君の居ない暮らしが、どうも慣れなかった。理由は何だろうか。
 目玉焼きは二つ。珈琲は二杯。ミルクと砂糖は存分に。花瓶の花は元気を無くした。「ただいま」の癖は抜けない。

 ソファに座り、間違えて作ってしまった甘ったるい珈琲を飲む。喉が痛む程の甘さだ。この感覚もこれで三回目。
 空いた右隣を見下ろす。ここに君が居たんだ。白い生地は冷たく、そこには温もりなど微塵も無かった。
 開け放たれた窓、風に吹かれたレースカーテンがふわりと靡く。それはあの時のヴェールを彷彿とさせ、チクッと胸に針が刺さった。薄桃色の頬が可愛らしいと思った筈だ。
 濃紺を深める空。カーテンの隙間から見えるのは、萎れつつある向日葵。
 君が好きだと言って育てていた彼女らを、私が殺してしまいそうだ。先日そう気付いてから水を遣った。実行日は三日だけ。
 忘れたい癖は抜けないのに新たな癖は中々付けられない。
 二人分の食事。二人分の食器。二人分の洗剤の量。棄てる物だけが増えていく。要らぬ物だけが増えていく。
 君が暮らしていた跡。それは片付けられずに居た。何度も挑戦したさ。でもその度に思い出に酔ってしまうのだ。
 君の物一つ一つに物語が張り付いていて、つい読み耽ってしまう。気付いたら時間が過ぎていて、手に持つ物にシミが付いていて、頬が濡れていた。
 私はまだ、もう居ない君の存在に縋っている。

 ふと思い立ち、腰を上げる。
 空になった重量のあるマグカップを机の上に残し、リビングの扉を開ける。短い廊下の途中、螺旋状の階段を重い足取りで上った。家には木の軋む音だけが連なっている。
 数歩歩いて、少し錆びた金色のノブを押し下げた。ゆっくりと扉を開く。すると花の甘い香りが肺を満たした。
 電気を付ける事も忘れ他の物には目もくれず一直線に向かうのは、大きな窓と向かい合う様に位置したアップライトピアノの元。薄暗い部屋の中、何よりも黒いそれにはこれまで一切触れずに居た物。明確な理由は無いが、どうにも触れられなかった。今では無い。そう誰かに囁かれている様だったからだろうか。
 しかし今は、彼女が呼んでいる様な気がした。私を見て。と、そう静かに泣いている様な気がした。だからここへ来てしまった。
 レースのトップカバーが掛かるピアノの上には、重厚な装飾が施された鏡が鎮座している。また物語の一ページを捲った。
 引越して来た当時、「ここに鏡を置くのは危ないからやめよう」そう何回も言った。その度に「絶対にここじゃなきゃ嫌だ」と断られて来たのだ。
 結局こちらが折れて、鏡はピアノの上に住むことになった。鏡が落ちたなんて話は一度も聞かないから大丈夫だったのだろう。
 埃っぽい蓋をゆっくりと開ける。艶のある鍵盤が顔を出した。おもむろに窓に背を向けて座る。そして気の向くままに音を奏でた。
 君が出していた柔らかな音とは程遠い音が部屋に溜まっていく。君がよく弾いている曲を弾く。どんなにあの音をイメージしても近付けない。同じ曲のはずなのに全く違う曲に聞こえるなど日常茶飯事だった。
 そんなこんなで、段々と音に溺れて行く。君との物語が鮮明に流れて行く。それと共に涙も頬を伝って行く。
 寂しさも超えて、ただ一つ。幸せだ。

 そんな淡い時間に、轟音が水を差す。

 反射的に後ろを向いた。暗い夜空に火が上って行く所が丁度見えた。
 パッと花が咲く。赤く丸い花だ。花が散って、また轟音が鼓膜を揺らす。また上る。また咲く。また散って、鳴く。
 何度も上り、パチパチと小さく爆ぜる花々は、かすみ草を彷彿とさせて少々笑顔が綻んだ。
 どうやら今日は花火大会だったらしい。去年は二人で河原まで行き花火を見た。君と見る花火はどこまでも美しかったよ。宝石が煌めく様に笑っていた顔をまだ覚えている。
 ふと鏡を見た。
「え……」
 間の抜けた声が漏れる。
 鏡にはまるで計算された様に花火が丁度収まっているではないか。そして、居るではないか。
「なんで」
 所謂、幽霊と言う物だろうか。しかしそれに恐怖を感じることは無かった。
 桃色のワンピース。明るい茶髪。小さな顔。口角の少し上がった薄い口唇。優しさに溢れた視線。どこを見ても見慣れた姿。待ち焦がれた姿だ。
「気付かれちゃいましたね」
 困り顔から紡がれるその可愛らしい声は、紛れも無く妻のものだった。忘れかけていたその声は、記憶の箱をこじ開ける。物語のページ数がどっと増えた。
 沢山の思い出が波となる。瑞々しく、淡い、水彩画の様なゆったりとした波だ。
「振り向かないでくださいね。話したい事があるんですよ」
 語尾が上がる話し方も、敬語が抜けないのも、小さな笑い声も、やはり好きだ。
「なんで、ここに?」
 鏡に向かって小さく問う。
「あなたの音が聞こえて来たからですよ。あとは、そうだ。花火を一緒に見たかったからです」
 依然状況は理解できないが、案外冷静に会話を交わす。

「君の居ない暮らしに慣れないんだよ。食事は二人分作ってしまうし、洗剤の量を間違えてしまうし。挙句、向日葵も枯らしてしまいそうだ」
「突然居なくなっちゃいましたからね。段々慣れて行けば良いんですよ。向日葵も、また植れば良いですしね」
「そうか。……忘れられないか」
「癖と思い出は一生付き纏う物です。それを忘れるのは難しい。ちょっとズレるけど、私は、私の事を忘れらないぐらいに愛してくれた事が嬉しいです」
 そう会話している間にも、一輪、また一輪と花が咲いては散って行く。
 間違い無く君は、愛に溢れていた。そう思う。これまでも、今も。何をするにもそこには愛が見え隠れしていた。
 君は優しく、暖かく、生きていた。
「そっちへ行きたいよ」
 心からの願いが口を滑る。
「今はダメです」
 分かっていた返答。
「忘れて前を向かなくちゃいけないのにどうしても君を思い出してしまう事が、もう辛いんだ」
 また零れた。
「辛ければしなくても良いです。忘れようとなんてしなくても良いです! あなたは生きてさえいてくれれば、他に何もしなくても良いですよ」
「なんで……」
 そんな言葉しか浮かばなかった。
「私からの最後のお願い、聞いてくれますか?」
 次の言葉。あらかた予想はできる。聞き入れたくは無い。しかし、なんの言葉も残さずに行ってしまった彼女の言葉だ。聞かなければならない。
「聞くよ」
 微笑みを浮かべ、優しい言葉が降りかかる。
「ただ生きていてください。それだけで充分です。愛してます」
「██――!」
 振り返ってしまった。
 もう一度鏡を見る。そこに君は居なかった。ただ夜空に花が咲いている。その景色だけが映っていた。
 何も考えず、虚ろに鏡を見ていた。遅れてやって来る轟音も小さく聞こえる。寂しくは無かった。愛しさだけが身体を支配していた。
 どこからか君の音が聞こえる。


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 二つの目玉焼き。二杯の珈琲。一杯にはミルクと砂糖を存分に入れる。
 寝ぼけた頭、またやってしまったと後悔する。だから水遣りはしよう。花瓶の花を買いに行こう。
 君の居ない暮らしに慣れなかった。理由は、


 まだ君の暖かさを感じていたいから。