まるでせき止めていた何かがふいに消えたように、意識が濁流のごとく脳を揺らした。覚醒に至らない微睡のなか、鼻腔をくすぐる香りが空腹を刺激する。
あれ? 今って……。
瞼をすり抜けて感じる朝焼けの気配。頬をなぞる若草もどこか湿り気を感じた。
そろそろ、夜番変わらなきゃな……。
そう思い、ようやく矛盾に気が付く。
ぱっと目を開けると、周囲の明るさに少しだけ眼球の裏がきしきしと痛みを帯びる。未だはっきりしない脳が、状況を必死に読み解こうとしていた。
陽が出てる? あれ? なんで……。
冒険者が寝過ごすなんて絶対にありえない。確かに私は四時間で起きて、丑三つ時から朝まで夜番をするつもりだった。どんなに疲労が蓄積していようが、魔物の蔓延る地で熟睡なんてするはずがない。
じゃあ、どうして今が朝なのだ。
勢いよく身体を起こすと、すぐそばに腰をかけていた男が気配に気づき、振り向く。
「おはよう」
何気ない一言だった。実に白々しい。
「……ロア、私に何かしたでしょ」
「さあね」
ロアは口元に小さく笑みをつくり、湯気の立つ鍋を玉杓子でかき混ぜる。彼が私に魔法か何かを仕掛けたことは明白だ。でなければ、起きれないなんてことは考えられない。
ロアは一言で言えば奇妙な人だ。こんな何もない土地に住むとか言い出すし、なにより、珍妙な強さだった。ひょろひょろな身体で、武器も持たずに、私を圧倒した。それもまぐれの一度や二度じゃない。この人には勝てない。そう心から思わされるほどだった。
ロアに触れた瞬間、人間の四肢など簡単に吹き飛ばす蹴りも、竜の鱗も貫く剣撃も、全てがすっと吸い付くように衝撃すらなく、彼とくっついた。さらには、触れていない足まで棒のように固まって動かなくなる始末。相対したことのない魔法だった。相手に殺意があったなら、本当に手も足も出ずに首をはねられていただろう。
少し、ぞっとした。同じS級冒険者だとは思えなかった。
私が弱すぎる……? いや、そんなはずはない。他のS級冒険者との模擬戦はむしろ勝ち越し続けた。滅多に人を褒めない師匠にだって、胸を張っていいと太鼓判を押されたくらいだ。
初めてのSランク地帯で、さらに不眠でパフォーマンスが落ちていたとしても、ボロボロに負けるはずがなかった。きっと、万全の状態で戦っても結果は変わらないだろう。
彼ならば、あの人に勝つことも可能かもしれない。
改めて、ロアを見る。背は私より頭一つ分高く、人族には珍しい黒髪、そして黒目。お世辞にも褒められない筋肉量の身体。身体を纏う魔力のオーラはそこら辺の商人と同じくらいだ。とても冒険者には見えない。貴族のぼんぼんに比べれば落ち着いた顔立ちだけど、素の素材は悪くない。十分整っていると思う。むしろ社交界にうんざりしていた私には、魅力的に思える。
「ロアの魔法って、一体何なの?」
私の純粋な問いに、ロアはスープを器によそいながら「うーん……」と軽く首を傾げる。
「魔法は人に極力教えない方がいいって習っただろ?」
「いいじゃない。これから生涯一緒なんだし」
見合い話にうんざりしていた私にとっては、むしろ好都合だ。ロアは引退したと言っているが、ギルドカードは返却していないみたいだし、S級冒険者で地位も確立されている。さらに、私を圧倒する強さ。そして、自分を殺しに来る相手を女だとしても絶対に傷つけない人柄。まあ、これに関しては少々難ありではあるのだけれど。
あの時は勢いで言ったものの、冷静に見ても超優良物件だ。
「その話、まだ続いてたんだ……」
「当たり前でしょ。裸見たんだから。あー、私お嫁にいけなくなっちゃったなぁ」
「うぐっ……」
ロアは観念したのか、黙りこくって私にスープをよそった器を差し出す。じんわりと器から温かさが冷えた手に伝わる。温かい食事は、四日ぶりだろうか。
