一

「親分! 殺しだ!」
 朝餉を食べ終えたとき、兵蔵が息を切らせて飛び込んできた。
 平助はすぐに立ち上がった。
「場所はどこでぇ!」
「へい、諏訪町の大川端です」
「よし! 行くぞ!」
 平助は兵蔵を連れて飛び出していった。

 夕輝が稽古場へ行くために峰湯を出ると太一が待っていた。
「兄貴! おはようございやす」
「おはよ。兄貴はやめろ」
「親分さんが飛んでいきやしたぜ。兄貴は行かないんですかい?」
「俺は御用聞きでも下っ引きでもないからな」
 夕輝はそう言うと歩き出した。
「稽古場に行くんでやすよね。お供しやす」
 太一がついてくる。
「お前、稽古場に来てもすることないだろ」
「兄貴の稽古が終わるまで待ってやす」
「もっと他に出来ることがあるだろ。そんな暇があるなら真面目に働け」
「それじゃあ、峰湯を手伝いやす」
 太一はそう言って峰湯の方に走っていった。
「あ……」
 今日は風が強いから休みだ、と言う前に行ってしまった。

 風呂は火を使うので風の強い日は火事を起こさないように湯屋は休みになるのだそうだ。
 ちなみに、庶民の家に風呂がないのも火事を起こさない為だそうだ。
 なので、『えど』の町には湯屋が多い……らしい。

 実際、火事はよく起きた。
 夕輝がここへ来てから一月の間に数回は火事があった。
 だから長屋などは三年で元が取れるような安っぽい作りなのだとか。
 この地震大国日本の建築物として耐震構造的な問題はどうなってるのかと心配になったが敢えて聞かなかった。

 初めて半鐘(はんしょう)を聞いたときは、近くだったこともあって本当にびっくりした。
 読売(よみうり)にも火事のことはよく書かれていて、お峰やお花はそれを見て、知り合いが被害に遭っていると見舞いに行ったりしている。
 それはともかく、休みでも雑用くらいはあるだろう。
 夕輝はそのまま稽古場へ向かった。

 稽古場から帰ってくると、お峰に呼ばれた。
「夕ちゃん、あの子、知り合いだろ?」
 お峰がお茶をすすっている太一を指して訊ねた。
「えっと……知り合いっていうか……」
「今朝からうちで仕事してるけど……」
「あ、すみません。ご迷惑でしたか? 俺から言って……」
「いや、逆だよ。助かったからさ。これからもやってくれるなら正式に雇ってもいいんだけど、あの子の方はどうかと思ってさ」
「じゃあ、訊いてきます」
 夕輝がお峰の言葉を太一に告げると、
「兄貴はどう思いやすか?」
 と訊ねてきた。
「俺は関係ないだろ。お前はどうしたいんだよ」
「あっしみてぇなのを雇ってもらえるんなら喜んでやらせていただきやす」
 太一はそう言うと、お峰に向かって、
「よろしくお願いしやす」
 頭を下げた。

「え? 一件じゃなかったんですか?」
 夕輝が聞き返した。
 夕餉の席だった。
 平助が説明したところによると、女は大川端の土手に倒れていた。
 格好からしてどこかの女中らしいがまだ身元が割れてないという。
 身元がすぐに割れなかったのはそれほど珍しいことではないが、問題は殺され方だった。
 腹を切り裂かれ、内臓が残らず引っ張り出された上で食い散らかされていたのだ。
「経験の少ない下っ引きの中には吐いちまったヤツもいるくらいひどかったぜ」

 見に行かなくて良かった。

 これまでにも三回、同じような死体が見つかったそうだ。いずれも十四、五歳くらいの若い女の子だという。
 事件はそれだけではない。
 平助は直接探索に当たってないらしいが、ここのところ神社や仏閣で子供が殺され、その血で神域を穢す事件が多発しているのだという。
「お前さん、同じ目に遭わないように気を付けておくれよ」
 お峰が心配そうに言った。
「今んとこ狙われてんのは女子供ばかりだからな。その心配はねぇよ」
「俺に出来ること、ありますか?」
「捕り物の時ぁは頼むぜ」

 夕餉の後、夕輝が素振りをしようと繊月丸を持って裏庭に出ると、赤い満月が出ていた。
「望だよ」
 繊月丸が少女の姿になって言った。
「え?」
『ぼう』と聞いてもすぐには分からなかった。

 そういえば、繊月丸に連れられていった寺で襲ってきた連中が、望がどうのとか言ってたっけ。

「凶月になった望がやったの」
 繊月丸は辛そうな顔をしていた。
「……さっきの話のこと?」
「そう。止めてあげて。望は泣いてる。助けてあげて」
「助けるってどうやって……」
 そう聞いたときには繊月丸は刀の姿に戻ってしまっていた。

「夕ちゃん、ちょっと待っとくれ」
 稽古場に出かけようとしていた夕輝をお峰が呼び止めた。
「これを持っておいき」
 お峰は小さな巾着を夕輝の手に乗せた。
「これは……?」
「少ないけどお小遣いだよ」
「そんな、いただけません」
 夕輝は巾着を返そうとした。
「いいから、いいから。稽古場の帰りはお腹すくだろ。これでなんか買ってお食べ」
 そう言って強引に夕輝に押しつけると、
「気を付けて行っておいで」
 巾着を返す間を与えずに家の中に戻っていった。
 ただでさえ居候してるのに、この上小遣いまで貰ってしまうなんて申し訳なかった。

 金を稼ぐ方法があればなぁ。

 この時代にアルバイト的なものはあるのだろうか。
 そのとき、向こうから太一がやってきた。

 そうだ! 太一なら知ってるんじゃないか?

