身を切るような寒さに肺が悲鳴を上げた。
 氷の結晶が霰のように宙を漂う。
 小さな氷の粒が地面から舞い上がり、巨大な氷の柱となって聖域に(そび)え立つ。そのてっぺんで、雌型の魔族は俺たちを見下ろしていた。
 魔族が手振りをすると、周りに浮かんでいた氷の結晶が鋭さを増して打ち出される。視界を埋め尽くす氷柱。その全てをユズリアが閃光の如き速さで破壊。白銀の微粒がぱらぱらと光を乱反射して散る。

「サナちゃん!」

「分かってる」

 サナの指輪が輝く。銀テープを吹き飛ばし、星の軌跡が瞬く。色とりどりの星が魔族へ容赦なく降り注いだ。轟音を響かせ、土煙が視界を遮る。その奥に黒い塊が見えた。
 繭状態の魔族がもやを解く。血のように赤い瞳が真っ直ぐにサナを見据えていた。

「貴様が一番厄介だな」

 周囲の結晶が魔族の上空へと収束していく。やがて、聳える氷柱と同等の巨大な塊が白い冷気を振り撒いて鎮座する。
 こんな状況でなければ幻想的だったのに、今は警鐘が激しく胸中を揺らす。

「あっ……!」

 誰しもが上空に目を奪われた一瞬の隙だった。サナの身体が突然、操られたように宙に浮く。見れば、その足に(しな)った氷の鞭が巻き付き、白磁の肌に張り付くように根を張っていた。
 氷塊が重低音を鳴らしてサナを押し潰さんと迫る。同時に風の魔弾がまさに地を蹴ろうとしていたユズリア目掛けて射出された。

「――サナ!」

 俺の声に合わせてサナが二本指を切る。その先端が氷塊に触れた瞬間、ピタッとくっつく。完全に勢いを失った氷塊に、流石の魔族も微かに眉を寄せた。
 天に稲妻が昇る。遥か上空の雲をユズリアが切り裂く。そのまま『身体強化魔法』を纏った足で氷塊に向けて思いっきり蹴りを放つ。瞬間、俺は『固定』を解いた。

 まさに雷撃のような弾丸が魔族を襲う。

「そんなもので止められると思うなよ」

 魔族が拳を振り抜く。まさか、氷山のような質量の塊を純粋な力で破壊しようと言うのだろうか。
 普通ならば考えられない。しかし、目の前にいるのは災厄の化物だ。
 魔族の打ち出した拳と氷塊が触れた瞬間、俺は『固定』を発動する。音もなく衝撃が消え失せる。そして、そのまま俺は『固定』を解除した。
 ズンっという空気の振動が音を立て、氷塊が再びその重さを取り戻して落下し始める。勢いを失った魔族の腕がひしゃげたのが見え、一瞬で氷塊が魔族を呑み込んだ。聳え立った氷の塔が激しい音を立てて崩れ、氷塊は地ならしを起こして地面を深く抉った。周囲に亀裂が走り、一瞬にして氷が膜を張る。

 土埃と白い冷気が吹き荒れ、聖域を一層白く冷やす。

「どうだ……?」

 ユズリアとサナは言葉を発さずにじっと息を潜めた。
 地鳴りが遠ざかっていく。一変して静寂に包まれた最中、小さくピシッという音が聞こえた。割れるような音は次第に大きくなって、同時に氷塊に筋が伝う。
 音を立てて瓦解する氷塊。風の刃が氷を菓子のように綺麗な断面を残して切り刻んだ。そのまま弧を描いて降りかかる。

 『固定』……は出来ない。サナの『解除』が間に合っていない。
 身体を無理やり捻る。筋繊維が悲鳴を上げるが、身体が真っ二つになるよりはマシだ。風の刃は首の皮を薄く裂いて後方の泉に着弾。飛沫を聖域中に撒き散らす。
 雨のように降り注ぐ雫が肌に触れると、じわっと魔力が回復する気配がした。

「チッ……忌々しい神の落とし物め」

 無傷の魔族が大きく飛び退いて飛沫を避ける。

「もうっ! キリが無いじゃない!」

 ユズリアの顔に疲弊が見える。サナも表情こそ変わらないものの、微かに肩で息をしていた。先ほどから綱渡りの連続だ。一瞬でも気を抜けば、その瞬間にこの世からおさらば。そして、一人でも欠ければこの均衡は崩れる。早く、何とか打開しなければならない。
 『消滅』ならきっと楽に倒せる。しかし、あの魔法は強烈な感情がトリガーになって発動するものだ。今の俺には、それだけの感情のストックはなかった。

「愚弟に死なれても面倒だ。そろそろ、終わりにするか」

 魔族がふわっと高く舞う。そして、再び氷の矢を降らす。

「ユズリア、あれは私じゃ捌けない」

「大丈夫! サナちゃんは本体をお願い!」

 攻撃手段を持たない俺は後方から見ていることしかできない。なんて歯痒いんだ。初めて、自分が『固定』しか持たないことを呪った。
 サナが星の軌跡を残して飛び込む。その活路をユズリアが電光石火の勢いで切り開く。無数の氷礫を細剣で砕き、魔族までの道をつくった。
 光球を纏ったサナの蹴りが魔族に突き刺さる。その瞬間、サナの表情が歪んだ。魔族の身体に亀裂が入り、色味が、瞳の煌めきが失われていく。氷となって砕け散る魔族。

「やられた……!」

 偽物か……! 魔族は何処に……。狙いは――
 刹那、目の前に現れる魔族。その氷の鉤爪がギラリと輝く。

「――ッ!」

 飛び退こうとして、足がギシっという音を立てて止まる。まるで『固定』がかかっているみたいだ。見ると、足が氷漬けになっていた。
 眼前に迫る殺意に左手を反射的に出す。電流が腕を伝って脳天まで突き抜ける。鋭い切先が肌を貫く感覚。一拍遅れて燃えるような激痛が襲いかかり、思わず顔を歪めた。滲む血が泡立って凍結していく。氷が左手を包み込み、さらに逃れられなくなる。
 間髪入れずに振り抜かれる魔族の右腕。その鋭利な爪はまっすぐに心臓を向いている。
 二人の呼ぶ声が早鐘の裏で微かに聞こえた。
 目の前の魔族は恍惚とした表情で妖艶に舌を舐めずる。

 ローブを殺意が引き裂いた。