「昔、旅の一座がやって来た。しばしこの村に逗留し、周囲の村や市を回っていたその一座には、花形の歌い手として十を越したくらいの娘が居た。お披露目の合間にも歌の稽古に励もうと、村じゅうを歩き回ってそこの──」
古老はそこであの森に目を向ける。
「森に、向かったのですね」
言わずとも真意を汲んだ僧侶に古老は頷く。
「あの森の奥には池がある。澄んではいるが底の見えぬ池よ。誰も立ち入らぬ池のほとりに娘の歌が響く。するとどうしたことか……」
古老は目を伏せる。皺に埋もれそうな瞼は何かを躊躇っていたが、やがて目をゆっくりと開いた。
「池のヌシが、音色につられて顔を出した」
「ヌシ?」
僧侶は怪訝な顔で聞き返す。古老は確かに頷いた。
「それは……池のほとりに住まいを構える方のことでしょうか。雨乞いなどの際に神事を取り仕切るようなお役目の」
「違う違う。揺るがぬ水面の真下、水底に沈み、じっとただそこに棲むだけの、神かあやかしかもわからぬ、この世ならざる存在──ヌシだ」
「それで、娘さんは」
「それはもう……驚いたろう」
──誰!
──人の子よ。逃げるな。その響き、たんと吾に聞かせよ。
──あなた、誰なの。
──答えたところで人の子には知らぬモノ。さ、歌え。吾は気が急いている。
──…………わかった。
「ヌシは眠りを邪魔したからと害することもなく、むしろもっと歌を聞かせてくれとせがみおった」
「音曲を解するモノだったのですね」
「物珍しかっただけやもしらん……とにかく娘は歌った。ヌシは聞いた。そんな日々はしばらく続いた」
──人の子よ、また来たな。良い。歌え。この水面を揺らす響きを、吾は所望する。
──お金、もらわないのに歌うなって、座頭に言われてるのに……でも、いいのかな……?
──人の子の分際で対価を欲するか。水底でちゃらちゃらと煩い金の粒でもくれてやろうか。
──えっ! ……いや、いらない、です。こわい……
──なら無駄口をきかず早う歌え。
「それはまた、お伽噺にでもなりそうな……心温まる交流ですね」
古老は形容しがたい表情で頷く。
「お若い人にはそう聞こえるか。しかし、温まるような心を、周りは与えてくれなんだ」
「周りに? そういえば一座の他の方々は、池のことをご存知で……?」
「一座が池に立ち入ったとは聞かん。おそらくヌシが遠ざけておったのだろう。ある日、市で流行病にかかった娘は喉をやられた。声を──歌を、失ってしまった」
僧侶の顔が強ばる。
古老は頷いた。
「花形の歌がなけりゃあ商売あがったりよ。しばらくは休ませていたそうだが、すぐに治る見込みが無いとわかると、一座は別の娘を歌い手に立てた」
僧侶は唇を引き結ぶ。
「一座を追い出され、商売道具の喉が役に立たないようじゃ宿代も払えやしない。この村でしばらくは面倒を見たが……伏せってばかりの子をいつまでも養うほどには……豊かでなくて、な」
言い訳めいた語りに僧侶は古老を見つめるも、すぐに視線を外して俯いた。
同情だけで腹は膨れぬ。
先立つものが無ければ治療もできぬ。
経を唱えるだけでは何も救えぬと突きつけられているようで、僧侶は歯噛みすることしかできない。
「……娘さんは、池へ?」
「ああそうだ。面倒を見てやっていた夫婦が何か憂いていたのを耳にしてしまったんだろう。もう行く宛てがないと──池のほとりでわんわん泣いた」
──やかましい。泣く暇があれば歌え。
──うたえ、ない。こえ、でない……っ
──……病を得たか。ささくれだった古木の皮の如し、酷い声だ。
「ヌシは彼女を哀れんだ」
「それは……人ならぬモノにも心がありましょうか」
「一座を背負う花形とはいえ、まだ幼い。家族もおらぬ。一座からも見放され、その心細さは計り知れぬだろう」
僧侶は池のほとりでしゃくりあげる娘に思いを馳せる。ぽたりぽたりと大粒の涙を草むらに落として、浅い呼吸で己の境遇を嘆く幼い背中。
「喉さえ治れば、どこか別の一座で活躍もできるでしょうが……薬どころか今日の宿も、いいえ、食事すら摂れぬ幼子には、何をどうすることもできぬ、と」
