春の花々が咲き始めた頃、黒耀の屋敷へとやってきた雪華だったけれど、気づけば季節は茹だるような暑さの夏の終わりに差しかかっていた。このまま少しずつ暑さが和らいでいき、木々が色づく秋になる。
「雪華、こっちに来い。お前の好きなものをもらってきてやった」
庭から雪華の部屋へとやってきた黒耀は縁側に座ると、葛葉から借りた書物を読む雪華を呼ぶ。以前はまともに文字すら読めなかった雪華だったけれど、最近はゆっくりであれば書物を読むことができるようになっていた。
「どうされましたか?」
書物を置き黒耀の隣に腰掛けようとする雪華に、彼は意地悪い笑みを浮かべてみせた。
「そこではなく膝の上に座ってもよいのだぞ」
「なっ、そのようなはしたない真似はっ」
「冗談だ。お前が先日読んでいた本に、そういう箇所があったので言ってみただけだ」
「あ、あれは! 文が、今こういうのが流行っていると教えてくれて……」
男女の色恋を描いた書物は、今雪華や文ぐらいの年頃の女の子に流行っているらしく、い。書物が好きならこういうのもどうかと貸してくれたのだけれど、雪華にはどうも刺激が強くて文に返したのだ。まさかそれを黒耀が読んでいたなんて。
「そうか。雪華もああいうことをしたいのかと思ったのだが、違ったのだな」
「当たり前です!」
断言する雪華に、黒耀は「そうか」とだけ返事をした。その口ぶりがどこか不服そうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
「今はなにを読んでいるんだ?」
「はい、今は八人の選ばれし若者たちによる友情と戦いの物語を読んでおります」
「おもしろいのか?」
「はい、黒耀様も読まれますか?」
おもしろいと感じたものを黒耀と共有できれば、きっともっと楽しくて嬉しいに違いない。しかし雪華のそんな思いは、黒耀のたったひと言で打ち砕かれてしまう。
「いや、いい」
「そう、ですか」
自分の口から出た言葉が、思った以上に気落ちして聞こえて、驚いてしまう。そんな雪華の気持ちを知ってか知らずか、黒耀は優しく笑みを浮かべると、雪華の頭を子どもにするように軽く叩いた。
「そんな顔をするな」
「も、申し訳――」
「俺は読まないが、お前が読んだらどんな物語だったか、どういうところがおもしろかったか話して聞かせてくれ」
「え?」
意図がわからず、つい聞き返してしまう。すると黒耀はニヤリと笑った。
「お前がおもしろいと感じるものは俺も知りたいからな」
そう言うと黒耀は雪華の膝を枕にして縁側に寝転んだ。
「なっ、こ、黒耀様!」
「疲れた。少し休む」
「それなら、こんなところではなく布団を敷きますので」
当然のように目を閉じる黒耀を、雪華は慌てて止めようとする。けれど、黒耀は閉じた瞳を開くと、真っ赤な目で雪華を見つめた。
「こんなところ、ではなく、ここがいい」
「なっ」
「それじゃあ休む」
そう言うやいなや、黒耀は瞳を閉じて、規則正しい寝息を立て始めた。
「え、ええ……。黒耀様……」
夏の終わりで気温が高いので風邪を引く心配はないのだけれど、縁側で寝転んだところで疲れが取れるはずがない。でもけれど、きっとそんなこと黒耀だってそんなの百も承知のはずだ。それでも、ここがいいと言ってくれた。雪華の膝枕がいいと、そう勘違いしてしまってもいいのだろうか。
そよそよと涼しい風が、辺りを吹き抜ける。
こんなふうに穏やかな気持ちで季節の移り変わりを感じられるようになったのは、黒耀のそばにいられるようになってからだ。
生家にいた頃は、季節が移り変わるときになると、自分が色なしであることを、嫌でも自覚させられた。役立たずだと罵られ、なんのためにここにいるんだと馬鹿にされた。そのたびに泣きたいぐらいつらくて、悲しくて、やるせない気持ちでいっぱいだった。
でも、今は違う。このまま秋も、冬も、そして新しい年も、こうやって穏やかな気持ちで過ごせたらどれだけ幸せだろう。そしてそのとき、隣には……。
雪華は、黒耀の真っ黒な髪にそっと手を伸ばす。
真っ白でなんの色も持たない雪華と対照的に、すべてを飲み込んでしまいぐらいそうなほど強烈で、美しい黒い髪。正反対だからか、初めて目にしたときから、この黒に惹かれて仕方がなかった。
どれだけ季節が移り変わったとしても、この方と一緒にいられますように。
そう願わずにはいられなかった。
それから十数日経っても夏は終わらず、例年ならずいぶん前に秋が来ていてもおかしくないと雪華以外も不思議に感じ始めていた。
文は秋の味覚を使ったおやつが食べたいのにと頬を膨らませていたし、葛葉も木々が色づくのを楽しみにしていた。どうやら赤く染まった木の下で、酒を飲みたいらしい。
夏は弟である夏斗の、そして秋は母親である紅葉の季節だ。夏が終わらず、秋の訪れがないのであれば、ふたりのうちのどちらか、もしくはふたりともになにかあったのかもしれない。胸の奥のざわめきが日増しに大きくなっていく。
雪華を唯一家族として扱ってくれた夏斗はまだしも、母親にはあんなにひどい目に遭ったというのに、なにかあったのではと心配になるのはどうしてだろう。
雪華は小さく息を吐くと、誰もいない自分の部屋を見回す。自分ひとりしかいない部屋は妙に静かだ。いや、この部屋だけではない。ここ数日忙しいらしく、黒耀は頻繁に屋敷を不在にしていた。本当は夏斗について相談したいのだけれど、当分先になりそうだった。
「黒耀様……」
夏斗のことを相談したい、それも本心だけれど、それ以上に屋敷に黒耀がいないのは寂しい。何日も会えていないわけでもないのに、こんなにも心細くなるなんて子どもみたいで嫌になる。
気を取り直して書物でも読もう。そう思い、立ち上がろうとしたとき、庭の方でなにかが動く音がした。
今日は文も用事があるらしいし、黒耀も父上である白龍に会いに行っていた。葛葉はいるはずだけれど、であれば余計に庭から顔を出すとは思えないのは考えにくい 。
雪華の部屋は、屋敷の中でも奥まったところにある。こんなところまで入ってくるなんて、雪華に用があるとき以外では考えにくかった。
「……誰?」
音だけ聞こえ姿が見えないままの来客に、雪華は怖々と声をかけた。すると。
「あ、白姫様! こんにちは!」
「玲、様」
木々の影から、玲が笑顔で姿を現した。
「どなたが入ってきたのかと思いました」
「えへへ、驚かせてごめんね」
「大丈夫です。今日はどうされました? 今は、黒龍様はいらっしゃいませんが」
玲の前なので、雪華はあえて黒龍と呼んだ。『黒耀』という名は、雪華と黒耀、二人だけの名前だから。
ニコニコと笑いかける玲に、黒耀を訪ねてきたのであれば、また日を改めてもらわなければ。そう伝えようとするけれど、玲は雪華の言葉になぜか笑みを浮かべていた。
「あ、うん。兄様がいらっしゃらないのは知ってるよ。だから来たんだ」
「え?」
言われた意味がわからず首を傾げていると、「こっちにおいでよ」と玲は振り返った。他に誰かいるのだろうか。
「……お久しぶりです」
おずおずと玲の後ろから顔を見せたのは、もう二度と会うことはないと思って別れた夏斗だった。
「な、つと? どうしてここに」
「僕、夏を終わらせられなくて……。それで、姉様と同じところから……」
「まさか、捨てられたの?」
雪華が尋ねると、夏斗は目尻に涙を浮かべ目をギュッと閉じた。
「そんな馬鹿な」
「夏が終わらないのは、僕が駄目なせいだって。僕がいなくなれば、夏はきっと終わるって、それで……」
夏斗は不安そうに顔を俯けると、右手で自分の左手を握りしめる。その手が小刻みに震えていて、余計に雪華を心配させた。
「でも、夏が終わらないのが夏斗のせいってどうして。だって、夏を終わらせるのは秋を彩る紅葉様の役目でしょ」
「そ、それは。僕にもよくわからないけど」
「夏斗?」
雪華の目を見ようとせず、どこか落ち着かない様子の夏斗の態度が気にかかる。なにか、隠していることがあるのでは――。
はっとなり、夏斗の着物から出ている部分に目を向ける。
けれど、どこにも痛めつけられたような痕はなく胸を撫で下ろす。雪華があの家にいたときのように、暴力を振るわれたり、ひどい目に遭わされたりしたわけではないようだ。
「姉様」
夏斗は雪華の手をそっと取った。
「助けてください」
小さな手は冷たく、そして震えていた。
「姉様がいてくれれば、きっと夏が終わります」
「私……? 私にそんな力はないわ」
自分に季節を彩る力も季節を終わらせる力もないのを、雪華はよくわかっていた。それに、もしも雪華が生きているとわかれば、なにをされるかわかったものではない。
「やっぱり、私は帰れないわ。みんな私が死んだと思っているはず。なのに現れたりなんかしたら――」
「それは大丈夫です!」
「え?」
はっきりと言い切った夏斗の言葉に首を傾げると、夏斗も「あ……」と気まずそうに目を逸らした。
「大丈夫ってどういう意味? まさか」
生きていると、知られている?
