕事しなくていいの?」
「私の仕事は、せ……白姫様のそばにいることですから」

 雪華、と呼びそうになって、文は慌てて呼び名を直す。
 いくら雪華が名前で呼んでほしいと望んだからといって、文の立場で他の人が聞いている前で『雪華』と呼ぶのは憚られるし、聞いた人から咎められるだろう。だから、ふたりきりのときだけの呼び名としている。
 雪華が黒耀を呼ぶときも同様だ。ふたりのときか、文の前以外では黒耀の名前を呼ぶことはない。
 けれどそれは、立場だとか誰かから咎められないようにするからとかではなく、ただ単純に雪華が、その名前を他の人の耳に入れたくなかった。黒耀という名は、ふたりだけの大切なものにしておきたかった。
 それに、黒耀が他の人には呼ばせたくないと言ってくれたから。例外として文の前以外では、その名を呼ぶことはなかった。

「ふーん。でもさ、さっき葛葉が文を探していたよ?」
「え、そんなはずは」

 ない、と否定しながらも少し慌てた様子で文は腰を浮かす。

「なんか、買ってきてって頼んだものがなかったとか怒ってたけど、心当たりない?」
「頼まれたもの……。あっ」

 どうやらなにかを思い出したらしく、目に見えて文の顔色が青くなる。

「私、どうしよう」
「今から買いに行くのでは間に合わないの?」
「そんなことは、ないのですが」

 文は不安そうに、雪華と玲の姿を交互に見る。そんな文に、雪華は優しく微笑みかけた。

「大丈夫よ、文が戻ってくるまでここにいるから」
「本当ですか? 絶対にどこにも行ってはいけませんよ?」
「約束するわ」

 雪華が頷くと、まだ少し心残りはありそうだったけれど、文は渋々立ち上がった。

「絶対に、外に勝手に出ちゃ駄目ですからね」
「わかったわ」

 念押しをする文に頷いてみせると、ようやく襖の向こうに姿を消した。

「なんです、あれ。過保護を通り越して、変ですよ」

 文がいなくなった部屋で、玲は呆れたように肩をすくめる。
 玲の言いたいこともわかるけれど、文の態度からどれだけ心配をかけてしまったのか知っているから、雪華はなにも言えずにいた。
 あの日の自分の行動がどれほどの人を巻き込み迷惑をかけたか、考えただけで申し訳なさでいっぱいになる。

「はぁ」
「どうしたのですか?」

 思わずため息をついてしまった雪華に、玲は不思議そうに尋ねる。沓脱石に草履を脱ぐと、玲は雪華の隣に座った。

「あ……。いえ、自分の無力さを痛感していました」

 無力で浅慮なせいで、たくさんの迷惑をかけてしまった。

「自分で自分が情けないです」
「白姫様は、無力なんかではないですよ」
「あ……。ありがとうございます」

 雪華は微妙な笑みを浮かべた。こんな小さな子どもに気を遣わせてしまい恥ずかしい。

「そう言っていただけて嬉しいです」

 優しく笑いかけた雪華に、玲はそうじゃないと首を振った。

「あ、信じてませんね。その顔は」
「そういう訳では……」

 子ども扱いした雪華の心を見透かしたかのように唇を尖らせると、玲は「大丈夫ですって」ともう一度言う。

「だって白姫様は、そこにいるだけで兄様の役に立ってますから。いるだけで十分なんです」
「……え?」

 その口ぶりが、妙に引っかかった。けれど玲は、雪華の反応など気にすることなく話を続ける。

「だって、白姫としてたくさんの龍たちを助けてくれたじゃないですか。そんな白姫様が花嫁で兄様は幸せだと思いますよ」
「白姫が、花嫁で……」
「白姫様だからこそ、役に立てるんです。他の姫では、きっとこうはいきませんでしたよ。よかったですね、白姫で」

 最後のほうの言葉は、耳には聞こえてくるものの頭では理解できなかった。
 それよりも、先ほどの玲の言葉が雪華の頭の中で回り続ける。
 雪華が白姫として龍を助けたことが、黒耀の役に立っている。白姫だから、雪華は黒耀の花嫁になれた。つまり、白姫であれば雪華じゃなくてもよかった? 雪華だからではなく、白姫が花嫁に必要なだけ?
「あ、すみません! 今の言い方じゃ、まるで白姫様が好きだから結婚するのではなく、利用するためにそばに置いているように聞こえますね。そんなつもりじゃないんです。伝え方が下手ですみません」