 そう思って立ち止まった。
「兄貴、おはようございやす」
「兄貴はやめろ。おはよ。ちょっと訊きたいことがあるんだけどいいか?」
「なんでやすか?」
「なんかこう、短い時間で金を稼げる方法ってないか?」
「短い時間で、でやすか」
「稽古場と峰湯の手伝いの合間に出来るようなのがいいんだけど。小遣い程度でいいんだ」
「兄貴の腕なら賭場(とば)の用心棒とか、喧嘩(でいり)の助っ人とか出来ると思いやすが」
「真っ当な仕事で、だよ」
「それなら宮戸川辺りでウナギを捕るとか」
「川にウナギがいるのか!?」
「兄貴の住んでた所にはいなかったんで?」
 驚いている夕輝を見て、太一の方がびっくりしたようだ。
「で、宮戸川ってどこ?」
「大川でやすよ」
 隅田川は場所によって呼び名が違うそうだ。

 この時代って隅田川でウナギが捕れたのか。

「そのウナギ捕りって俺にも出来るか?」
「出来ると思いやすよ」
「じゃあ、今度教えてくれ」
「分かりやした」

「夕輝さん、長八さんが呼んでますぜ」
 仙吉がそう言って、太一と一緒に薪運びをしていた夕輝を呼びに来た。
「有難う」
 夕輝は礼を言うと湯屋の二階に上がった。
「夕輝さん、すいやせん、前に教わったところ、ご隠居の前で読んだんでやすが、色々質問されたら頭ん中真っ白になって、何が何だか訳が分からなくなっちまって……」
 長八が頭をかきながら謝った。
「謝らないで下さい。俺だってすぐに読めるようになったわけじゃないんですから」

 子曰、学而時習之。

「子曰く……えっと……」
「学びて常に之を習う、です」
「学びて常に之を習う。……はぁ……」
 長八は溜息をつくと、横目で部屋の向こうに集まっている男達を見た。
「ご隠居は気楽でいいよなぁ」
「あそこにいるのがご隠居さんなんですか?」
「へい」
「ご隠居さんはあそこで何してるんですか?」
「何でも今は算術(さんじゅつ)に夢中になってるとかって言ってましたぜ」

 算術?

 夕輝はご隠居と言われた人がいる集団のそばに行くと後ろから覗き込んだ。
 男達は計算に熱中していた。

 なんか線が一杯書いてある……。

 男達の前には将棋盤のような四角く線が引かれた板が置かれ、そこにマッチ棒のようなものが何本も置かれていた。
 男の一人が棒を置いたり取ったりしていた。
「何だ、分かるのかい?」
「いえ、分かりません」
「お侍ぇじゃしょうがねぇな」
 夕輝の頭を見ながら言った。
「え? どういうことですか?」
算盤(そろばん)弾くのぁ商人のやるこったからな」
「そうなんですか。どうして俺のこと侍だと思ったんですか?」
「その髷、侍ぇだろ」
「ああ」
 そういえば、甚兵衛さんのところの付け鬢が侍用のしかなくて、それを付けているんだった。
 甚兵衛は付け鬢を芝居をする人に貸しだしており、夕輝はそのとき余ってるのを借りてるので、町人の髷になったり、侍の髷になったりするのだ。

 あれ? でも、そうなると……。

「お城とかにも帳簿を付ける人とかはいるわけですよね? そういうのは町人がやってるんですか?」
「いや、勘定方(かんじょうがた)の侍ぇは別だよ」
 やっぱり、侍がやるのか。
 夕輝は別の男の帳面を覗いた。
 三一四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六四三三八三二七九五零二八八……。

 三・一四一五って……。

「円周率?」
「これがなんだか分かるのかい?」
「はい。これは何に使うんですか?」
「何に使うと思う?」
「丸太の太さを測るとか?」
「そんなの巻き尺で測った方が早ぇだろ。計算間違ぇもねぇし」
 それはそうだ。
「じゃあ、(おけ)を作るときとか」
「桶なんか(たが)閉めるだけだろ」
「それなら何に使うんですか?」
「何って、こりゃただの趣味よ」
「趣味!? こんな難しい計算を趣味でやるんですか!?」
「趣味だからだろ。仕事でこんなことしてぇか?」

 江戸の町人恐るべし。

 夕輝は長八の元に戻った。
「……長八さん」
「ん?」
「算術教えるのは無理ですからね」

       二

「兄貴! そこです、そこ!」
 太一の言葉に、何とかウナギを捕まえようとするが、つるつる滑ってすぐに逃げられてしまう。
 太一はもう五匹も捕っているが、夕輝は一匹も捕れないままだ。周りには他にもウナギを捕っている子供の姿が見えるが、捕れてないのは夕輝だけだった。
「少し休みやすか?」
「そうだな」
 夕輝と太一は、通りから桟橋へ続く階段に腰掛けた。
「なぁ、これっていくらなんだ?」
 夕輝はお峰からもらった巾着から入っていた銭を出して訊ねた。
「これ一枚が四文でやす」
 てことは五枚あるから二十文か。
「四文って大体どれくらい?」
「一枚物の読売が四文でやすね」

 よく分からない……。

「一両っていうのはこれの何倍くらい?」
「えっと、一文が九百六十枚で千文で一貫文(いっかんもん)で……」
「待て待て。なんで九百六十枚で千文なんだよ」
「百文のうち四文が数える手間賃になるんでやすよ」
「なるほど」
「四貫文で一両になりやす。ちなみに、一両は一分金や一分銀なら四枚。二分金なら二枚。一朱金や一朱銀なら十六枚。二朱金や二朱銀なら八枚でやす」

 四の倍数が基本なのか。

 一休みした夕輝は再び川に入った。
 峰湯の手伝いもあるから、あまりのんびりはしていられないのだ。
 ウナギを掴もうとして川底まで手を突っ込んでしまった。
 硬いざらざらした手触りに、何かと思って掴みあげると黒っぽい二枚貝だった。