けれど、夏斗は慌てて「違います!」と語気を強めた。
「そうじゃなくって、えっと、みんな姉様が贄となってから後悔していて、その、あんなひどいことするんじゃなかったって、戻ってきてほしいって後悔していたから」
たどたどしい夏斗の言葉は、とても真実を言っているようには聞こえなかった。
あの家にはもう帰りたくない。今も思い出すだけで身体が震えそうになる。
でも、目の前で不安そうな表情を浮かべ、にじむ涙を何度も拭う夏斗の姿を見ていると、胸が痛んだ。
あの家で、雪華を唯一家族だと言ってくれた夏斗。幼い弟の存在が、どれだけ雪華の心を癒やしてくれたかわからない。
今までかばってもらったり助けてもらったりしたとしても、雪華がこの小さい弟を助けてあげられたことが一度でもあっただろうか。
そうでなかったとしても、こんなふうに雪華に助けを求めて、頼ってきてくれた夏斗にはできない。
なにより、夏斗に頼ってもらえて嬉しかった。それから、本当かどうかもわからないのに『後悔している』という言葉が、どうしようもなく胸を高鳴らせた。今まで厄介者でしかなかった自分が、初めて家族の役に立てるかもしれないと、もしかしたら家族として受け入れてもらえるかもしれないと、淡い期待を抱いてしまった。
「わかったわ」
「いいん、ですか?」
自分で持ちかけたはずなのに、雪華の返答に夏斗は驚いたように目を見開いていた。
「夏斗のお願いだもの。でも、行っても本当に私にはなにもできないと思うけれど」
「そんなことないです! 姉様が戻ってくれれば大丈夫だって、そう……」
「夏斗?」
うまく言葉が聞き取れず尋ね返した雪華に、夏斗は慌てたように首を振った。
「い、いえ。なんでもないです。えっと、じゃあ一緒に戻りましょう」
「あ、でも今は」
黒耀がいない今、崖の上に戻る手段がない。それに勝手に屋敷を出てしまっては心配をかけてしまう。せめて黒耀が戻ってきてからでなくては。
雪華がそう口にしようとすると、見透かしたかのように玲が明るく言った。
「崖の上には僕が連れていってさしあげますよ!」
「え、玲様が?」
突然の提案に、つい聞き返してしまう。そんな雪華の反応が不満だったのか、玲は頬を膨らませた。
「僕だって白龍なので。ふたりを乗せるぐらいどうってことないですよ。なんなら、兄様への伝言も承りますよ」
「そこまでしてもらうのは申し訳ないです」
「いいですって。そうと決まれば行きましょう!」
ニコニコと可愛い笑みを浮かべる玲に押し切られるように、雪華は庭へと引っ張り出される。
「ま、待ってください。草履を……」
「ああ、本当ですね。それでは僕が取ってきますね。そのついでに葛葉に伝えてきます」
「あっ、玲様」
そんな雑用を黒耀の弟である玲にさせられないと断ろうとするけれど、雪華が言い終わるより早く玲は駆け出してしまう。
残されたのは雪華と、そして夏斗だけ。
「元気に、していましたか」
雪華の言葉に、夏斗はわずかに頷いた。
「よかった」
「姉様は……?」
「私も、元気でした。ここの屋敷の方たちが、皆さん親切にしてくださって」
「そう、ですか」
安心したような、それでいて少し寂しそうな表情を浮かべて夏斗は微笑む。
「なら、よかったです。本当は、家でもそんなふうに笑ってもらえるようにできたらよかったんですが」
それが叶わぬ願いだと、雪華もそして夏斗もよくわかっていた。
「でも、だからこそ」
「夏斗?」
「いえ、なんでもありません」
一瞬、夏斗の表情が強ばった気がしたけれど、すぐに見慣れた笑顔に戻る。どうかしたのかと尋ねようかと考えたけれど、ちょうどそのときとしたところで、雪華の草履を持った玲が顔を出した。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
玲に手渡された草履を沓脱石で履き終えた雪華に、夏斗は手を差し出した。
「行きましょうか」
「ええ」
気になることはありつつも、雪華は夏斗の手を取った。もう二度と戻らないと決意した、生家へと帰るために。
黒耀の屋敷の玄関の外には、通常より大きな車寄せがあった。牛車のためではなく、黒耀たちが龍の姿へと形を変えるための場所だった。
庭を抜けて玄関を出ると、玲はその場所で当たり前のように龍の姿へと変化する。白金の鱗を持つ、真っ白な龍だった。
「すごい……。本当に、白龍だ……」
それは雪華たち、彩りの一族が崇めてきた白龍に他ならなかった。
「僕も、彼のこの姿を最初見たときは言葉を失い驚きました」
黒耀が龍になった姿を見たことがある雪華でさえも、玲のこの姿には驚きを隠せないのだ。初めて間近で龍を見た夏斗であれば、なおさらだろう。
「ふたりとも、そんなところで止まってないで早く乗ってください」
玲に促され、どうにかその背に乗ると、玲はふわりと宙に浮いた。浮遊感に、胸の奥から酸っぱいものが込み上げてきそうになる。
先日、黒耀が乗せてくれたときにはならなかったのに。
「あ……」
その瞬間、ようやく雪華は、あの日の黒龍黒耀は雪華の身体にかかる負担に注意しながらゆっくりと飛んでくれていたのだと気づいた。
まさかこんなふうに、黒耀の優しさを知るなんて思ってもみなかった。
白龍となった玲に連れられて、雪華たちは崖の上に降り立った。
玲は生家の近くまで連れていってくれると言ったけれど、白龍の姿である玲に乗っていけば混乱を極めるとたやすく想像がついた。それでも雪華が飛び降り、夏斗が突き落とされたというあの崖の上に行くことはどうしても身体が受け付けなくて、結局人目につきにくい山の中まで連れていってもらった。
「この辺りで大丈夫です。ここを抜けていけば、屋敷まではすぐなので」
雪華たちが背から下りると、玲も白龍から人型へと姿を戻す。
「玲様はどうしますか?」
「僕はここに残ります。僕が行くときっと、驚かせてしまうでしょうし」
確かに、白金色の玲の髪色は、見る者が見れば彩りの一族ではなく、もっと高貴な存在だと見抜かれてしまう。もしかしたら父親や母親は玲を利用しようとするかもしれない。
さすがにそこまでは、と信じたいが、否定しきれない。夏斗も同じように考えたのか「僕もそのほうがいいかと思います」と、玲の言葉に頷いていた。
「ゆっくり家族の時間を過ごしてきてください」
「ありがとう、ございます」
玲の言うような時間が過ごせるかはわからないけれど、と思いながら、玲に見送られ歩き出す。
一歩、一歩と歩みを進めるたびに、遠くに見える生家が近くなる。不安でいっぱいの雪華の手を、夏斗の手がギュッと握りしめた。
いつだってこの小さな手に守られてばかりだ。夏斗だって、崖から放り投げられ、それでも家に戻ろうとしている。きっと胸中は怖くて怖くて仕方がないはずなのに、雪華の前では平気そうに笑って見みせる。
それに比べて、雪華は自身のみっともなさに情けなくなる。
唇を強く噛みしめると、顔を上げた。
夏斗と一緒に生家に行くと決めたのは自分自身だ。自分の言動の責任は、自分で持たなければいけない。僕のせいで、と思わせないように、雪華は夏斗に向かって笑みを浮かべてみせた。
あと少しで生家に着く、というところで見覚えのある人物が玄関前に立っていた。桜だ。
桜は夏斗と、それから雪華を見つけるとパッと顔を輝かせた。
「お姉様!」
眩しいほどの笑顔を浮かべ、雪華の元に駆け寄り、そして勢いよく飛びついた。
「きゃっ」
雪華の胸に飛び込むと、桜は目に涙を滲ませ浮かべた顔で雪華を見上げていた。
「お姉様、ご無事だったのですね」
「さ、くら……。え、ええ」
「よかった! まさか本当に飛び降りてしまうなんて思わなくて、みんなで心配していましたの」
桜がいったいなにを言っているのか雪華には理解できなかった。
本当に飛び降りる? 贄として突き落とそうとしていたのに?
動揺したまま動けずにいると、桜は雪華の疑問に答えるように話を続けた。
「贄とは、あの場で儀式を行うために必要な、形だけのつもりだったのです。贄として伝説の黒龍様に捧げたことにする。簡単に言うとお芝居ですね。それなのにお姉様が崖から飛び降りてしまわれて……」
「儀式? お芝居? え、本当に?」
では、雪華を殺す気などなく、すべては雪華の勘違いだったのだろうか。
いや、でもあのときの雰囲気はそんな生やさしいものではなかったはずだ。
けれど目の前で涙を浮かべる桜が嘘をついているようにも思えなくて、自分の中の記憶が間違っているのだろうかと不安になる。
「とにかく、早く家に入りましょう。お父様もお母様もお姉様が戻ってきたと知ったら喜ぶわ」
雪華の左腕を取り、桜は嬉しそうに歩き出す。引っ張られるようにして中に入ろうとする雪華の右手を掴む手に夏斗が力を込めた。
「夏斗?」
どうしたのかと問いかけようとするけれど、桜は「早く入りましょうよ」と雪華を急かす。だけど雪華は、どうしても夏斗の態度が気になった。
「ちょっと待って、夏斗が」
「夏斗?」
立ち止まり動こうとしない夏斗にようやく気づいた桜はあからさまなため息をついた。
「なにやってるの」
夏斗の肩が小さく震える。同時に、雪華の心臓も嫌な音を立てた。聞き慣れた桜の声色は、一瞬で意識をあの頃に戻す。
「早く入るよ」
「……桜姉様」
「なによ」
苛立ちを隠さない桜に、それでも夏斗は恐る恐る問いかけた。
「本当に、お父様たちは喜びます、よね」
すると、恐る恐る尋ねられたその言葉に桜は怖いぐらいの笑みを浮かべた。
「当たり前でしょう?」
桜の言葉通り、両親は雪華が戻ってきたことを喜んでくれた。
「ああ、雪華。よく戻ってきたね」
「雪華、おかえりなさい」
玄関の扉を開けた瞬間、中から飛び出してきた両親に抱きしめられた。両親のぬくもりに触れたのは、いつ以来なのだろう。少なくとも、雪華の記憶の中にはそんな記憶は存在しなかった。だからこそ、そのぬくもりは涙が出るほど嬉しいものだった。
「あ……ただいま、戻りました……」
「さあ、早くこちらにおいで」
優しい口調で言いながら、父親は雪華の背中を押す。そして雪華を居間へと誘連れ立った。
この家にいた頃は絶対に足を踏み入れさせてはくれなかった家族の場所。そこに入るということは、もしかしたら本当に家族だと思ってくれているのかもしれない。あの頃のように虐げられるのではなく、家族の一員として扱ってもらえるのかもしれない。
そんな淡い期待を抱いた瞬間、雪華の身体は居間ではなくその奥にある納戸に押し込められた。
「なっ」
「ここで大人しくしていろ!」
「ま、待ってください。どういうことですか?」
急に押し込められたせいで身体をぶつけてしまい、あちらこちらが痛む。けれど、そんな身体の痛みよりも、心のほうが痛かった。
