左手から伸びる痛みにどうしても意識を割かれる。脂汗の滲む最中、冷徹なまでの赤い瞳に血の気が引く。
 耐性付きのローブをいとも簡単に破り、その冷たさがまだ触れぬ肌へと一足先に刺激を与えた。最後だと言わんばかりに心臓が強く鼓動を打つ。

 どうにか打開策を模索する脳が、あきらめの合図のように真っ白になった。
 その時、ひときわ強く冷気を吹き飛ばす薫風が吹いた。背後から視界に入って来る小さな風の塊。
 ガキィインッ! という鋭い音と共に魔族の右手が砕けた。正確には今にも俺の心臓を貫かんとする氷の鉤爪が弾けた。
 ひしゃげた短刀が淡い光を放ち、薄っぺらい紙札へと戻る。

「ふぅ……間一髪でありまするな」

「――コノハ!」

 リュグ爺たちと共にもう片方の魔族を追っていたはずのコノハが、そこにいた。
 肉薄した魔族が呻きをあげる。背中にユズリアの一太刀が入っていた。間髪入れずにサナが魔族を蹴り飛ばす。

「皆殿、無事でありまするか!?」

「お兄、左手」

 サナが心配そうに指さす。

「大丈夫だ。凍ってるから止血も必要ない」

 せいぜい凍傷になっているくらいだ。セイラさえ無事ならば、一瞬で治してもらえる。
 魔族はまたしても繭に籠った。再び姿を見せると、背中の傷も、サナの蹴りで折れ曲がった腕も元通りだった。

「あの繭状態を何とかしないと、どうしようもないな」

「このままじゃジリ貧ね……」

 コノハの加勢で先ほどよりは楽になった。おそらく、魔族も魔力が無尽蔵ということはないだろう。泉で魔力を回復しながら持久戦に持ち込むか、リュグ爺たちが戻ってくるのを待つか……。
 そんな浅はかな考えが魔族に通用するはずが無かった。

「結局、愚弟が正解だったということか……」

 魔族の足元を氷の雫が垂れ、巨大な柱となって聳え立つ。その頂上で聖域全体を見下ろす魔族。

「一体、何をするつもりだ……?」

 魔族の身体から黒いもやがじわっと溢れ出す。際限なく広がるもやが空を覆い隠さんと広がる。やがて、聖域を包み込むように空一面を覆って影を落とした。

「やれやれ、とんだ手間だったな」

 魔族はもう俺たちに目を向けることすらなかった。

「ね、ねえ、もしかして……」

 ユズリアが息を呑む。

「落ちてきているでありまする……!」

 巨大という表現すら生ぬるい。黒色の空がゆっくりと落ちてきた。

「魔族ってのはどいつもこいつも……っ! それは反則だろ……!」

 誰がこんなこと予想できるというのだ。魔法が一切効かない()()が徐々に迫りくる。
 コノハとサナが同時に魔法を放った。巨大な火球と隕石がもやにぶつかり、音もなく塵となって消滅する。その粒子を払うようにユズリアの一閃が駆けた。激しい音と火花が空を散る。

「――っ、重い……ッ!」

 ユズリアの『身体強化魔法』を以ってしてもびくともしない。もやには確かな質量がある。このままでは聖域諸共潰されてペシャンコだ。
 全員の足が止まる。どれだけ考えても、避けようがない。もう、すぐ目の前まで迫っていた。
 なにか……なんでもいい。この状況を打破する手は無いのか。もやは言ってしまえば魔族の一部。その魔族に本当に弱点が存在しないのか? 

「ロ、ロア……!」
「お兄……」
「ロア殿!」

 三人の呼び声が遠くに聞こえる。
 考えろ……! 思いだせ……!
 脳裏を今までの戦闘が高速で流れる。魔族は真っ向からこちらの魔法を打ち消し続けた。たとえ、不利な状況でも、もやが間に合わなくても、動かなかった。
 頭の中で、そんなプライドの高い魔族が唯一避けるような行動を取った。一回だけ、見逃してしまいそうなほど些細なその振る舞い。
 冒険者人生で培った直感が叫んでいる。これが魔族の弱点だと。

 視界一杯が黒く染まる最中、俺はポーチからあるものを取り出し、ナイフの柄でそれを叩き割った。
 ぼんやりと淡い光を放つ小石に亀裂が走る。次の瞬間、閃光が瞬いた。思わず閉じた視界すらも真っ白に染まるほど強烈な光だった。
 身体がぼんやりと熱を帯び、魔力が回復していくのが分かる。

「こ、これは……」

 ユズリアが思いだしたように呟く。
 鼻先まで迫っていた黒いもやが、光に包まれて消滅していく。一瞬にしてもやが晴れ、聖域外の黒い木々までもが瑞々しい色を取り戻す。

「ぐぅ……ッ! この光、まさか……!?」

 魔族が苦しそうに顔を歪める。
 たっぷり()()を染み込ませた魔石だ。魔族にとってはさぞ辛いだろう。

「ロア殿、何をしたでありまするか!?」

 なぜ、魔族がこの場所だけは消しておきたかったのか。
 なぜ、聖域の泉を知っていて、〝神の落とし物〟などと呼んだのか。

「本当、とんでもない効果だな……。魔族の弱点、それは聖域の泉だ!」