 大きい……。

「ハマグリの子供か、これ」
「シジミでやすよ」
「シジミ!? こんなに大きいのが!?」
「兄貴の国では違ったんで?」
「俺んとこじゃ、シジミは親指の爪くらいだぞ」
「へぇ」
「なぁ、シジミは売れないのか?」
「売れやすよ」
「それを早く言え。ウナギより手っ取り早いじゃないか」
「すいやせん」
 夕輝はシジミを捕ることにした。
 太一は夕輝の邪魔になってはいけないと思ったのか、相変わらずウナギを捕っている。
「シジミは業平橋の辺りで捕れるのが、業平蜆(なりひらしじみ)って言って高く売れるんでやすよ」
「じゃあ、今度業平橋の辺りに行くか」
 どこだか分からないが太一なら場所を知ってるだろう。

 夕輝は出来るだけ大きいのを選び、小さいのは川に戻した。シジミ捕りに夢中になっていたとき、膝の裏に何かが触った。
 ウナギかと思ってとっさに掴んだ。
 だが、何か感触が違う。
「兄貴! それ!」
 太一が目をむいて指を指した。
 自分が捕まえたものに目を落とすと、それは着物の裾だった。
 着物には死体がついていた。いや、正確には死体に着物がまとわりついているのだ。
「げ!」
「流しちまいやしょう」
 太一はそう言うと、死体を川の真ん中の方へ押しやろうとした。
「待て待て! そういうわけにはいかないだろ! 死体だぞ!」
「だから、流しちまいやしょうって」
「そうはいくか。お前、ちょっと行って平助さん呼んでこい」
 太一は、流しちまえばいいのにと、ぶつぶつ言いながらも平助を呼びに走り出した。

 夕輝は改めて死体を掴むと、気持ち悪いのをこらえて桟橋に引っ張り上げた。
 死体にまとわりついた着物は、今にも脱げそうだった。髷を結う元結いが切れて、ざんばら髪が海草か何かのように広がっている。驚いているようにも、恐怖におののいているようにも見える表情をしていた。

 すぐに太一は平助と兵蔵を連れてやってきた。
「なんだ、夕輝、土左衛門なんか流しちまえば良かったのに」
「え!? いいんですか!?」
「流れてる死骸(ほとけ)なんざ珍しかねぇからな」

 この時代、行き倒れの死体や、金がなくて葬ってやれない家族の遺体等を川に捨てることは珍しくなかったのだという。それに入水自殺をする者もいる。だから流れている遺体は引き上げなくてもいいことになっているらしい。

 気持ち悪いの我慢して引き上げたのに……。

 夕輝は肩を落とした。
「けど、親分、この死骸、斬り殺されてやすぜ」
 死体の脇にしゃがみ込んでいた兵蔵が言った。
「辻斬りか……ま、引き上げちまったし、斬り殺されてるんじゃ知らん顔もできねぇな」
「すみません」
「いいってことよ! 兵蔵、お前ちょっと行って東様連れてこい」
 兵蔵はいつの間にか集まっていた野次馬をかき分けて走っていった。
 平助は死体の脇にしゃがみ込むと、十手で手首を持ち上げたりし始めた。

 死後硬直を調べてるのか。

 死後硬直という言葉がこの時代にあるかは分からなかったが、経験でそういうものがあることは知っているようだ。
 死体は背中を斜めに斬られていた。
 水に洗われた為か、着物は赤黒く染まっていたが、死体に血はついていなかった。
「それで? お前はこんなとこで太一とウナギ捕りか?」
「ウナギは捕れなかったのでシジミを」
「お峰にもらっただけじゃ足りねぇか」
「いえ、お小遣いまでもらうわけにはいかないので必要な分は自分で稼ごうと」
「おう、いい心掛けじゃねぇか。捕れたか?」
「はい」
 そんな話をしている間に兵蔵が東を連れてきた。
 夕輝と太一は邪魔にならないようにその場を離れた。

「シジミは八文だな」
 夕輝と太一は大川沿いにある小料理屋を見つけて庖丁人(ほうちょうにん)にシジミを買ってくれないかと持ちかけた。
「これはいくらでやすか?」
「ウナギは六匹で十二文だな。ほらよ」
 男はそう言うと夕輝に二十文渡した。
 小料理屋を後にすると、夕輝は二十文の中から八文を取って残りを太一に差し出した。
「ほら、お前の分」
「いや、いいでやすよ。兄貴が取っておいて下せぇ」
「何言ってんだ、お前が捕ったウナギなんだからお前の金だろ。ほら」
「でも……」
「いいから、早く受け取れ」
「じゃ、遠慮無く」
 太一は恐る恐る受け取ると懐から巾着を出してその中に入れた。

「押し込みのあった見世の手代?」
 夕餉の席である。
 夕輝が引き上げた死体の身元が分かったらしい。
「一昨日、伊勢屋って材木問屋に押し込みがあってよ。その見世の手代の茂吉ってヤツだったのよ」
 平助が説明を始めた。

 茂吉の手引きで押し入った七人組の男達は、番頭の一人を脅して内蔵を開けさせ七百数十両を奪って逃げた。
 押し入った連中は騒いだ手代二人と、内蔵を開けさせて用済みになった番頭を殺していた。
 それと、縛られて猿轡(さるぐつわ)を噛まされていた見世の(あるじ)一家の内、主人が戻したものを喉に詰まらせて死んでいた。

「そういうことがあるんですか?」
「猿轡を噛まされると時々戻すことがあんだよ。けど猿轡してると戻したものを吐き出せねぇだろ。それが喉に逆流して詰まると窒息すんのよ」

 猿轡って怖いんだな。

 手引きした茂吉は押し込みと一緒に逃げた。
「茂吉も用済みになったからやられたんだろうな。茂吉の方は分け前にありつけると思ったんだろうけどよ」
 それで茂吉は驚いたような顔をしていたのだろうか。