「まだわからないのか、この愚図め」
「これだから色なしは」
両親は納戸の入り口の向こうから雪華を見下ろしながら、蔑むような視線を向けた。その後ろに桜の姿が見えて思わず手を伸ばす。
「桜!」
「はあ、疲れましたわ。本当に、この色なしのせいで」
けれど桜は、雪華の縋るような言葉を冷たい視線で一蹴した。
「嘘……」
「ふふ、私の演技、どうでした? とっても上手だったでしょう?」
「えん、ぎ?」
「そう。全部、演技。まさか本当に自分がみんなに歓迎されたと思ったんです? あはは、おっかしい。そんなわけあるはずないでしょ。色なしの分際で図々しい。ぜーんぶ、あんたを連れ戻すために言ったのよ。心にもないことをね」
おかしそうに桜と両親は声をあげて笑う。意地悪い笑みを浮かべて。その姿に、もう悲しみさえ湧いてこなかった。
すべては嘘だった。でも、いったいどうして。なぜそうまでして雪華を連れ戻そうとしたのか。ううん、そもそもなぜどうして雪華が生きているとわかったのだろうか。
「それじゃあ、夏斗は」
両親の後ろに、背を向ける夏斗の姿が見えた。その姿が、すべての答えを物語っているようだった。
「そっ……か。夏斗まで崖から捨てられそうになったんじゃなかったなら、よかった」
「っ……あ……」
なにか言いたそうにこちらを向いた夏斗は、すぐに顔を背けてその場から駆け出してしまう。騙されたのかもしれない。それでも、夏斗がつらい目にあっていたのでなければ、もうそれでよかった。
しばらくして、雪華の身体は縄で縛られ、蔵へと連れていかれた。
「ここに入っていろ」
埃の舞う蔵に放り込まれ、咳き込みそうになるのを必死にこらえる。せっかく黒耀が用意してくれた着物が埃と泥にまみれてしまったことが悲しくて申し訳なかった。
「今、贄の儀式のやり直しにいい日を占ってもらっている。そのときが来るまでここで待ってろ」
「やり直しって……あれは、贄ではないのです。あの伝承は間違っていて、本当は黒龍の嫁となるというもので――」
「黙れ。お前の話など誰が信じるものか。お前が死ななかったせいで、こうやって夏が終わらず秋が来ないんだ。すべてはお前が死ななかったから」
父親の耳には、雪華の言葉など届いてはいないようだった。
「お前のせいで我が家が、私が出来損ないだと思われてしまう。お前のような色なしが産まれてしまったから。やはり色なしだとわかったときに殺しておくべきだった。伝承なんて関係ない。お前さえ死ねばすべてが丸く収まったのに」
ブツブツとなにかに取り憑かれたように話し続ける父親を、母親が蔵から連れ出す。その瞬間、目が合った気がした。けれど、もうその目には雪華は映っておらず、いないものとして視線はよそを向いた。
蔵に残されたのは、雪華と桜のふたりだけ。桜は玄関の外での態度が嘘のように、意地悪く笑った。
「今度はちゃんと息の根を止めてから、突き落として差し上げますから。楽しみにしていてくださいね」
「待って、桜! 聞いて! そんなことしても意味ないの!」
「あんたの話をどうして私が聞いてあげなきゃいけないのですか? 彩りの一族の私が、出来損ないの色なしの話を。せいぜいここで色なしとして産まれた自分を恨みながら待っていなさい」
そう吐き捨て、桜は蔵の扉を閉めた。日が差し込まない蔵には、扉が閉まると闇が広がった。
このままここで殺されてしまうのだろうか。せめて待っている玲にこの状況を知らせられれば助けてもらえるかもしれないのに、その術を雪華は持っていなかった。
日が暮れても戻ってこなければ、心配して見に来てくれるだろうか。それとも黒耀に知らせてくれるだろうか。
「すべて人任せ、ね」
自嘲気味に雪華は笑った。
自分でここから逃げ出そうともせず、誰かの助けを今か今かと待っている。きっと助けに来てくれる、知らせてくれるかもしれない。そんな不確かな期待をしてしまっていた。
自分自身にそれほどの価値があると、思い上がっているのではないだろうか。
そう思い自虐しつつも、きっと黒耀なら雪華を助けに来てくれると信じずにはいられなかった。
雪華は胸元にかかる首飾りに触れた。あの日、ふたりで出かけた先で買ってもらった大切な首飾りには、真っ黒で、まるで黒耀の髪色のように綺麗な黒色をした石があった。
それをギュッと握りしめると、不安な気持ちがほんの少しだけ和らぐ気がした。
どれぐらいの刻がたったのだろう。ギギッという音を立てて、蔵の扉が開いた。扉の隙間から漏れ入ってきた光で、いつの間にか夕暮れ時となっているのを知った。
「喜べ」
そこにあったのは雪華の父親の姿だった。
「お前の死ぬ時間が決まったぞ。なんと、今日、これからだ」
父親は目の焦点が合っておらず、なにがおかしいのかわからないけれど、ただ笑い続けていた。
「これですべてが終わる。丸く片付く。お前さえ死ねば、俺たちはまた彩りの一族の本家として四季を司ることができるんだ」
唾を飛ばしながらそう言うと、父親はドスドスと音を立てながら蔵へと入り、そして隅でうずくまっていた雪華の腕を掴んだ。
「やっ」
「暴れるな!」
バシッという音のあと、頬が熱くなった。叩かれたのだとわかったのは、じんじんと痛む頬に触れてからだった。
「暴れるならもう一発、今度は拳でいくぞっ」
「やめてくださいっ」
「なら、大人しくついてこい!」
掴んだ腕を引っ張ると、雪華を文字通り引きずりながら蔵から連れ出す。
立ち上がろうにも体勢を直させてもらえず、なすがままになっている。着物の裾は破け、足には擦り傷ができていく。流れた血が、まるで蛇のように雪華の引きずられたあとを廊下に残していった。
「お父様!」
悲鳴同然の声で父親を制止しようとする夏斗の声が聞こえた。
「やめてください! どうしてこんなひどいことをするんですか!」
「どけ!」
近寄ってきた夏斗を蹴り飛ばすと、軽い身体はそのまま壁に叩きつけられた。
「ぐはっ」
「夏斗! ひどい、どうしてこんな……」
自分が痛めつけられるのはかまわない。けれど、夏斗にまでひどい目に遭わせる父親が許せなかった。
「なんだ、その目は。お前は大人しく俺の命令を聞いていればいいんだ」
雪華の頬を父親は再び平手で打ちつけた。けれど、そんな傷みなど、もうどうでもよかった。ただ目の前のこの人が許せなかった。
「くそっ。もういい。あの崖まで連れていってから殺すつもりだったが、気が変わった」
玄関の門を出たところで、父親は放り投げるようにして雪華の身体を地面に叩きつけた。全身に鈍い傷みが走る。
「うるさい口はここで塞いでやる。どうせ持っていくなら、静かなほうがいいからな」
そう言うが早いか、父親は胸元から小刀を取り出した。
「なに、心臓をひとつ期ひと突きすれば一瞬だ。苦しまずに逝かせてやるよ。優しいだろ? いくら色なしとはいえ、娘だからな」
下卑た笑みを浮かべる目の前の男が、もう父親だなんて、もう雪華には思えなかった。
「じゃあな、色なし」
父親は小刀を勢いよく振り上げ、そして雪華の胸めがけて突き刺した――はずだった。
「――っ」
耳をつんざくような雷鳴が、辺り一面に響き渡る。空は漆黒の雲が覆い、まだ夕方だというのに辺りから光を奪い去っていく。
「な、なに?」
「なにが起こっているの?」
家の中にいた母親と桜も、何事かと玄関の外へと飛び出してくる。
いったいなにが起きているのか。みんなが不安そうに空を見上げる中、雲が動いた。まるで意思を持つかのように動く雲は、やがてあるべき形へと姿を変えていく。
「龍、だ……」
「でも、白龍様じゃない。あれは」
その正体を、雪華は知っていた。
「黒耀、様……」
「その手を離せ!」
地面がわれ裂けそうなほどの怒鳴り声が響いたかと思うと、黒耀は一気に下降し、雪華の身体を掴んだ。そのまま器用に放り投げ、いつかのように黒耀の背中に乗せた。
「ああ、贄が!」
雪華を連れ去った黒耀の正体に気づいていないのか、父親が地上から怒鳴り声をあげているのが聞こえた。
「その娘を返せ! ふざけるな!」
「ふざけているのは、どっちだ」
静かに、感情を押し殺したような声。けれど、感情がこもっていないわけではなく、怒りを含んだものであることが雪華にはわかる。
その証拠に、黒耀の怒りと呼応するかのように天気が荒れていった。
響き渡る雷鳴、降り注ぐ豪雨。黒耀の、龍の怒りが辺りを包んでいく。
「黒耀様!」
「グルルルルルッ」
怒りに支配された黒耀に、雪華の声は届かない。理性を手放した黒耀は、荒れ狂う獣のごとく喉を鳴らし、叫び続ける。
ようやく雪華を連れ去ったのが黒龍だと気づいたのか、地上では父親が腰を抜かしたように空を見上げていた。けれど、そんなの雪華にはどうでもよかった。
「黒耀様! 私はもう大丈夫です! だから……!」
何度も何度も黒耀に呼びかけた。声が枯れるほど、何度も。けれど、どれほど叫び続けても、黒耀に声は届かない。それどころか、雨風は勢いを増していく。
そ雪華の様子を見て、地上からは父親たちが心ない言葉をぶつけた。
「さっさとその御方に食べられてしまえ」
「この厄介者が! お前のせいでこうなったのよ!」
「早く贄となって、その御方の怒りを静めなさいよ!」
好き勝手に言う家族の声。その声に従うために黒耀に声をかけるのではない。ただ自分のせいで黒耀にこんなことをさせてしまったのがつらく、そして悔しかった。
黒耀の背から、雪華は地上を見下ろす。そこには惨状が広がっていた。
黒耀の怒りに呼応するかのように荒れる天気のせいで、近くの家の屋根は吹き飛び、川はあふれ洪水が発生しているのが見える。これ以上、優しいこの人の手を汚させるわけにはいかない。
漆黒の鱗に頬を寄せ、その背をそっと撫で続ける。涙を流し続け苦しんでいる雪華に、いつか黒耀がしてくれたみたいに。
「黒耀様、落ち着いてください……! 黒耀様!」
「せつ、か……」
「そうです、私です。もう大丈夫ですから、どうか!」
ようやく届いた雪華の声に、少しずつ黒耀の怒りは和らいでいく。叩きつけるような豪雨は勢いを弱め、吹き荒れていた風はどうにか人が立てるほどまでに静まった。
地面に降り立った黒耀は、人型へと姿を変えたる。その様子を遠巻きから見ていた父親たちは嫌らしい笑みを浮かべた。
「雪華、よくやった」
「は?」
聞き間違えかだと思ったけれど。
「さすが、私たちの娘ね」
そんな言葉、今まで一度も投げかけられた記憶はない。
「お前のおかげで皆が助かった。お前は私たち彩りの一族の誇りだ。村の者たちも、これからさらに我々を敬うようになるだろう。なんせ白龍だけでなく、黒龍まで手懐けたのだから」
