「ロア……?」
「お兄……?」

 二人がぐいっと顔を近づけてくる。

「「どっちを選ぶの?」」

 さらに距離を縮める二人。もう、二人の唇が俺の顔に触れそうだ。
 聞こえてくる鼓動が、俺のか二人のものか分からない。
 どうすんの、俺!? どうしちゃうの!?

「――って、そんなん選べるかあ!」

 自分の声が耳に伝わった。当たり前のことなのに、何かがおかしい。
 そうか、これは夢か。
 そして、今発した言葉は寝ぼけて現実の俺が口にしたものだ。
 というか、普通に考えて妹は駄目だろう。
 
 窓から差し込む朝陽が眩しすぎて、ほんの少し開けた眼を閉じて反対を向く。
 額にコツっと何かが触れた。規則的に聞こえてくる鼓動。そして、温かく、そこはかとない柔らかな感触。
 おやおや、やってしまいましたかね。まあ、朝っぱらだから事故だよな。ただの不可抗力だ。それにしても、おっぱいって案外柔らかくないんだなあ。
 昨日はユズリアとサナ、どっちと寝たんだっけ? うーむ……この控えめ過ぎる、なんなら少し硬いんじゃないかとすら思える感触。さては、サナだな?
 やれやれ、実の妹に欲情するわけにもいかない。バレる前にさっさと起きるか。

 名残惜しさを感じつつ、ゆっくりと目を開ける。
 視界一杯に広がる大きな胸板。褐色の肌。なぜかオイリーな筋肉。

「ふーっはっはっはっはッ! 兄弟よ! 寝坊か!?」

 ……なんだ、まだ夢か。やれやれ、悪夢を見ない魔法でもないもんかね。
 ゆっくりと目を閉じ、また開ける。
 うん、なるほどね。
 静寂の後、朝から喉が裂けんばかりの絶叫を発したのは、言うまでもないだろう。

           *

「ロア殿、どうしたでありまする?」

 朝から全員の居る前で十二歳の少女に縋りついてめそめそと泣く二十二歳の無職。
 悲しいかな、俺のことだ。

「お兄、大丈夫。まだ汚れていない」

 サナのよく分からない慰めがやけに染みる。

「うむ、ユズリアに頼まれて起こして来いと言われたが、随分にやけ面で幸せそうに寝ているものだから、起こすに起こせなかったぞ!」

「あらあら、ロアさん夢でも見ていたんですか?」

 セイラさん、深く追求しないでください。この場でその発言は非常に危ないんです。
 隣にびたっと椅子をくっつけるサナ。それを見て、反対側で同じように対抗するユズリア。
 あの、狭いんですけれど。

 サナが聖域に来てから二週間。なぜかことあるごとにサナとユズリアは小突き合っている。
 思考が似ているのか、やっぱり二人は案外相性が良いのかもしれない。二人とも友達少なそうだし、仲良くしてもらいたいものだ。

「そんなことより、何で二人がここにいるんだよ。街に戻ったんじゃなかったのか?」

「うむ。実はな、セイラと二人で逃げてきたのだ」

 なぜか平然とユズリアがつくった朝食をかき込むドドリー。エルフは肉を食べないと聞いていたけれど、こいつ普通にベーコン頬張ってやがる……。

「逃げてきたって、何からだよ?」

「ふぉれふぁだふぁ。ふぁふぇへふほぉ」

「食い終わってから話せ。コノハの教育に良くないだろ」

「あの……某は子供じゃないでありまする……」

 結局、セイラが状況を語った。
 なんでも二人はセイラの所属する教会から逃げてきたらしい。
 すっかり忘れていたことだが、聖職者は生涯未婚を貫かなければいけないという掟がある。結婚してはいけないというオブラートに包んだ言い回しだが実のところ、純潔を保て、清い身体と魂であれ、ということが核心だ。
 しかし、この掟は平民の俺でも知っているように、あってないような古いしきたり。実際、教会内部では司祭が新米の女性神官を食い物にするなんて話はしょっちゅう耳にする。
 無欲を精神とする教会は献金と称した巻き上げ、聖水の独占販売、そしてこのような劣情に塗れた組織なのだ。
 二人が逃げてきた理由もその卑しい情欲が原因らしい。

 その司祭は他国の教会から臨時で来た知れ者で、セイラがただの神官ではなく、S級冒険者かつ山のような巨岩を笑いながら粉砕するクレイジーな人だと知らなかったようだ。

「あの司祭様は天に召したのです」

 案の定、容姿の優れたセイラは夜伽に誘われ、司祭を半殺しに。さらに報復に来た裏ギルドの連中をドドリーが返り討ちにした。
 そこまでが破岩蛇を討伐しに二人が聖域に来る前の状況だった。

 ただ、怒りの収まらないセイラは街に戻った後、ドドリーの静止を強引な口づけで黙らせ、司祭が所属する他国の教会に単身で乗り込み、その教会を潰してしまったらしい。
 流石は狂人神官だ。人を癒すよりも壊す方に特化している。

