冷たく暗い。
 何も見えない、深い深い海の底に落ちていく。

 そんな夢で目が覚めた。





 窓の向こうのブルーモーメントの空が眩しい。それがあまりに綺麗すぎて、これが夢で、さっき見た深い海の暗さこそが現実であるような気がする。
 むしろ、そうであってほしい。そう願いながら辺りを見渡したけれど、そこはやはり見慣れた我が家の寝室だった。
 新築の真っ新な白い壁。ベッド横のウォールフックには、シワの寄った真っ黒の服。壁の白に、その異質な黒は決して混ざり合わない。
 やけに広く感じるダブルベッドの右側にそっと掌を這わすと、いつもは温もりを感じるはずの場所が今朝はひどく冷たかった。
 昨夜は疲れてベッドに倒れ込み、泥のように眠りについた。だから、気付く余裕すらなかったのだ。
 君の温もりがもう隣にないことにも、伸ばした手が何もつかめないことにも。
 見えるもの、聞くもの、触れるもの。そのすべてに現実感がない。あの瞬間から、もうずっと。
 あまりにも現実感がなさ過ぎて、まるで長い長い悪夢を見ているようだ。
 こんなにも現実感がないのは、君が本当はまだどこかにいるからじゃないだろうか。
 珍しく私よりも早めに目を覚まして、切らした煙草を買いにコンビニにまで出かけているのかもしれない。そんなことが、前に一度だけあった。
 あぁ、でも――、煙草はやめたんだっけ。
 少し膨らみ始めたお腹がキューっと張って、君が煙草を辞めた理由を思い出した。
 この子のため。私のお腹に手をあてて、嬉しそうに笑っていた君の顔が瞼に浮かぶ。
 君の温もりを思い出して手をあてたお腹は、少し痛いくらいに固く張っていた。
 この子も、私の気持ちを感じて不安になっている。今朝がこれまでと違うことに、きっと気付いているんだろう。



 こんなことを言うと少し恥ずかしいけれど、君との出会いは割とロマンチックだったと思う。
 読書が好きな私は、週末になると必ず近くの市立図書館に通っていた。そこの新書コーナーで、偶然、私と同じ本を手に取ろうとしたのが君。
 図書館には何度も通ってきているけれど、誰かとそんな展開になったのは生まれて初めてで驚いた。
 触れ合った指先にお互い戸惑って、お互いにペコペコしながら本を譲り合い、譲り合ったままどちらも全く折れなくて。そんなことを五分も続けているうちに可笑しくなって、どちらからともなく吹き出した。
 くしゃりと表情を崩して笑った君の顔は、今まで出会った誰よりも魅力的だった。
「実は他にも借りたい本が貯まってるんだ。だから、今回は君が借りてよ。その代わり、来週の同じ時間に返しに来てくれる?そうしたら、僕がその本をすぐに借りられるから」
 君はそう言って、とてもスマートに本を譲ってくれた。その優しさに、私は素直に頷いた。そのときにはもう、君に惹かれていたと思う。

 翌週、約束通りに図書館で会った私たちは、帰り道にふたりでカフェに寄って、連絡先の交換をした。
 毎週末図書館で会って、帰り道にあるカフェで本や映画の話をする。気付けばそれが、私たちふたりのあたりまえになっていった。
 君との本の趣味は他人とは思えないくらいにぴったりだった。それに、穏やかな低音の声や物腰の柔らかな話し方が私にはとても心地がよくて。君の話なら、何時間だって聞いていられた。
 夕方までカフェで一緒に過ごして手を振って別れたあとは、すぐに次の週末が恋しくて仕方なくなる。君も同じ気持ちだったと知らされたときには、出会ってから二ヶ月が過ぎていた。
 やがて私たちは、図書館とカフェ以外でもふたりで会うようになった。少しずつ少しずつ距離を縮めていった私たちが結婚を意識するようになったのは、とても自然な流れだった。

