夕暮れ時は、皆、忙しく動いている。

 食事の準備は勿論のこと、差し迫る夜に向けて各々、やることが多いのだ。特に恋する者へ届ける(ふみ)は、この夕暮れ時がよく似合う。
 それが秘めやかな恋であればあるほど、暗い夜よりも、薄暗くなるこの時間帯がうってつけである。文使いとして託される者にとってはいい迷惑かもしれないが。

 しかし私には、残念ながらそういった相手がいない。

彩姫様(あやひめさま)。またこちらにいらっしゃったんですか」

 私付の女房、七里(しちり)が呆れた口調で言い放つ。が、その顔は穏やかさそのもの。何故なら……。

「そういう七里は、抜け出したくて来たのでしょう」

 七里に割り振られる仕事は、意外と多い。何せ彼女は、私付の中でも特別な女房だったからだ。
 幼なじみであり、乳母(めのと)の娘。謂わる乳姉妹だった。

「さすがは彩姫様。分かっていても、咎めないんですよね」
「だって、私がここにいるのを七里が咎めないのと同じよ」

 そう、私は今、扇子も持たずに御簾(みす)の外、それも簀子縁(すのこえん)にいるのだ。さらに行儀悪く、柵に腕を置いて。
 中納言家の一の姫がはしたない! と言われてもおかしくはなかった。

「それで、今日は何を持って来てくれたの?」
「こちらも抜け目がないですね。今日は干し柿を持ってきました」

 小袿(こうちぎ)の袖口から、七里はこっそりと巾着袋を取り出した。それを中身が取り易いように広げて見せる。
 すると、庭先から物音が聞こえてきた。

「何かしら」
「きっと、この干し柿につられてやってきたものでしょう」

 確かに。ここ中納言家の屋敷に怪しい者が入り込めば、たちまち捕らえられてしまうだろう。だからこそ、私が呑気に簀子縁にいられるというものである。

 七里の言葉が聞こえたのか、まるで応えるようにそのものは姿を現した。夕日の赤さに負けず劣らずな毛並みをした……。

「狐?」
「さよう。(それがし)は狐にございます」
「喋った!!」

 私の代わりに隣で驚く七里。お陰で私は、冷静にその狐を見ることができた。

 美しい毛並み。庭の砂利が薄っすらと、空の赤さに染まっていく中、まるでその化身のような姿に思えてならなかった。それくらい狐は凛とした目鼻立ちをしていたのだ。

 歩き方も品があり、私たちがいる簀子縁までやってくると、背筋を伸ばして行儀よく座って見せた。
 より近くなったせいだろうか。狐の体型は瘦せ細ってもおらず、だからといって太ってもいない。標準的な体型だった。
 もしかしたら、どこかの屋敷で飼われているのだろうか。または……。

「喋れるほどに賢い狐さん。こちらにはどのような用事でいらっしゃったの?」

 喋れる、ということは、誰かの遣いのものという可能性の方が高かった。そう、陰陽師の誰かの。

「本当に、この干し柿がほしいのかしら」
「いいえ。でもそうですね、姫君。某と勝負をしてみませんか?」
「勝負?」
「はい。勝負は何でも構いません。しかし、某が勝ちましたら、一緒に来ていただきたいところがあるんです」
「干し柿ではなくて?」

 先に違うと言いましたよね、という圧を感じ、咄嗟に私は勝負の内容へと考えを変えることにした。

 同じ人間同士なら、囲碁や貝合わせなどといった遊びが使えるけれど、狐……。駆けっこなどの体力を使った勝負事は、明らかに私の方が不利だった。

 狐さんもできて、且つ不公平にならない勝負事……。

「そうだわ。七里、私の机からこよりを取って来てくれない? 一つじゃなくて、そうね。七本くらい」
「構いませんが。もしかして、この者の話に乗るんですか?」
「えぇ。だって、折角来てくれたのよ。断るなんて失礼じゃない」

 それに面白そうだしね。
 面識のない狐さんが、私を連れて行きたい場所、というのも気になるし。狐さんの主もまた。

 私がニコリと笑うと、七里は一度目を閉じた後、観念したように立ち上がった。幼い時から共にいるため、言い出すと聞かないことを知っているのだ。
 私もまた、強引に押し通せば聞いてくれることを知っているため、ついつい甘えてしまう。

「こよりを使って、何をするのですか?」

 狐さんがさらに顔を上げて、七里の後ろ姿を目線で追う。簀子縁に手をかけないところなど、お行儀が良い。

「実はね。しばらく前から、ずっと文を交わしていた相手から返事が来なくて、料紙(りょうし)だけが溜まってしまったの。けれど、次から次へと可愛らしい料紙をお母様からいただいて……」