 悪銭身につかずって言うのはこういう場合使えるのだろうか。

 その日も、夕輝と太一はシジミを捕っていた。
「最近、椛(ねえ)さんに会いやせんね」
「いつから椛ちゃんの弟になったんだよ。お前、同い年だろ」
「いや、兄貴のお知り合いでやすから」
「兄貴はやめろって言ってんだろ。俺は破落戸(ごろつき)じゃないぞ」
「兄貴を見て破落戸だと思うヤツはいねぇと思いやすが」
「当たり前だ」

 破落戸だなんて思われてたまるか。

「そういえば、お前、椛ちゃんを襲ったんだったな」
「すいやせん。あのときは、平次兄……平次が誰かから椛姐さんを(かどわ)かしてきたら十両やるって言われたらしくて……」
「え? 可愛いからよからぬ事をしようとして襲ったんじゃなかったの?」
 意外だった。

 椛ちゃんのうちってそんなにお金持ちそうには見えなかったけどな。

 一戸建てではあったがそんなに大きくはなかった。
「兄貴はお里さんより椛姐さんの方が好みなんで?」

 なんでお里はさん付けなんだ。

「お前はお里ちゃんの方が好きなの?」
「好きって言うか、お里さんの方がきれいでやすよね」
「そうなの?」
「口は小さくて、目は切れ長で瓜実顔(うりざねがお)で……」
 瓜実顔というのはその名の通り、瓜のように細長い顔らしい。
 夕輝は前にTVで観た浮世絵の美人画を思い浮かべた。

 あれ、馬面だろ、どう見ても。

「きっと何とか小町って呼ばれてやすぜ」
「ふぅん」

 そういうもんなのか。
 俺は椛ちゃんの方がきれいだと思うけどな。

「兄貴はどう思いやす?」
「どっちがきれいと思うかは人によって違うんじゃないか?」
「あ、噂をすれば、ほら」
 太一の言葉に顔を上げると、お里がお米を連れてこちらへ歩いてくるところだった。

       三

「天満さん、こんにちは」
 お里は夕輝をじろじろ見ながら言った。
 夕輝は尻っぱしょりしていたことに気付いて慌てて着物の裾を下ろした。
「こんにちは」
「ちょうど良いところで会いましたね。変な男に尾けられてるみたいなんです。送っていってくれませんか?」

 なんで俺が……。

「いいけど」
「じゃあ、行きましょう」
「太一、お前先に帰ってろ。お峰さんに、俺は帰りが少し遅くなるって伝えといてくれ」
「へい」

 太一が行ってしまうと、お里達は歩き出した。見世とは反対方向に向かおうとしている。
「お見世に帰るんじゃないの?」
「これから祖母の家に届け物をしに行くんです。それから帰ります」
 お里は当然のように言った。
 夕輝はげんなりしながらお里達と共に歩き出した。

 すっかり遅くなっちゃったな。
 暮れ六つはとっくに過ぎ、辺りは暗くなっていた。
 夕輝は一人で帰り道を急いでいた。
 そのとき、叫び声が聞こえた。

 近くだ!

 夕輝は駆けだした。

 駆けつけてみると、椛が牢人風の男に腕を掴まれているところだった。
「椛ちゃん!」
「夕輝さん!」
 椛が夕輝の顔を見て叫んだ。
「十六夜」
 いつの間にか繊月丸が隣にいた。
 繊月丸が刀の姿になる。
 夕輝は繊月丸が刃引きになっているのを確認してから、男に刀を向けた。
「小僧、やめとけ」
 男が言った。

 夕輝は構わずに刀を青眼に構えた。
 男は椛を放すと抜刀した。
 白刃(はくじん)が闇の中でかすかな光を放った。
 男は八相(はっそう)に構えた。

 こいつ、出来る!

「椛ちゃん、逃げろ!」
 夕輝は男から目を離さずに言った。
 椛は一瞬逡巡した後、背を向けて駆けだした。
 夕輝と男は睨み合ったまま動かなかった。
 やがて、男が足裏を擦るようにしてじりじりと間を詰めだした。
 夕輝は斬撃の起こりを待っていた。
 男が一足一刀の間境(まざかい)の半歩手前で止まった。
 二人の睨み合いがどれくらい続いたろうか。
 不意に夕輝の剣先がわずかに上がった。
 男の気迫に押されて剣先が浮いてしまったのだ。
 その瞬間、男は八相から袈裟に振り下ろした。
 夕輝は青眼から真っ向へ。
 二人の刀が弾き合った。
 青白い火花が散った。
 刹那、二人は二の太刀を放った。
 夕輝は小手へ、男は胴へ。
 夕輝の放った小手は、男の手の甲をわずかに打ったが、刃引きなので斬れたりはしなかった。
 男の刀は夕輝の着物の腹部を裂いたが身体には届かなかった。
 二人は同時に後ろに跳びさすると再び剣を構えた。
 夕輝は青眼に、男は八相に。
 今度は即座に技を放った。
 夕輝は胴に、男は袈裟に。
 夕輝の剣が胴に届く前に、男の刀が夕輝の左肩を切り裂いた。

 斬られた!

 夕輝はとっさに後ろに跳んだ。
 左肩の焼け付くような痛みに、初めて殺されるかもしれないと思った。
 その瞬間、恐怖が夕輝の身体を貫いた。
 恐怖と痛みで身体が硬くなり、剣先が震えた。
 いや、身体が震えているのだ。

 このままでは本当に殺される!

 初めて斬られる事を恐れた。
 パニックになりそうなのを何とか押さえようとした。

 落ち着け!

 夕輝は何とか冷静になろうとした。
 みんなこんな怖い思いをして戦ってたんだ。
 男がにやりと笑った。
 夕輝は少しずつ後ずさりし始めた。
 男が八相に構えて間合いを詰めてくる。
 夕輝は男の剣を受けようとわずかに剣先を上げた。

 来る!

 剣が振り下ろされそうになった時、
 びしっ!
 石礫(いしつぶて)が男の額に当たった。

 石が当たったところから血が流れた。

 今なら逃げられる!
 でも、椛ちゃんは無事に逃げられたのか?