 玲は申し訳なさそうに頭を下げた。

「あ、そ、そんな。顔を上げてください。大丈夫です、あの、玲様がそんなつもりはなかったって、きちんと理解しております。だから、頭を下げたりしないでください」
「白姫様……。やっぱりお優しいお方ですね。お許しくださり、ありがとうございます」

 顔を上げた玲は、安心したように胸を撫で下ろすと言葉を続けた。

「それに、もしも利用するためだけなら、両親に紹介したりしないと思いますしね。だから、安心してください」
「え……、あ……ご両親」
「はい。僕らの両親です。父は龍王、母は龍王妃です。もちろんもうお会いされましたよね? なんせ兄様のお嫁様となる白姫様ですもん」
「それ、は……」

 雪華としても気にしていないわけではなかった。こうやって住まわせてもらっている以上、黒耀の両親に挨拶をしたほうがいいのでは、と尋ねたこともある。ただ少し待ってほしいと頼まれている間に黒耀の父親の加減が悪くなり、結局会えないまま今に至っていた。

「まさかお会いしていないとか……は、ないですよね。だってそんなのまるで、会わせる価値がないとか、それどころか本当は結婚するつもりがないから会わせてないって思われても仕方がないですもんね。あはは、変なこと言っちゃってすみません」
「あ、いえ。……はい」

 会っていないとは、とてもじゃないけれど言えなかった。言えば、玲の言葉を肯定してしまうようで。
 黒耀に限ってそんなことはないと信じたい。でも、玲の言葉が、まるで蛇に締めつけられるように胸を苦しくする。
 何度否定しても「もしも」「もしかして」「でも」「だって」と、黒耀を疑うような言葉が湧き出てくる。

「白姫様? 大丈夫ですか? 顔が真っ青ですが」
「あ……はい。大丈夫です」
「本当ですか? 僕がさっきあんなことを言って口走ってしまったから……」

 しょんぼりとする玲に、雪華は自分の心の弱さのせいでこんな表情をさせてしまったことを申し訳なく思う。
 そう、玲には悪意などない。ただ雪華が玲の言葉をきっかけにして、その可能性が否定しきれないと気づいてしまっただけだ。
 あり得ないと否定したかった。黒耀だって雪華を想ってくれていると、花嫁にするつもりだと、そう言い返反論したかった。
 けれど、不意に思い出す。初めて会ったとき、黒耀は『お前が欲しい』と言っていた。あれは〝雪華〟ではなく〝白姫〟が欲しいという意味だったのではないだろうか。
 雪華が白姫なのだから、求めるものは同じなのかもしれない。でも『雪華が欲しい』と『白姫だから雪華が欲しい』では意味がまったく違う。
 もしも黒耀に必要なのが、白姫の力だけなのだとしたら……。
 そんなはずはない、きっと大丈夫。そう信じられれば、どれだけ幸せだっただろう。けれど、明確な言葉ひとつ伝えられていない雪華には、今までの黒耀から与えられてきた愛情がすべて白姫のためだったように思えてならない。
 雪華ではなく、白姫に向けられてきたものならば、その先にいるのは雪華じゃなくてもよかったということになる。
 そんなの、想像しただけで胸の奥が苦しくて苦しくてたまらない。

「白姫様? 大丈夫ですか?」

 黙り込んでしまった雪華に、玲は気遣うような声をかける。

「だい、じょうぶです」

 深く息を吸い込むと、ゆっくりと息を吐き出した。
 今どれだけ考えたところで、真実は黒耀の胸の中にしかないのだ。だから、黒耀の口から聞くまではなにも信じないし、なにも疑わない。
 深呼吸を繰り返すうちに、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。どんな答えが待っていようと、黒耀本人の口から聞きたかった。

「そう、ですか。なら、よかったです」

 玲は笑みを浮かべる。その笑顔が、どうしてか少しだけ強ばって見えた。


 その日の夜遅く、黒耀は屋敷へと帰ってきた。

「おかえりなさいませ」
「……雪華。まだ起きていたのか」
「はい。食事は取っておくようにと命じられましたが、待っていてはいけないとも言われておりませんでしたので」

