*

「ううっ.....」


 肌に張り付くような蒸し暑さに少年は目覚める。真っ暗な空間で自身が目を開けていることに、まだ夜中だと悟る。


「また起きちまったか.....」


 少年は何度か寝返りを打ったが、一向に睡魔は訪れない。催眠できないと知ると諦めて体を起こした。スマホを見ると、草木も眠る五三つ時、ならぬ午後2時。


「散歩すっかぁ」


 少年は立ち上がり、そっと家を出た。玄関から出れば、生ぬるい風とは相反した紺碧の夜空が彼を迎え入れる。


 夜の街は神秘的だ。そのことを知ったのはつい最近。夜中に目覚め、徘徊のくせができてしまってからだった。昼間は騒音だらけの世界も、夜の帳が下りれば静寂へと変貌する。もちろん暗いのも好きだが、明かりのない場所で見える数えきれない星屑もまた、少年の心をときめかせた。


 空を見上げながら歩く少年の目に、きらりと何かが走る。


「?」


 立ち止まり、一点を見つめ続けるとまたきら
り。不思議がっていたものの、のちに思い出
す。


「今日は流星群の日か」


 年にそう多くない流星群。それも、肉眼で見ることが可能。自分は運がいい、なんて思いながら顔を上げていると、不意にあるものが視界に入った。暗がりで見えないが、必死に目を凝らして、ようやくその正体を知る。


「何だよ、あれ」


 それは人影。それも、明らかに在るべきではないという場所で揺らめいていた。


「やべっ」


 自分でも驚くほど瞬間的に少年は走り出す。また、影が揺らめく。周りと同じ闇なのに、そこだけはまた違った黒で彩られているように鮮明に見えた。影が前に倒れていく。体がどんどん道路の上へとはみ出す。


「間に合えっ……!」


 少年が次に瞬きした時、影は落下していた。
重力に引きつけられるがままに落ち、そのまま
アスファルトへと叩きつけ……、


「させるかぁ!」


 少年は地面を強く蹴り、腕をありったけ伸ばす。男子にしては細い腕が、見事に影をキャッ
手した。


「.....いっ!」


 しかし、やはり重さには耐えきれなかったらしい。少年はプルプルと腕が震えたまま倒れる。その拍子に影は少年から離れ、少年は顎を強打した。


「っっっ!」


 声にならない叫びが少年の中を駆け巡る。燃えるような痛みに思えていると。


「あ、あの.....」


 風が吹いてはかき消されてしまいそう儚さを感じさせる声が、少年にかかった。ヒリヒリとする顔を無理やりあげると、心配そうに見つめる少女がいた。


「す、すみません私のせいでっ!だ、大丈夫ですか......?」
「あ、ああ、大丈夫だよ、こんなの」


 少年は笑う。それが無理した表情だということも、少女は理解したらしい。


「あのっ、す、すぐ近くに公園があるので、そこに、行きませんか.....」か.....」
「?」
「あっ、いや、変な意味なんかじゃなくて……その、せめても怪我を冷やさないと.....」
「え、ああ。じゃあ行こう、か?」
「は、はい」


 少年は少女に案内された公園で、顎を冷水で冷やし、ついでに少女からハンカチを借りた。
それを顔に当てたまま、二人してベンチに腰掛ける。


「……あのさ」
「はいいっ!?」
「あ、ごめん。その、言いたくないならいいん
だけど……なんであんなことしたの?」
「あっ……」


 少女は複雑な表情を浮かべると、ただただ俯
いた。


「それは.....」


 何かを言おうとして、口をつぐむ。その行動を、彼女は何度か繰り返した。


『分かった、大丈夫だよ。無理に話さなくても』


 普通なら、少年はそう言うべきだろう。だが、彼はどうしても少女の本心が聞きたかった。というよりは、聞くべきだと思った。それも、彼女の口から。


『誰か、私の苦しみを知って……!誰か、ぶちまけさせてよ、この想い……っ!』


 脳内に響く少女の悲痛な叫びが、少年には届いていたから。じっと少年に見つめられた少女は、拳を握って、とうとう話を始める。


「私....死のうとしたんです。あそこから」
「死ぬって……つまり、自殺?」
「……はい」


 少女は少年から目を逸らしたまま頷く。なんとなく、予想はついていた。

 
「どうして?」
「なんか.....生きているのが嫌になっちゃって。いじめとかされてるわけじゃないんですよ?でも、自分なんて生きてていいのかなーって、そう思ったら、なんか苦しくなったんです。自分なんていても意味がない。唐突にそう思っちゃって」
「だから、自殺を図ったのか......?」
「はい」


 少女の頬にはいつの間にか透明な液が流れていた。


「馬鹿ですよね、そんな理由で死のうとするなんて。でも、本当なんです。だって、私なんかがいたって何か変わることなんてないでしょう?もう私なんて、消えた方がいいんです、自分のためにも、みんなのためにも」


 なんてことを言うんだ、と少年は瞳を見開いた。

 だってーー、


『違う違う......っ!私だって生きていたい!私がいなきゃいけないみたいな、必要とされる人になりたい!こんな苦しみ、早く無くしたいのに.....っ!』


 彼には、そんな言葉しか聞こえていなかった
から。故に、告げる。


「そんなこと言って、本当は現実から逃げたい
だけなんじゃないか?」
「えっ......」
「自分がいなくてもいいなんて、勝手な考えだ
ろ。お前が死んで、本当に何も変わらないのか?親は?友達は?残された人間はどうなんだ
よ?」
「それ、は……」
「自殺なんて、ちょっとの気の迷いで考えるものなんかじゃない」
「でも、苦しさは本当で……」
「なら、思う存分吐き出せよ。それまでは……
付き合ってやるから」
「......っ!」


