十四歳の時のこと。従兄弟(いとこ)になる朱雀帝(すざくてい)の即位で、私は斎宮(さいぐう)に選ばれた。

 帝の世が平和でありますように、と伊勢神宮で祈願するため、斎宮もまた、代替わりをする。
 慣れ親しんだ都を離れるのは辛いけれど、お母様と一緒だから平気だった。ううん。むしろ、早く都を離れた方がいい。

 ある男のせいで、お母様はすっかり悪者扱いされているのだ。本当に悪いのは、その男のせいなのに。そう、源氏の君。あの方のせいだ。

 お母様が源氏の君の正室、葵の上を呪い殺しただなんて……! そんなこと……認めたくない!

 だから一刻も早く、伊勢神宮に行きたい。源氏の君からお母様を引き離したいのに。その肝心なお母様が渋っていた。
 やっぱり未だ、源氏の君を想っているのが、幼い私でも分かるほどに。

「お母様が苦しい想いをするのも、悲しい想いも。すべて源氏の君のせいなのに、どうしてなのかしら」

 私はお母様に一番近い女房(にょうぼう)中将(ちゅうじょう)に愚痴った。

 亡き父は、今度帝になられる朱雀帝の叔父で、母は才色兼備と言われ、貴婦人の中の貴婦人と名高い、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)
 源氏の君はその朱雀帝の弟君なのだ。

 いくら美しく、光り輝くような方と言われていても、そんな年の離れた男に現を抜かすなんて。悔しくて堪らなかった。

 気高く、未だ美しさも兼ね備えているお母様なら、もっと他にいい人を見つけられるのに……。違う。気高いからこそ、それもまたできなかったんだ。

「姫様のお気持ちは分かります。この中将もまた……いえ、失礼いたしました」
「ううん。中将だって、時には愚痴を言ってもいいのよ。他の者たちなら噂にしてしまうかもしれないけれど、私なら大丈夫。お母様の悪い噂なんて、立てるはずがないのだから」

 そういうと中将は目元を袖で拭う仕草をした。

「始めは源氏の君がいらっしゃることに、皆、はしゃいでおりました」
「宮中で一番、話題の人だからね。その後、あんなことになるんだったとしたら、歓迎なんてしなかったと思うわ」
「そうですね。お方様も、本気でお相手する気はなかったんだと思います。たった一度だけのつもりだったようですから」

 でも、恋多き源氏の君は……お母様に。いや、その魅力に取りつかれたのだと、中将は言った。

「元々、お話が合うだろうから、と源氏の君の教養のためにご紹介いただきましたので」
「惹かれ合うのは必然だった、というわけね」
「っ! 大変失礼なことを!」
「いいのよ。何故、お母様が源氏の君に惹かれたのか、気になっていたから」

 そして、生霊(いきりょう)となるほど、源氏の君の正室、葵の上を憎んでしまった……。

「人を愛するのって怖いのね、中将」
「物語では、時に美しく書かれますが、現実は……。お方様(かたさま)のように嫉妬して、いつ途絶えるかもしれない訪問に怯える方が多いのです」
「それならば、私は斎宮に選ばれて幸せなのかもしれないわね」
「姫様っ! そのようなことを……!」
「だってそうでしょう。俗世間とは離れて過ごすのだから、恋なんて、できるはずがないもの」

 それを哀れに思い、嘆く者もいるけれど。今の私にはちょうどいい。お母様にとっても。早く都から、源氏の君から離れなくては。
 そして、あの優しくて気高いお母様に、早く戻って欲しい。私はただ切に願った。

 まさか、六年後。朱雀帝の譲位(じょうい)と共に再会を果たすなんて、この時の誰も、想像していなかった。


 ***


「病と聞き、馳せ参じてしまいました。何故、お知らせくださらなかったのか」

 都で不祥事を起こし、須磨(すま)へ島流れにあったという源氏の君。その後、明石へ移られたと聞いた。

 都では朱雀帝の具合が悪いのは、源氏の君を追放したからだ、という噂が流れ……。先ごろ、朱雀帝の命で都に戻って来たのだ。

 恐らく、その朱雀帝から聞いたのだろう。お母様の具合を……。

「お母様を苦しめた源氏の君が見舞いにだなんて」

 けれど、お母様を慰められるのもまた、源氏の君なのだ。娘の私ではなく、愛する人でなければ意味がない。
 そして、お母様の葬儀も……私一人ではできないのだ。

 源氏の君は、それも分かった上で、何から何までお母様のために尽くしてくださった。
 慣れ親しんだ屋敷に、昔から仕えてくれる女房たち。皆、事情を知っているからか、源氏の君のご厚意に、素直に甘えさせてもらった。