 いたずらっぽく笑いかけると、黒耀はふっと口元を緩めた。その表情に疲れが見え隠れしている。

「黒耀様は、大丈夫ですか?」
「ああ、俺は大丈夫だ。だが」

 言葉を途切れさせた黒耀は、顔をしかめた。その表情から、恐らく父親の具合がよくないのだろうと想像がついた。

「……雪華」

 黒耀の声が、どこか緊張しているように聞こえる。はい、と返事をしたいのに、喉の奥が乾いてうまく声が出ない。
 不意に、玲の言葉がよみがえる。
『まるで白姫様のことが好きだから結婚するのではなく、利用するためにそばに置いている』
 そんなわけはないと否定してほしかった。馬鹿を言うなと呆れてほしかった。きっとそうしてくれると、信じたかった。でも。

「頼みが、あるんだ」

 苦しそうな黒耀の声。その言葉に続くのがなにか、嫌でも想像がついた。

「父上を、助けてくれないか」

 それは竜王の息子としては当然の、そして今の雪華が一番聞きたくなかった言葉だった。

「黒耀、様……」
「負担をかけてしまうのはわかっているが」

 深々と頭を下げる黒耀の姿に、雪華はそれ以上なにも言えなかった。喉まで出かかった言葉を呑み込むと、唇を噛みしめながら頷いた。

「わかり、ました」
「雪華!」

 顔を上げると、黒耀の赤い瞳は縋るように雪華を見つめていた。その目から視線を外すと、雪華は口を開いた。

「私の力に、どれほどの効力があるかはわかりませんが……。精一杯、頑張らせていただきます」
「助かるよ、ありがとう」

 安堵したように言うと、黒耀は雪華の身体を抱きしめた。普段であれば嬉しいはずの行動も、今の雪華にとっては虚しさしか感じられなかった。


 帰ってきたばかりの黒耀だったけれど、雪華の了承を得ると、再び両親の住む宮殿へと戻っていく。雪華が住まわせてもらっている黒耀の屋敷もかなり大きいが、黒耀の両親たちの住まいはその比ではなかった。

「ここが、龍王とその奥方、そして家族が住む宮殿……」

 どこまで続いているのかわからないほどの外壁、そびえ立つと言っても過言ではないほど立派な木戸門。これが龍王の住まいなのかと、思わず言葉を失った。

「今は両親と玲がここで暮らしている」
「あれ? もうひとりの方は……?」

 疑問に思い尋ねた雪華に、黒耀は「ああ」と低い声を出した。

「玲にでも聞いたのか」
「はい。もうひとりお兄様がいらっしゃると伺いました」
「……あの人は、ここにはもういない」
「そうなんですね」

 あの人という言い方に妙な引っかかりを覚えながらも、黒耀の言葉に相槌(あいづち)を打った。黒耀は少し目を伏せると、淡々とした口調で話を続けた。

「かなり昔にここから出ていった。今も元気でいらっしゃるようだがな」

 距離感はある気がするけれど、黒耀の口調は始終優しさに包まれていた。玲がその人を慕っていたように、黒耀もまたその人を好きだったのだろうなと伝わってくる。
 門の前に立つ男性たちは、黒耀の姿を確認すると頷き門を開けた。
 黙ったまま入っていく黒耀のあとに続く。屋敷の縁側をひたすら歩き、屋敷の最奥にある部屋の前で立ち止まった。そこは黒耀の父親である龍王の寝間だった。

「黒龍です」
「お入りなさい」

 黒耀の言葉に、部屋の中から柔らかい女性の言葉が返ってくる。
 黒耀はその場に膝をつけると、静かに障子を開けた。そこにはひとりの女性と、それから布団に寝込む男性の姿があった。

