「すみません。布巾をいただけますか」

 この敬語にも、慣れたものだ。
 記憶を無くした幹夫さんにとって、私はもう妻では無い。ただのホームヘルパーに過ぎないのだ。

 「今すぐ持っていきますね」
 微笑みながらそう答え、布巾を手渡す。

 「ありがとう」と答えた幹夫さんの目はしわくちゃで、共に過ごした年月の長さを痛感する。

 私は、幹夫さんの目が大好きだった。少したれ気味な切れ長の目から覗く、大きな黒目。いつの日か幼い頃、飛び出す絵本で見た猫の目に似ていた。紫の縞模様をした冷徹な猫、のように、第一印象は冷たい人だった。

 それは社会人1年目のこと。
 幹夫さんは化粧品会社の上司として現れた。

 「はじめまして。堀田昌美と申します。よろしくお願いします。お仕事があれば何でも言って下さい」
 私は新入社員らしく元気に頭を下げたつもりだった。しかし。

 「木田幹夫です。仕事は自分で見つけるものです。考えが甘い」
 一瞬私に向けられた目は、非常なまでに冷徹に見えた。

 それからはほとんど関わりが無かったが、1年後、私は幹夫さんのいる営業部に配属になった。部長として部下に厳しい口調で話す幹夫さんを見ては、「嫌だ嫌だ」と同僚に零していた私に転機が訪れたのは、ライバル社が台頭してきた時である。

 ライバル社が、当時絶大な人気を誇った海外の化粧品メーカーとタッグを組み、新ブランドを立ち上げた。大目玉のファンデーションは、女優の三上さんをコマーシャルに起用したことで、女性は皆その虜になったのである。
 それに伴い、我が社の売り上げは低迷した。

 私と幹夫さんは、百貨店に足を運ぶ度、数字以上の屈辱を味わった。その不況を切り抜けようと協力していた最中、幹夫さんの持つ本来の優しさに気が付いていったのである。