夕暮れ時は、皆、忙しく動いている。
食事の準備は勿論のこと、差し迫る夜に向けて各々、やることが多いのだ。特に恋する者へ届ける文は、この夕暮れ時がよく似合う。
それが秘めやかな恋であればあるほど、暗い夜よりも、薄暗くなるこの時間帯がうってつけである。文使いとして託される者にとってはいい迷惑かもしれないが。
しかし私には、残念ながらそういった相手がいない。
「彩姫様。またこちらにいらっしゃったんですか」
私付の女房、七里が呆れた口調で言い放つ。が、その顔は穏やかさそのもの。何故なら……。
「そういう七里は、抜け出したくて来たのでしょう」
七里に割り振られる仕事は、意外と多い。何せ彼女は、私付の中でも特別な女房だったからだ。
幼なじみであり、乳母の娘。謂わる乳姉妹だった。
「さすがは彩姫様。分かっていても、咎めないんですよね」
「だって、私がここにいるのを七里が咎めないのと同じよ」
そう、私は今、扇子も持たずに御簾の外、それも簀子縁にいるのだ。さらに行儀悪く、柵に腕を置いて。
中納言家の一の姫がはしたない! と言われてもおかしくはなかった。
「それで、今日は何を持って来てくれたの?」
「こちらも抜け目がないですね。今日は干し柿を持ってきました」
小袿の袖口から、七里はこっそりと巾着袋を取り出した。それを中身が取り易いように広げて見せる。
すると、庭先から物音が聞こえてきた。
「何かしら」
「きっと、この干し柿につられてやってきたものでしょう」
確かに。ここ中納言家の屋敷に怪しい者が入り込めば、たちまち捕らえられてしまうだろう。だからこそ、私が呑気に簀子縁にいられるというものである。
七里の言葉が聞こえたのか、まるで応えるようにそのものは姿を現した。夕日の赤さに負けず劣らずな毛並みをした……。
「狐?」
「さよう。某は狐にございます」
「喋った!!」
私の代わりに隣で驚く七里。お陰で私は、冷静にその狐を見ることができた。
美しい毛並み。庭の砂利が薄っすらと、空の赤さに染まっていく中、まるでその化身のような姿に思えてならなかった。それくらい狐は凛とした目鼻立ちをしていたのだ。
歩き方も品があり、私たちがいる簀子縁までやってくると、背筋を伸ばして行儀よく座って見せた。
より近くなったせいだろうか。狐の体型は瘦せ細ってもおらず、だからといって太ってもいない。標準的な体型だった。
もしかしたら、どこかの屋敷で飼われているのだろうか。または……。
「喋れるほどに賢い狐さん。こちらにはどのような用事でいらっしゃったの?」
喋れる、ということは、誰かの遣いのものという可能性の方が高かった。そう、陰陽師の誰かの。
「本当に、この干し柿がほしいのかしら」
「いいえ。でもそうですね、姫君。某と勝負をしてみませんか?」
「勝負?」
「はい。勝負は何でも構いません。しかし、某が勝ちましたら、一緒に来ていただきたいところがあるんです」
「干し柿ではなくて?」
先に違うと言いましたよね、という圧を感じ、咄嗟に私は勝負の内容へと考えを変えることにした。
同じ人間同士なら、囲碁や貝合わせなどといった遊びが使えるけれど、狐……。駆けっこなどの体力を使った勝負事は、明らかに私の方が不利だった。
狐さんもできて、且つ不公平にならない勝負事……。
「そうだわ。七里、私の机からこよりを取って来てくれない? 一つじゃなくて、そうね。七本くらい」
「構いませんが。もしかして、この者の話に乗るんですか?」
「えぇ。だって、折角来てくれたのよ。断るなんて失礼じゃない」
それに面白そうだしね。
面識のない狐さんが、私を連れて行きたい場所、というのも気になるし。狐さんの主もまた。
私がニコリと笑うと、七里は一度目を閉じた後、観念したように立ち上がった。幼い時から共にいるため、言い出すと聞かないことを知っているのだ。
私もまた、強引に押し通せば聞いてくれることを知っているため、ついつい甘えてしまう。
「こよりを使って、何をするのですか?」
狐さんがさらに顔を上げて、七里の後ろ姿を目線で追う。簀子縁に手をかけないところなど、お行儀が良い。