「俺が遅れて到着したときには、血の雨が降っていたぞ」

 余計なことを口にするドドリーにセイラがにこやかな笑みを向ける。他人の俺ですら悪寒がした。

「うむ……司祭が数人こけていただけだったな。……うむ」

 ドドリーよ、何てかわいそうな男なのだ。なぜか俺まで胸が痛くなってきた。まるで鏡でも見ているようだ。

「まあ、そんなわけで国とずぶずぶな教会に目を付けられてしまい、私は指名手配中なんです~」

 そんなゆるっとした口ぶりで話す内容じゃない。

「だから、誰も来れないここに逃げてきたのか」

「うむ、教会はどの国にも存在するからな。人の国には居られん。かといって、エルフの里は人族を受け入れてはくれないだろう。ここに来る以外の選択肢はなかったわけだ」

「お邪魔でしたら、私たちはすぐにここを発ちますが、どうかご検討していただけませんか?」

 コノハ、ユズリア、サナの三人に目を向ける。誰一人、反対の人はいないようだ。

「聖域は誰のものでもない。だから、二人も勝手にすればいいさ」

 そもそも、許可を求められること自体おかしな話なのだ。俺たちだって、勝手にここに住み着いているだけなのだから。

「流石は兄弟だ! 話の分かる奴ではないか!」

「実際、男が一人で寂しかったところもあるんだ。是非、助け合っていこう。切実に……!」

 ドドリーと視線が交わる。
 その時、俺は確信を持った。やはり、ドドリーと俺は同じ苦楽を共にする仲間だ。
 向こうも俺の言わんとしていることが分かったのか、ガシッと手を掴む。
 なるほど、これが男の友情というものか……!

「ふぉっ、ふぉっ……。それでは、儂も住まわせてもらうとしようかの」

 その声を聞いた刹那、空気が一変した。かくいう俺も一瞬にして肌が粟立つほどの殺気を漏らした一人だ。
 ほぼ無意識でコノハを抱えたまま椅子から飛び退いて壁に背を付けた。コノハは既に札を手に持っている。
 ドドリーとユズリア、サナもそれぞれ臨戦態勢に入って声の主に目を向けていた。

 腰の曲がった小さな男性の老人だった。頭頂部に少しの白い髪を残し、目は開いているのかすら分からないほど細い。ボロボロのローブを纏い、武器のような類は見当たらなかった。
 そして、一番異様なのはS級冒険者がこれだけ殺気を放っているのに、ピクリとも動じないところだ。
 一体、いつからそこにいたのだろうか。老人は全員が囲んでいた卓の空き椅子にいつの間にか居座っていた。S級冒険者全員の目をかいくぐってだ。
 セイラの接近に気づかなかった時の非じゃない。あの時は全員がセイラの姿を目視していなかったことと、意識が散漫になる外だったからだ。それでも、セイラの気配殺しは卓越したものだったが、今回は室内だ。しかも、誰かしらの視界に老人は映りこんでいるはず。それなのに、彼が声を発するまで誰も気づけなかったことが、どれだけ異常なのか分かるだろうか。

 だから、セイラ以外の全員が瞬時に事態の異質さに気づいて、各々出来るだけその場から距離を取った。

「あら? リュグ爺様じゃないですか」

 ただ一人、椅子から立たなかったセイラが表情も変えず、老人に声をかけた。

「ふぉっ、ふぉっ。すまん、誰じゃったかな。最近、物忘れが激しくてのぉ」

「セイラですよ。ほら、よく腰の治療をしてあげたではないですか」

 老人はぼけっとセイラを眺め、たっぷり時間を使ってようやくピンときたといった仕草を取った。

「おぉっ、あのめんこい神官の娘か。そうか、そうか。随分と別嬪になっとったから分からなかったわい」

「いやですわリュグ爺様ったら、ふふっ」

 二人の和やかな空気に、一番最初にドドリーが殺気を解いた。セイラを信頼しての行動だろう。それからサナが、そしてユズリア、コノハと続いて、一番最後に俺が肩を降ろす。

「セイラさん、このご老人はどなたなんですか?」

 ユズリアが来客用の高そうなティーカップに紅茶を注いで老人の前に置く。

「彼はリュグ爺様といって、私の知り合いです。変な方ではありますが、悪人じゃないので安心してください」

「ふぉっ、ふぉっ、手厳しい紹介だのぉ」

 それにしてもこの老人、どこかで見たような気がするんだが、気のせいだろうか。

「昔から徘徊癖のある方で、ふらっと街から消えては数か月後にまたふらっと顔を見せるおかしな方なんですよ」

「それってつまり……」

「ええ、ただのボケた老人です」

 わざわざユズリアが言葉を濁したというのに、ズバッと言いのけるセイラ。毒舌も追加、と……。

「これこれ、あまり老人を虐めないでおくれ」

 ティーカップの柄を持たずに湯呑のように両手で飲むリュグ爺。それ、熱くないのだろうか。
 リュグ爺がチラッと俺を見た。それでようやく思いだした。

「あっ、そうか。あなた、馬車の時の……」

 ここに来るまでに乗って来た馬車で、俺と一緒に最後まで残っていた老人だ。ずっと眠っていたし、終点に着いたと思ったらすぐに姿を消していたから、あまり記憶に残っていなかった。

「ふぉっ、ふぉっ、あの時の若者か。尻は大丈夫だったか?」

 さてはこの老人、狸寝入りだったか。俺と御者の会話をばっちり覚えていた。物忘れが激しいとはなんだったのか。

「ここには何の用で?」

「なあに、ただの散歩みたいなものじゃ。歳を取るとやることがなくてかなわんわい」

 どこの世界に散歩と称してS級指定の地帯を徘徊する老人がいるのだ。本当にボケてるんじゃないか?

「それより、会話は聞いていたぞい。儂もしばらくここで余生を過ごしたいんじゃが、どうかの?」

 当たり前だが、腑に落ちない。現時点ではただの怪しい老人だ。しかし、かといって先ほどもドドリーとセイラに言った通り、この聖域は誰のものでもない。

「まあ、一人で自衛できるならいいんじゃないですかね」

「大丈夫ですよ、ロアさん。リュグ爺様はこんな今にも死にそうに見えますけれど、すごくお強い方なんです」

「神官の娘や、そんなに口が悪かったかの? 儂が覚えている貴様は……はて、なんじゃったか」

 老人独特の間の空き方に俺はため息を漏らす。
 こうして、突然三人の新規村人が誕生したのであった。