一

 夕方、夕輝が峰湯を手伝っていると、知らない男がやってきた。
 風呂に入りに来たのではないようだ。
 渋い灰色の羽織を着た恰幅のいい四十代くらいの男で、目が細く笑っているような顔をしていた。その後ろに、前掛けをつけた痩せぎすの三十代後半くらいの男が風呂敷包みを抱えて従っている。

「ちょっと窺いますが、親分さんはいらっしゃいますかね」
 四十代くらいの男の方が仙吉に声をかけた。
「へい。いやす。どちらさまで」
「橋本屋伊左衛門というものです」
「少々お待ち下せぇ」
 仙吉はそう言うと母屋の方へ行き、すぐに戻ってきた。
「こちらで」
 男達を案内して中へ入っていった。

 夕輝がそのまま手伝っていると、
「夕ちゃん、ちょっといいかい?」
 お峰が出てきた。

 お峰について母屋に入ると、さっきの男達がいた。
「おう、夕輝、こちら橋本屋さんだ」
 夕輝は訳が分からないまま頭を下げた。
「お里ちゃんの親御さんだよ」
 お峰が言い添えた。

 お里の親が怒鳴り込んでくるような事した覚えはないんだけど……。

「娘に訊いたのですが、天満様は剣術の達人だとか」
「いえ、そんな大層なものでは……」

 文句を言いに来たわけじゃないのか。

 でも、なんでお里が自分のことを剣術の達人などと思ってるのか不思議だった。
 お里の前では戦ったことはないはずだが。
「盗賊が捕まるまでの間で構いませんからうちに寝泊まりしていただけないでしょうか」
「え?」
「橋本屋さん、盗賊の中にいる侍ぇは一人だけじゃねぇんだ。夕輝一人泊まったところでどうにもならねぇぜ」
「剣術の達人が寝泊まりしているとなれば盗賊も手を出してこないんじゃないでしょうか」
「けどなぁ。どうする夕輝」
「ただとはもうしません」
 橋本屋はそう言うと、懐から白い紙包みを出した。
「これでいかがでしょう」
 夕輝にはそれがなんなのか見当もつかなかった。
「金のこと言ってんじゃねぇんだよ」

 お金だったのか。

「やられるって分かっててみすみす夕輝を危ねぇところにやるわけにはいかねぇってんだよ」
「天満様はどう思われてるんでしょう」
 橋本屋が夕輝の方を向いた。
「俺で役に立てるんならやってもいいですけど、平助さんの言ってるように侍が一人じゃないなら俺がいてもどうにかなるかどうか……」
「うちには女子供もいます。安心を買いたいんです。どうしても駄目でしょうか」
 そこまで言われると夕輝としても断りづらい。
 平助は腕組みをして考え込んでいる。
 お峰は眉をひそめていた。お峰としては夕輝をそんな危ないところへ行かせたくないようだ。

「本当に、寝泊まりするだけで役には立たないかもしれませんよ。それでもいいですか」
「もちろんです。よろしくお願いします」
 橋本屋と後ろの男が畳に手をついて頭を下げた。
「平助さん、お峰さん、いいですか?」
「夕輝が決めたんならしょうがねぇな」
「無理はしないって約束してくれるね」
「はい。気を付けます」
 橋本屋は平助や夕輝と打合せをすると帰っていった。
「じゃあ、夕輝、これはお前のだ」
 平助は橋本屋が置いていった紙包みを「五両ってとこだな」と言いながら夕輝に渡した。
「あ、これはお峰さんに。食費の足しにして下さい」
「夕ちゃん、そんな気を遣わなくてもいいんだよ。これは夕ちゃんが取っておおき」
「これがありゃ、シジミやウナギ捕る必要ねぇんだぜ」
「でも、俺、そんなにお金必要じゃないし、これは俺の食費って事で」
「欲がねぇなぁ」
「そこまで言うなら一応預かっとくよ」
 お峰はそう言うと紙の包みを手にした。
「行くときは太一も連れてけ。戦力にはならなくても、なんかの役には立つだろう」

 その日から夕輝と太一は橋本屋の一階の帳場に寝泊まりすることになった。
 打合せで、橋本屋一家や奉公人達は二階で寝ることにし、盗賊が押し込んできたら夕輝は二階へ上がる階段のところで応戦、太一は盗賊の隙を突いて逃げ出し平助のところへ知らせに行くことになった。
 昼間はいる必要がないので、夕方、暮れ六つの少し前に橋本屋に行くことになった。

 太一と一緒に日本橋大伝馬町の橋本屋へ向かっているときだった。
 往来で牢人と思われる、小豆色のような何とも言えない色の着物を着た男が、土下座をしている女性と、その女性にしがみついて泣いている小さな女の子に向かって怒鳴っていた。女性と女の子は母子のようだ。
 どうやら女の子が牢人の刀にぶつかったらしい。
(かんぬき)差しでこんな人通りの多いとこ歩いてりゃぶつかって当然だろ」
「あいつ、またやってるな」
「ああやって金をせびってるんだよ」
 閂差しというのは地面と平行に刀を差すことらしい。
 確かに普通は地面に垂直に近い形に差す落とし差しにするものだから、閂差しにしてたという事は最初からぶつかった人にいちゃもんを付けるつもりだったに違いない。
 遠巻きにして見ている野次馬がひそひそと話している。
 牢人は刀を持っているので、町人は迂闊に助けに入れないのだ。
「どうしてくれる! え!」
「申し訳ございません」
「謝ってすむものではない!」
「申し訳ございません。これでなんとか……」
 女性が巾着を差し出した。
 牢人は笑みを浮かべてそれを取り上げ、中を見ると、女性に叩き付けた。
「それがしを愚弄するのか!」
 牢人が刀に手をかけた。