「だから、ほら教えてよ。もちろん私の魔法も教えるから!」
ロアはちょっと嫌そうに顔をしかめる。そして、軽くため息をついて口を開いた。
「昨日、ユズリアに使ったのは『固定』って魔法。指定した物体と物体を文字通り固定するんだ」
ロアが右の人差し指と中指を立て、シュッと振り下ろす。そして、広げた左手に乗せた器を鍋の上で逆さにした。器は彼の手から離れず、中身だけが鍋に落下する。手を伸ばし、器を引っ張ってみるけれど、びくともしない。
「へえ~、面白い魔法ね」
「範囲は限られるけれど、目に見えているもの同士なら自由に発動できるよ。例えば、ユズリアの靴とそれを撫でる草をくっ付けたりね」
ロアがもう一度、右手を振り下ろす。彼が私の右足を指さすから、足を上げてみる。ほんの少しだけ足が浮いて、すぐに靴の上皮で止まる。まるでびくともしない。重いとか、そんなんじゃない。魔法障壁を手で押すような、絶対に動かすことのできない、そういう感覚だ。
「他の使い方もあるけど、主な使い方はそんな感じ。もちろん、弱点もある。見えていない箇所、今だとユズリアの足自体は見えていないから、指定することはできない。だから、靴を指定するしかない。脱げば、簡単に抜けられるしね」
濁した他の使い方とやらが気になるところではあるが、どうせ聞いても教えてくれないのだろう。
靴から足を引き抜く。確かに、足自体に魔法がかかっているわけじゃなかった。
「でも、そうしたら今度は私の足を指定できるじゃない」
「もちろん」
「やっぱり、弱点なんて無いじゃない」
「も、もちろん?」
思わず息が零れる。なんて地味で、理不尽な魔法なのだろう。
「効果時間は?」
「俺が解除するまでずっと。もしくは、『解除魔法』をかけられるまでかな」
『解除魔法』は魔法による麻痺や毒といった状態異常を解くための、冒険者には必須の魔法だ。ただし、発動までに早くとも二十秒はかかる。二十秒もあれば、相手の命を奪うなど容易い話だ。
「はぁ……ロアが化け物だってことは分かったわ」
「そうでもないよ。視認できない速さで心臓が貫かれれば終わりだし、何より、視界が奪われたら『固定』は発動できない」
「……確かに」
「まあ、もちろんそれなりに対処法はあるから、あまり問題は無いんだけどね」
「もしかして、まだ何か隠してる……?」
ロアがゆっくり目をそらす。これは、まだ手の内を隠しているな。当たり前にそう感じた。
「ユ、ユズリアの魔法は何なんだ?」
若干、上擦った声のロアにわざとらしく眉をひそめておいた。隠している手札も、そのうち見る機会はあるだろう。
「私は『雷撃魔法』と『身体強化魔法』の組み合わせね」
「なるほど、『身体強化魔法』か。どうりで、あの速さに身体が付いて行ってるわけだ」
スプーンが器の底を叩く。気が付けば、よそってもらったスープは全て胃に収まってしまっていった。
ロアは小さく微笑み、手を差し出す。ちょっと恥ずかしかったけれど、器を渡した。ロアがスープをよそう。
「誰かさんに動きを止められちゃ、何の意味も無いけどね。こんなことなら、閃光でも放ってロアの目を潰しておくんだった」
「ははっ、そしたら僕はユズリアに貫かれるしかなかったね」
「それなりに対処法があるんでしょ?」
「あるけれど、僕がそれを人間に使うことはないよ」
ロアが視線を落とす。前髪がその悲し気な瞳を暗く隠した。
「自分の命がかかってても?」
「そうだね」
「じゃあ、私の命がかかっていたら?」
「……流石に使っちゃうかな」
そう言いながら、ロアは頬を掻く。
頬が赤くなるのが自分でも分かった。まさか、そう返って来るとは。
「もういいだろ? さっ、飯食い終わったら、家でもつくろう」