「母上、父上のご様子は」
「変わりはないです。医師の話では、このまま目を覚まさなければやがて、と」
「そう、ですか」

 黒耀の感情が手に取るようにわかる。落胆し肩を落とした黒耀は、雪華を振り返った。

「雪華、こちらにおいで」

 促され、黒耀の隣へと膝をつけ頭を下げる。

「母上。これは雪華と申しまして、私の妻となる娘です」
「そう。では、この方が白姫様なのですね。お顔をお上げください、白姫様」

 柔らかく優しい声が頭上に降り注ぐ。このままずっと聞いていたいような気持ちにさせる、温かさで包み込まれるような声。
 ゆっくりと頭を上げた雪華の視線の先に、白金の緩く波打った髪を肩にかけた、まるで少女のような風貌の女性がいた。この人が黒耀の母親なのか、と思わず見つめてしまう。

「白姫様?」
「あ、も、申し訳ございません」

 ジロジロと見るような品のない行動を謝ると、雪華は改めて挨拶をするため、指を揃えて床につけ、静かに頭を下げた。

「雪華、と申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません」
「頭を上げてください。こちらこそ、白姫様がこちらの世界にいらしたというのに、なんのお出迎えもできず、申し訳ございません。突然こちらの世界にいらして、困りごとや不自由なことはありませんでしたか? 本来でしたら、同性である私が手配をさせていただくべきなのですが」
「そ、そんな」

 雪華は黒耀の方へチラリと視線を向け、そして黒耀の母親に小さく笑みを浮かべて見せた。

「黒龍様が優しく迎えてくださいましたので、なにひとつ不自由はありませんでした」
「黒龍が……。そう」

 雪華の言葉に、黒耀の母親は嬉しそうに顔をほころばせる。隣で黒耀が「別に」とつぶやいているのを聞いて、普段は落ち着いた大人の男性である黒耀の、まるで子どものような姿が見えて嬉しくなる。

「雪華、あちらにいらっしゃるのが父上だ」

 黒耀の視線を追いかけるように、雪華は部屋の奥へと目を向けた。布団に横たわるその人は、微動だにしないまま眠っているようだった。
 あの方が、龍王。
 緊張から思わず唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。そんな雪華の思いを知ってか知らずか、黒耀は雪華の手をそっと握りしめた。

「俺の、父上で、当代の龍王だ」
「龍王様……」
「……頼めるか」

 なにが、とは言わない。なにが、とは聞かない。ただ黙ったまま頷くと、雪華は黒耀に連れられるままに龍王の眠る布団の横へと向かう。
 苦しそうな呼吸、薄暗い中でもわかるほどひどい顔色、くぼんだ目。龍王でなければ、すでに生を全うしていたとしても不思議はないと思わされる。
 隣に並ぶ黒耀を思うと、胸が苦しくなる。父親がこんな姿になってしまうのを見るのは、どれほどまでにつらいことか。なんとかしてあげたい。自分にそれができるのかはわからない。でも……。
 掛け布団をそっとめくると、雪華は龍王の手を握りしめた。
 少しでも苦しみが和らぎますように。痛みが軽くなりますように。元気になりますように、と願いを込めて。

「いたいの、いたいの……とんでいけ」

 その瞬間、夜だというのに辺りはまばゆいほどの光に包まれる。握りしめた手から、雪華の身体を巡るなにかが吸い取られていくような感覚に陥る。倒れてしまいそうになるのを必死にこらえ、その手を握りしめ続けた。
 黒耀の願いをなんとしてでも叶えてあげたい。白姫の力を利用するためにそばに置いてくれたのだとしたら、なおさら役に立ちたかった。役に立てばきっと、黒耀のそばにいられる。だから――。

「雪華!」

 身体がぐらりと倒れそうになる。目の前にあるはずの布団は輪郭がぼやけて見えて、呼びかけてくれている黒耀の声もずいぶん遠くに聞こえる。

「もういい! もう手を離せ!」

 黒耀は必死に止めようとするけれど、雪華にはその手を離すことはできなかった。
 これぐらいしか自分にはできない。黒耀に与えてもらったたくさんの恩を、今返さずにいつ返すというのか。

