「今日で冒険者引退します!」
ギルド長室に入り開口一番、俺はここ数年で一番の笑顔と共に告げた。
依頼争奪戦が繰り広げられる朝の喧騒が、部屋に響く陽気な宣言を瞬く間にかき消す。しかし、ギルド長と担当受付嬢は口を半開きにして言葉を失ったままだ。返答を待っても良かったが、俺にはこれ以上話すようなことは残っていなかった。
引退と言っても、S級冒険者は数年に一度のランク更新が無い。だから、永遠にランクが降格しないし、ギルドカードを返却しない限り、どんなに力が衰えようともS級の称号は残ったままだ。
ある人は過去の栄光を携えるため、また、ある人は税金の免除などの特権のため、大抵の人は自らS級の資格を手放すことは無い。だから、引退なんて宣言せずにふらっとこの街を出てしまえばよかったのだ。
そうしなかったのは、長い間身を置いていた場所への別れのため。ギルド長に引退を伝えたのはあくまでついでだ。
「ま、待ってくれ、〝釘づけ〟!」
その変な呼び方、結局好きにはなれなかったな。だって、通り名だけ聞くとすごいイケてるやつみたいに聞こえるじゃん? 交際歴無しの二十二歳には痛すぎる異名だって。
ずんぐりと太った河馬のようなギルド長が、慌てて椅子を引いて立ち上がった。額の汗をせわしなく手巾帯で拭いながら、間抜けな足音を携えて迫って来る。まるでダンス中によろけた子豚みたいだ。河馬なのか、豚なのか、はっきりしてほしい。
俺はそっと二本指を縦に小さく振り下ろす。その瞬間、ギルド長の足が棒のように不自然に止まり、勢いを殺せずに前のめりで倒れ込んだ。
「待って、と言われましても、これ以上話すことは無いのですが」
上がった口角が元に戻らなくて困る。それはもう、待ちに待った日だから致し方ない。
床に這いつくばったギルド長が、俺を見上げた。人が違えばご褒美になるんだけどなぁ、と鳥肌の立つ腕を擦る。
「り、理由はなんだ? 金か? 依頼の斡旋か?」
斡旋も何も、過重に依頼を押し付けられていたと思うんだけど。
「お金がいらなくなったから引退するんですよ。探されるのも手間でしょうから、こうして伝えに来ただけです」
見た目がちょっときな臭く見えるだけで、別にギルド長に対して変な禍根はない。せいぜい、依頼の報酬を何度もピンハネされた程度だ。小心者ゆえに、そう毎回されなかったのだから、目をつむれば済む話だった。
むしろ、そんな些細なことや周囲の冒険者からの陰口や嫌がらせさえ耐えれば、平民の俺でも父親の残した莫大な借金と、妹の魔法学校の学費を支払えるだけの職場だったのだ。感謝しかない。
「今度はもしかしたら依頼する側で来るかもしれないので、その時はサービスしてください。それじゃ!」
この期に及んで引き留めようとするギルド長を尻目に、ギルドを出た。
背後から「嫌な奴がいなくなった」とか、「腐ったスープの捨て先がなくなったぜ」なんていう言葉が聞こえてきた。
じわっと、感情が浮かぶ。陰鬱で、ちょっとの憤り。その感情を頭の奥深くに押しやって、なるべく小さくしてから、くっつけた。瞬間、まるで嘘だったかのように気持ちが晴れやかに戻る。もう、後ろ指を気にする自分はいなくなっていた。
往来の激しい大通りを一目気にせずスキップで駆ける。初めて吹いた鼻歌もどこか陽気に聞こえた。今なら空も飛べそうな気分だ。
今日という日を十年待ち望んでいた。晴れて自由の身。組織の圧にも、借金取りにも縛られない素晴らしい日常が始まったのだ。
昼から酒盛りでもしたい気分だが、街に居残ってたらギルドの面々が血眼になって駆けつけてくるに決まっている。探すなと言って、本当に探しに来ないとは思っていない。だから、気分が乗っているうちにさっさと街を出てしまおう。
S級冒険者はこの街に俺を除いて一人だけ。それくらい、需要が高いのだ。
「――ロア先輩!」
旅立ちに必要なものを買いそろえていると、突然、俺の名前を呼ぶ声が後方から聞こえた。
振り向くと、随分と見覚えのある顔だった。自分の背より高い杖を両手で抱え、栗毛の長い髪を背まで垂らした小柄な少女。そのくりっとした紅茶色の瞳が、俺をまっすぐに捉えていた。
「お? ユーニャじゃん。どうした?」
乱れる呼吸を落ち着かせるまでもなく、ユーニャが上目で見つめてくる。
これだよ、これ。
「ロア先輩、冒険者辞めちゃうって本当ですか!?」
「そうだよ。旅に出ようと思ってね」
「なんで、突然……」
「突然じゃないよ。前から決めてたことさ」
ユーニャは重たげな息と共に肩を落とす。