気まずそうに話を切り上げて背を向ける彼から、しばらく目が離せなかった。
あれ? 今って……。
瞼をすり抜けて感じる朝焼けの気配。頬をなぞる若草もどこか湿り気を感じた。
そろそろ、夜番変わらなきゃな……。
そう思い、ようやく矛盾に気が付く。
ぱっと目を開けると、周囲の明るさに少しだけ眼球の裏がきしきしと痛みを帯びる。未だはっきりしない脳が、状況を必死に読み解こうとしていた。
陽が出てる? あれ? なんで……。
冒険者が寝過ごすなんて絶対にありえない。確かに私は四時間で起きて、丑三つ時から朝まで夜番をするつもりだった。どんなに疲労が蓄積していようが、魔物の蔓延る地で熟睡なんてするはずがない。
じゃあ、どうして今が朝なのだ。
勢いよく身体を起こすと、すぐそばに腰をかけていた男が気配に気づき、振り向く。
「おはよう」
何気ない一言だった。実に白々しい。
「……ロア、私に何かしたでしょ」
「さあね」
ロアは口元に小さく笑みをつくり、湯気の立つ鍋を玉杓子でかき混ぜる。彼が私に魔法か何かを仕掛けたことは明白だ。でなければ、起きれないなんてことは考えられない。
ロアは一言で言えば奇妙な人だ。こんな何もない土地に住むとか言い出すし、なにより、珍妙な強さだった。ひょろひょろな身体で、武器も持たずに、私を圧倒した。それもまぐれの一度や二度じゃない。この人には勝てない。そう心から思わされるほどだった。
ロアに触れた瞬間、人間の四肢など簡単に吹き飛ばす蹴りも、竜の鱗も貫く剣撃も、全てがすっと吸い付くように衝撃すらなく、彼とくっついた。さらには、触れていない足まで棒のように固まって動かなくなる始末。相対したことのない魔法だった。相手に殺意があったなら、本当に手も足も出ずに首をはねられていただろう。
少し、ぞっとした。同じS級冒険者だとは思えなかった。
私が弱すぎる……? いや、そんなはずはない。他のS級冒険者との模擬戦はむしろ勝ち越し続けた。滅多に人を褒めない師匠にだって、胸を張っていいと太鼓判を押されたくらいだ。
初めてのSランク地帯で、さらに不眠でパフォーマンスが落ちていたとしても、ボロボロに負けるはずがなかった。きっと、万全の状態で戦っても結果は変わらないだろう。
彼ならば、あの人に勝つことも可能かもしれない。
改めて、ロアを見る。背は私より頭一つ分高く、人族には珍しい黒髪、そして黒目。お世辞にも褒められない筋肉量の身体。身体を纏う魔力のオーラはそこら辺の商人と同じくらいだ。とても冒険者には見えない。貴族のぼんぼんに比べれば落ち着いた顔立ちだけど、素の素材は悪くない。十分整っていると思う。むしろ社交界にうんざりしていた私には、魅力的に思える。
「ロアの魔法って、一体何なの?」
私の純粋な問いに、ロアはスープを器によそいながら「うーん……」と軽く首を傾げる。
「魔法は人に極力教えない方がいいって習っただろ?」
「いいじゃない。これから生涯一緒なんだし」
見合い話にうんざりしていた私にとっては、むしろ好都合だ。ロアは引退したと言っているが、ギルドカードは返却していないみたいだし、S級冒険者で地位も確立されている。さらに、私を圧倒する強さ。そして、自分を殺しに来る相手を女だとしても絶対に傷つけない人柄。まあ、これに関しては少々難ありではあるのだけれど。
あの時は勢いで言ったものの、冷静に見ても超優良物件だ。
「その話、まだ続いてたんだ……」
「当たり前でしょ。裸見たんだから。あー、私お嫁にいけなくなっちゃったなぁ」
「うぐっ……」
ロアは観念したのか、黙りこくって私にスープをよそった器を差し出す。じんわりと器から温かさが冷えた手に伝わる。温かい食事は、四日ぶりだろうか。
「だから、ほら教えてよ。もちろん私の魔法も教えるから!」