 夕輝が母子の前に飛び出した時、羽織袴で二本差しの青年が牢人の後ろに立って刀の鞘の先端を持ち上げた。
 牢人が刀を抜こうとしたが、抜けなかった。
「何やつ!」
 牢人が振り返った。
「女子供相手に抜いたとあっては刀が泣くというもの。ここは引いてもらえまいか」
 青年が穏やかな声で言った。
 牢人は刀の柄を握ったまま青年を睨んでいたが、やがて抜くのを諦めると腹立たしそうな表情で行ってしまった。
 野次馬達が喝采する。
「兄貴、大丈夫でやすかい」
 太一がそばにやってきた。
 青年が親子の方に寄ってきたので夕輝はよけた。
 すっと通った鼻筋に知的な光をたたえた瞳、きりっとした口元。それでいて優しげな顔立ちをしていた。

 どこかで会ったことあったかな。

 見覚えあるような気がするのだが思い出せなかった。
「大丈夫だったかな」
 青年が夕輝に訊ねた。
「俺は何もしてませんから」
 夕輝が答えると青年は親子に向き直った。
「怪我はありませんか」
 優しく声をかけると、
「有難うございました」
 母親が平伏したまま礼を言った。
「あの人は行ってしまいましたから、もう立ち上っても大丈夫ですよ」
 青年の言葉に母親は立ち上がると、何度も礼を言いながら娘を連れて人混みの中に消えていった。

「君、無茶するね。刀の前に飛び出すなんて」
 青年が夕輝に言った。
「すみません。それより、後ろから刀の鞘を持ってましたけど、あれは……?」
(こじり)(がえ)しって言うんだ。あれをやると刀を抜けなくなるんだよ」
「そうだったんですか」
「君もあんまり無茶をしないように……」
 青年がそう言ったとき、
(ひさき)
 椛が人混みをかき分けて出てきた。
「あ! 椛ちゃん」
「夕輝さん」
「椛、知り合いなのか?」
 青年の優しげな表情が一瞬にして険しいものに変わった。
「天満夕輝さんです。夕輝さん、こちら私の兄の未月楸です」
「初めまして」
 夕輝は頭を下げた。

 椛ちゃんに似てたのか。

 楸は名前を聞いて誰か分かったようだ。
「椛を助けてくれたそうだね。有難う」
「いえ、助けてもらったのは俺の方です」
「椛が何度も見舞いに行ったそうだけど」
「はい」
「君と椛はどういう関係?」
「え? 知り合いですけど」
「それだけ?」
 楸が食い下がる。
「はい」
「じゃあ、椛とは何でもないんだな」
「はい」
「君は椛のことをどう……」
「楸」
 椛が顔をしかめて楸の袖を引っ張った。

 椛ちゃん、お兄さんのこと呼び捨てにしてるのか。
 この時代でそれが許されるのか?

 何か事情でもあるんだろうか。
「楸、先に行ってて下さい」
 楸は椛にそう言われて仕方なさそうに歩き出した。
「兄がすみませんでした」
 椛が頭を下げた。
「椛ちゃんのことが可愛くて仕方ないみたいだね」
 夕輝は笑いながら言った。
「はい」
 椛が頬を染めた。
 楸が少し行った先でこちらを睨んでいる。
「お兄さんが待ってるよ。それじゃあね」
 夕輝はそう言うと太一と連れだって歩き出した。

       二

 橋本屋の台所で下働きの人達と一緒に夕食を食べると、帳場に布団を敷いてもらって横になった。
「兄貴、来やすかね」
「兄貴はやめろ。来ないといいな」
 その夜は何事もなかった。

 翌朝、橋本屋の台所で朝餉をごちそうになった。
 店を開けている間はいる必要がないから二人は一旦峰湯に帰って、また暮れ六つ近くなったら来るのだ。
 裏口から出ようとしたとき、
「天満さん、ちょっといいですか?」
 お里が声をかけてきた。
「何?」
「帰るのはしばらく待っていただけませんか?」
「どうして?」
 お里は苦手だ。
 なるべくなら相手をしたくなかった。

「この前、変な男に尾けられてるって言いましたよね」
「ああ」
 あのときは散々な目に遭ったから覚えてる。
 まぁ、あれはお里のせいではないのだが。
「その男が時々この店を窺ってるんです」
「え! そうなの!?」
「はい。父は盗賊の下見だと思っているようですが、あれは私を見張っているんだと思います」
「それお父さんに言った?」
「言いましたが、信じてくれないんです。それで天満さんにその男を見てもらいたいんです」
「俺が見てもしょうがないんじゃない? そう言うのは平助さんに言った方が……」
「言えばどうにかしてもらえますか?」
「う~ん」
 夕輝は考え込んだ。

 これが警察だったら何もしてもらえそうにないが、御用聞きなら事件ではなくても動けるのではないだろうか。
 平助が出てこなくても下っ引きの誰かに探索させることは出来そうだが。

 お里にそう言うと、
「それでは天満さんがその男を見て親分さんに伝えて下さい」
 と答えた。

 結局見なきゃなんないのか。

 夕輝はうんざりしたが、放っておく訳にもいかない。
 見ていくとして太一はどうするか。
 迷った末、前に太一が言っていた「顔が広い」というのを信じて一緒に見せることにした。お峰が心配するといけないので、お里に頼んで丁稚の一人を使いを出してもらった。

 こう言うとき電話があれば……。

 店の入り口近くにある小部屋で太一とお茶を飲んでいると、お里が呼びに来た。
「天満さん、こちらです」
 お里について二階へ上がり、障子の隙間から覗いた。
 確かに通りを挟んだ向かいにある天水桶の陰からこちらを見ている男がいる。
 多分灰色だと思われる、よれよれの小袖を着流している。
 腰には刀を落とし差しにしていた。頬骨の張った目つきの悪い男だった。
 盗賊の下見なのか、お里のストーカーなのかは判断がつきかねた。
「どうだ、太一。見覚えは?」
「すいやせん、ないでやす」
「そうか」