 男が憤怒の形相で、それでも剣を振り下ろそうとした時、石礫が立て続けに飛来し、顔に当たった。
 逃げろと言うことらしい。
 夕輝は逃げることにした。
 椛のことは気になったが、そちらへ行くことは出来ない。それに、男に背を向ければ斬られる。
 タァッ!
 夕輝は裂帛(れっぱく)の気合いを上げると男に斬り付けた。
 構えも何もない。
 ただ振り下ろしただけだった。
 男が剣先を弾いた。
 夕輝はそのまま男の脇を走り抜けた。
 男が追ってくる。
 夕輝は懸命に走った。
 恐ろしかった。
 ただ、この恐怖から逃れたくて必死に駆けた。
 しかし、肩からの出血が思いの外多いらしく、頭から血が引いて顔が冷たく感じた。

 椛ちゃんは……。

 夕輝が男をまこうと角を曲がった時、何者かが夕輝と併走し始めた。
 右を向くと椛だった。
 いつもより遅いとは言え、男の夕輝と同じ速さで走っていた。
「夕輝さん、こちらへ」
 椛が不意に左に曲がった。
 慌てて夕輝も曲がった。

 狭い路地を何度か曲がり、小さな稲荷の祠の陰に逃げ込んだ。
 二人はしばらく息を潜めていたが男は追ってきていなかった。
 諦めたらしい。
 夕輝は思わず溜息をついた。
 気が抜けた途端、痛みが戻ってきた。
「痛っ……!」
 思わず顔をしかめて肩を押さえた。
「怪我を見せて下さい」
 夕輝は椛に言われるままに着物の上半身を脱いで傷を見せた。
 流れ出した血で肩から下は裾まで真っ赤に染まっていた。
 椛は、夕輝の破けた着物の袖を切り裂いてさらしのようにすると、肩に巻き始めた。

「さっき石投げたのって、椛ちゃん?」
 痛みに顔をしかめながら訊ねた。
「はい」
「足も速かったし、この前の破落戸も倒しちゃったし、ホントに普通の女の子?」
 椛は小首をかしげて考え込むような表情をした後、
「私の一族は忍びの訓練をしています」
 と答えた。
「忍びって、お庭番って言う……」
「お庭番ではありません。お庭番というのは公方様直属の隠密です」
「公方様の部下じゃないって事?」
「そうです」
「でも、忍びの訓練をしたんだよね?」
「そうですが、見世物や芝居でやってるような荒唐無稽な忍術が出来るとは思わないで下さい」
 手際よく夕輝の肩に布を巻き付けながら答えた。

「天井に張り付いたり、水の上を歩いたりは出来ないって事?」
 夕輝が痛みに顔をしかめながらも冗談めかして訊いた。
「そうです」
 椛が微笑んだ。
「私は多少武術の心得がありますが、女の忍びの仕事は主に女中などに化けて情報収集をすることです」
「それだけ?」
「夢を壊しても申し訳ないので言っておきますと、男の忍びは手裏剣を投げたり、天井裏や床下に忍び込むこともあります。うちは忍びの一族ではないのでやりませんが」
「いや、別に忍者に夢を持ってるわけじゃないけど。でも、お話とかに出てくる忍者とは随分違うんだね」
「お話ですから」
 それもそうだ。
「送ります。帰りましょう」

       四

「夕ちゃん! どうしたんだい、その怪我!」
 夕輝の帰りが遅いのを心配して峰湯前に出ていたお峰が、椛に肩を借りて歩いてきた夕輝を見て声を上げた。

 最初こそ自分で歩いていた夕輝は、途中から足下がふらつくようになり、やがて椛に肩を借りないと歩けなくなったのだ。
「申し訳ありません。私を助けようとして夕輝さんが怪我をしてしまいました」
 椛が頭を下げた。
「とにかく、中へ。お前さん! ちょっと来とくれ! お前さん!」
 お峰は椛に変わって夕輝に肩を貸すと、戸口に向かった。

 椛が扉を開ける。
「なんでぇ、騒がし……夕輝! どうした!」
 平助は、
「おい! 小助! 仙吉!」
 家の中に向かって叫んだ。
 小助達が何事かと出てくる。
「小助! 布団ひけ! 仙吉、お前ぇは良庵先生呼んでこい!」
 小助達はすぐに行動に移った。

 その後のことはどたばたとしていて良く覚えてなかった。辛うじて覚えているのは医者が来て、寝かされていた夕輝を診たことだけだった。

 夕輝は数日間寝込んだ。
 何度か椛が見舞いに来たようだが、意識がはっきりしていなかったので何を話したかは覚えてない。

 夢うつつの中、気付くと枕元に少女の姿の繊月丸が座っていた。
「繊月丸……」
「十六夜、痛い?」
「ちょっとね」
 夕輝は安心させるように微笑んだ。
「繊月丸、この前は随分タイミング良く出てきたな。どうしてあそこに来たんだ?」
 椛が襲われた時、繊月丸がいたのは偶然ではないような気がしたのだ。
「あれは望の仕業だから」
「椛ちゃんを襲ったのが?」
「そう」
「あいつが望?」
「あれはただの手先」
「どうして望が椛ちゃんを襲うんだ?」
「未月の一族だから」
「未月……天満の一族って言うのとなんか関わりがあるのか?」
「天満一族が絶えた時、未月一族が跡を継ぐ」
「それって……」
 そこまで言って夕輝は意識を失った。

 ようやく起きられるようになった日の夕餉が終わると、
「平助さん」
 夕輝は平助の前に正座した。
「どうしたい、改まって」
「俺、甘く考えてました。真剣で戦っていても、刃引きの刀を使ってるから、殺してないからって軽く考えてました」
 殺していないから責任はないと思っていたのだ。
「でも、殺してなくても命のやりとりをしてることには変わりなかったんですね」
「怖くなったかい?」
「はい。恥ずかしいですけど、怖いです」
「真剣が怖くない方がおかしいやな」
「じゃあ、もう捕り物には行かないでくれるかい?」
 お峰が訊ねた。
「いえ、これからもお手伝いさせていただきます」
 お峰に答えた後、平助の方を向くと、
「足手まといにならないようにしますので、これからもよろしくお願いします」
 と言って頭を下げた、
「おう、頼りにしてるぜ」

「夕ちゃん、太一知らないかい?」
 お峰が辺りを見回しながら言った。
 稽古場から帰ってきて峰湯を手伝っていた夕輝は、薪の山から顔を上げた。

 あいつ、どっかでサボってんのか?