雪華の態度になど興味がないのか、それとも自分たちの言葉に雪華が喜んで当然だと思っているのか、俯いて動かない雪華に気づかず好き勝手に話を続ける。
そんな両親たちに、もうなんの感情も抱かなかった。
きっと以前なら、初めて家族だと認めてもらえたと、涙を流して喜んだに違いない。子どもの頃からずっと欲しくて仕方のなかった言葉だったから。
けれど、今の雪華にはもう必要ない。
この人たちを家族だと思うから、期待してしまっていた。いつか家族だと認めてもらえるのではないか、受け入れてもらえるのではないか、と。でも、もう。
「いらない」
雪華は隣に立つ黒耀の手を、ギュッと握りしめた。雪華よりもひと回り以上大きな手は、しっかりと握り返してくれる。
もう家族にしがみつくのは終わりにしよう。この人たちに愛されたいなんて、もうこれっぽっちも願わない。
黒耀を見上げると、雪華を慈しむような優しい笑みを浮かべているのが見えた。言葉にしなくても、どれほど黒耀が雪華を大切に想ってくれているかが伝わってくる。
「私は、私の大切な人を大事にしたいのです」
まっすぐに前を見据えると、雪華は自分の思いを口にした。過去を振り切り、未来へと進んでいくために。
「意味のわからないことを言わず、こちらに来い。お前のようなやつを家族として扱ってやると、そう言ってやるんだ。嬉しいだろう?」
「いいえ」
「雪華?」
自分を拒絶する雪華に、父親は苛立ちを隠さない。
「……どういうつもりだ」
自分を拒絶する雪華に、父親は苛立ちを隠さず声を荒らげる。けれど、もうその態度に屈しないと決めた。
「私はあなたたちを、家族だとは思いません」
これまでも、一度だって雪華を家族として扱ってくれなかった。それでも、家族になりたかった。愛してもらいたかった。
「これで、お別れですさようなら」
「ふざけるな! そんな勝手が許されるわけがないだろ!」
背を向ける雪華に、父親の怒鳴り声が投げつけられる。
「待て!」
父親は雪華に駆け寄ると、その腕を掴んだ。きつく握りしめられた腕が、ひどく痛む。
「離して!」
「お前は、なにを……!」
隣に立つ黒耀を、怒りが纏うのがわかった。
きっと黒耀なら一瞬でこの場を収められる。でも、それでは意味がない。
もう二度と、この人に誰かを傷つけさせたくない。そのためには、いつまでも助けてもらうばかりではなく、自分自身が立ち向かわなければいけないのだ。
「待ってください! 私に、話をさせてください」
まっすぐに黒耀の瞳を見つめる。黒耀は顔をしかめ、舌打ちをした。
「少しだけだ。お前を傷つけるようなことがあれば容赦はしない」
「ありがとう、ございます」
「ふん」
そっぽを向く黒耀にもう一度礼を言うと、雪華は父親と向き合った。
「離してください」
淡々と告げる雪華に、父親は馬鹿にしたように笑う。
「離してなぞやるものか。お前はこれから、その黒龍を従えて、俺たちの命令を聞き続けるんだ。これからは人も龍も、我々彩りの一族が支配するが従える!」
「なんて傲慢な!」
雪華は自分の中に、怒りが湧き上がるのを感じた。
父親は、雪華を使って黒耀を思うままにし、人だけでなく、龍をも自分の思うがままに従えようと考えているのだ。
「そんなことさせません!」
雪華はもう二度と、黒耀に先ほどのような力の使わせ方をさせたくなかった。大きな力を持つ黒龍だからこそ、誰かを傷つけるために、その力を使ってほしくなかった。
「お前の気持ちなぞ関係ない。俺がすると言ったらするんだ。なに、その黒龍はどうやらお前をずいぶん気に入っているようだ。お前を多少痛めつければ――」
その言葉は、最後まで口にすることはできなかった。
「なんだ、その目は」
雪華は父親だった男をまっすぐに睨みつける。
「もう私は、あなたを恐れて泣く子どもではありません。この手を放してください」
「くそっ、生意気な口を!」
悪態をつきながらも、父親は掴んだままだった雪華の腕から手を放す。真っ白な腕は、きつく掴まれていたせいで赤く腫れていた。
「黒龍様」
雪華はわざと、黒耀をその名で呼んだ。
「なんだ」
黒耀も雪華の意図がわかっているかのように答える。きっと黒耀も、同じことを思っているはずだ。
「この者は白龍様や黒龍様を意のままに操ろうなどという愚かなことを考えておりました。私は、白姫として、そのような者が彩りの一族を率いることに対して疑問を覚えております」
「なっ……!」
雪華の背後で、父親が、そして母親と桜が息を呑み、それから口々に雪華へと罵詈雑言を投げかける。けれど、どれももう気にはならなかった。
「俺も白姫の意見に賛成だ」
そう言った黒耀は、雪華だけに見えるように小さく笑って見せた。
「ま、待て。待ってください。やめっ……!」
「黙れ」
許しを請おうとする父親を一瞥すると、黒耀は再び黒龍へと姿を変えた。
「ぐがっ」
父親の身体は、黒耀の手に掴まれると――。
「や、やめろおおおお!」
叫び声をあげるのと同時に、父親の白銀だった髪色が漆黒へと染め上げられていった。
「あ……あああ。嘘……」
その姿を地上から見上げていた母親と桜は、あまりの衝撃にその場へ崩れ落ちた。そんなふたりへも黒耀は手を伸ばした。
「や、やだ! やめて! 雪華! やめさせて!」
「きゃああああ!」
ふたりは父親と同じく、大切にしていた色を一瞬にして黒に染め上げられた。
乱雑に三人を地上に落とすと、黒耀はよく響く声で宣言する。
「お前たちには、四季を彩る資格はない。その能力は、取り上げさせてもらう」
黒耀の言葉が聞こえているのかいないのか、両親たちはお互いの姿に悲鳴をあげ、泡を吹いて倒れた。ただひとり、桜だけは恨みを込めた瞳で雪華を睨みつけていた。
そして、もうひとり。この場に正気を失うことなく立ち尽くす人がいた。夏斗だ。
色を奪われずに残された夏斗は、空に浮かぶ黒耀を呆然と見上げていたる。
「お前の話は、雪華から聞いている」
「え……」
黒耀の言葉に、夏斗は雪華へと視線を向けた。
「この家で唯一優しくしてくれた、大切な弟だと」
「姉様がそんなことを」
「だが、家族を止められなかったお前を、今後雪華の家族とは認めない」
「……はい。僕が両親の言葉に唆されなければ、姉様は危険な目に遭わなかった。全部、僕のせいです」
夏斗は俯くと、唇を噛みしめた。その姿に駆け寄って声をかけたいと衝動的に思うけれど、雪華はその場を動かなかった。家族に別れを告げておきながら、夏斗だけは特別扱いしてほしいだなんて、都合がよすぎる。
「夏斗。お前からも夏を彩る力は取り上げる」
「はい」
「その者たちも含め、今後は彩りの一族を名乗ることを許さない」
「両親共々、命を奪われても仕方のないことをしでかしたにもかかわらず、温情に心より感謝いたします」
ひざまずき、頭を下げる夏斗。
いつまでも小さい弟だと思っていたのに、いつの間にかしっかりした少年へと成長していたことに驚き、そして同時に寂しささえも感じる。
可愛がっていた弟も、そして愛してほしかった家族も、もう雪華にはいない。
「雪華はもう返さない。汚い手を使って連れ戻そうとしてみろ。そのときはこの世界を潰す。覚えておけ」
「承知、いたしました」
「行くぞ」
頭を下げ続ける夏斗が顔を上げる前に、雪華は背を向けた。顔を見れば、後悔が残るかもしれない。情が湧いてしまうかもしれない。だから。
「さようなら」
たったひと言だけ声をかけると、雪華は黒耀の背に乗り、生まれ育った家を出た。
空高く飛び上がった黒耀の背からそっと地上を見下ろす。そこには、空を見上げる夏斗と、それから黒に落ち抜け殻のように座り込む両親、その隣に立つ桜の姿が見えた。
「さようなら、愛してくれなかった私の家族」
いつか無理やりに連れ出された家を、今度は自分の意思であとにする。もう二度と戻らないと心に誓って。
そして、雪華は戻る。黒耀とともに生きると決めた、あの崖の下の世界へと。
「雪華?」
車寄せで人型へと姿を変えた黒耀は、その場から動かない雪華に不思議そうに声をかける。
「どうかしたのか?」
黒耀に心配をかけたいわけではない。ただ、この屋敷に再び足を踏み入れる前に、雪華にはどうしても黒耀に伝えたいことがあった。
この場所で生きると決めたからには、このまま伝承のための花嫁ではいたくなかった。
形だけの花嫁でいるには、黒耀を好きになりすぎていた。
「黒耀様に、聞いてほしいお話があります」
自分をまっすぐに見つめる雪華の姿に黒耀はなにかを感じ取ったのか、静かに頷いた。
「少し、歩くか」
「はい」
屋敷のそばにある森を抜け、小さな小川へと向かう。
夕暮れ時にもかかわらず残暑と言うにはまだ暑い中、水辺の近くは涼しくて気持ちがよかった。
話がしたい、と言ったのは雪華だ。なので、雪華から話しかけなければいけないとわかってはいたけれど、どう切り出していいのかわからない。
無言のまま隣り合っているのが気まずくて、雪華は小川の近くに腰を下ろすと口を開いた。
「彩りの本家は、どうなりますか?」
雪華の言葉に、隣にいる黒耀の肩がわずかに動いたのがわかった。
「気になるか」
「……少しは」
「そうか」
どこか不機嫌そうな黒耀の言葉が気にかかる。
「あの、家族を心配しているとかそういう話ではないのです」
黒耀は無言のまま、続きを話すように促した。
「ただ彩りの本家が四季を彩れないとなれば、次の季節は、そして四季はどうなるのかと心配で」
自分には彩ることはできなかったけれど、雪華は四季の訪れを楽しみにしていた。四季折々の花々も、その季節にしか感じられない暑さや寒さも、空の高さや雲の移り変わりも、すべて気に入っていた。
だから、それがなくなってしまうかもしれないと思うと、少しだけ寂しかった。
黒耀は雪華の言葉に「安心しろ」と言う。
「彩りの名は、分家の者に継がせる」
「分家……」
「ああ。お前の父親の血筋だが、あれよりはしっかりしているし、勤勉そうな男だった。今後はそちらが本家を名乗るだろう」
一度か二度、姿を見た記憶がある。けれど、父親が親戚を招くのを嫌っていたため、顔までは思い出せない。それでも、黒耀が決めた人なら、きっと安心して任せられるはずだ。
「そうなのですね」
思わず声を弾ませた雪華に、黒耀は優しく微笑んだ。
「安心したか?」
「はい!」
「そうか。……それでは」
優しい笑みは、不敵な、それでいてどこか意地悪な笑みへと姿を変えた。
「そろそろ本題に入ってもらってもいいか?」
「あ……」
「この話がしたかったわけではないだろう?」
黒耀の問いかけに、雪華は黙ったまま頷いた。覚悟を、決めるときが来た。
「……黒耀様」