池のほとりの草むらで倒れ伏す、痩せっぽちの枯れ枝のような娘。
ざんばらの髪、暗い瞳、次第に動かなくなるその体躯。
朽ち果てるのを待つしかない末路が音もなく忍び寄る気配に、僧侶は袖の中で数珠を握りしめ、口の中で経を唱える。
「そこで果ててしまったなら──幸せだったろうに、なあ?」
僧侶の思考を読んだように古老が続ける。
僧侶は顔を上げて大きく目を開いた。
「まだ、続きがあるのですか」
「ああ。ヌシはな、娘を、否、歌をそのまま朽ち果てさせることを良しとせんかった。だから──」
──人の子よ。歌いたいか。
──…………うん。
──そうか。それを望むか。
「今までになく優しい口調で問いかけたヌシは、にんまりと口を歪めた」
──人の子よ。願いを叶えてやろう。その代わり、吾の願いも叶えるのだ。
「答えを求めぬ問いかけだったが、娘は涙の筋が残る頬を擦って頷いた」
──吾は一番近くでお前の歌を聞きたい。これより先はその声を絶やすこと、認めぬ。
──わかっ、た。げんきに……なる。この村で、がんばる……
「虚ろになっていた娘は、ヌシの願いで励まされ、立ち直ろうとしておった。娘が望むように、体を治してやり直せれば……いいや、これを言っても詮無きことよ」
健気な娘の決意に、ヌシは不思議そうに首を傾げた。
──この村で? 何を言うておる。吾は“一番近くで歌を聞かせよ”と言うたがな。
──え?
「ヌシは池からざぱりと上がると、娘をぱくりと丸呑みしてしまった」
──……♪、♪♪…………おお、これは良い。歌声が肚の底に響くようだ。おおい、聞こえるか。願い通り、歌わせてやろうぞ。吾の一番近くでな。
娘の声で喉を震わせたヌシは、機嫌良く池を揺らすとまた水底へ戻っていった。
「歌い続けたいという願い。歌声を聞き続けたいという願い。双方が叶ってしまったあの池は、今や魔に魅入られた聖地。時たま、ああして歌が響くと皆家に籠りおる。音に惹かれたヌシに呑まれぬようになあ。歌っておるのは娘かヌシか……いずれ、この世のものではありゃせんわな」
古老はかぶりを振って話し終えると、喉を使いすぎたのか大きく咳き込んだ。
僧侶が先程のように竹筒を差し出す。今度は古老も受け取った。
「にわかに信じ難くはあるだろうが、そういう言い伝えがあるゆえに、そなたの草笛に水を差したというわけよ」
「……左様、でしたか」
竹筒を返す古老を断り、僧侶はすっと姿勢よく立ち上がった。
「長々と失礼致しました。ですが、お陰でこの道行きにも光が射した心持ちです」
「そうか。そういえば……お坊さんは何処へ旅してるのかい」
「宛所ない旅でございます」
僧侶は古老の方を向かずに答えた。
「幼い頃に生き別れ、何処で果てたかも知れぬ妹の供養でございます」
「…………それは」
古老の相槌めいた呟きを息継ぎに、僧侶は彼方にぼんやりと目を遣り話し続ける。
「痘瘡に倒れたわたしの枕元で、怯えもせずに子守唄を歌ってくれた、年の離れた優しい妹でした。ひとり息子のわたしは家を継ぐお役目がございましたが、あの子には何もなかった。薬代のために売られたと知って、床の上がらぬ内からどれほど泣いて暴れたことでしょうか」
古老は僧侶を見上げる。顔を向けていなくとも、その顔に残ったあばたはしっかりと古老の目に焼きついている。
運良く快癒しても残る痘痕は、冥府に招かれた動かぬ証なのだ。
「むごい……否、親御さんとて、そなたを失いたくなかった親心だったはず。しかし、なにゆえ幼子が天秤にかけられねばならぬのか……」
絞り出すような古老の声音に、僧侶は目を伏せる。
「父の決意も、母の苦悩もわかってはいました。しかし、そのままのうのうと家を継いではあの子の犠牲を踏み台にして生きていくようで居たたまれず、結局わたしは出奔しました。自暴自棄になっていたところをとある雲水に拾われ得度し、妹を忘れぬことが修行と諭されましたが……妹には、どれほど謝ったとて足りませぬ」