 お峰は太一を探しながら向こうに行ってしまった。

 しょうがないヤツだな。

 そのとき、夕輝の足下に何かが転がってきた。
 亀の根付けだった。
 それを拾って顔を上げると、誰かが走っていくところだった。
 その紐の部分に紙が結びつけてある。
 この根付け、太一が持ってた……。
 夕輝は急いで紙を開いた。

 えっと……………………読めない。
 人に読ませたかったら楷書で書け!

 夕輝は仙吉の所へ行って読んでもらった。
「正覚寺? それってどう行けばいいんですか?」
 夕輝は道を教わると、
「仙吉さん、すみません、少し休憩させていただきます」
 仙吉に頭を下げると走り出した。

 正覚寺は、寺が立ち並んでいる一角にあった。
 正行寺、本立寺……、正覚寺。

 ここだ!

「太一!」
 夕輝が正覚寺の境内に飛び込むと、大勢の男達がいた。
「来やがったな!」
 兄貴分と思しき男が言った。
 この前、太一と一緒に椛を襲った連中の一人だ。
 辺りを見回すと、男達の向こう側の木の根元の辺りに太一が倒れていた。
「お前ら! 卑怯だぞ!」
「るせぇ! やっちめぇ!」
 男達が一斉にかかってきた。

 夕輝は帯に差してあった鉄扇を手に取った。
 男の一人が匕首を突き出して突っ込んできた。
 体を開いて匕首をかわすと、手首に鉄扇を叩き付けた。
 骨が折れるような鈍い音がして匕首が落ちる。
 次の男が右斜め前方から匕首を振り下ろしてきた。
 匕首を弾くと、男の鳩尾に鉄扇を叩き込んだ。
 左から匕首を腰だめにして突っ込んできた男をよけると、足をかけて転ばせた。
 次の男の匕首をよけながら転ばせた男の手を踏んで匕首を手放させた。
 目の隅に何かが映った。
 振り返りざま、鉄扇を横に払った。
 後ろから切りかかかってきた男の首筋に鉄扇が決まった。
 前から二人が同時に突っ込んできた。
 とっさに右に飛ぶと、片方の男の肩に鉄扇を振り下ろした。男の手から匕首が落ちる。
 匕首を取り落とした男をもう片方の方へ蹴り飛ばした。
 二人がもつれあったまま転がる。
 兄貴分らしい男が匕首を振り上げて向かってきた。
 匕首を弾くと、鉄扇を肩に思い切り叩き落とし、ついでに鳩尾に叩き込んだ。
 男が(うずくま)る。

 夕輝は男の襟首を掴んで顔を上げさせた。
「お前が平次か!」
「そ、それがどうした」
 平次が苦しそうな顔で言った。
「先に裏切ったのはお前の方だ! これ以上、太一に手を出すな! 文句があるなら俺のところに来い!」
 そう言うと、平次を放して太一に駆け寄った。
「太一!」
 夕輝は太一を抱き起こした。
 顔中アザと傷だらけだった。胸や脛など、着物から覗いてる部分も同様だ。
「あ、兄貴、面倒かけて……すいやせん」
「いいから、黙ってろ。今、峰湯に連れてく!」
 頭を打っているとしたら下手に動かさない方がいいと聞くが、ここへ置いていくわけにもいかない。
 太一を歩かせるのは無理そうだった。
 夕輝は何とか太一を背負うと峰湯に向かって歩き出した。

 太一を背負って帰ってきた夕輝を見たお峰が驚いて駆け寄ってきた。
「太一! 夕ちゃん、一体どうしたんだい!」

 夕輝は太一を部屋に寝かせると、医者を呼んで戻ってきたお峰に事情を話した。
「兄貴、女将さん、ご迷惑をおかけしてすいやせん」
「そんなことはいいから早くお休み」
「すいやせん」
「夕ちゃんの次は太一とはねぇ」
「すみません」
 夕輝は恐縮して頭を下げた。
「しばらくは太一はここで預かるとして、太一のご家族に断っとかないといけないね。太一、ご家族はどこにいるんだい」
「……いやせん」
「じゃあ、一人で暮らしてたのかい?」
「へい」
「どこで?」
 夕輝が訊ねた。
「今は正覚寺の先の廃寺に……」
「野宿してたのか!」
 着てる物はお仕着せの単衣(ひとえ)半纏(はんてん)だし、ここは湯屋だから風呂にも入っていたので気付かなかった。
「へい。ずっと平次の所に居候してたんでやすが、ヤツと(たもと)を分かってからは居候するわけにもいかなくなったんで……でも、店請してくれる人がいねぇと長屋は借りられねぇし……」
「なら早くお言いよ。今夜からうちで暮らしな。部屋は……」
「あ、俺と同じ部屋で」
 夕輝が即座に言った。
「いいのかい?」
「俺だけ一人で部屋使ってて申し訳ないと思ってたんです。それに、仙吉さん達の部屋はこれ以上寝られないでしょうし」
「そうかい。それじゃ、そうさせてもらおうかね」

