起き掛けは最悪なものだった。
ぼやける意識を昔の俺が急速に叩き起こす。真っ先に思ったのは鈍っているなということだった。こんな腑抜けな寝起きではS級指定の地域では毎朝死んでいるようなものだ。
意識が覚醒してからものの数秒。しかし、それでは遅い。数秒あれば、数百メートル先から首元に鎌をかける相手なんていくらでもいるからだ。
ベッドから飛び起き、窓の外を見る。どんよりとした灰黒色の雲が一面にかかり、朝とは思えない薄暗さだ。ただならぬ気配だった。先日の魔力とよく似ている。ただ、あの時と違うのはこの場所へ向けて明確に殺意が込められていた。まるで挑発するような魔力の漏らし方だ。おそらく、知性の低い魔物の仕業ではない。人か、同等の知能を持った生物だ。
隣で寝ていたはずのユズリアは既に部屋を飛び出していた。追いかけるようにローブを羽織り、外へ出る。
本当、問題の尽きない場所だな。そう思うも束の間、どうやら今回はいつもとは少し違うらしい。この威圧感、感じたことのない悪意を煮詰めたようなドロドロな殺意の不快感。明確な襲撃と呼べるものだった。
でも、一体誰が……? ローリックの仕返しにしては日が浅すぎる。
「兄弟よ、遅いぞ?」
どうやら俺が最後だったみたいだ。やはり、気を引き締め直す必要がありそうだ。
「悪い。それで、原因は分かったか?」
「ちょうど、あちらさんも来たようじゃな」
リュグ爺がいつもの数段声低く呟いて、聖域と魔素の森の境界の少し上を睨む。その鋭い眼光に思わず息が詰まった。
その相手とやらの姿はまだ見えない。しかし、確かにそこにいる。隠すことのない魔力がゆっくりと近づいてきているのが分かった。
「何て重い魔力なの……?」
「某もこんな息苦しいのは初めてでありまする」
「ユズリアも、コノハも、無理しない方がいい」
サナが二人より一歩前に出る。全く、頼もしい妹だ。俺はさらに一歩前に立つ。
「神官の娘、分かりおるな?」
「ええ、リュグ爺様」
セイラがドドリーに目配せをする。
「うむ……任された!」
何を言うでもなく、ドドリーは大きく飛びのいて弓を構える。
今の一瞬で全てが伝わるのか。理想的な阿吽の二人だ。
世界が嵐の前の静けさに包まれる。外の景色が濃紫に染まりつつあるというのに、聖域は相も変わらず色彩が豊かで、それが崩れるのは一瞬だと悟った。
ぴゅぅーと風が鳴いた。刹那、張り詰めていた空気がリュグ爺の一喝によって破られる。
「――来るぞッ!」
一番前に立つリュグ爺にセイラが魔法障壁を張った。
瞬間、目に見えないほどの速度で魔力が飛んでくる。それが風の魔法だと認識出来たと同時に、破砕音を響かせて障壁が粉々に砕け散った。
一瞬の静寂。
驚嘆の声をあげる間もなく、風の魔弾が無数に飛んでくる。
セイラが一人前に躍り出て、瞬間的に魔法障壁を何重にも展開。
後方から同じく風を纏った魔法矢が唸りをあげて宙を射抜く。
雹のように降り注ぐ魔弾と魔法矢が、すさまじい風を散らして互いに相殺し合った。その風幕を引き裂いてなお、銃弾の速度で魔弾が魔法障壁を次々と砕く。
飛び散る欠片が聖域の光を乱反射してきらきらと視界を散らす。
ついに、最後の魔法障壁が破られた。数少なくなった魔弾をセイラが光る錫杖で次々と殴り落す。
最後の一つをドドリーの魔法矢が貫き、一瞬の豪風を撒き散らして吹き荒ぶ風がやんだ。
僅か数秒の出来事。その間、俺はただひたすら目の前で起こることを眺めるしか出来なかった。正確には動こうにも、動けなかった。加勢をしようと思ったその時には、一連が終わっていた。
リュグ爺は微動だにせず、ただひたすら上空を眺めていた。その先の木々を縫うように、宙を飛ぶ一体の何かが姿を現した。