僧侶の頬をひとすじ伝うものがあった。それを拭うこともせずに佇む彼と、ひたすらに静寂に耐える古老。
時折風が吹き抜ける内に暮れなずむ空は、ただただ静かに森を橙色に染めていく。
「あなたの話を聞いて、娘さんがよもや妹ではなかろうかと思いました。年月の帳尻が合うかどうかは些末なこと。たとえそうであろうとなかろうと、こうして耳にしたからには、どちらの娘も我が妹として、供養の旅を続けることと致します」
御身大切に、と結び、網代笠を目深に被り直した僧侶は村の外れへと歩き出す。
しゃん、しゃんと規則正しい錫杖が次第に遠ざかる。
その小さくなる背中を見守る古老は幾度かためらいながらも、やがておそるおそる手を伸ばした。
古木の樹皮のようにがさつき、からからに枯れた声では、その背に届かない。
──にいさま。
絞り出したそのひとことを最後に、古老の姿は忽然と消えた。辺り一面には、たらいをひっくり返したような水たまりが残るだけ。
やがて、水たまりを中心とした蜘蛛の巣状の飛沫からひとすじの流れが分かたれた。それは畦道に染み込むことなく、這うように土の上をするすると流れていく。
やがて森の奥に至ったそれは、鏡のように動かぬ水面を抱く池の、澄んでいるくせに底の見通せぬ水底の、じっと佇む吾の肚に還ってきた。
口を開ければあの歌声が水底から湧きいでて、泡となって水面を揺らす。
これで良い。
どうだ。あのがさがさと聞き苦しい枯れた声などより、遠く遠く何処までも、森の外にまで届くこの歌声は。
ずっと歌い続けたいと、願った通りになっただろう。
吾の肚の中なら、いつまでも時は刻まれることなくお前は瑞々しいまま。
それを兄の草笛につられて飛び出すものだから、斯様に時が噴き出してお前を覆い潰してしまうのだ。
愚かな娘。愚かで愛しい吾の歌娘。
またひとつ、お前の願いは叶ったな。
その代わり、永遠に歌い続けて貰わねばな。
──……嗚呼、良い声だ。
しかしなにゆえ、今宵の歌は切なく響く。
兄に聞かせるためか。
兄に気づいて貰うためか。
今や吾の肚で過ごした時の方が、池の外で過ごした年月より長いというに。
人の子であった頃より、遥かに永く歌ってきたというに。
縁に果ては無いものか。
村を抜け、山道に至る僧侶の耳にも、この旋律は響くだろう。
もはや人の耳には捉えきれぬ言の葉で編まれた歌。
しかし吾にはわかるぞ。
肚の中から奏でているのは遠い昔の子守唄だろう。
縁に果てがないのなら、あの僧侶はこれを聞き取れるのか──
のう娘、お前はどう思う?
古老はそこであの森に目を向ける。
「森に、向かったのですね」
言わずとも真意を汲んだ僧侶に古老は頷く。
「あの森の奥には池がある。澄んではいるが底の見えぬ池よ。誰も立ち入らぬ池のほとりに娘の歌が響く。するとどうしたことか……」
古老は目を伏せる。皺に埋もれそうな瞼は何かを躊躇っていたが、やがて目をゆっくりと開いた。
「池のヌシが、音色につられて顔を出した」
「ヌシ?」
僧侶は怪訝な顔で聞き返す。古老は確かに頷いた。
「それは……池のほとりに住まいを構える方のことでしょうか。雨乞いなどの際に神事を取り仕切るようなお役目の」
「違う違う。揺るがぬ水面の真下、水底に沈み、じっとただそこに棲むだけの、神かあやかしかもわからぬ、この世ならざる存在──ヌシだ」
「それで、娘さんは」
「それはもう……驚いたろう」
──誰!
──人の子よ。逃げるな。その響き、たんと吾に聞かせよ。
──あなた、誰なの。
──答えたところで人の子には知らぬモノ。さ、歌え。吾は気が急いている。
──…………わかった。
「ヌシは眠りを邪魔したからと害することもなく、むしろもっと歌を聞かせてくれとせがみおった」
「音曲を解するモノだったのですね」
「物珍しかっただけやもしらん……とにかく娘は歌った。ヌシは聞いた。そんな日々はしばらく続いた」
──人の子よ、また来たな。良い。歌え。この水面を揺らす響きを、吾は所望する。
──お金、もらわないのに歌うなって、座頭に言われてるのに……でも、いいのかな……?
