*
「ヒロがいなくなったらショウジ、ひとりで寂しくなるわねぇ」
その日、ヒロは大男とおばさんに手伝われながら出かける準備をしていた。
車のトランクに次々と荷物を入れていく。私はダンボールの中、折りたたまれた洋服の上に座っていた。どこに連れていかれるのかはわからなかったけれど、考えてもしかたがないのでじっとヒロの様子を伺っていた。
ダンボールの下のほうには仲間たちもいて、その異様な雰囲気にそわそわしている。でもヒロがいるならどこにでもついていくという意気込みはみな一緒だった。
「まぁ、東京なんてその気になればいつでも会いに行けるからな。ヒロ、たまには電話しろよ」
「父さんもね。大学の夏休みは長いらしいからさ、またすぐ帰ってくるよ」
「いや、俺が行くよ。お前は片付けが下手だからなぁ。時間が経ったら家がどうなってるか、審査しに行ってやるよ」
ヒロはこの家を出て遠い場所で暮らしはじめるようだ。和気あいあいとした会話の中、ヒロたちは荷物を車に詰め込んでいく。
おばさんも一緒に小さなダンボールを運んでいる。そしておばさんが荷物をトランクに置いた瞬間、ぱちりと目が合った。
蔑むような視線が落ちてくる。
ふと、おばさんがまわりにヒロたちがいないことを確認した。
そして私の耳をつまむと、私とともに家の中へと引き返した。
ヒロたちが納戸と呼んでいる部屋へ入る。中は湿った空気が充満していて、この家にこんな暗い場所があったのかとはじめて知った。
おばさんは私を持って部屋の奥へ進むと、蜘蛛の巣の張った電化製品の箱と、折り畳まれたテーブルの隙間に差し込んだ。
そして部屋を出て、戸を閉める。私は闇の中に取り残された。
納戸の中はただひとつの光もなく、ここだけ時が止まっているかのようだった。
私は何時間もそこに座っていた。夜と思われる時間になっても人の気配を感じることはなく、やがて、納戸の中には外の音が届かないのだということに気づいた。
私は疑いようもないほどに、置き去りにされていた。
時間が経っても、ヒロは私を迎えに来ない。ヒロは今ごろ新天地にたどり着いただろうか。私がいないことに気づいただろうか。いや、山のような荷物に囲まれて、それどころじゃないのかもしれない。
でも、それでよかった。
私を忘れることこそが、ヒロの幸せだ。
私の役割は飼い主を幸せにすることだった。
あたたかく見守り、彼が落ち込んでいれば抱きしめ、勇気を与える。私がいなくともちゃんと生きていけるのであれば、なんの問題もなかった。
私がいてもいなくても、彼が幸せであればそれでいいのだ……。
頭の上に埃が降り積もる。
途方もない時間が流れていく。
退屈、という概念もなく、私はただそこに座り続けた。
〝ポム。こんな私のところに来てくれてありがとうね〟
なにもすることのない時間の中で、私はふたりの飼い主のことを思い返していた。
ひとり目の飼い主は、ずっと白い部屋のベッドで寝続けている人で、とてもやさしい心の持ち主だった。
〝私はもうすぐ死んでしまうの。悔しいよ。死にきれない。あの子を残していなくなってしまうなんて、耐えられない……。……でもこんな弱音、誰にも言えないの。だからポムがいてくれてよかったわ〟
ケイコ。泣いてはだめだ。
私は彼女の手を掴んだ。
私の役割は飼い主を幸せにすることだった。
ケイコが死の間際にいようとも、彼女を笑顔にすることが私の務めだ。
〝……ふふ。ポムはやさしいね。ねぇ、お願い。私がいなくなったらあの子のそばにいてあげて。本当はね、そのためにあなたを私のもとへお迎えしたの。悲しい理由でごめんなさい。でも、あの子にはひとつでも多く、寄り添えるものを残してあげたかったから〟
そういって微笑む彼女の表情は、とても気高く、忘れることのできない記憶となった。
そしてふたり目の飼い主は、ケイコとは違う、少し気弱な男の子だった。
〝ポム、一緒にトイレ来て〟
〝ポムってお母さんの匂いがするね〟
〝ずっとそばにいてね、ポム〟
それでも、時が経つうちにヒロは私がいなくても自分の道を歩けるようになった。
それは私にとって、とてもうれしいことだった。
私の役割は終わったのだ。
私の存在理由は、もう、なくなったのだ……。
途方もない時間が過ぎていく。
体の中に小さな虫が入り込んで、蝕んでいく感触がする。
この家にはまだ人間が——おそらく大男が住んでいるようで、時折この部屋に荷物を置きにきていた。ただ、部屋の奥にいる私からは納戸の入り口が見えないから、大男の顔すら確認できずにいつも戸は閉じられた。
闇の中で、飼い主の暮らしを想像した。
そこに〝寂しさ〟はなく、ただただ彼の幸せを願う気持ち、幸せを信じて疑わない想いだけがあった。