人族のような細身の体躯。純黒の衣から覗く灰紫色の肌。そして、まるで吸血鬼のような特徴的な翼と、額の左右に生える二本の黒角。
「ま、まさか……!?」
見たことはない生物なのに、俺は知っている。多分、ここにいる全員が見た瞬間にその存在を頭に浮かべたはずだ。
それは、長い間人々で語り継がれてきた災厄の姿とあまりにも酷似していた。
「魔族……」
その存在が最後に目撃されたのは五十年前のこと。正直、空想の存在みたいに思っていたが、いざこうして目の当たりにすると、これが魔族という生物なのだと直感で分かった。
生物ならざる異質な魔力、言い伝え通りの見た目。そして、何よりその凶暴性が、魔族だと物語っていた。
五十年前の時代を生きてきたリュグ爺とドドリーは知っているのだろうか。少なくとも、リュグ爺は確信を持って待ち構えていたように思える。
魔族は黒い強膜と赤眼を悦に笑わせて、俺たちを見下ろしていた。まるで人間のような口が開く。
「なんだ? 下等生物が幾ばくかいるだけではないか。ギャハハハッ!」
辺りに反響するように響く低い声。身体の奥まで入り込むような嫌な音だった。
「若いもんは下がっとれ」
そう言い残し、リュグ爺が地を蹴り上げ、一足にして魔族と肉薄した。
「近寄るな下等生物め」
魔族が一瞬にして物理障壁を何重にも展開してリュグ爺を弾き飛ばす。セイラ以上の速度だ。完全に人技ではない。
後ろ向きに落下するリュグ爺の右側面がぐにゃりと歪んだ。色と背景が混ざり合い、渦を巻く。そこに突っ込んだ右腕が引き抜かれると、リュグ爺の身体を優に超える巨大な大剣が握りしめられていた。
大剣は白銀の刀身を煌めかせ、紫電を纏う。
リュグ爺は宙を蹴り上げ、再び魔族へ突進した。そして、何十層にも張り巡らされた物理障壁を前に、大剣を一振り。紫電を帯びた斬撃が障壁を無音で斬り裂く。一拍遅れて、破砕音が幾重にも響き渡る。大剣から放たれた紫紺の衝撃波が一瞬にして物理障壁を全て打ち砕く。
衝撃波は障壁を裂いてなお勢いを止めず、魔族を一閃するように迫る。
「おおっ! いいぞ! 良いではないか、下等生物!」
魔族が両手を構え、衝撃波を受け止める。激しい金切り音と雷撃が迸る。皮膚が裂け、青黒い血が吹き出す。
こんなにあっさりやれるのか……?
そう思ったのも束の間、魔族の身体から黒いもやがゆらりと湧き出し、衝撃波を包み込む。その瞬間、魔力が霧散する気配が伝った。もやが触れたところから衝撃波が弾かれて消えゆく。
「あれは……」
コノハとサナが小さく頷く。
やはりそうだ。湖で見た、謎の黒い繭が纏っていた黒いもやによく似ている。あの時も、魔法が一切通用しなかったことを鑑みるに、おそらく同じもの。つまり、あの繭は魔族のものだったということだろうか。
「やはり、一筋縄ではいかないのお」
リュグ爺が大剣をもう一振り。先ほどよりも大きな波が、まるで龍のようにうねりを効かせて放たれる。
「芸がないな。下等生物よ」
黒いもやが衝撃波と衝突し、先端から掻き消す。
同時に魔族が魔法を展開した。無数の魔弾が高速で撃ち放たれる。リュグ爺の前にセイラの魔法障壁が展開された。その間にもドドリーの矢が魔弾をいくつか貫く。
再び、乱打戦が始まったと思いきや、魔族が口角を吊り上げる。
「先ほどのようにはいかんぞ!」
魔族の身体を取り巻くように魔法陣が幾重にも浮かび上がる。その全てから、際限なく高速で紫色の魔弾が放たれた。魔弾はセイラの魔法障壁を溶かし、ドドリーの魔法矢すら触れた瞬間、勢いを無くして落下する。
一面の魔弾がリュグ爺を襲う。
「サナ!」