「実はね。しばらく前から、ずっと文を交わしていた相手から返事が来なくて、料紙だけが溜まってしまったの。けれど、次から次へと可愛らしい料紙をお母様からいただいて……」
少し困っていたのだ。お母様は恐らく、好いた殿方と文を交わしているのだろう、と勘違いしているらしく。それで上機嫌となり、次々と。
あの方とは、そういう関係ではないのに。そもそも、知っているのはお名前だけで、どこの誰だかは、私も分からないのだ。
故に深く尋ねられた時は、言葉を濁してやり過ごしていたほどだった。
「古い料紙から、こよりにしたり、小さな冊子にしたりしていたのよ。だから、そのこよりを使って、くじを作るの」
「くじ……ですか? 勝負事としては、些か単純といいますか、軽いといいますか。そちらが負けた時の内容をお忘れですか?」
「忘れていないわよ。それに、勝負なら平等でやりたいの。私と狐さんとでは、色々と違うでしょう?」
納得できなければ、また考えればいいだけのこと。けれど狐さんは、私の想いを理解してくれた。
「いいでしょう。けれど某の手では、くじを引くことはできません。それはどうしますか?」
「七里が代役を務めるわ。狐さんが選んだこよりを引くの。目の前で見ていれば、不正なんてできないしね」
「確かに。けれど、くじを作るのが七里殿では、それも公平とは言い難いのでは?」
「なっ! 失礼ね! この私が、姫様が作った勝負事で、不正を働くとでも!」
今にも簀子縁から降りて、狐さんに掴みかかろうとする七里の衣を抑えた。
「では、こうしましょう。七里。手の空いていそうな女房を一人、連れて来て」
「しかし、こんな怪しげな狐がいるのに、彩姫様を一人残してなど行けません」
「勝負事が済んでいないのに、私をどうこうなんてしないわよ。ねぇ?」
そう促すと、狐さんは頷いて見せた。すると、七里も観念したのか「分かりました」と言って奥へ向かって行った。
七里が戻ってくるまでの間、狐さんは私と話そうともせず、ただただそこにいるだけだった。その姿を見ていると、ただの狐にしか思えない。
出会った時もそうだ。陰陽師の式神か何かなら、怖いと感じるのかもしれないが、そういう要素も気配もない。
狐さんの主は優しい人物なのだろうか。それならば、会ってみたいとも感じてしまった。
「彩姫様。連れて参りました。如何なさるんですか?」
そうこうしているうちに、七里が戻って来た。年は同じくらいだろうか。尋ねてはいるが、彼女に何をやらせようとしているのかは分かっているらしい。
手の空いているものといっても、年配の女房や女童ではなかったのが、その証である。
「ここに七本、こよりがあるでしょう。一本だけ印をつけてほしいの。そうね、端に墨で色をつけてちょうだい。つけ終えたら、等間隔に並べてほしいの。端の方は布で隠して」
私たちが何をやろうとしているのか、その女房は察しがついたようだった。七里が事前に用意していた墨に筆をつけ、言われた通りにこよりに手を伸ばした、ところで私は背を向ける。
どれにつけたか、など見るのは違反行為だ。それは狐さんと七里も同じこと。私が背を向けたのと同時に、二人とも体の向きを変えた。
「彩姫様。できました」
声をかけられて振り向くと、女房の前の床に七本のこよりと、その上にかけられた一枚の布があった。
私は一つ頷いて、その女房を下がらせる。あとで七里を通して褒美をやらなければ。些細なものだから、たくさんある料紙を幾つか見繕って。
「さぁ、準備はできたわ。印がついたこよりを引き当てた方が負け。それでいいかしら」
「構いません。先行は如何なさいますか?」
女房がいなくなったのを確認した狐さんが尋ねる。
「七里。碁石を一つ、持って来て。その時、私たちには見えないように握り締めてね」
「分かりました」
「なるほど、七里殿が持ってきた碁石を当てるというわけですか」
「えぇ。同じ勝負事でも、こっちは七里が味方だし、すぐに決まってしまう味気ないもの。それでは勿体ないでしょう。わざわざ狐さんが来たのに」