 結婚をしてからの君との日々は、それまで以上に輝いていて、喜びと幸せに満ちていた。
 新居は、ふたりが出会った市立図書館まで歩いていける距離にある新築のマンションにした。午前中に日当たりが良い、明るくて理想的な部屋だった。
 ふたりで暮らし始めた私たちの日常は、それまでとは劇的には変わらなかった。
 月に何度か図書館で本を借りてきては、リビングのソファーにふたりでくっついて座って、それぞれに読書を楽しむ。
 本を睨みながら、君は難しげに眉を寄せたり、僅かに肩を揺らして口元を緩めたりする。君の百面相をこっそりと盗み見るのも、読書の時間の醍醐味だった。
 ふたりで暮らすようになってから変化があったとすれば、これまで以上に絵本や児童書のコーナーが気になるようになったことだろう。
大人になってから改めて絵本や児童書を手に取ると、懐かしい話や深く考えさせられる話がたくさんあった。タイトルだけ知っていた未読の良作も多かった。
 図書館にやってくる子ども以上に夢中になって閲覧コーナーに入り浸っていたら、他のコーナーで本を探していた君が、必ず私を見つけてくれる。
「いつか子どもが生まれたら、絵本をたくさん読んであげたい」
 あれも、これもと。まだ顔すらわからない将来の子どものために絵本のリストを作る私を、君は優しい目で見つめて「気が早い」と笑っていた。
 穏やかで、幸せな日々だった。
 幸せで、幸せで。幸せすぎて麻痺しそうなくらいに。君との毎日に満たされていた。
 そんな日々の中で、しばらくして妊娠が判明した。
 赤ちゃんを授かったことを伝えたときの君は、みるみるうちに泣きそうな顔になって、数えきれないくらいの「ありがとう」の言葉を何度も私に伝えてくれた。
「まだ産まれてもいないのに、気が早い」
 そんな君を抱きしめながら、私は確かで明るい未来を想像して笑い転げた。
 この子が産まれてくる日、感激屋の君はどれほどの涙を流すのだろう。考えるだけで可笑しくて、愛おしくて仕方なかった。
 妊娠の喜びに浸っていたのもつかの間。すぐに悪阻が始まった。匂いに敏感になり、食べてもすぐに吐いてしまう。悪阻の吐き気は昼夜関係なく起こり、大好きだった甘いものにも全く手が伸びなくなった。
 買い物や食事の用意、簡単な家事すらままならず、軽い船酔いのような不快感と眠気に一日中襲われた。
 大好きだった図書館に通うことすら億劫になって、私が一日中何もせずに過ごすようになっても、君は変わらずにそばで寄り添ってくれていた。
 妊娠五ヶ月が過ぎてようやく悪阻が治まると、少しずつ私の生活リズムは安定し、また君と一緒に図書館に行けるようになった。
 お腹の膨らみはまだほとんど目立たないけれど、わずかに胎動らしきものも感じられるようになった。それを伝えたら、君は自分がその不思議な感覚を持てないことをひどく悔しがっていた。
 早ければ、そろそろ赤ちゃんの性別がわかる。男の子でも、女の子でも、君に似た穏やかで優しい子になってほしい。
 君と私と赤ちゃんと。三人で暮らす、これからの日々が楽しみだった。
 この先にあるのは、眩しく輝く未来。君とずっと、いつまでも笑い合う。それ以外の道はないと思っていた。
 つい、三日前までは――。

 六ヶ月の妊婦検診を終えて家に帰ってきた私は、いつもより少し興奮気味だった。
 まだ確定ではないけれど、赤ちゃんの性別が判明したのだ。
 すぐにでも君に電話したい気分だったけれど、きっとまだ昼休みにすら入っていない。
『性別、わかったよ! 家に帰ってきたら発表するから、どっちか想像しといてね』
 大事なことだから、君に直接伝えたい。そう思ってメッセージを送る。
 けれど、普段なら昼休みや仕事の休憩中にメッセージをくれる君から応答がない。
 忙しいのだろうか。何度もスマホを確かめては妙な胸騒ぎを感じていると、突然知らない番号からの着信があった。
 電話をかけてきたのは君の会社の同僚を名乗る人で、営業先から帰った君が社内で倒れたことをひどく動揺した様子で伝えてきた。
 出勤時も外出前も、君の様子に変わりはなかったのに。本当に突然、頭痛を訴えたかと思うと、倒れて意識を失ったという。
 君が運ばれたという病院名をメモしながら、電話の向こうから聞こえてくる人の声がが少しずつ遠くなっていく。
 頭が鈍って、うまく思考が回らない。
 そのときの記憶は、あとになっても曖昧で。自分がどんな受け答えをして、その後どうやって君が運ばれた病院まで辿り着いたのか。何ひとつとして覚えていない。
 覚えているのは、暗く寂しい病院の廊下で、祈るように君が目覚めるのを待ったこと。
 君の両親と、身体を寄せ合って固く手を握り合って。ただ、君のことばかりを考えた。
「心配かけてごめん」と、私に笑いかける君を。閉じられた無機質な白いドアの向こうから、何事もなかったように顔を覗かせる君を。
 考えて考えて、祈り続けたのに。
 君はそのまま、目を覚さなかった。