俺の呼びかけにサナが無言で頷き、二本指を横に切る。しかし、『解除』が発動しても魔弾は一つたりとも消えることはなかった。
「……どうして?」
残っていた障壁と魔弾が触れ合った瞬間、砕かれるよりも先に二本指を縦に振り下ろす。一度『固定』さえしてしまえば無敵の盾の完成。そのはずだった。
魔弾が障壁を貫く。
「なっ……!?」
確かに『固定』は発動していた。それなのに、破られた。サナの『解除』も通用しないようだし、一体、何が起きているというのだ。
「あのもやはどんな魔法も受け付けない魔族固有のものです。おそらく、あの魔弾にも黒いもやが薄く張り巡らされているのでしょう」
セイラが諦めたように錫杖を下ろして、軽く息をつく。
「サナの『解除』と似たような魔法か……くそっ! どうすれば……っ!」
「このままじゃ、リュグ爺が危ない!」
ユズリアが細剣を引き抜くが、もうすでに魔弾はリュグ爺を襲っていた。ユズリアでも間に合わない。
「セイラ殿! どうするでありまする!?」
セイラの面持ちは変わらない。まるで何も問題ないと言いたげだった。
「大丈夫ですよ。リュグ爺様ならば」
リュグ爺の右側面が再び歪んだ。大剣をその渦の中に押し込み、再び引き抜かれた手には刀身が金色に輝く一本の片手剣が握りしめられていた。
「やれやれ、これだから魔族は嫌いじゃ」
覆うように迫り来る魔弾をリュグ爺が目にも止まらぬ速度で次々と斬り刻む。そこに魔力は感じられず、純粋な物理の剣技だった。剣は振るわれるたびに速度を増し、金色の軌跡を無限に残す。まるで、そこに光り輝く盾が出現しているように見えた。
いや、錯覚ではなかった。リュグ爺が剣を止める。しかし、軌跡は未だ輝きを濃く残したまま、そこに残り続けて魔弾を弾き続けた。
斬撃がその場に残り続けるなんて魔法は聞いたことがなかった。
「す、すごい……」
今度はリュグ爺の左側面が渦を巻く。大きく歪んだ空間にリュグ爺が飛び込む。身体が捩れて吸い込まれるように消えた。
「下等生物め。どこへ消えた……?」
すると、突然魔族の背後が歪み、そこからリュグ爺が姿を現して魔族の背中に向けて剣を振るう。しかし、魔族も早かった。驚異的な反応速度で振り向き、斬撃に向けてもやを障壁のように展開。同時にガラ空きの左半身目掛けて魔力を纏った拳を撃つ。
抉るような拳がリュグ爺を貫かんとした刹那、再びリュグ爺の姿が歪んだ。そして、次の瞬間には魔族の背に再び瞬間的に移動していた。
「ぬぅ……ッ!」
魔族は反応したものの、前方に撃ち出した拳を引っ込める間もなく、リュグ爺が斬撃を背中に振るう。魔族の背に大きな一太刀が入り、青黒い鮮血が噴き散る。
傷などお構いなしに振り向く魔族だが、既にそこにはリュグ爺の姿は無い。背後へ、上空へ、真下へ、次々と瞬間的に移動しながら、リュグ爺が魔族の身体を四方八方、斬り刻み続ける。
「ぐああぁああ――ッ!」
魔族が全身から大量のもやを噴出する。球体上に包まれる魔族。まるで、湖で見た繭そのものだった。
リュグ爺が距離を置いて姿を顕現させる。
「それは魔力の消費が激しかろうて」
「馬鹿にしおって、下等生物がッ!」
あの魔族を相手に一人で圧倒するリュグ爺。息のひとつも切らさずに余裕の表情だ。
「一体、リュグ爺って何者なの!?」
ユズリアが呆気に取られたように見上げる。
「リュグ爺様は別名――〝無頼漢の王〟」
セイラが飄々と語る。
「えっ!? それってもしかして……」
その場の全員が息を飲んだ。それは長年、様々な人が語った伝説の人物。
セイラはにっこりと笑みを浮かべて続けた。
「はい、リュグ爺様はかの魔族殺しの英雄のお一方。空間を自由に統べ、意のままに操る。時空剣使いのS級冒険者です」