「だい、じょ……ぶで……す……」

 掠れた自分の声が耳の奥で聞こえる。そんな雪華の手を、誰かがしっかりと掴んだ。

「あ……」

 握りしめていただけの手を握り返す力の強さに安堵して、雪華は意識を手放した。


 目が覚めると、どうやらどこかの部屋に寝かされているようだった。真っ暗でだだっ広い部屋に、雪華が横たわる布団だけが敷かれていた。
 全身が気怠く、身体も重い。それでもどうにか顔を動かしてみると、隣の部屋のものだろうか、襖の隙間から灯りが漏れているのが見えた。誰かの話し声が聞こえた。
 目が覚めたことを伝えなければと声を出そうとするけれど、喉の奥から掠れたような空気の抜ける音が出るだけでうまく声にならない。そうこうしているうちに、隣の部屋から声が聞こえてきた。

「父上の顔色が少しよくなりましたね」
「そうですね。白姫様のおかげです」

 どうやら黒耀とその母親が話しているらしい。口ぶりからして、ここは龍王が眠っていた先ほどの部屋の隣に位置するようだった。

「白姫様の力は、すごいですね」
「ええ。診療所でもずいぶんとたくさんの者が助けられました」
「それはありがたいですね。ですが、あのように倒れられるのであれば、あまり力をお使いになられるわけにはいかないのでは」

 感心しつつも、黒耀の母親は雪華を案じてくれているようだった。その慈悲深さが、胸の奥に染み渡る。
 黒耀も、そして黒耀の周りの人も、皆雪華を大切に思ってくれる。ときには雪華本人以上に考えてくれる。そんな優しさが、温かくて嬉しかった。
 鼻の奥がツンとして、どうにか動いた手で掴む。もし誰かが入ってきたとしても泣きそうになっているのを見られないように、もう少ししたら襖を開けよう。
 そんなことを考えていると、ふたりの会話が再び聞こえてくる。

「黒龍は白姫様を妻に迎えるとさっき言っていたけれど、本当にそれでいいの?」

 黒耀の母の言葉に、雪華は自身の心臓が飛び跳ねるのを感じた。

「どういう意味ですか?」

 怪訝そうに問う黒耀に、母親は話を続けた。

「あなたが龍王?様の身体を治してもらうために白姫様を妻に迎えようとしているなら、そこまで犠牲にならなくていいのよ。白姫様には感謝しているけれど、あなたの気持ちを押し殺してまで婚姻を結ぶ必要なんてないのですから」

 黒耀の母親の言葉に、玲の言葉がよみがえる。
 やっぱり黒耀は雪華の力を利用するために……ううん、そんなわけがない。黒耀に限って、そんなはずは――。
 必死に否定する雪華の耳に、黒耀の声が届く。

「そんなのではありません」

 母親に言われた言葉を一蹴する黒耀に、雪華は胸を撫で下ろした。けれど、次の言葉に、まるで背中から冷や水を浴びせられたように血の気が引いた。

「白姫を(めと)るのは、黒龍に課せられた役目です」

 役目――。
 役目だから、黒耀は雪華を妻にしてくれている。雪華を思っているからではない。ただそれが黒龍に課せられた義務だから妻にしてくれるだけで、そこには黒耀の感情なんてなにひとつとして存在しないのだ。