 君がいなくなったあと、身内と君に近かった人たちだけで、小さなお通夜と葬儀が行われた。
 お焼香の匂いも、棺の前で唱えられるお経も、どこか別世界から届いきているかのように遠い。
 遺影の中で笑っている君が、偽物みたいだ。
 お通夜が済んで、翌日の葬儀が終わっても、私の目に涙が浮かぶことはなかった。
 それでも青白い顔をして憔悴しきった様子の私に、参列者はみんな同情の言葉をくれた。
 そのどんな言葉も、私の心を掠めては通り過ぎていく。
「本当に悲しすぎると、涙もうまく出ないわね……」
 葬儀中も茫然と立ち尽くすばかりの私に、君のお母さんは悲しそうな顔でそう言った。君のお母さんも、病院で一度泣いたきり、涙を流していなかった。
 けれど、綺麗な顔で眠る君と最後のお別れをして棺の蓋が閉められたとき、君のお母さんはついに絶叫のような泣き声をあげて蹲ってしまった。
 目を腫らして涙を必死に堪えていた君のお父さんが、嗚咽を漏らし続けるお母さんの肩を抱く。その悲痛な声に、私も胸を締め付けられるほどに苦しくなった。
 悲しくて苦しくてどうしようもないのに、頭の理解に心が少しも追いつかない。君のお母さんの背中を見つめながら、私は結局最後まで涙のひとつも零せなかった。
 呼びかけても目覚めない君を見ても、冷たくなった君の肌に触れても、小さな骨になってしまった君を拾いあげても。まるで実感がわかない。
 見えるもの、聞くもの、触れるもの。そのすべてに現実感がない。
 君の笑顔が見られないなんて、君の声が聞こえないなんて、君の手に触れられないなんて。もうどこにも君がいないなんて。
 そんなの全部、夢だったらいい。




 ジリリリリ……と、ベッドの横のサイドボードに置かれた目覚まし時計が鳴り始めた。
 窓の向こうに見える空は、日が昇ってすっかり明るくなっている。
 サイドボードの目覚まし時計が鳴るのは、毎朝七時十五分。朝の苦手な君が、起きなければいけないギリギリの時間だ。
 スマホのデジタル時計の時刻は既に七時十八分。毎朝同じ時間に時を告げる目覚まし時計の針は、きっかり三分遅れている。
 それを知っていながら、君は頑なに、アナログの目覚まし時計が七時十五分を告げるまでは起きてこない。
 欠伸をしながら寝室を出てくる君に私が呆れ顔を向ける度、君は笑ってこう言った。
「だって、三分得した気分になるだろ」
 得意げに笑うその顔を、私は二度と見られない。
 ジリリリリ、ジリリリリ……と、目覚まし時計の鳴る音が、少しずつ大きくなっていく。
 ほら、時間だよ。私の代わりに早く止めてよ。
 君が目を覚まさないから。君が止めてくれないから。
 寝室に響く、目覚まし時計の音が鳴り止まない。
 鼓膜に煩く響いて、止まらない。
 催促するように、ますます大きな音で鳴り立てる目覚まし時計。
 いつまでも鳴り止まないその音を聞きながら、もう君が私の隣で目を覚すことは二度とないのだと、強く思い知らされた。
 私の未来に、もう君はいない。幸せな日々は、糸を切るようにぷっつりと、あっけなく途絶えてしまった。
 突然、瞼が燃えるように熱くなる。そこに被せた掌が、ぬるりとした涙で湿った。
 君のことが好きだった。君と、君と過ごした全ての時間を愛してた。
 どんなことだって隠し立てなく伝えてきた君に、まだ教えてあげられていないことがひとつだけある。
 赤ちゃんの性別、男の子だったよ。
 私がそれを伝えたら、君がどんな反応をするか楽しみだった。男の子だったらこうしよう、女の子だったらこうしたい。そんな想像を、この頃は毎日のようにふたりで話し合っていたから。
 どんな漢字をいれるのか、どんな響きが耳に馴染むか。赤ちゃんの名前の相談だってしたかった。
 産まれてきた赤ちゃんに会った君が、私の予想通りに号泣するのを見て笑いたかった。
 君と一緒に、産まれてくる子の成長をずっと見守っていきたかった。
 だけど、それはもう叶わない。
 ジリリリリ、と目覚まし時計がけたたましい音をたてる寝室で、私はそれをかき消すほどの大声をあげて泣いた。
 声が掠れるくらいに。喉が腫れるくらいに。
 もしかしたら、君が気付いてこの音を止めてくれるかもしれない。そのことだけを、ひたすらに願って。
 けれどそんな願いも虚しくいつしか私の声は枯れ、目覚まし時計の音も鳴り止んでいた。
 音の無くなった部屋で仰向けに寝転び、白い天井を無感動に見つめる。ただ息だけをしていると、不意にお腹がぐにゅりと今までで一番はっきりとわかるくらいに動いた。
 はっとしてお腹に手をあてると、またさっきと同じようにぐにゅりと動く。
「励ましてくれてるの?」
 掠れた声で問いかけたら、手の下に小さな反応が返ってきた。
 きっとこの子は、君に似てとても優しい。
 一度は止まったはずの涙が、目尻に溜まって頬を流れた。
 私の中に宿る小さな小さな希望が、確かな意志を持って、絶望の淵から私を引き上げようとする。
 泣きたいほどに悲しくても、声が枯れるほどに辛くても、君が不在の未来はこれからもずっと続いていく。君がいなくても、私の目の前には歩かなければいけない道がある。
 あと少しだけ泣いたら、起き上がろう。うまく歩けないかもしれない。何度も転ぶかもしれない。
 それでも、君のいない全ての時間を、君の分まで愛せるように。
 君が残した未来とともに。

Fin,