ぼやける意識を昔の俺が急速に叩き起こす。真っ先に思ったのは鈍っているなということだった。こんな腑抜けな寝起きではS級指定の地域では毎朝死んでいるようなものだ。
意識が覚醒してからものの数秒。しかし、それでは遅い。数秒あれば、数百メートル先から首元に鎌をかける相手なんていくらでもいるからだ。
ベッドから飛び起き、窓の外を見る。どんよりとした灰黒色の雲が一面にかかり、朝とは思えない薄暗さだ。ただならぬ気配だった。先日の魔力とよく似ている。ただ、あの時と違うのはこの場所へ向けて明確に殺意が込められていた。まるで挑発するような魔力の漏らし方だ。おそらく、知性の低い魔物の仕業ではない。人か、同等の知能を持った生物だ。
隣で寝ていたはずのユズリアは既に部屋を飛び出していた。追いかけるようにローブを羽織り、外へ出る。
本当、問題の尽きない場所だな。そう思うも束の間、どうやら今回はいつもとは少し違うらしい。この威圧感、感じたことのない悪意を煮詰めたようなドロドロな殺意の不快感。明確な襲撃と呼べるものだった。
でも、一体誰が……? ローリックの仕返しにしては日が浅すぎる。
「兄弟よ、遅いぞ?」
どうやら俺が最後だったみたいだ。やはり、気を引き締め直す必要がありそうだ。
「悪い。それで、原因は分かったか?」
「ちょうど、あちらさんも来たようじゃな」
リュグ爺がいつもの数段声低く呟いて、聖域と魔素の森の境界の少し上を睨む。その鋭い眼光に思わず息が詰まった。
その相手とやらの姿はまだ見えない。しかし、確かにそこにいる。隠すことのない魔力がゆっくりと近づいてきているのが分かった。
「何て重い魔力なの……?」
「某もこんな息苦しいのは初めてでありまする」
「ユズリアも、コノハも、無理しない方がいい」
サナが二人より一歩前に出る。全く、頼もしい妹だ。俺はさらに一歩前に立つ。
「神官の娘、分かりおるな?」
「ええ、リュグ爺様」
セイラがドドリーに目配せをする。
「うむ……任された!」
何を言うでもなく、ドドリーは大きく飛びのいて弓を構える。
今の一瞬で全てが伝わるのか。理想的な阿吽の二人だ。
世界が嵐の前の静けさに包まれる。外の景色が濃紫に染まりつつあるというのに、聖域は相も変わらず色彩が豊かで、それが崩れるのは一瞬だと悟った。
ぴゅぅーと風が鳴いた。刹那、張り詰めていた空気がリュグ爺の一喝によって破られる。
「――来るぞッ!」
一番前に立つリュグ爺にセイラが魔法障壁を張った。
瞬間、目に見えないほどの速度で魔力が飛んでくる。それが風の魔法だと認識出来たと同時に、破砕音を響かせて障壁が粉々に砕け散った。
一瞬の静寂。
驚嘆の声をあげる間もなく、風の魔弾が無数に飛んでくる。
セイラが一人前に躍り出て、瞬間的に魔法障壁を何重にも展開。
後方から同じく風を纏った魔法矢が唸りをあげて宙を射抜く。
雹のように降り注ぐ魔弾と魔法矢が、すさまじい風を散らして互いに相殺し合った。その風幕を引き裂いてなお、銃弾の速度で魔弾が魔法障壁を次々と砕く。
飛び散る欠片が聖域の光を乱反射してきらきらと視界を散らす。
ついに、最後の魔法障壁が破られた。数少なくなった魔弾をセイラが光る錫杖で次々と殴り落す。
最後の一つをドドリーの魔法矢が貫き、一瞬の豪風を撒き散らして吹き荒ぶ風がやんだ。
僅か数秒の出来事。その間、俺はただひたすら目の前で起こることを眺めるしか出来なかった。正確には動こうにも、動けなかった。加勢をしようと思ったその時には、一連が終わっていた。
リュグ爺は微動だにせず、ただひたすら上空を眺めていた。その先の木々を縫うように、宙を飛ぶ一体の何かが姿を現した。