 まぁ、それほど都合よくいくわけないしな。

「じゃ、お里ちゃん。俺達帰るから」
 夕輝はそう言うと、太一を連れて橋本屋を出た。
「兄貴」
「兄貴って言うな。何だ」
「あっしがあいつを尾けてみやしょうか?」
「あいつ、侍だろ。危ないんじゃないのか?」
「見つからなければ平気でやすよ」
「じゃあ、俺も一緒に行こうか?」
「いえ、一人の方が目立たねぇと思いやす。十分離れたところから尾けて、見つかりそうになったらすぐに逃げやす」
「まぁ、そう言うなら……。気を付けろよ」
「へい」
 太一はそう言うと人混みに隠れるようにして、男を見張れるところへ向かっていった。

 峰湯に帰ると平助は盗賊の探索に出ていた。

 そうか、盗賊の探索があったな。

 盗賊が捕まらない限り、お里のストーカーに人員を割くのは無理そうだ。
「夕ちゃん、ちょっといいかい?」
 夕輝が峰湯を手伝っているとお峰に呼ばれた。
「これ、ちょっとお花さんのところに届けてくれるかい?」
 お峰が風呂敷包みを差し出した。
「はい」
 夕輝は包みを受け取ると、峰湯を出た。

 下駄屋と酒屋の間にある路地木戸をくぐるとそこに裏店(うらだな)がある。
 時代劇でよく見る長屋というのは裏店のことで、通りに面した表店(おもてだな)表長屋(おもてながや))は店になっていて、その後ろに裏店が何棟かある。
 一口に裏店といっても大きさは色々あるのだが、お花の住んでいる長屋は土間に木製の流しと竈、そして四畳半くらいの板敷きの間があるだけだった。
 押し入れなどはない。荷物は「長持(ながもち)」と言う衣装箱のような物の中に入れるのだ。

「お花さん、夕輝です」
「入っとくれ」
 その言葉に夕輝は腰高障子を開けた。
「お峰さんから頼まれたもの持ってきました」
「夕ちゃん、丁度良かった。頼みたいことがあるんだよ」
「なんですか?」
「お唯ちゃんが届け物しに行くんだけど、今から行って帰ってくると遅くなるだろ。だから一緒に行って欲しいんだよ」
「いいですよ」
「あ、私なら大丈夫です」
 お唯が手を振った。
「何言ってんだい! ほら、例の辻斬りのことがあるだろ。女の子ばかり狙ってるって」
「ああ」
 そういえば、連続猟奇殺人があったんだった。
 犯人はまだ捕まっていないんだったっけ。
 お唯は可愛いから変質者に目をつけられてもおかしくない。
「いいです。夕輝さんに悪いですから」
「気にしなくていいよ、お唯ちゃん。俺だって付き添いくらいは出来るよ」
「でも……」
「いいからいいから。ほら、遅くなるよ。行こう」
「……すみません」
 お唯は頭を下げた。

       三

 夕輝と並んで歩き出したお唯は手には風呂敷包みを持っていた。
「どこへ行くの?」
「縫い物を届けに、大伝馬町(おおでんまちょう)太物屋(ふとものや)さんまで。おっかさんは仕立物の内職をしているんです」
「そうなんだ」
「いつもはもっと早く行くんですけど、おっかさんの具合が悪かったから、なかなか仕上がらなくて。だからどうしても今日届けないといけないんです」
「お母さん、病気なの?」
「ただの風邪なんですけど、身体が弱いから……」
「具合が悪いのに内職してるの?」
「おとっつぁんも働いてるけど、おっかさんの薬にお金がかかるから……」
 この時代は健康保険なんてないもんなぁ。
「奉公に行くのもお金が必要だから?」
「働いても足りなくて、お金も借りてるんです。そのお金を返さないといけないから……」
「そっか」
 恵まれた環境にいる夕輝には、お唯にかける言葉が見つからなかった。

 二人はしばらく黙って歩いていた。
「……あれなんだろ」
 ふと見ると、道ばたに数人の子供が集まっていた。
 みんな何か食べていた。
「お唯ちゃん、行ってみよう」
「はい」

 心太(ところてん)売りか。

 片側に網を張った四角い箱に心太を入れて、反対側から棒で突いて押し出している。
「おじさん、それ二つ」
「夕輝さん、私は……」
「俺一人じゃ恥ずかしいからさ、一緒に食べてよ」
「すみません」
「二つで四文だよ」
 夕輝は金を渡して心太を二つ受け取った。
「はい、お唯ちゃん」
 片方をお唯に渡す。
「有難うございます」
 お唯が礼を言いながら受け取った。
 夕輝は早速心太を食べ始めた。
「美味しいですね」
 お唯が嬉しそうに言った。
「そうだね」
 思ったより美味しかった。

 江戸時代は現代より遅れてるから、食べるものも美味しくないのではないかと何となく思っていたのだが、とんでもない思い違いだった。
 食べ物は新鮮だし、ご飯は普通に白米だし、アサリなんて大きくて現代とは比べものにならないくらい美味しかった。
 夕輝の家は江戸時代から東京――昔は江戸だが――に住んでるので江都の味付けも食べ慣れたものだった。
 ただ、江都では生野菜を食べない。
 サラダが食べられないのだけが残念だった。
 有機肥料だし農薬を使ってないし、きっと美味しいと思うのだが。
 しかし、野菜を葛西から運んでくる舟は、帰りに江都市中から集めた糞尿を乗せて帰るのだという。だから、寄生虫が心配なのだそうだ。

 肥料も肥やしだしなぁ。

 薬がないこの時代で、寄生虫に寄生されると分かっていて尚、生野菜を食べられる勇者はいないだろう。
 大伝馬町の太物問屋に着くと、お唯は中へ入っていった。
 夕輝は店の出入り口の脇の壁にもたれながら通りを行く人を見ていた。
 長い棒を担いで樽のような丸いものを転がしながら男が歩いていった。風車を手にした継ぎの当たった着物を着た男の子が母親らしき女性に手を引かれて歩いている。
 この辺は太物問屋が多いせいか小綺麗な女性や女の子が沢山通る。
 商家の人間らしき羽織姿の男達も通っていく。
 共通しているのは着物を着て髷を結っていると言うことだ。