       五

 稽古場の稽古の前後は新入りが雑巾がけをする。
 雑巾がけが終わり、着替えて稽古場を出ると足早に峰湯に急いだ。
 シジミ捕りをする時間を作る為にも、峰湯の手伝いをしっかりしなければならない。
 いつの間にか数人の少年達のすぐ後ろになった。
 横顔を見ると同じ稽古場の門弟だった。

 四、五人が一塊になり、その少し後ろを一人の少年がついていく。
「やあ」
 夕輝は少年に話しかけた。
 よく見ると同い年くらいらしい。
「あ……」
 少年が顔を上げた。
 黒い羽織に青灰色の袴、腰に二刀を帯びているところを見ると侍らしい。
 少年らしさを残した優しげな顔をしていた。
「天満殿もこちらですか」
「うん……あ、君、お侍さんだよね。敬語使わないといけない……です、か?」
「いえ、気遣いは無用です」
「ありがと。確か、桐生君だったよね。俺は天満夕輝」
「拙者は桐生祥三郎と申します」
 二人は並んで歩き出した。
「俺のことは夕輝でいいよ」
「では、拙者のことは祥三郞と」
「分かった」
「夕輝殿は筋がいいと言われてましたが、以前どこかの稽古場に通っておられたのですか?」
「いや、初心者だよ」

 確かに現代では剣道を習っていたが、今の稽古場は木刀での形稽古だけで、防具を使った試合形式の稽古はしていなかった。
 防具が存在してないわけではないようだが一般的ではないらしく、この稽古場では使っていなかった。
 木刀での形稽古には慣れてなかったので、一からやり直す気持ちで始めたのだ。

「夕輝殿は武家ではないのですか?」
「やっぱり分かる?」
「はい」
「祥三郞君が剣術習ってるのはお侍さんだから?」
「拙者は部屋住みなので、父が剣で身を立てられるようにと」

 後で平助に聞くと、部屋住みというのは、跡継ぎではない次男三男等の息子のことなのだという。
 家や御役目を継げるのは跡継ぎだけなので、長男以外はどこかに養子にでも行かない限り、家長に養ってもらうことになるため、部屋住みとか冷や飯食いとか言うらしい。

「剣術が上達すれば仕事に就けるって事?」
 夕輝が訊ねると、祥三郞は苦笑した。
「そう上手くいけばいいのですが……。戦乱の世ならともかく、今は泰平の世故」
 そうそう簡単に仕事に就けるというわけではないという。
「平和なのはいいことだと思ってたけど、仕事がなくて困る人もいるんだね」

 でも、俺は戦乱の世じゃなくて良かったと思うけどな。

「剣術の腕がなくても、顔が良ければどこかの旗本のお嬢さんに見初(みそ)められる事もあるのですが」
「そんなうまい話があるの?」
「拙者の下の兄は役者にしてもいいようないい男で、二千石の旗本のお嬢さんに見初められて婿にいきました。うちは五十石の御家人故、うちよりいい家です」
「へぇ」

 役者にしてもいいかどうかはともかく、祥三郞も顔はいい方だ。この時代の基準ではどうなのか分からないが。
 ちなみに家格や家柄が釣り合っていないと縁組みは認められないので、祥三郞の兄は一旦旗本の家に形式的に養子にしてもらったらしい。

「夕輝殿も午後の稽古に出てないようですが、何か理由でも?」
「居候してる峰湯の手伝いする為に午後の稽古は休ませてもらってるんだ。祥三郞君は?」
「拙者は勉学の為に」
「勉学……じゃあ、論語も習った?」
 ご隠居が侍は算術はやらないと言っていた。となれば、後は古文や漢文、歴史などのはずだ。
「勿論、論語も習いました」
「じゃあさ、時間がある時でいいから教えてくれないかな」
 夕輝の知識で長八に教えるのはそろそろ限界だった。
「夕輝殿も論語をたしなまれるので?」
 祥三郞が顔を輝かせて言った。
「いや、うちのお客さんで論語を教えて欲しいって人がいるんだけどさ、俺もそんなに詳しくないから」
「喜んで。人に教えるのはいい復習になります故」
「ありがと」
 祥三郎が快く引き受けてくれてほっとした。
 この時代は身分の違いがあるので、武士が町人に教えてくれるか心配だったのだ。どうやら祥三郞は身分に拘らない性格のようだ。
 まぁ、身分を気にするなら夕輝が町人と分かった時点で離れていっているだろう。
「いつからですか? 今日からでもいいですが」
 祥三郞は乗り気だった。
「今日、長八さん来てるかな? 来てなくても、うち、湯屋だから汗流していかない? それで長八さんが来てたら教えてよ」
「分かりました」
 祥三郞は笑みを浮かべて快諾してくれた。

 優しい人だなぁ。

「違う! もう一度最初から!」
「ひとはおのれを……」
「そこ! 間違ってる! もう一度!」
「ひ、ひと、おのれを……」
「違う! もう一度!」
「ひ、ひ、ひとのおのれを……」
 祥三郞は勉強を始めるといきなり性格が豹変した。
 長八をびしびしと鍛えていく。

 怖ぇー。
 車を運転すると性格が豹変する人がいるっていうけど、祥三郞君は勉強始めると性格変わるんだな。

「今日はこの辺にしておきましょう」
 祥三郞がそう言った途端、長八は力が抜けたようにその場に突っ伏した。
「祥三郞君、結構厳しいんだね」
 祥三郞を送って峰湯の玄関まで出たところで言った。
「あ、申し訳ない。どうしても学問のこととなると見境がなくなる故……」
 祥三郞は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「学問、好きなの?」
「はい。拙者は剣術より学問の方が好きなんです」
「じゃあ、剣術じゃなくて学問の方で仕事に就くことは出来ないの?」
「拙者も、出来ればそうしたいのですが、うちは番方(ばんかた)故……」

