ドドリーが等間隔で残した痕跡を辿りながら魔素の森の奥へ。
 やれやれ、歳は取りたくないものだ。全盛期の動きが全くと言っていいほど再現できていない。これでは過去の栄光に縋る卑しい老人だな。
 それにしても、深く潜るほどに魔素が強くなっていく。魔族にとってはさぞ良い環境のだろう。

「二人とも、特に狐っ子や。無理だけはするでないぞ? お主はこれからの世代の者じゃ」

 一応で声をかけてみたが、二人は何食わぬ顔でついてきている。コノハはむしろ儂に合わせてそうだ。彼女の魔法なら、もっと速く移動できるだろうに。

「某とて、S級冒険者でありまする。これくらい、何てことはありませぬ」

「あらあら、頼もしいですね。リュグ爺様こそ、無茶はなさらないでくださいね。もうお歳ですもの」

 軽口が叩けるくらいには余裕そうか。しかし、この四人だけであの雌型の魔族を相手に出来るだろうか。儂のほぼ最高速を軽々受け止められた。ほとんど刃が届く気がしなんだ。
 おそらく、五十年前の面子でも倒すことは叶わないだろう。しかし、ここで見失えば、さらに被害が増すのも事実。あの魔族の言葉が正しいのならば、すでに一国が落ちている。ここで仕留め切るほかない。
 昔の面々が懐かしく思い浮かぶ。もう、この世にいないものの方が多い。だからこそ、力を託したものには働いてもらわないといかん。

「神官の娘や、セリナリーゼ以上の働きをしてもらわないとならんぞ?」

「先生以上ですか……いささか自信がありませんわね」

「それでもやってもらわな、儂らは全員魔族の餌になるぞ?」

「やれやれ、ロア殿ではありませぬが、本当に災難が多いでありまするな」

 それにしても聖域を出てから、かれこれ一刻。木々の色が深い赤みを帯びていく。魔素の質が著しく変わっている証拠だろう。
 一体、どこまで逃げるつもりだろうか。雌型の魔族からすれば、戦った方が手っ取り早そうなものだが。
 戦力を分散させる策なのは見て取れる。しかし、逃げ続ける理由は何故だ? そもそも、逃げるのならば雌型ではない方だろうに。
 嫌な予感がする。そして、自分の勘が外れることはまあない。何か、間違えているのではないか……? 
 魔族は傲慢で、そして何よりも狡猾だ。五十年前もその色肌と角や羽を隠し、人間の国へ侵入。中枢から派手に破壊されたものだ。
 そこまで考え、ようやく魔族の企みが分かった。全く、本当にボケ始めたのだろうか。こんな簡単な手に引っかかるなんて。

 足を止める。どれくらい聖域から遠かっただろうか。今から行って、間に合うのか……? いや、一時間かけて戻っては確実に間に合わない。

「どうしたのですか、リュグ爺様?」

「……狐っ子や。今すぐ全力で引き返せ」

 コノハが首を傾げる。セイラは何か悟ったのだろう。眉間にそっと皺を寄せた。

「なぜでありまするか? お三方だけでは、あの雌型の魔族は危険でありまする」

「だからじゃ。儂らは騙されておる」

「もしや、今私たちが追っているのは……」

「そうじゃ。おそらくはあの二体、姿を互いに偽装しておる。儂らが追っているのは、幼体の方じゃ」

 そうなれば、逃げ続けるのも合点がいく。気づけば簡単なことだ。

「それでは聖域にいるのは……」

「うむ、おそらく雌型の魔族。このままでは聖域が壊滅してしまう。今から戻ったんじゃ間に合わん。じゃから、狐っ子や、全力でお主だけでも加勢に参れ! 儂らも幼体を倒したらすぐに向かう!」

「承知したでありまする! そちらの心配は……しなくても大丈夫でありましょう」

 コノハの札がぼうっと光る。足元に風を纏い、地を蹴った。次の瞬間には追い風を残して姿が見えなくなっていた。
 速度を合わせていると思っていたが、まさかこれほどとは。これならば半刻もかからずに聖域まで戻れるだろう。しかし、それでもおそらく雌型の魔族相手には人数が足りない。セイラとドドリーも今すぐ後を追わせるべきか……?
 視線に気がついたのか、セイラがにっこりと微笑む。

「信じましょう、彼らを。それに私たちとて、油断は出来ません。先ほどから嫌な魔力がこの先へと集まっている気配がします。おそらく、成体へと変貌を遂げるつもりでしょう。そうなれば、リュグ爺様だけでは危険です」