──人の子の分際で対価を欲するか。水底でちゃらちゃらと煩い金の粒でもくれてやろうか。
──えっ! ……いや、いらない、です。こわい……
──なら無駄口をきかず早う歌え。
「それはまた、お伽噺にでもなりそうな……心温まる交流ですね」
古老は形容しがたい表情で頷く。
「お若い人にはそう聞こえるか。しかし、温まるような心を、周りは与えてくれなんだ」
「周りに? そういえば一座の他の方々は、池のことをご存知で……?」
「一座が池に立ち入ったとは聞かん。おそらくヌシが遠ざけておったのだろう。ある日、市で流行病にかかった娘は喉をやられた。声を──歌を、失ってしまった」
僧侶の顔が強ばる。
古老は頷いた。
「花形の歌がなけりゃあ商売あがったりよ。しばらくは休ませていたそうだが、すぐに治る見込みが無いとわかると、一座は別の娘を歌い手に立てた」
僧侶は唇を引き結ぶ。
「一座を追い出され、商売道具の喉が役に立たないようじゃ宿代も払えやしない。この村でしばらくは面倒を見たが……伏せってばかりの子をいつまでも養うほどには……豊かでなくて、な」
言い訳めいた語りに僧侶は古老を見つめるも、すぐに視線を外して俯いた。
同情だけで腹は膨れぬ。
先立つものが無ければ治療もできぬ。
経を唱えるだけでは何も救えぬと突きつけられているようで、僧侶は歯噛みすることしかできない。
「……娘さんは、池へ?」
「ああそうだ。面倒を見てやっていた夫婦が何か憂いていたのを耳にしてしまったんだろう。もう行く宛てがないと──池のほとりでわんわん泣いた」
──やかましい。泣く暇があれば歌え。
──うたえ、ない。こえ、でない……っ
──……病を得たか。ささくれだった古木の皮の如し、酷い声だ。
「ヌシは彼女を哀れんだ」
「それは……人ならぬモノにも心がありましょうか」
「一座を背負う花形とはいえ、まだ幼い。家族もおらぬ。一座からも見放され、その心細さは計り知れぬだろう」
僧侶は池のほとりでしゃくりあげる娘に思いを馳せる。ぽたりぽたりと大粒の涙を草むらに落として、浅い呼吸で己の境遇を嘆く幼い背中。
「喉さえ治れば、どこか別の一座で活躍もできるでしょうが……薬どころか今日の宿も、いいえ、食事すら摂れぬ幼子には、何をどうすることもできぬ、と」
池のほとりの草むらで倒れ伏す、痩せっぽちの枯れ枝のような娘。
ざんばらの髪、暗い瞳、次第に動かなくなるその体躯。
朽ち果てるのを待つしかない末路が音もなく忍び寄る気配に、僧侶は袖の中で数珠を握りしめ、口の中で経を唱える。
「そこで果ててしまったなら──幸せだったろうに、なあ?」
僧侶の思考を読んだように古老が続ける。
僧侶は顔を上げて大きく目を開いた。
「まだ、続きがあるのですか」
「ああ。ヌシはな、娘を、否、歌をそのまま朽ち果てさせることを良しとせんかった。だから──」
──人の子よ。歌いたいか。
──…………うん。
──そうか。それを望むか。
「今までになく優しい口調で問いかけたヌシは、にんまりと口を歪めた」
──人の子よ。願いを叶えてやろう。その代わり、吾の願いも叶えるのだ。
「答えを求めぬ問いかけだったが、娘は涙の筋が残る頬を擦って頷いた」
──吾は一番近くでお前の歌を聞きたい。これより先はその声を絶やすこと、認めぬ。
──わかっ、た。げんきに……なる。この村で、がんばる……
「虚ろになっていた娘は、ヌシの願いで励まされ、立ち直ろうとしておった。娘が望むように、体を治してやり直せれば……いいや、これを言っても詮無きことよ」
健気な娘の決意に、ヌシは不思議そうに首を傾げた。
──この村で? 何を言うておる。吾は“一番近くで歌を聞かせよ”と言うたがな。
──え?