 少し困っていたのだ。お母様は恐らく、好いた殿方と文を交わしているのだろう、と勘違いしているらしく。それで上機嫌となり、次々と。

 あの方とは、そういう関係ではないのに。そもそも、知っているのはお名前だけで、どこの誰だかは、私も分からないのだ。
 故に深く尋ねられた時は、言葉を濁してやり過ごしていたほどだった。

「古い料紙から、こよりにしたり、小さな冊子にしたりしていたのよ。だから、そのこよりを使って、くじを作るの」
「くじ……ですか? 勝負事としては、些か単純といいますか、軽いといいますか。そちらが負けた時の内容をお忘れですか?」
「忘れていないわよ。それに、勝負なら平等でやりたいの。私と狐さんとでは、色々と違うでしょう?」

 納得できなければ、また考えればいいだけのこと。けれど狐さんは、私の想いを理解してくれた。

「いいでしょう。けれど某の手では、くじを引くことはできません。それはどうしますか?」
「七里が代役を務めるわ。狐さんが選んだこよりを引くの。目の前で見ていれば、不正なんてできないしね」
「確かに。けれど、くじを作るのが七里殿では、それも公平とは言い難いのでは?」
「なっ! 失礼ね! この私が、姫様が作った勝負事で、不正を働くとでも!」

 今にも簀子縁から降りて、狐さんに掴みかかろうとする七里の衣を抑えた。

「では、こうしましょう。七里。手の空いていそうな女房を一人、連れて来て」
「しかし、こんな怪しげな狐がいるのに、彩姫様を一人残してなど行けません」
「勝負事が済んでいないのに、私をどうこうなんてしないわよ。ねぇ?」

 そう促すと、狐さんは頷いて見せた。すると、七里も観念したのか「分かりました」と言って奥へ向かって行った。

 七里が戻ってくるまでの間、狐さんは私と話そうともせず、ただただそこにいるだけだった。その姿を見ていると、ただの狐にしか思えない。
 出会った時もそうだ。陰陽師の式神か何かなら、怖いと感じるのかもしれないが、そういう要素も気配もない。

 狐さんの主は優しい人物なのだろうか。それならば、会ってみたいとも感じてしまった。

「彩姫様。連れて参りました。如何なさるんですか?」

 そうこうしているうちに、七里が戻って来た。年は同じくらいだろうか。尋ねてはいるが、彼女に何をやらせようとしているのかは分かっているらしい。
 手の空いているものといっても、年配の女房や女童ではなかったのが、その証である。

「ここに七本、こよりがあるでしょう。一本だけ印をつけてほしいの。そうね、端に墨で色をつけてちょうだい。つけ終えたら、等間隔に並べてほしいの。端の方は布で隠して」

 私たちが何をやろうとしているのか、その女房は察しがついたようだった。七里が事前に用意していた墨に筆をつけ、言われた通りにこよりに手を伸ばした、ところで私は背を向ける。

 どれにつけたか、など見るのは違反行為だ。それは狐さんと七里も同じこと。私が背を向けたのと同時に、二人とも体の向きを変えた。

「彩姫様。できました」

 声をかけられて振り向くと、女房の前の床に七本のこよりと、その上にかけられた一枚の布があった。
 私は一つ頷いて、その女房を下がらせる。あとで七里を通して褒美をやらなければ。些細なものだから、たくさんある料紙を幾つか見繕って。

「さぁ、準備はできたわ。印がついたこよりを引き当てた方が負け。それでいいかしら」
「構いません。先行は如何なさいますか?」

 女房がいなくなったのを確認した狐さんが尋ねる。

「七里。碁石を一つ、持って来て。その時、私たちには見えないように握り締めてね」
「分かりました」
「なるほど、七里殿が持ってきた碁石を当てるというわけですか」
「えぇ。同じ勝負事でも、こっちは七里が味方だし、すぐに決まってしまう味気ないもの。それでは勿体ないでしょう。わざわざ狐さんが来たのに」

 すると、狐さんが驚いた表情をした。

「確かに、貴女様は面白いお方だ。主様が求めるのも分かる」
「主様?」

 やはり狐さんが連れて行きたい、というのは主の元らしい。私は益々、興味が湧いた。

「お待たせしました。それでは、どちらを選びますか?」

 七里はそういうと、真剣な眼差しで私の前に両手を差し出した。
 その腕と袖の長さ。七里の表情など。さすがは私付の女房。不正などしません! と顔に書いてあるようだった。