 同じ東京なのに現代とは全く違う光景に、夕輝は世界から切り離されて一人迷子になったような心細さを覚えて、いつしか、現代の歌を口ずさんでいた。

「夕輝さん、お待たせしました」
 不意にお唯に声をかけられて我に返った。
「じゃあ、帰ろうか」
 夕輝はお唯と並んで歩き始めた。
「夕輝さん、今の……唄? ですか?」
「ああ、うん。ゲームの主題歌……」
「げえむ?」
「あ、つまり、遊びの時の歌って言うのかな?」
「かごめかごめみたいな?」
「まぁ、そんな感じ」
 そんなに大きく外れてもいないだろう……多分。
「聞き慣れない言葉でしたけど、夕輝さんの国の言葉ですか?」
「いや、あれは英語。……海の向こうにイギリスって言う国があるんだ。その国の言葉だよ」
 正確にはアメリカ英語なのだが、この時代にアメリカが独立しているか分からないし、元はイギリスの言葉なのだからいいだろう。

「いぎりすっていう国の歌なんですか?」
「言葉は英語だけど作ったのは日本じ……この国の人だよ」
「どうしてこの国の人なのに異国の言葉で歌を作ったんですか?」
「その方がゲームのイメージ……遊びの雰囲気に合ってたからじゃないかな」
「そうなんですか。なんていう歌なんですか?」
「この国の言葉に訳すと、もしかしたら明日(あした)は……かな」
「もしかしたら明日は?」
「毎日つらいことや悲しいことがあるけど、一所懸命生きていれば明日は今日より良くなるかもしれない、みたいな感じかな」
「それ、私にも教えてもらえますか?」
「いいよ。あ、ただ、この国ってさ鎖国中だよね?」
「鎖国?」
 お唯が小首をかしげた。
「つまり……中国……じゃなくて、清とオランダ以外の国とは貿易しちゃいけないことになってるよね?」
「そう……なんですか」
 お唯はよく分からないようだ。
「とにかくさ、英語って言うのがバレると捕まっちゃうかもしれないから、他の人には内緒にしてね」
「はい」
 お唯は真面目な顔で頷いた。

 歌を教えているうちに長屋に着いた。
「夕輝さん、有難うございました」
 お唯が頭を下げた。
「俺で良かったらいつでも声かけてよ。お供くらいいくらでもするからさ」
 夕輝はお唯に見送られてお花の長屋を後にした。

 峰湯に帰ると太一が帰ってきていた。
 二人で橋本屋へ向かう道すがら、首尾を聞いたが、途中で見失ってしまったそうだ。

 まぁ、元々そんなに期待してなかったしな。

 翌日、
「おい、天満、今帰りか」
 同じ稽古場の門弟が声をかけてきた。
 夕輝より年上で二十歳くらい。羽織袴姿に二刀を帯びている。侍らしい。後ろに数人の若い門弟を率いている。

 確か、谷垣って言ったっけ。
「はい。そうですけど」
「一緒に帰るぞ。おい、桐生、荷物を持て」
「はい」
 祥三郞が谷垣の荷物に手を伸ばしたのを夕輝は肩を掴んで止めた。
「すみません。俺、祥三郞君と一緒に帰りますから。行こう、祥三郞君」
 夕輝はそう言って祥三郞を促した。
 谷垣がものすごい顔で睨んでいたが、気にしないで歩き出した。
 祥三郞は後ろにいる谷垣を気にしながら夕輝の後をついてきた。

「夕輝殿、いいのですか?」
「え? もしかして、俺、規則か何か破っちゃった?」
「いえ、規則は破ってませんが……夕輝殿はすごいですね。拙者だったら怖くて谷垣殿には逆らえません」
 確かに、取り巻きもいたし、威張ってる感じだった。
「祥三郞君を荷物持ちにさせようとしただろ。ああいうの嫌だから」
「夕輝殿はお強い」
「そんなことないよ。俺なんかまだまだ初心者だし」
「そうではなく……今日も夕輝殿のところへ行ってよろしいですか?」
「いいよ」
「長八殿はおられるでしょうか」
「来てると思うよ」
 祥三郞は教えるのが楽しくて仕方ないらしい。
 厳しい教えに音を上げそうになりながらも、長八はちゃんと来ていた。
 それも夕輝達が稽古を終える時間を見計らって来ている。
 何だかんだ言いつつ勉強する気満々なのだ。
 ただ、祥三郞の厳しさは峰湯の常連の中では有名なので、長八以外に教わりたいというものは現れなかった。

 勉強が出来て嬉しいなんて、現代では思ったこともなかったなぁ。

 祥三郞が帰り、橋本屋へ行くまでの間、峰湯を手伝っていると平助が来た。
「おう、太一、お前ぇ、良三と一緒に客の背中流してこい」
「へい」
 すぐに湯屋の方へ向かおうとした太一を、
「ちょっと待て」
 と言って止めた。
「ただ客の背中流してこいってんじゃねぇんだ。三助なら良三がいるからな」
「へい」
「客が葛西の草太って男の話をしていたら注意して良く訊いておけ。いいな」
「へい」
 太一は今度こそ湯屋の方へと走っていった。

「平助さん、葛西の草太っていうのは……」
「強盗の一人みてぇなんだ」
「どうやって突き止めたんですか?」
「何、金を手にした悪党がやるこたぁ、飲む打つ買うのどれかだからな」

 海辺大工町にある賭場を探っていた嘉吉が最近羽振りのいい男を探り出してきたのだという。それが葛西の草太だ。
 葛西の草太の(ねぐら)を探しているのだが、なかなか見つからないらしい。
 さすがに草太が平助がやってる湯屋に入り来るようなことはないだろうが、彼を知っている者の話に出るかもしれないので、客の話を聞き逃さないように太一にも三助をさせるらしい。