隣に座る黒耀の方を向き、まっすぐに見つめる。声が上擦りそうになるのを必死に押さえると、口を開いた。
「私、は」
心臓の音が、うるさい。喉はカラカラになり、ギュッと握りしめた拳にはうっすらと汗をかいているのがわかる。それでも、この気持ちだけはどうしても伝えたかった。
「私は、黒耀様を、い、愛おしく思っております。伝承のため、ではなく、本当の意味で、黒耀様の花嫁となりたい、です」
最後まで顔を見ていられず、言い切ると同時に顔を背けてしまった。
それでも、どうにか伝えた、雪華の想い。こんなふうに、誰かに自分の本当の気持ちを伝えたいと思う日が来るなんて想像もしていなかった。
雪華の言葉を聞いて、黒耀はどう感じただろうか。少しは嬉しく思ってくれただろうか。それとも……。
黙ったままの黒耀に、雪華の胸の中でどんどんと不安が大きくなっていく。
「黒耀、様?」
恐る恐る黒耀の方を見ると、雪華から顔を背けるようにしてそっぽを向いた。
「見るな」
「きゃっ」
大きな手で、雪華の目をそっと覆う。その隙間から見えたのは、顔を赤くする黒耀の姿だった。
「黒耀様……そのお顔は……」
「だから見るなと言っただろう」
思いがけない黒耀の反応に、雪華は口元が緩んでしまう。
「なにを笑ってるんだ」
「だ、だって、黒耀様が……」
「……ふん」
機嫌を損ねてしまったようで、黒耀は鼻を鳴らすと立ち上がった。
「帰るぞ」
「え、でも」
まだ黒耀からの返事を聞いていない。そう思うもののだけど、これ以上追及することはできない。
先ほどの態度が返事、なのだろうか。
言いようのない気持ちを抱えながら立ち上がろうとする雪華に、黒耀は手を差し出した。
「行くぞ」
「あ……はい」
その手を取り、雪華は立ち上がる。黒耀はそのまま雪華の指を絡め取ると歩き出した。
言葉はなくとも、その指先から伝わってくるぬくもりは黒耀の想いを伝えてくれているようで、屋敷に戻る雪華の頬は自然とほころんでいた。
「雪華、こっちに来い。お前の好きなものをもらってきてやった」
庭から雪華の部屋へとやってきた黒耀は縁側に座ると、葛葉から借りた書物を読む雪華を呼ぶ。以前はまともに文字すら読めなかった雪華だったけれど、最近はゆっくりであれば書物を読むことができるようになっていた。
「どうされましたか?」
書物を置き黒耀の隣に腰掛けようとする雪華に、彼は意地悪い笑みを浮かべてみせた。
「そこではなく膝の上に座ってもよいのだぞ」
「なっ、そのようなはしたない真似はっ」
「冗談だ。お前が先日読んでいた本に、そういう箇所があったので言ってみただけだ」
「あ、あれは! 文が、今こういうのが流行っていると教えてくれて……」
男女の色恋を描いた書物は、今雪華や文ぐらいの年頃の女の子に流行っているらしく、い。書物が好きならこういうのもどうかと貸してくれたのだけれど、雪華にはどうも刺激が強くて文に返したのだ。まさかそれを黒耀が読んでいたなんて。
「そうか。雪華もああいうことをしたいのかと思ったのだが、違ったのだな」
「当たり前です!」
断言する雪華に、黒耀は「そうか」とだけ返事をした。その口ぶりがどこか不服そうに聞こえたのは、気のせいだろうか。
「今はなにを読んでいるんだ?」
「はい、今は八人の選ばれし若者たちによる友情と戦いの物語を読んでおります」
「おもしろいのか?」
「はい、黒耀様も読まれますか?」
おもしろいと感じたものを黒耀と共有できれば、きっともっと楽しくて嬉しいに違いない。しかし雪華のそんな思いは、黒耀のたったひと言で打ち砕かれてしまう。
「いや、いい」
「そう、ですか」
自分の口から出た言葉が、思った以上に気落ちして聞こえて、驚いてしまう。そんな雪華の気持ちを知ってか知らずか、黒耀は優しく笑みを浮かべると、雪華の頭を子どもにするように軽く叩いた。
「そんな顔をするな」
「も、申し訳――」
「俺は読まないが、お前が読んだらどんな物語だったか、どういうところがおもしろかったか話して聞かせてくれ」
「え?」
意図がわからず、つい聞き返してしまう。すると黒耀はニヤリと笑った。
「お前がおもしろいと感じるものは俺も知りたいからな」
そう言うと黒耀は雪華の膝を枕にして縁側に寝転んだ。
「なっ、こ、黒耀様!」
「疲れた。少し休む」
「それなら、こんなところではなく布団を敷きますので」
当然のように目を閉じる黒耀を、雪華は慌てて止めようとする。けれど、黒耀は閉じた瞳を開くと、真っ赤な目で雪華を見つめた。
「こんなところ、ではなく、ここがいい」
「なっ」
「それじゃあ休む」
そう言うやいなや、黒耀は瞳を閉じて、規則正しい寝息を立て始めた。
「え、ええ……。黒耀様……」
夏の終わりで気温が高いので風邪を引く心配はないのだけれど、縁側で寝転んだところで疲れが取れるはずがない。でもけれど、きっとそんなこと黒耀だってそんなの百も承知のはずだ。それでも、ここがいいと言ってくれた。雪華の膝枕がいいと、そう勘違いしてしまってもいいのだろうか。
そよそよと涼しい風が、辺りを吹き抜ける。
こんなふうに穏やかな気持ちで季節の移り変わりを感じられるようになったのは、黒耀のそばにいられるようになってからだ。
生家にいた頃は、季節が移り変わるときになると、自分が色なしであることを、嫌でも自覚させられた。役立たずだと罵られ、なんのためにここにいるんだと馬鹿にされた。そのたびに泣きたいぐらいつらくて、悲しくて、やるせない気持ちでいっぱいだった。
でも、今は違う。このまま秋も、冬も、そして新しい年も、こうやって穏やかな気持ちで過ごせたらどれだけ幸せだろう。そしてそのとき、隣には……。
雪華は、黒耀の真っ黒な髪にそっと手を伸ばす。
真っ白でなんの色も持たない雪華と対照的に、すべてを飲み込んでしまいぐらいそうなほど強烈で、美しい黒い髪。正反対だからか、初めて目にしたときから、この黒に惹かれて仕方がなかった。
どれだけ季節が移り変わったとしても、この方と一緒にいられますように。
そう願わずにはいられなかった。
それから十数日経っても夏は終わらず、例年ならずいぶん前に秋が来ていてもおかしくないと雪華以外も不思議に感じ始めていた。
文は秋の味覚を使ったおやつが食べたいのにと頬を膨らませていたし、葛葉も木々が色づくのを楽しみにしていた。どうやら赤く染まった木の下で、酒を飲みたいらしい。
夏は弟である夏斗の、そして秋は母親である紅葉の季節だ。夏が終わらず、秋の訪れがないのであれば、ふたりのうちのどちらか、もしくはふたりともになにかあったのかもしれない。胸の奥のざわめきが日増しに大きくなっていく。
雪華を唯一家族として扱ってくれた夏斗はまだしも、母親にはあんなにひどい目に遭ったというのに、なにかあったのではと心配になるのはどうしてだろう。
雪華は小さく息を吐くと、誰もいない自分の部屋を見回す。自分ひとりしかいない部屋は妙に静かだ。いや、この部屋だけではない。ここ数日忙しいらしく、黒耀は頻繁に屋敷を不在にしていた。本当は夏斗について相談したいのだけれど、当分先になりそうだった。
「黒耀様……」
夏斗のことを相談したい、それも本心だけれど、それ以上に屋敷に黒耀がいないのは寂しい。何日も会えていないわけでもないのに、こんなにも心細くなるなんて子どもみたいで嫌になる。
気を取り直して書物でも読もう。そう思い、立ち上がろうとしたとき、庭の方でなにかが動く音がした。
今日は文も用事があるらしいし、黒耀も父上である白龍に会いに行っていた。葛葉はいるはずだけれど、であれば余計に庭から顔を出すとは思えないのは考えにくい 。
雪華の部屋は、屋敷の中でも奥まったところにある。こんなところまで入ってくるなんて、雪華に用があるとき以外では考えにくかった。
「……誰?」
音だけ聞こえ姿が見えないままの来客に、雪華は怖々と声をかけた。すると。
「あ、白姫様! こんにちは!」
「玲、様」
木々の影から、玲が笑顔で姿を現した。
「どなたが入ってきたのかと思いました」
「えへへ、驚かせてごめんね」
「大丈夫です。今日はどうされました? 今は、黒龍様はいらっしゃいませんが」
玲の前なので、雪華はあえて黒龍と呼んだ。『黒耀』という名は、雪華と黒耀、二人だけの名前だから。
ニコニコと笑いかける玲に、黒耀を訪ねてきたのであれば、また日を改めてもらわなければ。そう伝えようとするけれど、玲は雪華の言葉になぜか笑みを浮かべていた。
「あ、うん。兄様がいらっしゃらないのは知ってるよ。だから来たんだ」
「え?」
言われた意味がわからず首を傾げていると、「こっちにおいでよ」と玲は振り返った。他に誰かいるのだろうか。
「……お久しぶりです」
おずおずと玲の後ろから顔を見せたのは、もう二度と会うことはないと思って別れた夏斗だった。
「な、つと? どうしてここに」
「僕、夏を終わらせられなくて……。それで、姉様と同じところから……」
「まさか、捨てられたの?」
雪華が尋ねると、夏斗は目尻に涙を浮かべ目をギュッと閉じた。
「そんな馬鹿な」
「夏が終わらないのは、僕が駄目なせいだって。僕がいなくなれば、夏はきっと終わるって、それで……」
夏斗は不安そうに顔を俯けると、右手で自分の左手を握りしめる。その手が小刻みに震えていて、余計に雪華を心配させた。
「でも、夏が終わらないのが夏斗のせいってどうして。だって、夏を終わらせるのは秋を彩る紅葉様の役目でしょ」
「そ、それは。僕にもよくわからないけど」
「夏斗?」
雪華の目を見ようとせず、どこか落ち着かない様子の夏斗の態度が気にかかる。なにか、隠していることがあるのでは――。
はっとなり、夏斗の着物から出ている部分に目を向ける。
けれど、どこにも痛めつけられたような痕はなく胸を撫で下ろす。雪華があの家にいたときのように、暴力を振るわれたり、ひどい目に遭わされたりしたわけではないようだ。
「姉様」
夏斗は雪華の手をそっと取った。
「助けてください」
小さな手は冷たく、そして震えていた。
「姉様がいてくれれば、きっと夏が終わります」
「私……? 私にそんな力はないわ」
自分に季節を彩る力も季節を終わらせる力もないのを、雪華はよくわかっていた。それに、もしも雪華が生きているとわかれば、なにをされるかわかったものではない。
「やっぱり、私は帰れないわ。みんな私が死んだと思っているはず。なのに現れたりなんかしたら――」
「それは大丈夫です!」
「え?」
はっきりと言い切った夏斗の言葉に首を傾げると、夏斗も「あ……」と気まずそうに目を逸らした。
「大丈夫ってどういう意味? まさか」
生きていると、知られている?