 思わずクスリと笑ってしまったが、それにも嫌な顔は見せない。この奇妙な出会い、勝負事にここまで付き合ってくれる人物も、そうそういないだろう。

 先ほどとは違う笑顔を七里に向けて、私は右を選んだ。

「では某は左を」
「ごめんなさいね、先に私が選んでしまって」
「いいえ。七里殿の手間をかけたのですから、これくらいは」

 こちらはこちらで、紳士的な狐さん。
 七里もそう感じたのか、狐さんの方を向いて、両手を広げた。せめてこれくらいは先に見る権利がある、とばかりに。

「おや、某の勝ちでしたな」
「そのようね。でも次は負けなくてよ」

 しかし私の勝負運は、元々良くなかったらしい。いや、日が悪いのだ。そう、きっと。


 ***


「ふむ。選んだもの、全てが外れだった、ということは最後の一つを選ぶ権利のある、某の勝ちですな」
「いいえ。この最後も印がついていない、ということもあるわ」
「それは、先ほど呼んだ女房殿に対して失礼なのではありませんか?」
「うっ!」

 少しだけ意地になっていたのだろう。指摘されるまで気がつけなかった。
 狐さんは七里に視線を送り、最後の一本を引くように促す。そして……。

「狐殿の勝利ですね。それで、彩姫様をどちらに連れて行くつもりですか? さすがに私までは無理でしょうから、行先だけでも教えてください」

 ここまで協力したのだから、いいでしょう、と言わんばかりの態度を狐さんに向ける七里。

「えぇ、構いません。話したところで、ついて来られる場所でもないので」
「そんな危ないところに、彩姫様を!?」
「危なくはありません。主様の居られるところですから」
「その主様とは、どなたなのですか?」

 さすがにそれは聞いておきたかった。すると、狐さんは口籠る。先ほどまで饒舌(じょうぜつ)に話していたとは思えないほどに。
 しかし、私と七里を交互に見て観念したようだった。

「……時実様(ときさねさま)と申します」
「え?」

 私は驚きと同時に、不快感を露わにした。何故ならこの間まで文を交わしていた相手の名前が、まさに時実様だったからだ。


***


 狐さんの言う時実様が、私と文を交わしていた人物なのは定かではない。だからといって確認の仕様ができないのも、また事実だった。

 そもそも私は時実様が、どこの家の者なのも知らない。身分も、姿も。
 けれど文に書かれている手蹟(しゅせき)は綺麗で、使われている料紙や香りもいい。何より、内容がとても面白く。興味の惹かれるものばかりだったからだ。

 そこから私は、何となくだが各地を放浪している者だと思っていた。貴族でも、時折そういう者がいるとも聞くし、僧侶なのかもしれない、と一時期疑ったものだ。
 故に、どうしても狐さんの言う時実様が、私の時実様と一致しなかった。

 それなのに、何故かしら。同一人物だと、仄かに期待してしまう。
 一度でもいいから会いたい。そう思っていたからだろうか。そして相手も……時実様も望んでいると思いたいからかもしれなかった。

「狐さんは本来、このような大きさなのですか?」

 私は今、夕焼け空を駆ける狐さんの背中に乗っていた。出会った時は、本物の狐のような大きさだったのに。

「どちらでもありません。自分の意思で大きさを変えられます。手のひらの大きさにもなれますが、今ここでお見せすることができないのが残念です。貴女様を危険にさらされしてしまうと、某が主様に怒られてしまいます故」
「えぇ、勿論よ。安全第一でお願いね」

 確かに見てみたいとは思ってしまったけれど、さすがに空の上ではご遠慮願いたいわ。夕日がとても綺麗だけれど。

「そういえば、狐さんの主と同じ時実様から文をいただいたのは、今日みたいな夕日だったわ。赤と橙。紫色もあって、とても美しかった」
「主様も仰っていました。その夕日に照らされた貴女様を見て、この方に文を贈りたい、と」
「え? それでは……!」
「はい。しばらく前から返事が来なかった相手。貴女様と文のやり取りをしていた相手。それが我が主、時実様にございます」

 それを聞いた瞬間、私は嫌な予感がした。
 狐さんが私の元にやってきた理由は、連れて行くこと。それも時実様のところに。つまり、時実様は今、動けない状態なのだ。
 私に会いに来られない。けれど、会いたい。そう思って……。

「狐さん、急いでください」
「無論、そのつもりです」

 私は狐さんにしがみついて祈った。

 どうか、無事でいて、と。


 ***


「時実様! どこですか! 彩が、彩が来ました!」

 目的地に着いた途端、私は狐さんから降りて名前を呼んだ。
 辺りには何もない。いつの間にか夜になってしまったかのように、真っ暗だった。それでも不思議と怖く感じないのは、時実様の安否に心が支配されていたからだろう。