「ヌシは池からざぱりと上がると、娘をぱくりと丸呑みしてしまった」
──……♪、♪♪…………おお、これは良い。歌声が肚の底に響くようだ。おおい、聞こえるか。願い通り、歌わせてやろうぞ。吾の一番近くでな。
娘の声で喉を震わせたヌシは、機嫌良く池を揺らすとまた水底へ戻っていった。
「歌い続けたいという願い。歌声を聞き続けたいという願い。双方が叶ってしまったあの池は、今や魔に魅入られた聖地。時たま、ああして歌が響くと皆家に籠りおる。音に惹かれたヌシに呑まれぬようになあ。歌っておるのは娘かヌシか……いずれ、この世のものではありゃせんわな」
古老はかぶりを振って話し終えると、喉を使いすぎたのか大きく咳き込んだ。
僧侶が先程のように竹筒を差し出す。今度は古老も受け取った。
「にわかに信じ難くはあるだろうが、そういう言い伝えがあるゆえに、そなたの草笛に水を差したというわけよ」
「……左様、でしたか」
竹筒を返す古老を断り、僧侶はすっと姿勢よく立ち上がった。
「長々と失礼致しました。ですが、お陰でこの道行きにも光が射した心持ちです」
「そうか。そういえば……お坊さんは何処へ旅してるのかい」
「宛所ない旅でございます」
僧侶は古老の方を向かずに答えた。
「幼い頃に生き別れ、何処で果てたかも知れぬ妹の供養でございます」
「…………それは」
古老の相槌めいた呟きを息継ぎに、僧侶は彼方にぼんやりと目を遣り話し続ける。
「痘瘡に倒れたわたしの枕元で、怯えもせずに子守唄を歌ってくれた、年の離れた優しい妹でした。ひとり息子のわたしは家を継ぐお役目がございましたが、あの子には何もなかった。薬代のために売られたと知って、床の上がらぬ内からどれほど泣いて暴れたことでしょうか」
古老は僧侶を見上げる。顔を向けていなくとも、その顔に残ったあばたはしっかりと古老の目に焼きついている。
運良く快癒しても残る痘痕は、冥府に招かれた動かぬ証なのだ。
「むごい……否、親御さんとて、そなたを失いたくなかった親心だったはず。しかし、なにゆえ幼子が天秤にかけられねばならぬのか……」
絞り出すような古老の声音に、僧侶は目を伏せる。
「父の決意も、母の苦悩もわかってはいました。しかし、そのままのうのうと家を継いではあの子の犠牲を踏み台にして生きていくようで居たたまれず、結局わたしは出奔しました。自暴自棄になっていたところをとある雲水に拾われ得度し、妹を忘れぬことが修行と諭されましたが……妹には、どれほど謝ったとて足りませぬ」
僧侶の頬をひとすじ伝うものがあった。それを拭うこともせずに佇む彼と、ひたすらに静寂に耐える古老。
時折風が吹き抜ける内に暮れなずむ空は、ただただ静かに森を橙色に染めていく。
「あなたの話を聞いて、娘さんがよもや妹ではなかろうかと思いました。年月の帳尻が合うかどうかは些末なこと。たとえそうであろうとなかろうと、こうして耳にしたからには、どちらの娘も我が妹として、供養の旅を続けることと致します」
御身大切に、と結び、網代笠を目深に被り直した僧侶は村の外れへと歩き出す。
しゃん、しゃんと規則正しい錫杖が次第に遠ざかる。
その小さくなる背中を見守る古老は幾度かためらいながらも、やがておそるおそる手を伸ばした。
古木の樹皮のようにがさつき、からからに枯れた声では、その背に届かない。
──にいさま。
絞り出したそのひとことを最後に、古老の姿は忽然と消えた。辺り一面には、たらいをひっくり返したような水たまりが残るだけ。
やがて、水たまりを中心とした蜘蛛の巣状の飛沫からひとすじの流れが分かたれた。それは畦道に染み込むことなく、這うように土の上をするすると流れていく。
やがて森の奥に至ったそれは、鏡のように動かぬ水面を抱く池の、澄んでいるくせに底の見通せぬ水底の、じっと佇む吾の肚に還ってきた。
口を開ければあの歌声が水底から湧きいでて、泡となって水面を揺らす。
これで良い。
どうだ。あのがさがさと聞き苦しい枯れた声などより、遠く遠く何処までも、森の外にまで届くこの歌声は。
ずっと歌い続けたいと、願った通りになっただろう。
吾の肚の中なら、いつまでも時は刻まれることなくお前は瑞々しいまま。
それを兄の草笛につられて飛び出すものだから、斯様に時が噴き出してお前を覆い潰してしまうのだ。
愚かな娘。愚かで愛しい吾の歌娘。
またひとつ、お前の願いは叶ったな。
その代わり、永遠に歌い続けて貰わねばな。
──……嗚呼、良い声だ。
しかしなにゆえ、今宵の歌は切なく響く。
兄に聞かせるためか。
兄に気づいて貰うためか。
今や吾の肚で過ごした時の方が、池の外で過ごした年月より長いというに。
人の子であった頃より、遥かに永く歌ってきたというに。
縁に果ては無いものか。
村を抜け、山道に至る僧侶の耳にも、この旋律は響くだろう。
もはや人の耳には捉えきれぬ言の葉で編まれた歌。
しかし吾にはわかるぞ。
肚の中から奏でているのは遠い昔の子守唄だろう。
縁に果てがないのなら、あの僧侶はこれを聞き取れるのか──
のう娘、お前はどう思う?