すると、狐さんが驚いた表情をした。
「確かに、貴女様は面白いお方だ。主様が求めるのも分かる」
「主様?」
やはり狐さんが連れて行きたい、というのは主の元らしい。私は益々、興味が湧いた。
「お待たせしました。それでは、どちらを選びますか?」
七里はそういうと、真剣な眼差しで私の前に両手を差し出した。
その腕と袖の長さ。七里の表情など。さすがは私付の女房。不正などしません! と顔に書いてあるようだった。
思わずクスリと笑ってしまったが、それにも嫌な顔は見せない。この奇妙な出会い、勝負事にここまで付き合ってくれる人物も、そうそういないだろう。
先ほどとは違う笑顔を七里に向けて、私は右を選んだ。
「では某は左を」
「ごめんなさいね、先に私が選んでしまって」
「いいえ。七里殿の手間をかけたのですから、これくらいは」
こちらはこちらで、紳士的な狐さん。
七里もそう感じたのか、狐さんの方を向いて、両手を広げた。せめてこれくらいは先に見る権利がある、とばかりに。
「おや、某の勝ちでしたな」
「そのようね。でも次は負けなくてよ」
しかし私の勝負運は、元々良くなかったらしい。いや、日が悪いのだ。そう、きっと。
***
「ふむ。選んだもの、全てが外れだった、ということは最後の一つを選ぶ権利のある、某の勝ちですな」
「いいえ。この最後も印がついていない、ということもあるわ」
「それは、先ほど呼んだ女房殿に対して失礼なのではありませんか?」
「うっ!」
少しだけ意地になっていたのだろう。指摘されるまで気がつけなかった。
狐さんは七里に視線を送り、最後の一本を引くように促す。そして……。
「狐殿の勝利ですね。それで、彩姫様をどちらに連れて行くつもりですか? さすがに私までは無理でしょうから、行先だけでも教えてください」
ここまで協力したのだから、いいでしょう、と言わんばかりの態度を狐さんに向ける七里。
「えぇ、構いません。話したところで、ついて来られる場所でもないので」
「そんな危ないところに、彩姫様を!?」
「危なくはありません。主様の居られるところですから」
「その主様とは、どなたなのですか?」
さすがにそれは聞いておきたかった。すると、狐さんは口籠る。先ほどまで饒舌に話していたとは思えないほどに。
しかし、私と七里を交互に見て観念したようだった。
「……時実様と申します」
「え?」
私は驚きと同時に、不快感を露わにした。何故ならこの間まで文を交わしていた相手の名前が、まさに時実様だったからだ。
***
狐さんの言う時実様が、私と文を交わしていた人物なのは定かではない。だからといって確認の仕様ができないのも、また事実だった。
そもそも私は時実様が、どこの家の者なのも知らない。身分も、姿も。
けれど文に書かれている手蹟は綺麗で、使われている料紙や香りもいい。何より、内容がとても面白く。興味の惹かれるものばかりだったからだ。
そこから私は、何となくだが各地を放浪している者だと思っていた。貴族でも、時折そういう者がいるとも聞くし、僧侶なのかもしれない、と一時期疑ったものだ。
故に、どうしても狐さんの言う時実様が、私の時実様と一致しなかった。
それなのに、何故かしら。同一人物だと、仄かに期待してしまう。
一度でもいいから会いたい。そう思っていたからだろうか。そして相手も……時実様も望んでいると思いたいからかもしれなかった。
「狐さんは本来、このような大きさなのですか?」
私は今、夕焼け空を駆ける狐さんの背中に乗っていた。出会った時は、本物の狐のような大きさだったのに。
「どちらでもありません。自分の意思で大きさを変えられます。手のひらの大きさにもなれますが、今ここでお見せすることができないのが残念です。貴女様を危険にさらされしてしまうと、某が主様に怒られてしまいます故」
「えぇ、勿論よ。安全第一でお願いね」
確かに見てみたいとは思ってしまったけれど、さすがに空の上ではご遠慮願いたいわ。夕日がとても綺麗だけれど。