けれど、夏斗は慌てて「違います!」と語気を強めた。
「そうじゃなくって、えっと、みんな姉様が贄となってから後悔していて、その、あんなひどいことするんじゃなかったって、戻ってきてほしいって後悔していたから」
たどたどしい夏斗の言葉は、とても真実を言っているようには聞こえなかった。
あの家にはもう帰りたくない。今も思い出すだけで身体が震えそうになる。
でも、目の前で不安そうな表情を浮かべ、にじむ涙を何度も拭う夏斗の姿を見ていると、胸が痛んだ。
あの家で、雪華を唯一家族だと言ってくれた夏斗。幼い弟の存在が、どれだけ雪華の心を癒やしてくれたかわからない。
今までかばってもらったり助けてもらったりしたとしても、雪華がこの小さい弟を助けてあげられたことが一度でもあっただろうか。
そうでなかったとしても、こんなふうに雪華に助けを求めて、頼ってきてくれた夏斗にはできない。
なにより、夏斗に頼ってもらえて嬉しかった。それから、本当かどうかもわからないのに『後悔している』という言葉が、どうしようもなく胸を高鳴らせた。今まで厄介者でしかなかった自分が、初めて家族の役に立てるかもしれないと、もしかしたら家族として受け入れてもらえるかもしれないと、淡い期待を抱いてしまった。
「わかったわ」
「いいん、ですか?」
自分で持ちかけたはずなのに、雪華の返答に夏斗は驚いたように目を見開いていた。
「夏斗のお願いだもの。でも、行っても本当に私にはなにもできないと思うけれど」
「そんなことないです! 姉様が戻ってくれれば大丈夫だって、そう……」
「夏斗?」
うまく言葉が聞き取れず尋ね返した雪華に、夏斗は慌てたように首を振った。
「い、いえ。なんでもないです。えっと、じゃあ一緒に戻りましょう」
「あ、でも今は」
黒耀がいない今、崖の上に戻る手段がない。それに勝手に屋敷を出てしまっては心配をかけてしまう。せめて黒耀が戻ってきてからでなくては。
雪華がそう口にしようとすると、見透かしたかのように玲が明るく言った。
「崖の上には僕が連れていってさしあげますよ!」
「え、玲様が?」
突然の提案に、つい聞き返してしまう。そんな雪華の反応が不満だったのか、玲は頬を膨らませた。
「僕だって白龍なので。ふたりを乗せるぐらいどうってことないですよ。なんなら、兄様への伝言も承りますよ」
「そこまでしてもらうのは申し訳ないです」
「いいですって。そうと決まれば行きましょう!」
ニコニコと可愛い笑みを浮かべる玲に押し切られるように、雪華は庭へと引っ張り出される。
「ま、待ってください。草履を……」
「ああ、本当ですね。それでは僕が取ってきますね。そのついでに葛葉に伝えてきます」
「あっ、玲様」
そんな雑用を黒耀の弟である玲にさせられないと断ろうとするけれど、雪華が言い終わるより早く玲は駆け出してしまう。
残されたのは雪華と、そして夏斗だけ。
「元気に、していましたか」
雪華の言葉に、夏斗はわずかに頷いた。
「よかった」
「姉様は……?」
「私も、元気でした。ここの屋敷の方たちが、皆さん親切にしてくださって」
「そう、ですか」
安心したような、それでいて少し寂しそうな表情を浮かべて夏斗は微笑む。
「なら、よかったです。本当は、家でもそんなふうに笑ってもらえるようにできたらよかったんですが」
それが叶わぬ願いだと、雪華もそして夏斗もよくわかっていた。
「でも、だからこそ」
「夏斗?」
「いえ、なんでもありません」
一瞬、夏斗の表情が強ばった気がしたけれど、すぐに見慣れた笑顔に戻る。どうかしたのかと尋ねようかと考えたけれど、ちょうどそのときとしたところで、雪華の草履を持った玲が顔を出した。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
玲に手渡された草履を沓脱石で履き終えた雪華に、夏斗は手を差し出した。
「行きましょうか」
「ええ」
気になることはありつつも、雪華は夏斗の手を取った。もう二度と戻らないと決意した、生家へと帰るために。
黒耀の屋敷の玄関の外には、通常より大きな車寄せがあった。牛車のためではなく、黒耀たちが龍の姿へと形を変えるための場所だった。
庭を抜けて玄関を出ると、玲はその場所で当たり前のように龍の姿へと変化する。白金の鱗を持つ、真っ白な龍だった。
「すごい……。本当に、白龍だ……」
それは雪華たち、彩りの一族が崇めてきた白龍に他ならなかった。
「僕も、彼のこの姿を最初見たときは言葉を失い驚きました」
黒耀が龍になった姿を見たことがある雪華でさえも、玲のこの姿には驚きを隠せないのだ。初めて間近で龍を見た夏斗であれば、なおさらだろう。
「ふたりとも、そんなところで止まってないで早く乗ってください」
玲に促され、どうにかその背に乗ると、玲はふわりと宙に浮いた。浮遊感に、胸の奥から酸っぱいものが込み上げてきそうになる。
先日、黒耀が乗せてくれたときにはならなかったのに。
「あ……」
その瞬間、ようやく雪華は、あの日の黒龍黒耀は雪華の身体にかかる負担に注意しながらゆっくりと飛んでくれていたのだと気づいた。
まさかこんなふうに、黒耀の優しさを知るなんて思ってもみなかった。
白龍となった玲に連れられて、雪華たちは崖の上に降り立った。
玲は生家の近くまで連れていってくれると言ったけれど、白龍の姿である玲に乗っていけば混乱を極めるとたやすく想像がついた。それでも雪華が飛び降り、夏斗が突き落とされたというあの崖の上に行くことはどうしても身体が受け付けなくて、結局人目につきにくい山の中まで連れていってもらった。
「この辺りで大丈夫です。ここを抜けていけば、屋敷まではすぐなので」
雪華たちが背から下りると、玲も白龍から人型へと姿を戻す。
「玲様はどうしますか?」
「僕はここに残ります。僕が行くときっと、驚かせてしまうでしょうし」
確かに、白金色の玲の髪色は、見る者が見れば彩りの一族ではなく、もっと高貴な存在だと見抜かれてしまう。もしかしたら父親や母親は玲を利用しようとするかもしれない。
さすがにそこまでは、と信じたいが、否定しきれない。夏斗も同じように考えたのか「僕もそのほうがいいかと思います」と、玲の言葉に頷いていた。
「ゆっくり家族の時間を過ごしてきてください」
「ありがとう、ございます」
玲の言うような時間が過ごせるかはわからないけれど、と思いながら、玲に見送られ歩き出す。
一歩、一歩と歩みを進めるたびに、遠くに見える生家が近くなる。不安でいっぱいの雪華の手を、夏斗の手がギュッと握りしめた。
いつだってこの小さな手に守られてばかりだ。夏斗だって、崖から放り投げられ、それでも家に戻ろうとしている。きっと胸中は怖くて怖くて仕方がないはずなのに、雪華の前では平気そうに笑って見みせる。
それに比べて、雪華は自身のみっともなさに情けなくなる。
唇を強く噛みしめると、顔を上げた。
夏斗と一緒に生家に行くと決めたのは自分自身だ。自分の言動の責任は、自分で持たなければいけない。僕のせいで、と思わせないように、雪華は夏斗に向かって笑みを浮かべてみせた。
あと少しで生家に着く、というところで見覚えのある人物が玄関前に立っていた。桜だ。
桜は夏斗と、それから雪華を見つけるとパッと顔を輝かせた。
「お姉様!」
眩しいほどの笑顔を浮かべ、雪華の元に駆け寄り、そして勢いよく飛びついた。
「きゃっ」
雪華の胸に飛び込むと、桜は目に涙を滲ませ浮かべた顔で雪華を見上げていた。
「お姉様、ご無事だったのですね」
「さ、くら……。え、ええ」
「よかった! まさか本当に飛び降りてしまうなんて思わなくて、みんなで心配していましたの」
桜がいったいなにを言っているのか雪華には理解できなかった。
本当に飛び降りる? 贄として突き落とそうとしていたのに?
動揺したまま動けずにいると、桜は雪華の疑問に答えるように話を続けた。
「贄とは、あの場で儀式を行うために必要な、形だけのつもりだったのです。贄として伝説の黒龍様に捧げたことにする。簡単に言うとお芝居ですね。それなのにお姉様が崖から飛び降りてしまわれて……」
「儀式? お芝居? え、本当に?」
では、雪華を殺す気などなく、すべては雪華の勘違いだったのだろうか。
いや、でもあのときの雰囲気はそんな生やさしいものではなかったはずだ。
けれど目の前で涙を浮かべる桜が嘘をついているようにも思えなくて、自分の中の記憶が間違っているのだろうかと不安になる。
「とにかく、早く家に入りましょう。お父様もお母様もお姉様が戻ってきたと知ったら喜ぶわ」
雪華の左腕を取り、桜は嬉しそうに歩き出す。引っ張られるようにして中に入ろうとする雪華の右手を掴む手に夏斗が力を込めた。
「夏斗?」
どうしたのかと問いかけようとするけれど、桜は「早く入りましょうよ」と雪華を急かす。だけど雪華は、どうしても夏斗の態度が気になった。
「ちょっと待って、夏斗が」
「夏斗?」
立ち止まり動こうとしない夏斗にようやく気づいた桜はあからさまなため息をついた。
「なにやってるの」
夏斗の肩が小さく震える。同時に、雪華の心臓も嫌な音を立てた。聞き慣れた桜の声色は、一瞬で意識をあの頃に戻す。
「早く入るよ」
「……桜姉様」
「なによ」
苛立ちを隠さない桜に、それでも夏斗は恐る恐る問いかけた。
「本当に、お父様たちは喜びます、よね」
すると、恐る恐る尋ねられたその言葉に桜は怖いぐらいの笑みを浮かべた。
「当たり前でしょう?」
桜の言葉通り、両親は雪華が戻ってきたことを喜んでくれた。
「ああ、雪華。よく戻ってきたね」
「雪華、おかえりなさい」
玄関の扉を開けた瞬間、中から飛び出してきた両親に抱きしめられた。両親のぬくもりに触れたのは、いつ以来なのだろう。少なくとも、雪華の記憶の中にはそんな記憶は存在しなかった。だからこそ、そのぬくもりは涙が出るほど嬉しいものだった。
「あ……ただいま、戻りました……」
「さあ、早くこちらにおいで」
優しい口調で言いながら、父親は雪華の背中を押す。そして雪華を居間へと誘連れ立った。
この家にいた頃は絶対に足を踏み入れさせてはくれなかった家族の場所。そこに入るということは、もしかしたら本当に家族だと思ってくれているのかもしれない。あの頃のように虐げられるのではなく、家族の一員として扱ってもらえるのかもしれない。
そんな淡い期待を抱いた瞬間、雪華の身体は居間ではなくその奥にある納戸に押し込められた。
「なっ」
「ここで大人しくしていろ!」
「ま、待ってください。どういうことですか?」
急に押し込められたせいで身体をぶつけてしまい、あちらこちらが痛む。けれど、そんな身体の痛みよりも、心のほうが痛かった。
「まだわからないのか、この愚図め」
「これだから色なしは」
両親は納戸の入り口の向こうから雪華を見下ろしながら、蔑むような視線を向けた。その後ろに桜の姿が見えて思わず手を伸ばす。
「桜!」
「はあ、疲れましたわ。本当に、この色なしのせいで」
けれど桜は、雪華の縋るような言葉を冷たい視線で一蹴した。
「嘘……」
「ふふ、私の演技、どうでした? とっても上手だったでしょう?」
「えん、ぎ?」
「そう。全部、演技。まさか本当に自分がみんなに歓迎されたと思ったんです? あはは、おっかしい。そんなわけあるはずないでしょ。色なしの分際で図々しい。ぜーんぶ、あんたを連れ戻すために言ったのよ。心にもないことをね」