 もともと平助がここで峰湯をやっているのも、情報を集める為、彼に手札を渡している東が金を出して始めさせたのだ。
 湯屋の男湯は朝早くから始めるが女湯は少し遅い。女性は食事の支度などがあるかららしい。
 女湯を始める前の時間、御番所の与力や同心が女湯に入りに来る。男湯で交わされる話から事件の参考になる噂を聞く為もあるのだそうだ。
 峰湯は与力や同心が入りに来るから女湯があるが、湯屋は混浴のところが圧倒的に多いらしい。

 混浴じゃなくて良かった。

 混浴だったら夕輝は恥ずかしくて入れなかっただろう。
 もっとも混浴のところは素っ裸ではないらしいが。
 そろそろ七つ半を過ぎたかな、と言う頃、太一が夕輝のところへやってきた。二人はお峰に断って峰湯を後にした。

「どうだ、なんか聞けたか?」
「それがさっぱりで……力が弱いとか散々(ののし)られちまいやした」
「三助ってのも簡単じゃないんだな」
「草太ってヤツが見つかって盗賊が捕まったらもう橋本屋へは行けなくなるんでやすね」
「何、お前、橋本屋に行くの楽しいの?」
「そりゃ、お里さんがいやすし」
 そんなにお里がいいかね。
「お里ちゃんには縁談の話が来てるんだから変な気起こすなよ」
「そこまで世間知らずじゃありやせんや」

       四

 夕輝が稽古場から戻ってきたとき、
「天満様はいらっしゃいますか!」
 青い半纏を着た男が駆け込んできた。
「俺ですけど、どなたですか?」
「わたくしは柳橋にある篠野(ささの)という料理茶屋の手代です。天満様、わたくしといらして下さい」
「どうしたんですか?」
「橋本屋さんが大至急天満様に来ていただきたいと。何でも胡乱(うろん)な牢人に尾けられたとかで」
「分かった。ちょっと待ってて下さい。太一、お前、お峰さんに出かけるって言ってきてくれ」
「へい」

 夕輝は部屋へ戻ると繊月丸を掴んで飛び出した。玄関へ出たところでお峰が駆け寄ってきた。
「夕ちゃん、夕ちゃん、町人が刀なんか持って歩いちゃ駄目だよ。これでくるんでいきな」
 そう言って(むしろ)に繊月丸をくるんでくれた。
 それを小脇に抱えると、手代と一緒に走り出した。後ろから太一もついてくる。

 篠野は柳橋の一角にあった。
 中へ入ると大声で罵り合っているのが聞こえた。
 男が乗り込んできたのか!?
「橋本屋さんはどこですか!」
「こちらです!」
 手代が階段を上っていく。夕輝と太一は急いでその後に続いた。

 二階の座敷の一部屋に入ると、橋本屋とお里、それに五十代くらいの羽織を着た男と、手代と同じ半纏を着た五十代半ばくらいの男がいた。
 半纏を着た五十代の男は篠野の主人のようだ。
 お里の父親と篠野の主人が怒鳴り合っている。
 そして、床に二十代くらいの若い男が首に手をやったまま目を剥いて倒れていた。
「あんたが毒を盛ったんだろ!」
 橋本屋が半纏を着た男を怒鳴りつけていた。

 毒?

「なんでうちが近江屋さんの息子さんを殺さなきゃなんないんです。やったのはそちらでしょう!」
「なんであたしが見合いの相手を殺すんですか!」
「会ってみたら、ヒラメみたいな顔してるのが気に入らなかったんでしょうよ」

 ぶっ!

 太一が吹き出した。
 今にも笑い出しそうな太一を肘で突いた。
 太一は後ろを向いた。その背中が震えている。
 お里も顔を背けて袖で口を押さえていた。
 夕輝は敢えて遺体の方を見なかった。見たら笑ってしまうことは容易に想像がついたからだ。

「商売に顔は関係ないのはあんたも商売人なら分かってるでしょう! 宗佑さんはヒラメみたいな顔でも伊勢屋ではやり手の番頭だったんですよ!」
「しかし、お里さんはそれだけの器量だ。ヒラメよりもっといい男の方がいいと思っても不思議じゃないでしょうが!」
「さっきから聞いてれば何ですか! 人の息子をヒラメヒラメって!」
「皆さん、落ち着いて下さい」
 夕輝は口論している大人達の中に割って入った。
「おい、太一、平助さん呼んでこい」
「へい」
 夕輝が大人達を(なだ)め、別の部屋に集めたとき、太一が平助と嘉吉を連れてやってきた。

「それで、どうしたって?」
「この人が毒を盛ったんですよ!」
 橋本屋が篠野の主人を指して怒鳴った。
「だからなんでうちがそんなことしなきゃなんないんですか! うちは料理を出しただけですよ! やったとしたらそちらでしょう!」
 また怒鳴りだした二人を、
「るせぃ!」
 平助が一喝した。
 男達が黙る。

「順序よく話してみな」
「最初は和やかに話してたんですよ。宗佑さんは無口でしたけど。そこへ料理が運ばれてきて、そのとき突然苦しみだして……」
「料理に手はつけたのかい?」
「そう言えば……まだ食べてませんでした」
「その前ぇに口にしたのは?」
 平助が近江屋に訊ねた。
「お茶を……」
「なら茶に毒が入ってたって事かい。死骸はどこでぇ」
「こちらです」
 半纏を着た男が廊下を挟んだ向かいの部屋に案内した。
 男がさっきと同じ格好で倒れてる。
 顔を見ないように下半身に目を向けた。苦しんだらしく、裾が乱れて足が着物からはみ出していた。
「おい、嘉吉。東様呼んでこい」
「へい」
 嘉吉が飛び出していく。
 平助は倒れている男の手首を十手で持ち上げたりしていた。