人族のような細身の体躯。純黒の衣から覗く灰紫色の肌。そして、まるで吸血鬼のような特徴的な翼と、額の左右に生える二本の黒角。
「ま、まさか……!?」
見たことはない生物なのに、俺は知っている。多分、ここにいる全員が見た瞬間にその存在を頭に浮かべたはずだ。
それは、長い間人々で語り継がれてきた災厄の姿とあまりにも酷似していた。
「魔族……」
その存在が最後に目撃されたのは五十年前のこと。正直、空想の存在みたいに思っていたが、いざこうして目の当たりにすると、これが魔族という生物なのだと直感で分かった。
生物ならざる異質な魔力、言い伝え通りの見た目。そして、何よりその凶暴性が、魔族だと物語っていた。
五十年前の時代を生きてきたリュグ爺とドドリーは知っているのだろうか。少なくとも、リュグ爺は確信を持って待ち構えていたように思える。
魔族は黒い強膜と赤眼を悦に笑わせて、俺たちを見下ろしていた。まるで人間のような口が開く。
「なんだ? 下等生物が幾ばくかいるだけではないか。ギャハハハッ!」
辺りに反響するように響く低い声。身体の奥まで入り込むような嫌な音だった。
「若いもんは下がっとれ」
そう言い残し、リュグ爺が地を蹴り上げ、一足にして魔族と肉薄した。
「近寄るな下等生物め」
魔族が一瞬にして物理障壁を何重にも展開してリュグ爺を弾き飛ばす。セイラ以上の速度だ。完全に人技ではない。
後ろ向きに落下するリュグ爺の右側面がぐにゃりと歪んだ。色と背景が混ざり合い、渦を巻く。そこに突っ込んだ右腕が引き抜かれると、リュグ爺の身体を優に超える巨大な大剣が握りしめられていた。
大剣は白銀の刀身を煌めかせ、紫電を纏う。
リュグ爺は宙を蹴り上げ、再び魔族へ突進した。そして、何十層にも張り巡らされた物理障壁を前に、大剣を一振り。紫電を帯びた斬撃が障壁を無音で斬り裂く。一拍遅れて、破砕音が幾重にも響き渡る。大剣から放たれた紫紺の衝撃波が一瞬にして物理障壁を全て打ち砕く。
衝撃波は障壁を裂いてなお勢いを止めず、魔族を一閃するように迫る。
「おおっ! いいぞ! 良いではないか、下等生物!」
魔族が両手を構え、衝撃波を受け止める。激しい金切り音と雷撃が迸る。皮膚が裂け、青黒い血が吹き出す。
こんなにあっさりやれるのか……?
そう思ったのも束の間、魔族の身体から黒いもやがゆらりと湧き出し、衝撃波を包み込む。その瞬間、魔力が霧散する気配が伝った。もやが触れたところから衝撃波が弾かれて消えゆく。
「あれは……」
コノハとサナが小さく頷く。
やはりそうだ。湖で見た、謎の黒い繭が纏っていた黒いもやによく似ている。あの時も、魔法が一切通用しなかったことを鑑みるに、おそらく同じもの。つまり、あの繭は魔族のものだったということだろうか。
「やはり、一筋縄ではいかないのお」
リュグ爺が大剣をもう一振り。先ほどよりも大きな波が、まるで龍のようにうねりを効かせて放たれる。
「芸がないな。下等生物よ」
黒いもやが衝撃波と衝突し、先端から掻き消す。
同時に魔族が魔法を展開した。無数の魔弾が高速で撃ち放たれる。リュグ爺の前にセイラの魔法障壁が展開された。その間にもドドリーの矢が魔弾をいくつか貫く。
再び、乱打戦が始まったと思いきや、魔族が口角を吊り上げる。
「先ほどのようにはいかんぞ!」
魔族の身体を取り巻くように魔法陣が幾重にも浮かび上がる。その全てから、際限なく高速で紫色の魔弾が放たれた。魔弾はセイラの魔法障壁を溶かし、ドドリーの魔法矢すら触れた瞬間、勢いを無くして落下する。
一面の魔弾がリュグ爺を襲う。
「サナ!」