「ヒロがいなくなったらショウジ、ひとりで寂しくなるわねぇ」
その日、ヒロは大男とおばさんに手伝われながら出かける準備をしていた。
車のトランクに次々と荷物を入れていく。私はダンボールの中、折りたたまれた洋服の上に座っていた。どこに連れていかれるのかはわからなかったけれど、考えてもしかたがないのでじっとヒロの様子を伺っていた。
ダンボールの下のほうには仲間たちもいて、その異様な雰囲気にそわそわしている。でもヒロがいるならどこにでもついていくという意気込みはみな一緒だった。
「まぁ、東京なんてその気になればいつでも会いに行けるからな。ヒロ、たまには電話しろよ」
「父さんもね。大学の夏休みは長いらしいからさ、またすぐ帰ってくるよ」
「いや、俺が行くよ。お前は片付けが下手だからなぁ。時間が経ったら家がどうなってるか、審査しに行ってやるよ」
ヒロはこの家を出て遠い場所で暮らしはじめるようだ。和気あいあいとした会話の中、ヒロたちは荷物を車に詰め込んでいく。
おばさんも一緒に小さなダンボールを運んでいる。そしておばさんが荷物をトランクに置いた瞬間、ぱちりと目が合った。
蔑むような視線が落ちてくる。
ふと、おばさんがまわりにヒロたちがいないことを確認した。
そして私の耳をつまむと、私とともに家の中へと引き返した。
ヒロたちが納戸と呼んでいる部屋へ入る。中は湿った空気が充満していて、この家にこんな暗い場所があったのかとはじめて知った。
おばさんは私を持って部屋の奥へ進むと、蜘蛛の巣の張った電化製品の箱と、折り畳まれたテーブルの隙間に差し込んだ。
そして部屋を出て、戸を閉める。私は闇の中に取り残された。
納戸の中はただひとつの光もなく、ここだけ時が止まっているかのようだった。
私は何時間もそこに座っていた。夜と思われる時間になっても人の気配を感じることはなく、やがて、納戸の中には外の音が届かないのだということに気づいた。
私は疑いようもないほどに、置き去りにされていた。
時間が経っても、ヒロは私を迎えに来ない。ヒロは今ごろ新天地にたどり着いただろうか。私がいないことに気づいただろうか。いや、山のような荷物に囲まれて、それどころじゃないのかもしれない。
でも、それでよかった。
私を忘れることこそが、ヒロの幸せだ。
私の役割は飼い主を幸せにすることだった。
あたたかく見守り、彼が落ち込んでいれば抱きしめ、勇気を与える。私がいなくともちゃんと生きていけるのであれば、なんの問題もなかった。
私がいてもいなくても、彼が幸せであればそれでいいのだ……。
頭の上に埃が降り積もる。
途方もない時間が流れていく。
退屈、という概念もなく、私はただそこに座り続けた。
〝ポム。こんな私のところに来てくれてありがとうね〟
なにもすることのない時間の中で、私はふたりの飼い主のことを思い返していた。
ひとり目の飼い主は、ずっと白い部屋のベッドで寝続けている人で、とてもやさしい心の持ち主だった。
〝私はもうすぐ死んでしまうの。悔しいよ。死にきれない。あの子を残していなくなってしまうなんて、耐えられない……。……でもこんな弱音、誰にも言えないの。だからポムがいてくれてよかったわ〟
ケイコ。泣いてはだめだ。
私は彼女の手を掴んだ。
私の役割は飼い主を幸せにすることだった。
ケイコが死の間際にいようとも、彼女を笑顔にすることが私の務めだ。
〝……ふふ。ポムはやさしいね。ねぇ、お願い。私がいなくなったらあの子のそばにいてあげて。本当はね、そのためにあなたを私のもとへお迎えしたの。悲しい理由でごめんなさい。でも、あの子にはひとつでも多く、寄り添えるものを残してあげたかったから〟
そういって微笑む彼女の表情は、とても気高く、忘れることのできない記憶となった。
そしてふたり目の飼い主は、ケイコとは違う、少し気弱な男の子だった。
〝ポム、一緒にトイレ来て〟
〝ポムってお母さんの匂いがするね〟
〝ずっとそばにいてね、ポム〟
それでも、時が経つうちにヒロは私がいなくても自分の道を歩けるようになった。
それは私にとって、とてもうれしいことだった。
私の役割は終わったのだ。
私の存在理由は、もう、なくなったのだ……。
途方もない時間が過ぎていく。
体の中に小さな虫が入り込んで、蝕んでいく感触がする。
この家にはまだ人間が——おそらく大男が住んでいるようで、時折この部屋に荷物を置きにきていた。ただ、部屋の奥にいる私からは納戸の入り口が見えないから、大男の顔すら確認できずにいつも戸は閉じられた。
闇の中で、飼い主の暮らしを想像した。
そこに〝寂しさ〟はなく、ただただ彼の幸せを願う気持ち、幸せを信じて疑わない想いだけがあった。