 しばらくすると平助が東を連れて戻ってきた。
 東も平助と同じように検屍(けんし)をした。
「平助、どう見る」
「へい。首を絞められたみてぇな殺され方してやすが、そんな痕はありやせんね」
「当然ですよ。誰も首なんか絞めてないんですからね」
「こんな死に方する毒なんかあったか?」
「訊いたことありやせんね」
「橋本屋と近江屋、それに篠野の人間に話を聞くとして、おい、平助、誰か良庵先生のところに使いを出せ」
「おい、嘉吉、良庵先生を連れてこい」
「へい」
 嘉吉は飛び出していった。
「夕輝、太一、お前ぇ達はもう帰っていいぜ」
「はい」
 夕輝が出て行こうとしたとき、
「ちょっと待って下さい!」
 橋本屋が引き留めた。
「天満様には帰り道、手前どもを守っていただこうと思って来ていただいたんです。帰られては困ります」
「そうか。じゃあ、仕方ねぇな。二人とも、その辺で待ってろ」

 夕輝と太一は玄関脇の小さな部屋に案内され、お茶を一杯出された後は放っておかれた。
「兄貴、今日のお里さん、きれいに着飾ってツボかったでやすね」
「壺!?」
 夕輝は辺りを見回して、部屋の一角に花を生けてある茶色い壺を見つけると指さした。
「壺ってあれ?」
「兄貴にはお里さんがああ見えるんで?」
 太一が呆れ顔で言った。
「見えないから聞いてるんだろ。何だよ、ツボいって」
「花の蕾のように可愛らしいって事でやすよ」

 同じ日本なのに江戸時代の言葉は分からない。
 現代って江戸時代から百年くらいしかたってないのに、なんでこんなに言葉が違うんだ。

 そんな話をしているとき、廊下が騒がしくなった。
 覗いてみると年配で羽織を羽織り、変わった髷の男が三人程、玄関に向かってくるところだった。
「なんで医者があんなに……」
 太一が呟いた。
 どうやら髷の形で医者と判断したらしい。

 医者ってああいう髷をしてるのか。

 後ろから篠野の主人がついてくる。
 医者達は口々に「無駄足だった」とか「人騒がせな」などと言い合っていた。
 玄関ではその三人の供らしい男が三人、静かに待っていた。
 医者達が出て行くと、東が平助達を伴ってきた。
「おう、夕輝、太一、待たせたな」
「平助さん、何があったんですか? 今出てきた人達は……」
「珍しい毒だって聞きつけて蘭学の学者先生達が見に来たのよ」
「それで? 何の毒か分かったんですか?」
「毒じゃなかったんだよ」
「じゃあ、なんだったんですか?」
「寄生虫だとよ」
「寄生虫? いきなり死ぬような寄生虫がいるんですか!?」

 江都の寄生虫は化け物か!?

「いやいや、そうじゃねぇよ。寄生虫が喉に詰まったんだと」
「喉に詰まったって……」
「どうもな、げっぷか何かした拍子に胃の腑にいた寄生虫が喉をあがってきて、口から飛び出しそうになったんじゃねぇかって言うんだよ。でも、大伝馬小町の前ぇで寄生虫を吐き出せねぇと思ったんだろ。それで飲み下そうとして喉に詰まったんじゃねぇかって」

 怖ぇー。
 寄生虫恐るべし。
 肥やしで作った野菜のサラダを食べたいなんて二度と考えないぞ。

 ていうか、太一の言う通りお里って小町って呼ばれてたんだな。
「ま、誰のせいでもねぇから橋本屋も篠野も無罪放免になったぜ」
 平助がそう言っているところへ橋本屋がお里を連れてやってきた。
「近江屋さん、それではまた近いうちにご挨拶にあがりますよ」
 橋本屋がそう言い、お里も近江屋に頭を下げた。
「天満様、お待たせしました。帰り道、よろしくお願いしますよ」
 その言葉に、夕輝は筵に巻いた繊月丸を掴んで立ち上がった。
 夕輝の後から太一がついてくる。
 外に出るとすっかり暗くなっていた。

       五

 暮れ六つを過ぎ、通りの商店はどこも閉まっていた。夕輝の後から太一、橋本屋、お里、手代がついてくる。
 大川端を歩いていたとき、
「兄貴! 前に誰かいやす!」
 太一が言った。
「天満様! 後ろにも……!」
 橋本屋が後ろを振り返りながら言った。
「待ち伏せか」
 夕輝は立ち止まった。
「みんな固まって俺の後ろへ」
 前後の男達が近付いてくる。

 どちらの男もよれよれの小袖を着流しにし、太刀を落とし差しにしていた。
 夕輝は筵の中から繊月丸を取り出した。
 男達は何も言わずに抜刀した。
 背の高い男が右手に、お里のストーカーが左手に。
 夕輝も刀を抜いた。
 右手の男が青眼に構え、左手の男が八相に構えた。
 夕輝は右手だけで青眼に構えた。左手には鞘を持っていた。
 男達がじりじりと近付いてくる。
 夕輝はゆったりと構え、斬撃の起こりを待っていた。
 右手の男が先に動いた。
 真っ向へ振り下ろされた刀を弾くと同時に左手の男が袈裟に。
 右手の男の二の太刀を避ける為に後ろに跳びながら左手の男の刀を鞘で跳ね上げて、そのまま鳩尾に叩き込んだ。
 鳩尾を突かれた男が蹲る。
 右手の男が再度青眼に構えた。
 夕輝も鞘から手を放すと青眼に構えた。
 二人はほぼ同時に仕掛けた。
 夕輝は小手を、男は袈裟に振り下ろした。
 二人の太刀が弾き合う。
 一歩踏み込んで二の太刀を胴へ。

 入った!