「……っ」

 あふれ出る涙が止まらない。目尻を伝い、耳を濡らしながら、涙は布団へと染み込んでいく。

「う……くっ……」

 漏れる()(えつ)を押し殺すために、掛け布団を必死に口に押しつける。そうしないと、泣いていることが隣の部屋のふたりに気づかれてしまいそうだったから。

「その役目を――父上!」

 なにか言おうとした黒耀だったけれど、言葉を途切れさせ父親を呼んだ。その瞬間、隣の部屋がにわかに騒がしくなった。どうやら龍王が目覚めたらしい。
 雪華の役目は十分に果たした。あとはもう義務感から、黒耀が雪華と婚姻を結ぶだけだ。
 義務だとしても、好きな人と結婚できるのなら幸せなのかもしれない。親同士が決めた相手と結婚するのが当たり前の世の中で、婚姻相手が好きな人である可能性なんてほとんどないに等しい。それなら娶ってもらえることに感謝こそしても、悲しくなる必要なんてないはずだ。それなのに……。
 雪華はどうにか身体を起こすと、誰にも気づかれないように布団を出た。縁側に続く襖を開けると、静かに縁側を歩く。
 龍王が目覚めたことで、皆そちらに駆けつけているのか、黒耀と来たときにはいた門番の姿はなかった。門を出て、とぼとぼと歩く。
 行く当てなんてない。こちらに来てからのほとんどを黒耀の屋敷で過ごした。出かけるとしたら診療所や屋敷の近くぐらいで、それ以外の場所には土地勘もない。
 それでも雪華は、鳥の鳴き声とも木々のざわめきともつかない不気味な音を聞きながら歩き続けた。国領の両親の屋敷から少しでも離れたくて。
 ようやく足を止めたのは、歩き始めてどれぐらい経ってからだろう。ずいぶんと歩いた雪華の目の前には、古びた社のようなものがあった。屋根は崩れ落ちかけているけれど、階段に腰を下ろすことはできた。
 ぎぎっという木の鳴る音を聞きながら座ると、雪華は重いため息をついた。
 あんなところで黒耀の本心を聞くなんて思ってもみなかった。にもかかわらず、それでもいいと割り切れないほどに黒耀を好きになっているなんて、自分でも知らなかった……。
 これからどうすればいいのか。こんなふうに飛び出して、そのうちきっと黒耀にだって気づかれてしまう。追いかけてきてほしいのか、このままにしておいてほしいのか、未だに自分の気持ちに答えが出ない。

「どうしよう……」

 膝を抱えてギュッと身体を縮こまらせると、なにか固いものが当たるのを感じた。

「あ……。これ……」

 胸元に当たっていたのは、いつか黒耀と一緒に行った街で買ってもらった首飾りについた石だった。
 まるで黒耀の髪のように吸い込まれそうなほど真っ黒な石から目が離せなくなる。手で握りしめると、黒耀と出会ってから今までの思い出が脳裏によみがえってくる。
 黒耀は、いつだって雪華に優しくて大切にしてくれていた。
 甘い物が好きな雪華のために、おやつにはいつも果物や、削り氷に蜜をかけた氷水(こおりすい)、大福に団子。たくさんの甘い物を用意してくれた。自分はそんなに甘い物が得意ではないのに、雪華に付き合っていつも一緒に食べてくれた。
 言葉からも、行動からも、いつだって黒耀は雪華を想ってくれていたことがわかる。
 たとえ利用されていたのだとしても、今まで黒耀にかけられたが与えてくれた言葉や態度のすべてが偽りだったとは、雪華にはどうしても思えなかった。
 こんなふうに逃げ出すのではなく、きちんと黒耀に向き合いたい。利用されていたとしても、雪華が黒耀を想っているのは変わらない。だから、きちんとこの気持ちを伝えて向き合おう。

「うん、そうしよう」
「どうするんですか?」
「誰?」

 ひとりつぶやいた言葉に返事が来て、戸惑いつつも暗闇に問いかける。目を凝らすと、そこには楽しそうに笑う玲の姿があった。

「玲様、どうして」
「屋敷から出ていく姿が見えたので、なにがあったのかと追いかけてきたんです」
「あ……」

 そういえば、あの屋敷には両親と玲が住んでいると黒耀が言っていた。

「お父上が目覚めたのに、そばにいなくていいのですか?」
「それも大事ですが、今は白姫様のそばにいたほうがいいかなと」
「え……?」

 玲は一歩また一歩と近づいてきて、雪華のすぐ目の前に立った。階段に座っているせいで、普段なら見下ろす玲と視線の高さが同じだった。

「白姫様が泣いてらしたように見えたので」
「あっ……」

 慌てて涙のあとを拭う。まさか玲が雪華を気にしかけて追いかけてきてくれるなんて思ってもみなかった。

「兄上は、白姫様をほったらかしにしてなにをしてるのでしょうか」
「そ、れは」
「僕なら大事なお嫁様をひとりにしたりしないのに。こんなふうにしたら、白姫様が大事じゃないって勘違いされますよ!」

 玲はそんなつもりはないのだろう。けれど、だからこそその言葉はまるで刃のように雪華の胸に突き刺さる。
 結局、そういうことなのだ。義務だから、大切じゃないから、雪華なんてどうでもいいのだ。でも、それでもいい。