おかしそうに桜と両親は声をあげて笑う。意地悪い笑みを浮かべて。その姿に、もう悲しみさえ湧いてこなかった。
すべては嘘だった。でも、いったいどうして。なぜそうまでして雪華を連れ戻そうとしたのか。ううん、そもそもなぜどうして雪華が生きているとわかったのだろうか。
「それじゃあ、夏斗は」
両親の後ろに、背を向ける夏斗の姿が見えた。その姿が、すべての答えを物語っているようだった。
「そっ……か。夏斗まで崖から捨てられそうになったんじゃなかったなら、よかった」
「っ……あ……」
なにか言いたそうにこちらを向いた夏斗は、すぐに顔を背けてその場から駆け出してしまう。騙されたのかもしれない。それでも、夏斗がつらい目にあっていたのでなければ、もうそれでよかった。
しばらくして、雪華の身体は縄で縛られ、蔵へと連れていかれた。
「ここに入っていろ」
埃の舞う蔵に放り込まれ、咳き込みそうになるのを必死にこらえる。せっかく黒耀が用意してくれた着物が埃と泥にまみれてしまったことが悲しくて申し訳なかった。
「今、贄の儀式のやり直しにいい日を占ってもらっている。そのときが来るまでここで待ってろ」
「やり直しって……あれは、贄ではないのです。あの伝承は間違っていて、本当は黒龍の嫁となるというもので――」
「黙れ。お前の話など誰が信じるものか。お前が死ななかったせいで、こうやって夏が終わらず秋が来ないんだ。すべてはお前が死ななかったから」
父親の耳には、雪華の言葉など届いてはいないようだった。
「お前のせいで我が家が、私が出来損ないだと思われてしまう。お前のような色なしが産まれてしまったから。やはり色なしだとわかったときに殺しておくべきだった。伝承なんて関係ない。お前さえ死ねばすべてが丸く収まったのに」
ブツブツとなにかに取り憑かれたように話し続ける父親を、母親が蔵から連れ出す。その瞬間、目が合った気がした。けれど、もうその目には雪華は映っておらず、いないものとして視線はよそを向いた。
蔵に残されたのは、雪華と桜のふたりだけ。桜は玄関の外での態度が嘘のように、意地悪く笑った。
「今度はちゃんと息の根を止めてから、突き落として差し上げますから。楽しみにしていてくださいね」
「待って、桜! 聞いて! そんなことしても意味ないの!」
「あんたの話をどうして私が聞いてあげなきゃいけないのですか? 彩りの一族の私が、出来損ないの色なしの話を。せいぜいここで色なしとして産まれた自分を恨みながら待っていなさい」
そう吐き捨て、桜は蔵の扉を閉めた。日が差し込まない蔵には、扉が閉まると闇が広がった。
このままここで殺されてしまうのだろうか。せめて待っている玲にこの状況を知らせられれば助けてもらえるかもしれないのに、その術を雪華は持っていなかった。
日が暮れても戻ってこなければ、心配して見に来てくれるだろうか。それとも黒耀に知らせてくれるだろうか。
「すべて人任せ、ね」
自嘲気味に雪華は笑った。
自分でここから逃げ出そうともせず、誰かの助けを今か今かと待っている。きっと助けに来てくれる、知らせてくれるかもしれない。そんな不確かな期待をしてしまっていた。
自分自身にそれほどの価値があると、思い上がっているのではないだろうか。
そう思い自虐しつつも、きっと黒耀なら雪華を助けに来てくれると信じずにはいられなかった。
雪華は胸元にかかる首飾りに触れた。あの日、ふたりで出かけた先で買ってもらった大切な首飾りには、真っ黒で、まるで黒耀の髪色のように綺麗な黒色をした石があった。
それをギュッと握りしめると、不安な気持ちがほんの少しだけ和らぐ気がした。
どれぐらいの刻がたったのだろう。ギギッという音を立てて、蔵の扉が開いた。扉の隙間から漏れ入ってきた光で、いつの間にか夕暮れ時となっているのを知った。
「喜べ」
そこにあったのは雪華の父親の姿だった。
「お前の死ぬ時間が決まったぞ。なんと、今日、これからだ」
父親は目の焦点が合っておらず、なにがおかしいのかわからないけれど、ただ笑い続けていた。
「これですべてが終わる。丸く片付く。お前さえ死ねば、俺たちはまた彩りの一族の本家として四季を司ることができるんだ」
唾を飛ばしながらそう言うと、父親はドスドスと音を立てながら蔵へと入り、そして隅でうずくまっていた雪華の腕を掴んだ。
「やっ」
「暴れるな!」
バシッという音のあと、頬が熱くなった。叩かれたのだとわかったのは、じんじんと痛む頬に触れてからだった。
「暴れるならもう一発、今度は拳でいくぞっ」
「やめてくださいっ」
「なら、大人しくついてこい!」
掴んだ腕を引っ張ると、雪華を文字通り引きずりながら蔵から連れ出す。
立ち上がろうにも体勢を直させてもらえず、なすがままになっている。着物の裾は破け、足には擦り傷ができていく。流れた血が、まるで蛇のように雪華の引きずられたあとを廊下に残していった。
「お父様!」
悲鳴同然の声で父親を制止しようとする夏斗の声が聞こえた。
「やめてください! どうしてこんなひどいことをするんですか!」
「どけ!」
近寄ってきた夏斗を蹴り飛ばすと、軽い身体はそのまま壁に叩きつけられた。
「ぐはっ」
「夏斗! ひどい、どうしてこんな……」
自分が痛めつけられるのはかまわない。けれど、夏斗にまでひどい目に遭わせる父親が許せなかった。
「なんだ、その目は。お前は大人しく俺の命令を聞いていればいいんだ」
雪華の頬を父親は再び平手で打ちつけた。けれど、そんな傷みなど、もうどうでもよかった。ただ目の前のこの人が許せなかった。
「くそっ。もういい。あの崖まで連れていってから殺すつもりだったが、気が変わった」
玄関の門を出たところで、父親は放り投げるようにして雪華の身体を地面に叩きつけた。全身に鈍い傷みが走る。
「うるさい口はここで塞いでやる。どうせ持っていくなら、静かなほうがいいからな」
そう言うが早いか、父親は胸元から小刀を取り出した。
「なに、心臓をひとつ期ひと突きすれば一瞬だ。苦しまずに逝かせてやるよ。優しいだろ? いくら色なしとはいえ、娘だからな」
下卑た笑みを浮かべる目の前の男が、もう父親だなんて、もう雪華には思えなかった。
「じゃあな、色なし」
父親は小刀を勢いよく振り上げ、そして雪華の胸めがけて突き刺した――はずだった。
「――っ」
耳をつんざくような雷鳴が、辺り一面に響き渡る。空は漆黒の雲が覆い、まだ夕方だというのに辺りから光を奪い去っていく。
「な、なに?」
「なにが起こっているの?」
家の中にいた母親と桜も、何事かと玄関の外へと飛び出してくる。
いったいなにが起きているのか。みんなが不安そうに空を見上げる中、雲が動いた。まるで意思を持つかのように動く雲は、やがてあるべき形へと姿を変えていく。
「龍、だ……」
「でも、白龍様じゃない。あれは」
その正体を、雪華は知っていた。
「黒耀、様……」
「その手を離せ!」
地面がわれ裂けそうなほどの怒鳴り声が響いたかと思うと、黒耀は一気に下降し、雪華の身体を掴んだ。そのまま器用に放り投げ、いつかのように黒耀の背中に乗せた。
「ああ、贄が!」
雪華を連れ去った黒耀の正体に気づいていないのか、父親が地上から怒鳴り声をあげているのが聞こえた。
「その娘を返せ! ふざけるな!」
「ふざけているのは、どっちだ」
静かに、感情を押し殺したような声。けれど、感情がこもっていないわけではなく、怒りを含んだものであることが雪華にはわかる。
その証拠に、黒耀の怒りと呼応するかのように天気が荒れていった。
響き渡る雷鳴、降り注ぐ豪雨。黒耀の、龍の怒りが辺りを包んでいく。
「黒耀様!」
「グルルルルルッ」
怒りに支配された黒耀に、雪華の声は届かない。理性を手放した黒耀は、荒れ狂う獣のごとく喉を鳴らし、叫び続ける。
ようやく雪華を連れ去ったのが黒龍だと気づいたのか、地上では父親が腰を抜かしたように空を見上げていた。けれど、そんなの雪華にはどうでもよかった。
「黒耀様! 私はもう大丈夫です! だから……!」
何度も何度も黒耀に呼びかけた。声が枯れるほど、何度も。けれど、どれほど叫び続けても、黒耀に声は届かない。それどころか、雨風は勢いを増していく。
そ雪華の様子を見て、地上からは父親たちが心ない言葉をぶつけた。
「さっさとその御方に食べられてしまえ」
「この厄介者が! お前のせいでこうなったのよ!」
「早く贄となって、その御方の怒りを静めなさいよ!」
好き勝手に言う家族の声。その声に従うために黒耀に声をかけるのではない。ただ自分のせいで黒耀にこんなことをさせてしまったのがつらく、そして悔しかった。
黒耀の背から、雪華は地上を見下ろす。そこには惨状が広がっていた。
黒耀の怒りに呼応するかのように荒れる天気のせいで、近くの家の屋根は吹き飛び、川はあふれ洪水が発生しているのが見える。これ以上、優しいこの人の手を汚させるわけにはいかない。
漆黒の鱗に頬を寄せ、その背をそっと撫で続ける。涙を流し続け苦しんでいる雪華に、いつか黒耀がしてくれたみたいに。
「黒耀様、落ち着いてください……! 黒耀様!」
「せつ、か……」
「そうです、私です。もう大丈夫ですから、どうか!」
ようやく届いた雪華の声に、少しずつ黒耀の怒りは和らいでいく。叩きつけるような豪雨は勢いを弱め、吹き荒れていた風はどうにか人が立てるほどまでに静まった。
地面に降り立った黒耀は、人型へと姿を変えたる。その様子を遠巻きから見ていた父親たちは嫌らしい笑みを浮かべた。
「雪華、よくやった」
「は?」
聞き間違えかだと思ったけれど。
「さすが、私たちの娘ね」
そんな言葉、今まで一度も投げかけられた記憶はない。
「お前のおかげで皆が助かった。お前は私たち彩りの一族の誇りだ。村の者たちも、これからさらに我々を敬うようになるだろう。なんせ白龍だけでなく、黒龍まで手懐けたのだから」
雪華の態度になど興味がないのか、それとも自分たちの言葉に雪華が喜んで当然だと思っているのか、俯いて動かない雪華に気づかず好き勝手に話を続ける。
そんな両親たちに、もうなんの感情も抱かなかった。
きっと以前なら、初めて家族だと認めてもらえたと、涙を流して喜んだに違いない。子どもの頃からずっと欲しくて仕方のなかった言葉だったから。
けれど、今の雪華にはもう必要ない。
この人たちを家族だと思うから、期待してしまっていた。いつか家族だと認めてもらえるのではないか、受け入れてもらえるのではないか、と。でも、もう。
「いらない」
雪華は隣に立つ黒耀の手を、ギュッと握りしめた。雪華よりもひと回り以上大きな手は、しっかりと握り返してくれる。
もう家族にしがみつくのは終わりにしよう。この人たちに愛されたいなんて、もうこれっぽっちも願わない。
黒耀を見上げると、雪華を慈しむような優しい笑みを浮かべているのが見えた。言葉にしなくても、どれほど黒耀が雪華を大切に想ってくれているかが伝わってくる。
「私は、私の大切な人を大事にしたいのです」
まっすぐに前を見据えると、雪華は自分の思いを口にした。過去を振り切り、未来へと進んでいくために。
「意味のわからないことを言わず、こちらに来い。お前のようなやつを家族として扱ってやると、そう言ってやるんだ。嬉しいだろう?」