 男が太刀を落として蹲る。
「太一、平助さんにこいつらのこと知らせてくれ」
「へい」
 太一は今来た道を走って引き返していった。
「俺達も早くここを離れましょう」
 夕輝はそう言うと橋本屋達を連れて歩き出した。

 胡乱な牢人が狙っているのはお里だと言うことで、今度はお里の護衛をすることになった。
 別の人を雇った方がいいと言ったのだが、どうしても、と頼み込まれ、他にもっと腕の立つ人が見つかるまで、と言う条件で引き受けてしまった。
 橋本屋は再び紙にくるまれた金をよこしてきた。夕輝はそれもお峰に渡した。
 剣術の稽古は休みたくなかったので、護衛は午後だけ、出掛けるときに店の者が呼びに来ると言うことになった。

「夕輝、ちょっといいかい」
 峰湯を手伝っていた夕輝に平助が声をかけた。
 八つの鐘が鳴っているところだった。
「何ですか?」
 汗を手ぬぐいで拭きながら訊ねた。
「草太を今川町で見かけたってぇヤツがいたんでよ、塒を探りに行くんだよ。一緒に来るかい?」
「はい」
 夕輝はお峰に断ってくると、平助について歩き出した。
 太一は薪の調達に行っていていなかった。

 両国橋を渡り、南下して一之橋を渡り、更に南下して万年橋と上之橋を渡って今川町に入った。

 今でも、街角を曲がる度に、現代の町並みが現れるのではないかと期待してしまう。
 その希望を打ち砕くのは、木造の家屋でも、着物を着て髷を結っている人達でもなく、青い空だった。
 現代では絶対見られない青い色をしている透明な空。
 現代の空は汚れていたのだと気付かされる、秋でもないのに抜けるように高い空。
 その高さはいくら手を伸ばしても届かない程遥か遠くにあって、同じように現代はどんなに頑張っても行かれない場所にあると言われているようだった。
 晴天が続くと黄色っぽい砂埃で煙ることもあるが、青空はどこまでも澄んで青く、夜は信じられないくらい明るく輝く満天の星空。
 空を見る度に、ここは江都なのだと思い知らされた。

「お前ぇ、酒は飲めるかい?」
 平助が歩きながら訊いた。
「いえ、飲めません。水は駄目ですか?」
「この辺じゃ水は買ってるからな。出してもらえねぇと思うぜ」
「どうして水を買うんですか?」
 八百屋と米屋の間にあった路地木戸から裏店の井戸が見えた。
 つまり水が出ないわけではない。
「この辺は海に近ぇからよ。井戸水はしょっぱくて飲めねぇのよ」

 大川より西は神田上水など、水道が引かれているので飲めるのだが、大川を挟んだ東側までは水道が引かれていないのだそうだ。
 夕輝は写真で見たローマの水道橋を思い出したが、この辺は平地だからああいうのを造るのは無理なのかもしれない。

 どちらにしろ日本は木造建築の国だしな。

「じゃあ、水を売りに来る人がいるんですか?」
「そう言うこった」

 何でも舟に大きな水槽を載せ、それに江戸城のお堀から落ちる水を汲んできて、後は水を入れた桶を天秤棒で担いで売って回るのだそうだ。

 江戸時代には水売りなんて商売もあったのか。

 そんな話をしながら平助は縄暖簾の店を見つけるとそこへ入っていった。
「いらっしゃい」
 中は大して広くなかった。まだ時間が早いせいか他に客はいなかった。
 二人は空いている席に着くと女将らしい女性がやってきた。平助は女将に魚の煮付けと酒と、夕輝の為にお茶を頼んでくれた。女将はすぐに酒肴の膳を運んできた。
「女将さんかい?」
「そうだよ」
「酌をしてくれるかい? 男二人で飲んでもつまんねぇからよ」
 平助は素早く一朱銀を女将の手に握らせた。
「少しならいいよ」
 女将は愛想良く言って平助の隣に腰を下ろした。袖の下が効いたのと、他に客がいないからいいと思ったようだ。
「俺は平吉、こいつは有三ってんだ。女将さんはなんてんだい?」
「おふくよ」
 女将の酌で二、三杯飲んだ後、平助は、
「おふく姐さん、草太って男知ってるかい? この前この辺で見かけたんだが」
「草太? どんな男だい?」
「猫背で細目が吊り上がってて狐みたいな顔した男だよ。右目の下にでけぇ黒子があるんだ」
「あたしは見たことないけど、この先にある小料理屋の女将の情夫(いろ)がそんな男だって訊いたことはあるよ」
「その店の名は?」
蓑屋(みのや)だよ。でも、なんでそんなこと訊くんだい?」
 おふくが訝しげに訊ねた。
「いや、折角きれいな姐さんに酌をしてもらうんだ。あがっちまって話が出来なくなっちまったら勿体ねぇだろ。だから話のネタを予め作っとくのよ。そうすりゃ話が出来るだろ」
「ま、きれいだなんて」
 おたふくに似た女将は嬉しそうにしなを作った。

 きれい……。
 まぁ、でも、この時代ではこういう顔が美人なのかもしれないし。

 夕輝は敢えて何も言わなかった。
 少なくとも平安美人の条件は満たしている。
 古文の先生が、平安時代の美人は下ぶくれの顔におちょぼ口、細い目だと言っていた。
 この時代は平安時代よりは現代に近いはずだが、平安時代から美人の条件は変わってないのかもしれないし、もしかしたら平助好みの顔なのかもしれない。