ロアはちょっと嫌そうに顔をしかめる。そして、軽くため息をついて口を開いた。
「昨日、ユズリアに使ったのは『固定』って魔法。指定した物体と物体を文字通り固定するんだ」
ロアが右の人差し指と中指を立て、シュッと振り下ろす。そして、広げた左手に乗せた器を鍋の上で逆さにした。器は彼の手から離れず、中身だけが鍋に落下する。手を伸ばし、器を引っ張ってみるけれど、びくともしない。
「へえ~、面白い魔法ね」
「範囲は限られるけれど、目に見えているもの同士なら自由に発動できるよ。例えば、ユズリアの靴とそれを撫でる草をくっ付けたりね」
ロアがもう一度、右手を振り下ろす。彼が私の右足を指さすから、足を上げてみる。ほんの少しだけ足が浮いて、すぐに靴の上皮で止まる。まるでびくともしない。重いとか、そんなんじゃない。魔法障壁を手で押すような、絶対に動かすことのできない、そういう感覚だ。
「他の使い方もあるけど、主な使い方はそんな感じ。もちろん、弱点もある。見えていない箇所、今だとユズリアの足自体は見えていないから、指定することはできない。だから、靴を指定するしかない。脱げば、簡単に抜けられるしね」
濁した他の使い方とやらが気になるところではあるが、どうせ聞いても教えてくれないのだろう。
靴から足を引き抜く。確かに、足自体に魔法がかかっているわけじゃなかった。
「でも、そうしたら今度は私の足を指定できるじゃない」
「もちろん」
「やっぱり、弱点なんて無いじゃない」
「も、もちろん?」
思わず息が零れる。なんて地味で、理不尽な魔法なのだろう。
「効果時間は?」
「俺が解除するまでずっと。もしくは、『解除魔法』をかけられるまでかな」
『解除魔法』は魔法による麻痺や毒といった状態異常を解くための、冒険者には必須の魔法だ。ただし、発動までに早くとも二十秒はかかる。二十秒もあれば、相手の命を奪うなど容易い話だ。
「はぁ……ロアが化け物だってことは分かったわ」
「そうでもないよ。視認できない速さで心臓が貫かれれば終わりだし、何より、視界が奪われたら『固定』は発動できない」
「……確かに」
「まあ、もちろんそれなりに対処法はあるから、あまり問題は無いんだけどね」
「もしかして、まだ何か隠してる……?」
ロアがゆっくり目をそらす。これは、まだ手の内を隠しているな。当たり前にそう感じた。
「ユ、ユズリアの魔法は何なんだ?」
若干、上擦った声のロアにわざとらしく眉をひそめておいた。隠している手札も、そのうち見る機会はあるだろう。
「私は『雷撃魔法』と『身体強化魔法』の組み合わせね」
「なるほど、『身体強化魔法』か。どうりで、あの速さに身体が付いて行ってるわけだ」
スプーンが器の底を叩く。気が付けば、よそってもらったスープは全て胃に収まってしまっていった。
ロアは小さく微笑み、手を差し出す。ちょっと恥ずかしかったけれど、器を渡した。ロアがスープをよそう。
「誰かさんに動きを止められちゃ、何の意味も無いけどね。こんなことなら、閃光でも放ってロアの目を潰しておくんだった」
「ははっ、そしたら僕はユズリアに貫かれるしかなかったね」
「それなりに対処法があるんでしょ?」
「あるけれど、僕がそれを人間に使うことはないよ」
ロアが視線を落とす。前髪がその悲し気な瞳を暗く隠した。
「自分の命がかかってても?」
「そうだね」
「じゃあ、私の命がかかっていたら?」
「……流石に使っちゃうかな」
そう言いながら、ロアは頬を掻く。
頬が赤くなるのが自分でも分かった。まさか、そう返って来るとは。
「もういいだろ? さっ、飯食い終わったら、家でもつくろう」
気まずそうに話を切り上げて背を向ける彼から、しばらく目が離せなかった。