 私は必死に探した。相手は一度も会ったことがないというのに。ここで会った人物が時実様ではない可能性だってあるのに。
 それでも私は懸命に呼び続けた。

「時実様!」
「彩、彩姫?」

 微かに私の名を呼ぶ声が聞こえた。私は再度、辺りを見渡した。
 暗いだけで、人の姿すら見えない。右も左も分からず、ただただ不安だけが胸に押し寄せてくる。だから希望を込めて、名前を呼んだ。

「時実様! どこにいらっしゃるんですか?」
「彩姫。私がそちらに行くので、あまり移動しないでください」

 今度ははっきりと声が聞こえた。低くて優しい声音。どんなお顔をしているのだろう、と思った途端、今度は緊張が心を支配した。ただ待っている、という行為も相まって。

 すると、前方から薄っすらと人の形が見えた。あの方が時実様だろうか。
 確認しようと口を開いたが、先に名を呼ばれてしまった。待ちきれなかったのは、どうやら私だけではなかったかのように。

「彩姫。あぁ、そうだ。私の記憶にある彩姫だ」
「え? あ、あの。私たち、会ったことが、あるのですか?」

 私は時実様の言葉と、その容姿に驚いてしまい、たどたどしい返事をしてしまった。

 だって、ずっと烏帽子(えぼし)を被った公達(きんだち)を想像していたから。

 それが時実様にも伝わったのだろう。照れ臭そうにしながら、説明してくれた。私たちの出会いではなく、ご自分の容姿について。

「あぁ、これは、その……幻滅させてしまって申し訳ありません。私も、できればきちんとした姿でお会いしたかったのですが、直衣(のうし)は旅に不向きなんですよ。出家はしていないんですが、僧侶の姿の方が楽なこともあって」
「あっ、もしかして、賊に襲われた経験が?」
「なきにしもあらず、といったところでしょうか。それに、陰陽師という立場よりも、僧侶の方が民の受けもいい、というのもあるんです」

 確かに、陰陽師の機嫌を損ねさせると、祟られるかもしれない、という恐怖心があるのかもしれなかった。逆に僧侶に対しては、そんなに悪いイメージはない。
 貴族でそうなのだから、民は尚更だろう。祓えるだけの金品がないのだから。被害だけ受けて泣き寝入りしてしまうかもしれなかった。

「けれど、髪はあるのですね」
「本物の僧侶でもないので。それに短くても、気にする者はいません。袈裟(けさ)を着ていればいいみたいです」
「まぁ」

 思わずクスクスっと笑ってしまった。

「良かった。ようやく笑ってくれた。初めて貴女を見た時も、そのようにコロコロと可愛らしく笑っていました」
「その、宜しければ詳しく聞いてもよろしいですか? 全く見覚えがないものでして」
「勿論です。それに見覚えがないのも当たり前なので気にしないでください。私が一方的に想い慕っていただけなのですから」

 そう言って時実様は、懐かしそうな眼差しをしながら話してくれた。

「あの頃はまだ、駆け出しの陰陽師で。師匠と共に貴族の屋敷で仕事を終えた帰りでした。綺麗な夕日を見ていると、楽しそうな声が聞こえてきて……気がつくと中納言家の屋敷を覗いていました。失礼なことだとは分かっていたのですが、その当時の私は明るい声や話題に飢えていたようで」

 陰陽師ともなれば、貴族の汚い部分を見ることが多いのだろう。相手を呪い、呪い返す。心身が疲れてしまうのも、無理はなかった。

「その時、夕日に照らされた彩姫を見て、夕彩(ゆうあや)という言葉がとても似合う方だと思いました。いつしか、私の中で彩姫は夕彩姫と勝手ながら呼んでいたのです」
「夕彩……」

 夕日を受けて、ものの色などが美しく輝く言葉。私の彩に掛けて。途端、顔が熱くなるのを感じた。

「勿体ないお言葉です」
「いいえ。それほど美しかったのです。後に、夕方になると簀子縁に顔を出すのが日課だと知り、式神に文を届けさせました。初めは返事など来るとは思わず、舞い上がったものです」
「え? 式神?」
「はい。童の姿に変えて。今日、迎えに行った、あのものですよ」

 私は思わず振り返った。狐さんはただ、私たちを穏やかな表情で眺めていた。

「今日もあの時と同じく、賭けでした。式神の本当の姿を見せることも、勝負事をふっかけることも。そして、貴女がここに来ることも全て」
「……賭け」
「もう、今日しか機会がなかったのです。不快に思われても仕方がないのですが……」
「そんなっ! 不快だなんて。時実様との文のやり取りはとても楽しく、お返事を待っていたのに……」