「こちらのお兄さんは無口なのね」
「あ、へい……平吉さんとお姐さんの話を遮っちゃいけないと思いまして」
 夕輝がそう言うと、平助が蓑屋のことを訊ねた。
 蓑屋自体はそこらにあるような飲み屋だが、女将の情夫はあまりいい噂を聞かない、とおふくは言った。
「その草太って人とどういう知り合いなんだい?」
「前に同じ長屋だったのよ。そのときよく米や酒を貸してやったんだが、ある日突然消えちまったからよ。どうしたのかと思ってな」
「折角縁が切れたんだから近寄らない方がいいんじゃないかい?」
 おふくがそう言ったとき、調理場から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「行かなきゃ」
 おふくが立ち上がった。
「姐さんと話が出来て楽しかったぜ」
 平助がそう言うとおふくは調理場の方へ戻っていった。それから小半時程してから夕輝と平助は店を後にした。
「これからどうするんですか?」
「後は明日だな。嘉吉辺りに蓑屋を探らせるか。今日は帰ろう」

       六

「夕ちゃん、ちょっといいかい?」
 峰湯の手伝いをしていた夕輝にお峰が声をかけた。
「どうしたんですか?」
「お花さんを送っていってやって欲しいんだよ。荷物が重くてさ、夕ちゃん、ちょっと持ってやってってくれないかい」
「いいですよ」
「夕ちゃん、悪いねぇ」
 お花がすまなそうに言った。
「これくらい、何でもないですよ」
 夕輝はそう言ってお花の荷物を持ち上げた。

 重っ……。

 お峰達に手伝ってもらって何とか背負うと歩き出した。

 お花の長屋について荷物を下ろしたときは、思わず溜息をついてしまった。
「夕ちゃん、助かったよ。有難うよ」
「いいんですよ。俺に出来ることがあったらいつでも言って下さい」
「ほら、水飲むといいよ」
 お花は水を汲んできて夕輝に出してくれた。
 夕輝は有難くそれを飲んだ。
「いつもお峰さんから頼まれて持ってきてる荷物って、何が入ってるんですか?」
「人形の材料だよ」
「人形?」

 ほら、これだよ、とお花が人形を長持ちから出して見せてくれた。
 端切れなどを上手くつなぎ合わせた可愛い人形だった。
「これ、どうするんですか?」
 人形を返しながら訊ねた。
「縁日のときに売るんだよ。って言ってもあたしが売るわけじゃないけどね」
 要するに内職らしい。
「そうなんですか」
 結構売れるのだそうだ。
 こう言うのも貴重な収入源なのだろう。
 お花の部屋から出るとお唯がちょうど井戸端で洗濯を始めたところだった。
「お唯ちゃん」
「夕輝さん。こんにちは」
「こんにちは。家事はお唯ちゃんがやるの?」
「はい。おっかさんは具合が悪いし、おとっぁんは働いてますから」
「そうか。偉いね。頑張って」
 お唯に手を振ると長屋を出た。

 人気のない道を歩いているときだった。
「―――――!」
 声にならない悲鳴が聞こえた。

 前方の神社の中からだ!

 夕輝は走り出した。
 神社に駆け込むと奇妙なものが女の子を引きずっていた。
 それは人形(ひとがた)をしていたが、手足が異様に長く、黄色かった。まるで粘土で作ったように見えた。着ている物も、布きれが辛うじて巻き付いているだけだった。
 女の子が悲鳴を上げながらもがいていた。
 夕輝が駆け出そうとしたとき、
「十六夜」
 いつの間にか横に繊月丸が立っていた。
 繊月丸が刀の形になる。
 ――あれは人じゃないから刃引きにはならないよ。
 繊月丸が頭の中に話しかけてきた。
「人じゃない?」
 ――あれは望の手先。異形(いぎょう)のもの。
「異形のもの?」
 ――頭を切り落とさないと死なないよ。
「殺しちゃって大丈夫なんだろうな。殺しの罪で捕まったらシャレになんないぞ」
 ――頭を切断すれば消えて跡は残らないから大丈夫。
 ――手足を切り落とすと数が増えるから気を付けて。
「…………」
 よくは分からないが要するに化け物と言うことらしい。
 繊月丸を掴むと異形のものに走り寄った。

「その子を放せ!」
 異形のものが夕輝の方を振り返った。
 それには顔がなかった。
 目らしき細長い穴のようなものが二つ付いているだけだった。
「助けて!」
 女の子が叫んだ!
「今助ける! 動かないで!」
 夕輝はそう叫ぶと異形のものの腕を切り落とした。
 女の子が自由になる。
「逃げて!」
 しかし、女の子は恐怖で(すく)んでいた。

 その間に切断された異形のものの腕が盛り上がって人形になった。
 腕を切られた異形のものも両手が伸びた。
 夕輝は女の子と異形のもの達の間に入ると繊月丸を構えた。
 一体が腕を伸ばしてきた。
 切り落とさないように峰で叩くと、懐に飛び込んで首を横に払った。
 首が飛んだ。
 と思うと異形のものは粉になって崩れ去った。
 なるほど。これなら跡は残らない。
 殺人犯として捕まる心配はなさそうだ。
 残りの二体が同時に躍りかかってきた。
 意外に素早い。
 伸ばされた腕をくぐって鳩尾に繊月丸を突き刺した。
 しかし、異形のものは構わず腕を振り下ろした。
 異形のものを蹴って繊月丸を抜くと、もう一体の方に振り向きざま刀を払った。
 首より少し上だったが、粉になって消えた。

「―――――!」
 悲鳴に振り返ると、残り一体の異形のものが女の子に掴み掛かったところだった。
 振り上げた右手が刀のようになっていた。
「頭下げて!」
 夕輝はそう叫ぶと、後ろから異形のものの首を払った。
 首が飛びながら粉になって消えていく。
 夕輝は繊月丸を構えたまま、辺りを見回した。
 異形のものが消えているのを確認して刀を下ろした。
「大丈夫?」
 女の子に近付くと、屈んで目線の高さを同じにして訊ねた。
 女の子は泣きじゃくっていた。
「もう大丈夫だよ。ね」
 優しく言うとようやく泣き止んできた。
「家はどこ? 送ってあげるよ」
 女の子が指を差した。と言っても、その家が見えていたわけではない。大体の方向を指しただけだ。
 夕輝は女の子と手をつなぐと、その方向に歩き出した。