 そう簡単にはいかないのかな。

「婿に行けなかったら家を出て学問指南所をやるつもりです」
 将来のことを考えている祥三郞にかける言葉が見つからなかった。
 これが現代なら、高校生になったばかりなんだから将来のことはこれから考えていけばいい、と言えただろうが、この時代、祥三郞の年で仕事をしている人は珍しくないのだ。
 自分も仕事を見つけなければいけないのかな、と思う反面、この世界のことはまだよく知らないからどうすれば見つかるのかよく分からない。
 何より、夕輝は現代に帰りたいと思っていた。
 それもそう遠くない未来に。この世界で生きていく覚悟は出来ていないのだ。

 残月ってヤツに勝てたら帰してくれるって言ってたよな。

 今の自分の腕ではまだまだ勝てそうにない。
 もっと修行しなければ。

 引き返して家に入ろうとすると、ちょうど出てきた長八と顔を合わせた。
「長八さん、お疲れ様でした」
「夕輝さん、これからも夕輝さんに教わるわけにはいかねぇんですかい?」
「もう、俺の知識じゃ無理ですよ」
「そうですか……」
 長八は肩を落として帰っていった。

       六

「繊月丸、朔夜と会いたいんだ。出来るか?」
 夕輝は刀の姿の繊月丸に声をかけた。
 繊月丸が少女の姿になる。
「うん。こっち」
 繊月丸はすぐに夕輝の先に立って歩き出した。

 繊月丸の後について歩いているとき、道ばたに数人の人が固まってるのが見えた。
 思わず近付いて覗き込むと、金魚売とそれに集まった人達だった。
「どうだい、安くしとくよ」
 金魚が入れられた桶を覗き込むと、小さな亀が一匹、泳いでいた。

 亀か……。

 夕輝は懐から巾着を取り出した。
「おじさん、この亀いくら?」
「十六文、と言いてぇところだが八文にしといてやるよ」

 良かった。

 お峰にもらった二十文に手を付けずにすんだ。
 夕輝は八文を金魚売に渡すと亀を受け取った。
「待たせちゃってゴメンね、行こうか」
 夕輝は亀を大事に右の手のひらに載せ、左手で上を押さえながら言った。
 手の中の亀がもそもそ動いてくすぐったかった。

 寺に着くと夕輝は辺りを見回して池を見つけると、
「もし玉手箱を貰ったらお前にやるから、なるべく早く迎えに来てくれよ」
 と言いながら放した。

 亀を池に放してしばらく待つと、木立の間から朔夜と残月が出てきた。
「繊月丸」
 夕輝が声をかけると繊月丸が日本刀の姿になった。
 ――刃引きになるの?
 繊月丸が頭の中に話しかけてきた。
「頼む」
 ――残月となら刃引きじゃなくても大丈夫だよ
「頼むよ。刃引きになってくれ」
 夕輝がそう言うと繊月丸が刃引きの日本刀になった。
「それから先っぽのところ、丸くしてくれ」
 繊月丸の先端が丸くなった。
 ――カッコ悪い。恥ずかしいよ、十六夜。
「ゴメン、少しの間だけ我慢してくれ」

「刃引きか。お優しいことだ。だが、俺は刃引きになどしないぞ」
 残月がそう言いながら抜刀して青眼に構えた。
 夕輝も青眼に構える。
 残月が足裏を擦るようにしてじりじりと近付いてくる。
 一足一刀の間境で残月が止まった。
 二人は睨み合ったまま動かなかった。
 どれだけの時間がたったのか。
 数瞬か数刻か。
 不意に夕輝の剣先が下がった。
 誘いだった。
 残月が真っ向へ切り下ろしてきた。
 夕輝も真っ向へ。
 二人の眼前で刀が弾き合った。
 すかさず二の太刀で小手を放った。
 残月の腕から大分離れたところで刀が止まった。
 夕輝の喉元に残月の刀が突きつけられていた。

 一瞬睨み合った後、夕輝と残月は刀を下ろした。
「残念だったな。まぁ、この前より多少は良くなってたぜ」
 そう言うと踵を返して歩き始めた。
 朔夜が残月に併せて踵を返す。
 歩き出そうとして夕輝の方を振り返った。
「十六夜、この『えど』は君の知ってる江戸じゃない」
「どういう意味だ」
「『えど』がどういう字を書くのか誰かに訊いてみるといい」
 朔夜はそう言い残して木立の間に消えていった。

「じゃあ、まだ伊勢屋に入った盗賊は捕まってないのかい?」
 お峰が言った。
 夕餉の席だった。
 平助は連日盗賊の探索に出歩いていた。夕輝が手代の死体を見つけた伊勢屋だけではなく、他にもいくつかの大店が盗賊に入られていた。
「手掛かりもなくてよ。次にどこかが押し込まれる前ぇに捕まえてぇんだがな」
 平助が漬け物をかじりながら答えた。
「平助さん、『えど』ってどういう字を書くんですか?」
 夕輝は平助に訊ねた。
「なんでぇ、知らねぇのか」
「えっと、その……」
 夕輝は言葉を濁した。
「こうだよ」
 お峰がそう言って、畳の上に指を走らせて『江都』と書いた。
「『ど』って都って書くんですか?」
「そうだよ」

 まさか……。

「『えど』は水郷(すいごう)の都だろ。だから江都(こうと)って書いて江都(えど)って言うんだよ」
 お峰が説明してくれた。

 昔は江戸のことを江都って言った……訳ないよなぁ。
 と言うことはここは俺のいた世界とは別の世界だっていうのか?

 となると、何百年待っても自分のいた世界へは帰れないことになる。
 夕輝は池に放した亀を思い出した。

 亀を助けても無駄だったのか……。
 まぁ、いいけど。
 それに、いじめられてるところを助けたわけじゃないしな。
 金で買って恩を売ろうなんて虫が良すぎたか……。

 その夜、夕輝が布団に横になると、
 ――十六夜……。
 頭の中に繊月丸が話しかけてきた。
 どうした?
 ――あの亀……。
 うん、何?
 ――海亀じゃないよ。
 …………。