 少女は涙を溜めた瞳をめいいっぱい開いた。
同時に、心の声の洪水が少年に押し寄せる。


『何でこの人は知らない私にこんなにも優しくしてくれるの?もしかして神様か何かなのかな?話しかけて迷惑じゃない.....?でも、この人が言い出したことだからいいのかも。すごくかっこいい、なんていい人なんだろう。まるで、王子様みたい』


 明らかに自分のことを話されている、と少年は赤面する。しかし少女は気にせず、目元を拭ってにっこりと微笑んだ。


「じゃあ、少し話し相手になってもらってもいいですか?」
「ああ、もちろんだ」


 そう言いながら、少年は顔を上げる。

 やっぱり、夜は不思議な世界だ。けど、こんなことも、たまには良いかもしれない。


「ところで、貴方のお名前を伺っても良いですか?」
「俺?俺は(さつき)
「さつき、さん……?」
「呼び捨てで良い」
「じゃあ皐。私のことは(ゆい)って呼んで下さい」
「結……」


 皐は彼女の名前を口で転がす。可愛らしい響きが、儚げな彼女とマッチしていた。


「それで、結はそもそもなんでそこまで追い詰められているんだ?」
「そうですね。話すと長くなるんですけど……」


 その後、結がポツポツと自身に起きた出来事を話し始めた。


 結は元々、父と母と自分の3人家族だった。だが、父は結が5歳の頃に外で違う女を作り、出ていってしまった。それ以降、結の母は1人で結を育ててきた。様々な仕事を掛け持ちし、多忙な日々を過ごす母だったが、結に対してはいつも笑顔で明るく陽気な母親だったと言う。

 
 そんな母が変わってしまったのは、結が高校受験に落ちてから。名門とも呼ばれる私立を第一志望としていた彼女だが、悔しくも受からず、仕方なく公立に行くことになってしまった。そしてその日から、結の母はまるで人が変わったように、突然に怒り出したり、泣き出したりするようになってしまったらしい。一種の精神不安だった。

 
 母の精神に悪影響が出ないように、結は公立の高校でも必死に勉強して良い成績を取ろうとした。初めのうちは学年内で片手の指で収まるほどの順位だったが、度重なる行事や委員会によって勉強時間の確保が困難となり、次第に二桁まで下がってしまった。そのせいで、テストのたびに母は機嫌を損ね、物を投げつけてきたと言う。


 また、それだけではなく、小さないじめまでも受けていたらしい。物がない。孤立させられる。偽りを教えられる。それは毎日のように続いたが、誰かに相談するほど大事でもないと思っていた結は、1人静かに耐えてきた。


 そんな、いくつかの要因が塵のように積もりに積もって、今回の自殺という引き金を引く機会を与えてしまった。


 話を聞いていた皐は、途中から、結の話の想像をしただけで胸が抉られたように痛んだ。


「私、ほんとにダメな人間で。母だって、私がいなければあんな風に病む必要なんてなかった。いじめをする人間も、私に不満を持っているからいじめるんだと思うんです」
「……」


 皐は返す言葉が見当たらなかった。


 『そんなことはない』と否定するのは簡単だ。しかし、否定したところで何になるのか。そもそも、否定できる根拠はなんなのか。彼女は否定されたいのか。考えれば考えるほど分からなくなってくる。


 自分から話せと言ったくせに、いざ彼女の話を耳にしてみると、どう受け止めれば良いのか、どう声をかければ良いのか、正解が見当たらない。


 無責任だ、と項垂れる皐に、結は「ごめんなさい」と声をかけた。


「やっぱり、困りますよね?こんな、赤の他人の悲劇なんて語られても」
「いや、そうじゃなくて、その……どうしたら、その傷が癒えるのかって考えてて……」
「えっ……?」
「困ることなんてない。元より、俺が言い出したことだ。ただ、君にどんな言葉をかければその心が晴れるのか、俺には分からなくて……」


 悔しそうに地面を睨む皐。結はしばらく、そんな状態の彼を、目を見開いて見つめていた。が、不意に吹き出す。


「っ、ふふっ」
「……どうか、したのか?」
「あ、いえ、すいません。不謹慎ですよね、こんなの……。でも……」
「?」


 皐は首を傾げる。どうして結がここまで笑っているのか、彼には理解できなかった。


 しばらく結は1人で笑い続け、ようやく治ってきた頃に涙を拭った。


「ご、ごめんなさい。つい……」
「いや、いいんだけど……。俺、なんか変なこと言った?」
「いや、そう言うわけではないんです。ただ……すごく他人想いの人だなって思って。貴方みたいな人、出会ったことないから」
「え……っ」


 そこで皐は、初めて自分が褒められていることに気がつく。突如として顔を真っ赤にする皐に、結は再びお腹を抱えた。


「やっぱり、皐はすごく良い人ですね」
「そう、なのか……?」
「うん」


 また、ひとしきり笑い合えた後、結は言った。


「ねぇ、また明日も、ここで話せますか?」
「明日も、か?」
「そう。……だめ、ですか?」
「いや、俺は全然大丈夫だ」
「良かった。じゃあ、また明日」