「勘違い、では、ないのかもしれませんね」

 そう言って笑みを浮かべるのが、今の雪華にとって精一杯だった。虚勢だと笑う人もいるかもしれないけれど、勘違いだろうとそうでなかろうとどっちでもよかった。

「それでも、私が黒龍様を思っていることに変わりはないのです」

 そんな雪華を見て玲は舌打ちをすると、楽しそうに笑った。

「ふ、ふふふ。そうですよ、勘違いじゃない。あなたなんて兄上はこれっぽっちも求めていないし、愛していない。兄上が必要なのは白姫を娶ったという事実と、それから白姫の持つ力だけ。ようやく気づいたんですね」
「玲、様? どうし――」
「気安く僕の名前を呼ぶな」

 伸ばしかけた手は、玲によって払いのけられる。パシンッという乾いた音が響き、雪華の手の甲は赤くなった。
 いつもの無邪気な笑みを浮かべた玲とは違い、見下したような視線を雪華に向けている。

「ふん。あんたも、それからあの人も本当に目障りなんだから。なに立ち直りかけてるの? このままあの人のところからいなくなってくれたらよかったのに」

 目の前に立つ少年は、いったい誰なのだろう。こんなふうに笑う玲を、雪華は知らない。
 玲は近くに落ちていた枝を拾うと、先端を雪華の顔に突きつけるように向けた。

「あんたもあの人も、いらないんだ」
「あの人って……」
「黒龍に決まってるだろ! あいつさえいなければ、兄様が父上の跡を継いで龍王になるはずだったのに!」

 苛立ちまぎれに振り下ろした枝は、地面に落ちた葉を()き散らかす。怒鳴るように言う礼の言葉が、なぜか泣きそうな声に聞こえて雪華は思わず尋ねていた。

「兄様って……」
「一番上の兄だよ! 強くて、優しくて、カッコよくて……。なのに、兄様が邪魔になったあいつが! 黒に落としてここにいられなくしたんだ!」
「黒に、落とすって……」

 その言葉で思い出すのは、両親と妹のことだった。自慢の髪色を、黒耀の力によって真っ黒に染められていた。それを黒耀が自身の兄にしただなんて、雪華には信じられなかった。

「そんなひどいこと黒龍様がするわけ――」
「白金に輝く兄様が真っ黒に染められるのを僕は見たんだ! 兄様だけはずっとあいつを気にかけていたのに、それを裏切った! この国を出る最後の日、兄様は泣いていた。あいつのせいだ。全部、全部あいつが悪いんだ!」

 けれど激高する玲に雪華の言葉は聞こえていないようで、悲痛な声で話し続けたる。

「だから僕は誓ったんだ。いつかあいつも、ここから追い出してやるって。そうすればもう父上に子どもは僕しかいない。僕が龍王になれば、兄様をここに呼び戻してあげられる。そのためにあんたに近づいたんだ」
「どういう意味ですか……?」
「どうやったって僕があいつに敵うわけがない。完全無欠の黒龍様だからね。それなら、弱点を作ればいい。あいつの弱点は、あんただよ。白姫様」
「私? そんなわけ、あるはずないです」

 そこでどうして自分の名前が出てくるのか、雪華にはまったくわからなかった。

「私は黒龍様にとって、ただ白姫という存在が必要だっただけで。弱点になんてなるわけ――」
「まだそんなこと言ってんの? あの人も気の毒に」
「え……?」
「あんたが思う以上にあの人は、あんたのことを気に入ってるよ。あんたの実家の一件でそれが確信に変わった。あんたがいなくなれば、あの人の心は乱れる。そうなれば一矢報いるのも不可能ではないかもしれない」

 熱に浮かされるようにうっとりとした表情を浮かべ、玲はひとり話し続ける。

「もし僕があの人に傷をつけたとして、あんたがいなければその傷を癒やすこともできない。一石二鳥でしょ?」
「まさか、あの日夏斗を連れてきたのは」

 自分自身の声が震えているのがわかる。二の腕を反対の手で強く握りしめる雪華を見て、玲は楽しそうに笑った。

「もちろん僕さ。なんなら、街で見かけたと、あんたが生きているのを家族の耳に入れたのも僕の仕業だよ。目障りなあんたを消すにはちょうどいいと思ったからね」
「そんな……なんてひどい……」
「ひどい? そう? 僕のおかげであんな家族と縁を切れたんだから感謝してほしいぐらいだよ。感謝ついでに消えてくれたらもっと嬉しいんだけどね」