「……そうじゃな。ここは若い者を信じてみるとするか」

 とにかく、早くこちらを片付けなければ。

         *

 灰黒色の空を一筋の雷が昇る。

「やぁあああ――ッ!」

 黒いもやと稲妻を纏った細剣が金属音を響かせ、火花を散らす。

「蝿のように鬱陶しい下等生物だ……」

 ユズリアのすぐ側で風の魔弾が音を立てて生成された。その場で高速に乱回転し、魔族の手振りによってユズリア目掛けて弾丸の如く射出される。
 ユズリアは稲妻の出力を瞬間的に上げてもやを弾く。体勢が崩れたところを魔弾が迫り、かろうじて細剣で受ける。激しい金切の音を立てて、細剣諸共ユズリアが後方へと吹き飛ばされた。
 大岩に叩きつけられる寸前、身体を滑り込ませる。ユズリアの背が左手に触れた瞬間、『固定』。
 踏ん張りのきく体勢になったところで、ユズリアがようやく魔弾を空に向けて弾く。

「大丈夫か!?」

「ありがとう、ロア。助かったわ」

 ユズリアと入れ替わるように魔族へと流星群が降り注ぐ。黒いもやを前面に展開して受け止めようとする魔族。しかし、サナの魔法はそこいらの魔法使いとは天地の差がある。
 サナの指輪が赤く瞬いた。星々が軌道を変える。自在に宙を滑る流星はもやを避けてガラ空きの背後へと降り注ぐ。

「多芸だな、下等生物というものは」

 魔族は抵抗することもなく、ようやく一撃が入る。
 砂煙が充満する中、衝撃音を引き裂いて大量の風の魔弾が四方に放たれた。聖域の至る所を削り取り、破壊する。せっかく建てた家や畑にも被弾し、崩れているのを見るに、やはり黒いもやを纏っているのだろう。

「くそっ! あのもやさえ無ければ……!」

「でも、勘違いしてた。私の『解除』は効いてる」

 サナがコノハの家を指差す。

「あそこに飛んだ魔弾に『解除』をかけてみた。そしたら、『固定』に弾かれて消えた」

 確かにコノハの家は無傷のままだ。サナの『解除』でもやの効果が相殺されたのならば、それはただの風の魔弾。『固定』の付与された家が瓦解しないのは納得がいく。

「つまり、一回目の『解除』でもやを打ち消し、二回目の『解除』で魔弾を消せるのか」

「でも、そんなに手早く『解除』は使えない。せいぜい、二秒に一回」

 それでは魔弾一個を消すのに四秒かかってしまう。

「手数で勝負されると厄介だな」

「もや本体は『解除』出来ないの?」

「それは無理。あれは多分、単体。私は魔弾ともやの塊を剥がしてるだけだから」

 砂煙が晴れる。背から青黒い血を垂らして佇む魔族。
 それにしても妙だ。なぜ、先ほどからずっと受け身なんだ? 最初の襲撃してきた時はあんなにも好戦的で、殺意に満ちていたのに。
 力を溜めているようにも見えない。ただ、何かを待っているような……。

「そろそろ良いか……」

 リュグ爺たちが向かった虚空を見つめ、魔族が呟く。
 もやが魔族を囲むように包み込み、黒い光が隙間から漏れ出る。

「あいつ、何しているの?」

「あの光、さっき見た」

「で、でも、幼体の方は回復魔法を使えないんじゃなかったの!?」

「そのはずだが……」

 帷が外れる。長い朱色の髪が見えた瞬間、心臓を掴むような鋭い殺気が襲う。

「――お兄ッ!」

 サナが二本指を横に切ると同時に、無意識に手を振り下ろした。同時にユズリアとサナを背に隠すように一歩前に出る。
 視界が一瞬にして眩く潰れた。左頬を何かが掠め、二撃目が目と鼻の先に迫ってようやくローブと肌に『固定』が発動する。
 鋼よりも硬くなったローブに何かがぶつかり、砕け散った。氷の破片が目の前を舞う。

 遅れて心臓が強く脈を打った。
 早すぎて目で追えなかった。風の魔弾が遅く感じるほどだ。
 サナが反応できたのが幸いだった。でなければ、今頃身体に穴が空いていた。

「な、何なの……急に早くなった……?」

 背に隠したユズリアには見えていないのだろう。凹凸のある身体と長い髪が。

「愚弟には心底呆れた。こんな奴らに苦戦するとは」

 ちらりと覗いた背中。サナが与えたはずの傷が、綺麗に消えていた。

「やられたな……」

 頬を生ぬるい血が伝った。