「いいえ」
「雪華?」
自分を拒絶する雪華に、父親は苛立ちを隠さない。
「……どういうつもりだ」
自分を拒絶する雪華に、父親は苛立ちを隠さず声を荒らげる。けれど、もうその態度に屈しないと決めた。
「私はあなたたちを、家族だとは思いません」
これまでも、一度だって雪華を家族として扱ってくれなかった。それでも、家族になりたかった。愛してもらいたかった。
「これで、お別れですさようなら」
「ふざけるな! そんな勝手が許されるわけがないだろ!」
背を向ける雪華に、父親の怒鳴り声が投げつけられる。
「待て!」
父親は雪華に駆け寄ると、その腕を掴んだ。きつく握りしめられた腕が、ひどく痛む。
「離して!」
「お前は、なにを……!」
隣に立つ黒耀を、怒りが纏うのがわかった。
きっと黒耀なら一瞬でこの場を収められる。でも、それでは意味がない。
もう二度と、この人に誰かを傷つけさせたくない。そのためには、いつまでも助けてもらうばかりではなく、自分自身が立ち向かわなければいけないのだ。
「待ってください! 私に、話をさせてください」
まっすぐに黒耀の瞳を見つめる。黒耀は顔をしかめ、舌打ちをした。
「少しだけだ。お前を傷つけるようなことがあれば容赦はしない」
「ありがとう、ございます」
「ふん」
そっぽを向く黒耀にもう一度礼を言うと、雪華は父親と向き合った。
「離してください」
淡々と告げる雪華に、父親は馬鹿にしたように笑う。
「離してなぞやるものか。お前はこれから、その黒龍を従えて、俺たちの命令を聞き続けるんだ。これからは人も龍も、我々彩りの一族が支配するが従える!」
「なんて傲慢な!」
雪華は自分の中に、怒りが湧き上がるのを感じた。
父親は、雪華を使って黒耀を思うままにし、人だけでなく、龍をも自分の思うがままに従えようと考えているのだ。
「そんなことさせません!」
雪華はもう二度と、黒耀に先ほどのような力の使わせ方をさせたくなかった。大きな力を持つ黒龍だからこそ、誰かを傷つけるために、その力を使ってほしくなかった。
「お前の気持ちなぞ関係ない。俺がすると言ったらするんだ。なに、その黒龍はどうやらお前をずいぶん気に入っているようだ。お前を多少痛めつければ――」
その言葉は、最後まで口にすることはできなかった。
「なんだ、その目は」
雪華は父親だった男をまっすぐに睨みつける。
「もう私は、あなたを恐れて泣く子どもではありません。この手を放してください」
「くそっ、生意気な口を!」
悪態をつきながらも、父親は掴んだままだった雪華の腕から手を放す。真っ白な腕は、きつく掴まれていたせいで赤く腫れていた。
「黒龍様」
雪華はわざと、黒耀をその名で呼んだ。
「なんだ」
黒耀も雪華の意図がわかっているかのように答える。きっと黒耀も、同じことを思っているはずだ。
「この者は白龍様や黒龍様を意のままに操ろうなどという愚かなことを考えておりました。私は、白姫として、そのような者が彩りの一族を率いることに対して疑問を覚えております」
「なっ……!」
雪華の背後で、父親が、そして母親と桜が息を呑み、それから口々に雪華へと罵詈雑言を投げかける。けれど、どれももう気にはならなかった。
「俺も白姫の意見に賛成だ」
そう言った黒耀は、雪華だけに見えるように小さく笑って見せた。
「ま、待て。待ってください。やめっ……!」
「黙れ」
許しを請おうとする父親を一瞥すると、黒耀は再び黒龍へと姿を変えた。
「ぐがっ」
父親の身体は、黒耀の手に掴まれると――。
「や、やめろおおおお!」
叫び声をあげるのと同時に、父親の白銀だった髪色が漆黒へと染め上げられていった。
「あ……あああ。嘘……」
その姿を地上から見上げていた母親と桜は、あまりの衝撃にその場へ崩れ落ちた。そんなふたりへも黒耀は手を伸ばした。
「や、やだ! やめて! 雪華! やめさせて!」
「きゃああああ!」
ふたりは父親と同じく、大切にしていた色を一瞬にして黒に染め上げられた。
乱雑に三人を地上に落とすと、黒耀はよく響く声で宣言する。
「お前たちには、四季を彩る資格はない。その能力は、取り上げさせてもらう」
黒耀の言葉が聞こえているのかいないのか、両親たちはお互いの姿に悲鳴をあげ、泡を吹いて倒れた。ただひとり、桜だけは恨みを込めた瞳で雪華を睨みつけていた。
そして、もうひとり。この場に正気を失うことなく立ち尽くす人がいた。夏斗だ。
色を奪われずに残された夏斗は、空に浮かぶ黒耀を呆然と見上げていたる。
「お前の話は、雪華から聞いている」
「え……」
黒耀の言葉に、夏斗は雪華へと視線を向けた。
「この家で唯一優しくしてくれた、大切な弟だと」
「姉様がそんなことを」
「だが、家族を止められなかったお前を、今後雪華の家族とは認めない」
「……はい。僕が両親の言葉に唆されなければ、姉様は危険な目に遭わなかった。全部、僕のせいです」
夏斗は俯くと、唇を噛みしめた。その姿に駆け寄って声をかけたいと衝動的に思うけれど、雪華はその場を動かなかった。家族に別れを告げておきながら、夏斗だけは特別扱いしてほしいだなんて、都合がよすぎる。
「夏斗。お前からも夏を彩る力は取り上げる」
「はい」
「その者たちも含め、今後は彩りの一族を名乗ることを許さない」
「両親共々、命を奪われても仕方のないことをしでかしたにもかかわらず、温情に心より感謝いたします」
ひざまずき、頭を下げる夏斗。
いつまでも小さい弟だと思っていたのに、いつの間にかしっかりした少年へと成長していたことに驚き、そして同時に寂しささえも感じる。
可愛がっていた弟も、そして愛してほしかった家族も、もう雪華にはいない。
「雪華はもう返さない。汚い手を使って連れ戻そうとしてみろ。そのときはこの世界を潰す。覚えておけ」
「承知、いたしました」
「行くぞ」
頭を下げ続ける夏斗が顔を上げる前に、雪華は背を向けた。顔を見れば、後悔が残るかもしれない。情が湧いてしまうかもしれない。だから。
「さようなら」
たったひと言だけ声をかけると、雪華は黒耀の背に乗り、生まれ育った家を出た。
空高く飛び上がった黒耀の背からそっと地上を見下ろす。そこには、空を見上げる夏斗と、それから黒に落ち抜け殻のように座り込む両親、その隣に立つ桜の姿が見えた。
「さようなら、愛してくれなかった私の家族」
いつか無理やりに連れ出された家を、今度は自分の意思であとにする。もう二度と戻らないと心に誓って。
そして、雪華は戻る。黒耀とともに生きると決めた、あの崖の下の世界へと。
「雪華?」
車寄せで人型へと姿を変えた黒耀は、その場から動かない雪華に不思議そうに声をかける。
「どうかしたのか?」
黒耀に心配をかけたいわけではない。ただ、この屋敷に再び足を踏み入れる前に、雪華にはどうしても黒耀に伝えたいことがあった。
この場所で生きると決めたからには、このまま伝承のための花嫁ではいたくなかった。
形だけの花嫁でいるには、黒耀を好きになりすぎていた。
「黒耀様に、聞いてほしいお話があります」
自分をまっすぐに見つめる雪華の姿に黒耀はなにかを感じ取ったのか、静かに頷いた。
「少し、歩くか」
「はい」
屋敷のそばにある森を抜け、小さな小川へと向かう。
夕暮れ時にもかかわらず残暑と言うにはまだ暑い中、水辺の近くは涼しくて気持ちがよかった。
話がしたい、と言ったのは雪華だ。なので、雪華から話しかけなければいけないとわかってはいたけれど、どう切り出していいのかわからない。
無言のまま隣り合っているのが気まずくて、雪華は小川の近くに腰を下ろすと口を開いた。
「彩りの本家は、どうなりますか?」
雪華の言葉に、隣にいる黒耀の肩がわずかに動いたのがわかった。
「気になるか」
「……少しは」
「そうか」
どこか不機嫌そうな黒耀の言葉が気にかかる。
「あの、家族を心配しているとかそういう話ではないのです」
黒耀は無言のまま、続きを話すように促した。
「ただ彩りの本家が四季を彩れないとなれば、次の季節は、そして四季はどうなるのかと心配で」
自分には彩ることはできなかったけれど、雪華は四季の訪れを楽しみにしていた。四季折々の花々も、その季節にしか感じられない暑さや寒さも、空の高さや雲の移り変わりも、すべて気に入っていた。
だから、それがなくなってしまうかもしれないと思うと、少しだけ寂しかった。
黒耀は雪華の言葉に「安心しろ」と言う。
「彩りの名は、分家の者に継がせる」
「分家……」
「ああ。お前の父親の血筋だが、あれよりはしっかりしているし、勤勉そうな男だった。今後はそちらが本家を名乗るだろう」
一度か二度、姿を見た記憶がある。けれど、父親が親戚を招くのを嫌っていたため、顔までは思い出せない。それでも、黒耀が決めた人なら、きっと安心して任せられるはずだ。
「そうなのですね」
思わず声を弾ませた雪華に、黒耀は優しく微笑んだ。
「安心したか?」
「はい!」
「そうか。……それでは」
優しい笑みは、不敵な、それでいてどこか意地悪な笑みへと姿を変えた。
「そろそろ本題に入ってもらってもいいか?」
「あ……」
「この話がしたかったわけではないだろう?」
黒耀の問いかけに、雪華は黙ったまま頷いた。覚悟を、決めるときが来た。
「……黒耀様」
隣に座る黒耀の方を向き、まっすぐに見つめる。声が上擦りそうになるのを必死に押さえると、口を開いた。
「私、は」
心臓の音が、うるさい。喉はカラカラになり、ギュッと握りしめた拳にはうっすらと汗をかいているのがわかる。それでも、この気持ちだけはどうしても伝えたかった。
「私は、黒耀様を、い、愛おしく思っております。伝承のため、ではなく、本当の意味で、黒耀様の花嫁となりたい、です」
最後まで顔を見ていられず、言い切ると同時に顔を背けてしまった。
それでも、どうにか伝えた、雪華の想い。こんなふうに、誰かに自分の本当の気持ちを伝えたいと思う日が来るなんて想像もしていなかった。
雪華の言葉を聞いて、黒耀はどう感じただろうか。少しは嬉しく思ってくれただろうか。それとも……。
黙ったままの黒耀に、雪華の胸の中でどんどんと不安が大きくなっていく。
「黒耀、様?」
恐る恐る黒耀の方を見ると、雪華から顔を背けるようにしてそっぽを向いた。
「見るな」
「きゃっ」
大きな手で、雪華の目をそっと覆う。その隙間から見えたのは、顔を赤くする黒耀の姿だった。
「黒耀様……そのお顔は……」
「だから見るなと言っただろう」
思いがけない黒耀の反応に、雪華は口元が緩んでしまう。
「なにを笑ってるんだ」
「だ、だって、黒耀様が……」
「……ふん」
機嫌を損ねてしまったようで、黒耀は鼻を鳴らすと立ち上がった。
「帰るぞ」
「え、でも」
まだ黒耀からの返事を聞いていない。そう思うもののだけど、これ以上追及することはできない。
先ほどの態度が返事、なのだろうか。
言いようのない気持ちを抱えながら立ち上がろうとする雪華に、黒耀は手を差し出した。
「行くぞ」
「あ……はい」
その手を取り、雪華は立ち上がる。黒耀はそのまま雪華の指を絡め取ると歩き出した。
言葉はなくとも、その指先から伝わってくるぬくもりは黒耀の想いを伝えてくれているようで、屋敷に戻る雪華の頬は自然とほころんでいた。