 先日までの玲と違いすぎて、いったいなにが本当で嘘なのか、雪華にはわからない。でも、ひとつだけ確かなことがある。

「私はもう、黒龍様の口から聞いた言葉しか信じません」
「は?」
「あなたが黒龍様に対して、よくない感情を抱いているのはわかりました。でも、私はあの人のところに戻って、きちんと話がしたい。今なにを考えていて、これからどうしたいのか、向き合っていきたいのです」

 言い切った雪華に、玲は手に持った枝を地面に投げつけた。

「うるさい、うるさい、うるさい! どうせ戻ったって利用されるだけなんだ。あの人は、他人を傷つけるなんてなんとも感じていない、血も涙もないようなやつだ! あんただって利用価値がなくなったら捨てられるんだぞ!」
「それでもかまいません。あの方がそう言うのであれば、仕方ないです。でも、それはあなたの思う黒龍様です。私は、私の目に映るあの方の言葉を信じます」
「なっ」

 自分の言葉を真っ向から否定する雪華を見て、玲は悔しそうに顔を歪める。

「それに、もし私に利用価値がなくなれば捨てると黒龍様が考えているのであれば、そのときはそれでいいです。そう思えるぐらいには、私はたくさんのものをあの人からいただいてきましたから」

『色なし』と蔑まれ、人として扱われない中で生きてきた雪華に、あふれるほどの愛情を与えてくれた。そんな黒耀は、雪華にとって言葉では言い表せないほど大切で、大事で、かけがえのない人だから。

「お前を捨てたりするわけがないだろう」

 声が聞こえてきた方に視線を向けると、黒耀の姿があった。走ってきたのか、着物も、そして髪の毛も乱れている。

「黒耀様!」
「兄上……」

 肩で息をし額の汗を拭う黒耀の姿に、玲は驚いたように目を見開いている。

「俺にとって雪華は、何者にも代えがたい大切な存在なんだ」
「来るな!」

 一歩足を踏み出した黒耀に、玲は叫ぶように怒鳴りつける。けれど、黒耀は一歩また一歩と雪華の元へと近寄ってくる。

「誰もが黒龍としてしか俺を見ない中で、雪華だけは俺を見てくれた。俺に、黒龍としてではなくひとりの『黒耀』という男として生きる理由をくれた」
「来るなってば! こいつがどうなっても……!」

 玲は雪華の腕を掴むけれど、その手は小刻みに震えていて、近づいてくる黒耀に怯えているのがわかった。

「玲、どけ」
「はっ、力尽くでどけてみたらどうですか? それとも、僕も黒に落としますか? 兄様に、そうしたように」

 玲の挑発するような言葉に、黒耀の苛立ちが増すのがわかった。

「どけと言っているのが聞こえないのか」

 このままだと、玲が――。

「黒耀様!」

 雪華は一瞬の隙を突くと、玲の横をすり抜け黒耀の胸に飛び込んだ。その身体をしっかりと抱きしめ、黒耀は安心したように雪華の耳元で息を吐いた。

「雪華……」
「黒耀様、私……」
「不安にさせてすまなかった。もう二度と放さない」

 もう二度と放さない抱きしめる腕に力を入れながら、黒耀は言う。雪華も冷たい身体をそっと抱きしめ返すとし、顔を上げて黒耀を見上げた。

「私に白姫としての力がなかったとしても、そばに置いてくれますか?」
「当たり前だ」
「……私が、白姫ではなかったとしても、求めてくれましたか?」

 あり得るはずのない問いかけをしたところで意味がないのはわかっている。現に雪華は白姫で、そうではなかったとして、などという仮定は考えても詮な無きことだ。そう頭では理解しているのに質問をやめられなかった。

「雪華」
「は、い……。え……」

 黒耀は返事をする雪華の口に、なにかを放り込んだ。
 甘くて、優しい味のするそれは……。

「金平糖、ですか」
「それを覚えているか」
「黒耀様が買い与えてくださった……? それとも、祖母の……」
「違う、そうではない」

 雪華の言葉を否定すると、黒耀は優しい目で見つめながら口を開いた。

「お前が、俺にくれたものだ」