「そ、それじゃあ、私も連れて行ってください。……その、旅ってやつに」
ユーニャの言葉に、俺はゆっくりと首を振った。
「ユーニャはS級になって、親父さんに楽させてあげるんだろ?」
「そ、そうですけれど……」
「そんなに一緒に行きたいって言うなら、俺がユーニャの親父さんが困らないだけの金を用意してやろうか?」
なんて意地悪な断り方なんだろうか。
でも、才能あふれるA級の冒険者まで、俺のせいでこの街から居なくなってしまったら大変なことだ。
それに、俺について回ると彼女の評判を落とすことになりかねない。なんせ、俺は巷では〝釘づけ〟なんて異名の、S級に似つかわしくない冒険者として有名だからだ。
実力が伴っていない、らしい。実際、俺もそう思う。
冒険者だった父親の悪名のせいで、最初から嫌われ者だった身としては、今さらその程度何とも思わないけれど。
そんな名声最悪な俺に、影ながら親身にしてくれたユーニャが、行く先々で俺と同じような扱いをされるのは到底、受け入れられない。
「……私がS級になったら、会いに行ってもいいですか?」
説得の末、ユーニャは諦めてくれたようだ。憐憫の情に駆られるが、俺が行こうとしている場所は彼女ではまだ厳しい環境だろう。だから、これで正解のはずだ。
「もちろん。それに今生の別れってわけじゃない。たまには帰って来るさ」
とはいえ、本当にS級になって会いに来られたらどうしようか。一人まったりスローライフ予定が、突然年下の異性と二人生活になったら……。
まあ、当分は大丈夫か。A級とS級の壁は分厚い。だからこそ、S級が世界に百人といないのだ。そう簡単になれるものじゃない。
いや、なってほしくないわけじゃないんだけどね! 俺が犯罪者にならないように、ね!
名残の袖を隠し、ユーニャと別れる。その後、魔法学校の卒業を控えた妹宛てに手紙を送った。流石に唯一の肉親にだけは行き先は伝えておこう。じゃないと、後が怖いし。
冒険者になるためやってきて十年。稼いだほとんどを借金の返済と妹の学費に当てて、質素倹約の日々。
冒険者として色んなところへ行ったけれど、新天地を求めて旅に出るのは初めてだ。
頬を伝う冷たい何かに気が付いた。
――ああ、ようやく……。
少しの不安と大きな胸の高鳴りに、最初の一歩を踏み出した。
ギルド長室に入り開口一番、俺はここ数年で一番の笑顔と共に告げた。
依頼争奪戦が繰り広げられる朝の喧騒が、部屋に響く陽気な宣言を瞬く間にかき消す。しかし、ギルド長と担当受付嬢は口を半開きにして言葉を失ったままだ。返答を待っても良かったが、俺にはこれ以上話すようなことは残っていなかった。
引退と言っても、S級冒険者は数年に一度のランク更新が無い。だから、永遠にランクが降格しないし、ギルドカードを返却しない限り、どんなに力が衰えようともS級の称号は残ったままだ。
ある人は過去の栄光を携えるため、また、ある人は税金の免除などの特権のため、大抵の人は自らS級の資格を手放すことは無い。だから、引退なんて宣言せずにふらっとこの街を出てしまえばよかったのだ。
そうしなかったのは、長い間身を置いていた場所への別れのため。ギルド長に引退を伝えたのはあくまでついでだ。
「ま、待ってくれ、〝釘づけ〟!」
その変な呼び方、結局好きにはなれなかったな。だって、通り名だけ聞くとすごいイケてるやつみたいに聞こえるじゃん? 交際歴無しの二十二歳には痛すぎる異名だって。
ずんぐりと太った河馬のようなギルド長が、慌てて椅子を引いて立ち上がった。額の汗をせわしなく手巾帯で拭いながら、間抜けな足音を携えて迫って来る。まるでダンス中によろけた子豚みたいだ。河馬なのか、豚なのか、はっきりしてほしい。
俺はそっと二本指を縦に小さく振り下ろす。その瞬間、ギルド長の足が棒のように不自然に止まり、勢いを殺せずに前のめりで倒れ込んだ。
「待って、と言われましても、これ以上話すことは無いのですが」
上がった口角が元に戻らなくて困る。それはもう、待ちに待った日だから致し方ない。
床に這いつくばったギルド長が、俺を見上げた。人が違えばご褒美になるんだけどなぁ、と鳥肌の立つ腕を擦る。
「り、理由はなんだ? 金か? 依頼の斡旋か?」
斡旋も何も、過重に依頼を押し付けられていたと思うんだけど。
「お金がいらなくなったから引退するんですよ。探されるのも手間でしょうから、こうして伝えに来ただけです」
見た目がちょっときな臭く見えるだけで、別にギルド長に対して変な禍根はない。せいぜい、依頼の報酬を何度もピンハネされた程度だ。小心者ゆえに、そう毎回されなかったのだから、目をつむれば済む話だった。