俺の呼びかけにサナが無言で頷き、二本指を横に切る。しかし、『解除』が発動しても魔弾は一つたりとも消えることはなかった。
「……どうして?」
残っていた障壁と魔弾が触れ合った瞬間、砕かれるよりも先に二本指を縦に振り下ろす。一度『固定』さえしてしまえば無敵の盾の完成。そのはずだった。
魔弾が障壁を貫く。
「なっ……!?」
確かに『固定』は発動していた。それなのに、破られた。サナの『解除』も通用しないようだし、一体、何が起きているというのだ。
「あのもやはどんな魔法も受け付けない魔族固有のものです。おそらく、あの魔弾にも黒いもやが薄く張り巡らされているのでしょう」
セイラが諦めたように錫杖を下ろして、軽く息をつく。
「サナの『解除』と似たような魔法か……くそっ! どうすれば……っ!」
「このままじゃ、リュグ爺が危ない!」
ユズリアが細剣を引き抜くが、もうすでに魔弾はリュグ爺を襲っていた。ユズリアでも間に合わない。
「セイラ殿! どうするでありまする!?」
セイラの面持ちは変わらない。まるで何も問題ないと言いたげだった。
「大丈夫ですよ。リュグ爺様ならば」
リュグ爺の右側面が再び歪んだ。大剣をその渦の中に押し込み、再び引き抜かれた手には刀身が金色に輝く一本の片手剣が握りしめられていた。
「やれやれ、これだから魔族は嫌いじゃ」
覆うように迫り来る魔弾をリュグ爺が目にも止まらぬ速度で次々と斬り刻む。そこに魔力は感じられず、純粋な物理の剣技だった。剣は振るわれるたびに速度を増し、金色の軌跡を無限に残す。まるで、そこに光り輝く盾が出現しているように見えた。
いや、錯覚ではなかった。リュグ爺が剣を止める。しかし、軌跡は未だ輝きを濃く残したまま、そこに残り続けて魔弾を弾き続けた。
斬撃がその場に残り続けるなんて魔法は聞いたことがなかった。
「す、すごい……」
今度はリュグ爺の左側面が渦を巻く。大きく歪んだ空間にリュグ爺が飛び込む。身体が捩れて吸い込まれるように消えた。
「下等生物め。どこへ消えた……?」
すると、突然魔族の背後が歪み、そこからリュグ爺が姿を現して魔族の背中に向けて剣を振るう。しかし、魔族も早かった。驚異的な反応速度で振り向き、斬撃に向けてもやを障壁のように展開。同時にガラ空きの左半身目掛けて魔力を纏った拳を撃つ。
抉るような拳がリュグ爺を貫かんとした刹那、再びリュグ爺の姿が歪んだ。そして、次の瞬間には魔族の背に再び瞬間的に移動していた。
「ぬぅ……ッ!」
魔族は反応したものの、前方に撃ち出した拳を引っ込める間もなく、リュグ爺が斬撃を背中に振るう。魔族の背に大きな一太刀が入り、青黒い鮮血が噴き散る。
傷などお構いなしに振り向く魔族だが、既にそこにはリュグ爺の姿は無い。背後へ、上空へ、真下へ、次々と瞬間的に移動しながら、リュグ爺が魔族の身体を四方八方、斬り刻み続ける。
「ぐああぁああ――ッ!」
魔族が全身から大量のもやを噴出する。球体上に包まれる魔族。まるで、湖で見た繭そのものだった。
リュグ爺が距離を置いて姿を顕現させる。
「それは魔力の消費が激しかろうて」
「馬鹿にしおって、下等生物がッ!」
あの魔族を相手に一人で圧倒するリュグ爺。息のひとつも切らさずに余裕の表情だ。
「一体、リュグ爺って何者なの!?」
ユズリアが呆気に取られたように見上げる。
「リュグ爺様は別名――〝無頼漢の王〟」
セイラが飄々と語る。
「えっ!? それってもしかして……」
その場の全員が息を飲んだ。それは長年、様々な人が語った伝説の人物。
セイラはにっこりと笑みを浮かべて続けた。
「はい、リュグ爺様はかの魔族殺しの英雄のお一方。空間を自由に統べ、意のままに操る。時空剣使いのS級冒険者です」