 まさかお母様を見舞った時に、私の行く末を託していたとは知らずに。

「亡き母君から私に、あなたのことを頼むと言い残されました。これからは何でもご相談ください」

 親代わりとなるように、お母様が源氏の君に遺言をしていたらしい。それを真に受けた女房たちが、私に源氏の君へ文を書くように進めてきた。

 伊勢にいる時も、元のお屋敷に戻っても、つつましい生活を強いられる。母のように源氏の君から援助を受けられたら、と思うのも無理はなかった。

 主として、皆の気持ちに応えるべきか、それとも……。ふと、文箱が目に留まった。

 そうだ。こちらもまだ、解決していない問題があった。

 朱雀帝からの文である。けれど朱雀帝は尚侍(ないし)の君を寵愛なさっているため、お母様が断固として反対されたのだ。
 お返事に応えて、朱雀帝の妻になったとしても、先は見えている。すでに心に決めた方がいらっしゃるのに、その中に飛び込むなんて……怖い。

 けれどそのお母様も、もういない。

 斎宮ではなくなったのだから、結婚してもいいのだけれど、お母様が反対した方の元に行くのは気が引ける。とはいえ、今の私の後見人は源氏の君だ。
 私もまた、自分の行く末を考えなくては。どんな末路が待っていたとしても、その覚悟を。

 今の私には、自分で選べる生き方などないに等しいのだから。

 源氏の君もまた、内大臣であり、冷泉帝(れいぜいてい)の摂政を務めるほど、宮中では力を持っている。その方の元へ行くのか、それとも朱雀帝か。

 選択肢は二つだったのに、結果は冷泉帝の元へ。それも源氏の君の養女として入内することが決まった。
 私は二十二歳。冷泉帝は十三歳と聞く。かなり年下の男性……いや、男の子のところにだなんて、大丈夫かしら。
 すでに弘徽殿(こきでん)には権中納言(ごんちゅうなごん)家の女御さまがいらっしゃる。それも十四歳だとか。

「お守り役だと思って、気軽にお仕えするのがいいでしょう」

 確かに、朱雀帝にしろ、源氏の君にしろ、数多くの妻たちがいる中に飛び込むなんて無理だわ。
 冷泉帝とは年も離れているから、足が遠のいたり、見向きもされなかったりしても耐えられそう。

「お気遣い、感謝いたします」

 そうして私は、梅壺(うめつぼ)女御(にょうご)として、冷泉帝の元へ嫁ぐことになった。


 ***


 年の離れた冷泉帝に仕えることへの不安は、すぐになくなった。お互いに絵が好きだったからだ。

「今日は何を描こうか」
「昨夜は月がとても美しかったので、「竹取」の模写をしませんか?」
「そうだね。あまりにも光り輝いていたから、見惚れてしまったよ」

 冷泉帝は幼いけれど、源氏の君の弟君なだけあって、お美しく、可愛らしい方だった。絵を描くのも見るのもお好きだという共通点もあって、話し易い。

 だからなのか、弘徽殿よりも、この梅壺へよく来てくださるようになった。そうしてご寵愛を受け、中宮となるなんて……。

 お父様を失い、お母様は恋に溺れ。人を呪うほどの激しい恋をした。そのお母様の評判を悪くした張本人でもある源氏の君。

 どれだけお母様が苦しんだのか。悲しんだのか。恨みを言いたい程だったのに。

 今ある幸せは、源氏の君のお陰。お母様が繋いだご縁。
 かつて住んでいた六条邸を大幅に改築し、中宮の里帰りとして相応しい屋敷にしてくれた。
 私が秋を好きだということに配慮してくださったのも、そうだ。

「春と秋は、どちらがお好きですか?」
「それぞれ美しくて決められませんが……。そうですね。秋でしょうか。母を亡くしたのもその季節なので、思い入れがあります」

 いつだったか。源氏の君とそんな会話をした。それを覚えていてくれたらしい。
 お母様と住んでいた時と同じ場所で、同じ景色が眺める場所を用意してくれたのもまた。

 本当に人生とは分からない。
 同じ女性でも、紫の上のような心の広い者。明石の君のような芯の通った女性。皆それぞれあるけれど、源氏の君を通して幸せになった女性だ。

 けれど、中にはお母様のように不幸になった女性もいる。私は幸いにも、秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)と呼ばれる身分となり、今は何不自由なく暮らせている。
 幼い頃の生活が嘘のように。

 確かに私は桐壺帝(きりつぼてい)の弟を父に持っている。東宮(とうぐう)という地位を与えられたお父様。
 亡き後も、お母様と私を気遣ってくださる桐壺帝、そして朱雀帝のお陰でつつましく生活していた。

 お父様が早死にしなければ、お母様も。今の私と同じ暮らしができただろう。そう思うと余計に辛かった。

 けれど、今の私をお母様が繋いでくれたのだと思うと、嬉しくもあった。お母様が愛してくれたからこそ、私はこうして幸せでいられるのだから。