むしろ、そんな些細なことや周囲の冒険者からの陰口や嫌がらせさえ耐えれば、平民の俺でも父親の残した莫大な借金と、妹の魔法学校の学費を支払えるだけの職場だったのだ。感謝しかない。
「今度はもしかしたら依頼する側で来るかもしれないので、その時はサービスしてください。それじゃ!」
この期に及んで引き留めようとするギルド長を尻目に、ギルドを出た。
背後から「嫌な奴がいなくなった」とか、「腐ったスープの捨て先がなくなったぜ」なんていう言葉が聞こえてきた。
じわっと、感情が浮かぶ。陰鬱で、ちょっとの憤り。その感情を頭の奥深くに押しやって、なるべく小さくしてから、くっつけた。瞬間、まるで嘘だったかのように気持ちが晴れやかに戻る。もう、後ろ指を気にする自分はいなくなっていた。
往来の激しい大通りを一目気にせずスキップで駆ける。初めて吹いた鼻歌もどこか陽気に聞こえた。今なら空も飛べそうな気分だ。
今日という日を十年待ち望んでいた。晴れて自由の身。組織の圧にも、借金取りにも縛られない素晴らしい日常が始まったのだ。
昼から酒盛りでもしたい気分だが、街に居残ってたらギルドの面々が血眼になって駆けつけてくるに決まっている。探すなと言って、本当に探しに来ないとは思っていない。だから、気分が乗っているうちにさっさと街を出てしまおう。
S級冒険者はこの街に俺を除いて一人だけ。それくらい、需要が高いのだ。
「――ロア先輩!」
旅立ちに必要なものを買いそろえていると、突然、俺の名前を呼ぶ声が後方から聞こえた。
振り向くと、随分と見覚えのある顔だった。自分の背より高い杖を両手で抱え、栗毛の長い髪を背まで垂らした小柄な少女。そのくりっとした紅茶色の瞳が、俺をまっすぐに捉えていた。
「お? ユーニャじゃん。どうした?」
乱れる呼吸を落ち着かせるまでもなく、ユーニャが上目で見つめてくる。
これだよ、これ。
「ロア先輩、冒険者辞めちゃうって本当ですか!?」
「そうだよ。旅に出ようと思ってね」
「なんで、突然……」
「突然じゃないよ。前から決めてたことさ」
ユーニャは重たげな息と共に肩を落とす。
「そ、それじゃあ、私も連れて行ってください。……その、旅ってやつに」
ユーニャの言葉に、俺はゆっくりと首を振った。
「ユーニャはS級になって、親父さんに楽させてあげるんだろ?」
「そ、そうですけれど……」
「そんなに一緒に行きたいって言うなら、俺がユーニャの親父さんが困らないだけの金を用意してやろうか?」
なんて意地悪な断り方なんだろうか。
でも、才能あふれるA級の冒険者まで、俺のせいでこの街から居なくなってしまったら大変なことだ。
それに、俺について回ると彼女の評判を落とすことになりかねない。なんせ、俺は巷では〝釘づけ〟なんて異名の、S級に似つかわしくない冒険者として有名だからだ。
実力が伴っていない、らしい。実際、俺もそう思う。
冒険者だった父親の悪名のせいで、最初から嫌われ者だった身としては、今さらその程度何とも思わないけれど。
そんな名声最悪な俺に、影ながら親身にしてくれたユーニャが、行く先々で俺と同じような扱いをされるのは到底、受け入れられない。
「……私がS級になったら、会いに行ってもいいですか?」
説得の末、ユーニャは諦めてくれたようだ。憐憫の情に駆られるが、俺が行こうとしている場所は彼女ではまだ厳しい環境だろう。だから、これで正解のはずだ。
「もちろん。それに今生の別れってわけじゃない。たまには帰って来るさ」
とはいえ、本当にS級になって会いに来られたらどうしようか。一人まったりスローライフ予定が、突然年下の異性と二人生活になったら……。
まあ、当分は大丈夫か。A級とS級の壁は分厚い。だからこそ、S級が世界に百人といないのだ。そう簡単になれるものじゃない。
いや、なってほしくないわけじゃないんだけどね! 俺が犯罪者にならないように、ね!
名残の袖を隠し、ユーニャと別れる。その後、魔法学校の卒業を控えた妹宛てに手紙を送った。流石に唯一の肉親にだけは行き先は伝えておこう。じゃないと、後が怖いし。
冒険者になるためやってきて十年。稼いだほとんどを借金の返済と妹の学費に当てて、質素倹約の日々。
冒険者として色んなところへ行ったけれど、新天地を求めて旅に出るのは初めてだ。
頬を伝う冷たい何かに気が付いた。
――ああ、ようやく……。
少しの不安と大きな胸の高鳴りに、最初の一歩を踏み出した。