 非難しようとした直後、私はあることに気がついて、ハッとなった。すると、透かさず時実様も反応する。

「さすがは聡明な方だ。私が何故、このようなことをしたのか、察していただけたとは有り難い」
「い、いえ。これは私の憶測です。あくまでも……」

 しかし、それ以上は言えなかった。言葉にしたら、本当のことになりそうだったから。そんな私の気持ちを汲んでくれたのか、代わりに時実様が仰られた。その真実を。

「えぇ、もう返事ができない身の上になってしまったんです。流行り病に(かか)り、そのまま。長い旅路で体も弱っていたのでしょう。あっという間でした。式神に文を託すこともできないほどに」
「陰陽師でも、ままならないことがあるのですね」
「万能ではありませんが、一つだけ。生と死の堺に貴女を呼ぶことができました。最初で最後の邂逅(かいこう)になってしまいましたが、こうして直接お話できたこと、幸せに存じます。これでもう、悔いはない」

 思わず私は時実様に抱きついた。
 まだお話したいことがあるのに。もっとご一緒したいのに。言葉にならない想いを込めて。

「夕彩姫」

 時実様が呼んでいたという、私の名前。親しみの籠もった声音に、時実様がどれくらいその名で私を呼んでいたのかが想像できた。

 それなのに、私は何も応えることができない。

「夕彩姫。先ほども言ったように、ここは生と死の堺。そして私は陰陽師です。無意識に生者を、死へ連れて行ってしまうかもしれないでしょう。だから……だから……離れては……もらえ、ませんか?」

 時実様の言いたいことは分かる。私を死者にしたくない。でも、私を無理に引き離したくない。その優しさに胸が締めつけられた。と同時に、頬を流れる涙。

「私を連れ去ってはくれないのですか?」
「何をいうのですか! 確かに生前はそうしたい気持ちはありました。身分が違い過ぎますから。届かない想いを、文にしたためないように注意していたくらいです。だからこそ、貴女は生きなければ!」
「生きてどうするというのですか? 会ったこともない。好いてもいない帝のところへ入内(じゅだい)させられる可能性だってあるんですよ。それなら一層のこと……」

 時実様と死者の世界へ行くのもいいかもしれない。

「会ったことがない、というのなら、私は? 嫁いでからの恋もありましょう。そう、悲観なさる必要はありません。夕彩姫は、その名の通り美しい。帝も私と同じように感じることでしょう。そして、私と交わした文の内容を話せば、興味を持つはずです。帝は、いえ今上(きんじょう)は外に出たことがない御方ですから」
「もしかして、そのために?」
「叶わないのなら、せめて貴女の役に立ちたかったのです」

 狡い。そうやって、私から時実様への想いをわざと冷めさせようとする行為が。まるで、体ではなく、その想いを連れ去られているような気がした。

 私はさらに泣きながら、ゆっくりと後ろへ下がった。時実様が私を想ってしてくれているのなら、それに応えるべきだと。

 悲しくても、辛くても。たとえ出会ったばかりでさえも、別れを告げなくては。

「私もまた、時実様の文に惹かれた者の一人ですから。きっと帝も興味を示してくれると思います」
「はい」
「……人は生まれ変わると聞いたことがあります」
「夕彩姫?」
「ですから、また会える日を楽しみにしたいと思います。今日、初めて会ったのですから、寂しくはありません。もう文をいただけない以外は。それでも、私の文箱(ふばこ)には時実様との思い出が詰まっています。それを読みながら待つのも良いと思いませんか?」

 自分でもおかしなことを言っているのは分かっている。それでも、時実様がしようとした別れ方はしたくない。

 涙が流れているのを感じながら、私は微笑んだ。きっと変な顔になっていたかもしれない。けれど時実様もまた、微笑み返してくれた。

「叶うことなら、今度は貴女の傍がいいですね」
「えぇ。そうお願いしてください。いつまでもお待ちしていますから」
「ありがとうございます。とても名残惜しいですが、ここに生者を長く引き止めて置くのは、本当に危険なんです。私の力が及ぶ内に、どうか」

 そう言って、狐さんのいる方へ手を差し出した。私は思わずその手を取る。もう握ることができない、その手を。

「お会いできて嬉しゅうございました。呼んでくださったことも」

 別れの挨拶はいつだって辛い。私は一度口を閉じ、ゆっくりと深呼吸してから、その言葉を告げた。

「さようなら、時実様」
「いつまでもお元気で、夕彩姫」