「そういえば、狐さんの主と同じ時実様から文をいただいたのは、今日みたいな夕日だったわ。赤と橙。紫色もあって、とても美しかった」
「主様も仰っていました。その夕日に照らされた貴女様を見て、この方に文を贈りたい、と」
「え? それでは……!」
「はい。しばらく前から返事が来なかった相手。貴女様と文のやり取りをしていた相手。それが我が主、時実様にございます」
それを聞いた瞬間、私は嫌な予感がした。
狐さんが私の元にやってきた理由は、連れて行くこと。それも時実様のところに。つまり、時実様は今、動けない状態なのだ。
私に会いに来られない。けれど、会いたい。そう思って……。
「狐さん、急いでください」
「無論、そのつもりです」
私は狐さんにしがみついて祈った。
どうか、無事でいて、と。
***
「時実様! どこですか! 彩が、彩が来ました!」
目的地に着いた途端、私は狐さんから降りて名前を呼んだ。
辺りには何もない。いつの間にか夜になってしまったかのように、真っ暗だった。それでも不思議と怖く感じないのは、時実様の安否に心が支配されていたからだろう。
私は必死に探した。相手は一度も会ったことがないというのに。ここで会った人物が時実様ではない可能性だってあるのに。
それでも私は懸命に呼び続けた。
「時実様!」
「彩、彩姫?」
微かに私の名を呼ぶ声が聞こえた。私は再度、辺りを見渡した。
暗いだけで、人の姿すら見えない。右も左も分からず、ただただ不安だけが胸に押し寄せてくる。だから希望を込めて、名前を呼んだ。
「時実様! どこにいらっしゃるんですか?」
「彩姫。私がそちらに行くので、あまり移動しないでください」
今度ははっきりと声が聞こえた。低くて優しい声音。どんなお顔をしているのだろう、と思った途端、今度は緊張が心を支配した。ただ待っている、という行為も相まって。
すると、前方から薄っすらと人の形が見えた。あの方が時実様だろうか。
確認しようと口を開いたが、先に名を呼ばれてしまった。待ちきれなかったのは、どうやら私だけではなかったかのように。
「彩姫。あぁ、そうだ。私の記憶にある彩姫だ」
「え? あ、あの。私たち、会ったことが、あるのですか?」
私は時実様の言葉と、その容姿に驚いてしまい、たどたどしい返事をしてしまった。
だって、ずっと烏帽子を被った公達を想像していたから。
それが時実様にも伝わったのだろう。照れ臭そうにしながら、説明してくれた。私たちの出会いではなく、ご自分の容姿について。
「あぁ、これは、その……幻滅させてしまって申し訳ありません。私も、できればきちんとした姿でお会いしたかったのですが、直衣は旅に不向きなんですよ。出家はしていないんですが、僧侶の姿の方が楽なこともあって」
「あっ、もしかして、賊に襲われた経験が?」
「なきにしもあらず、といったところでしょうか。それに、陰陽師という立場よりも、僧侶の方が民の受けもいい、というのもあるんです」
確かに、陰陽師の機嫌を損ねさせると、祟られるかもしれない、という恐怖心があるのかもしれなかった。逆に僧侶に対しては、そんなに悪いイメージはない。
貴族でそうなのだから、民は尚更だろう。祓えるだけの金品がないのだから。被害だけ受けて泣き寝入りしてしまうかもしれなかった。
「けれど、髪はあるのですね」
「本物の僧侶でもないので。それに短くても、気にする者はいません。袈裟を着ていればいいみたいです」
「まぁ」
思わずクスクスっと笑ってしまった。
「良かった。ようやく笑ってくれた。初めて貴女を見た時も、そのようにコロコロと可愛らしく笑っていました」
「その、宜しければ詳しく聞いてもよろしいですか? 全く見覚えがないものでして」
「勿論です。それに見覚えがないのも当たり前なので気にしないでください。私が一方的に想い慕っていただけなのですから」
そう言って時実様は、懐かしそうな眼差しをしながら話してくれた。
「あの頃はまだ、駆け出しの陰陽師で。師匠と共に貴族の屋敷で仕事を終えた帰りでした。綺麗な夕日を見ていると、楽しそうな声が聞こえてきて……気がつくと中納言家の屋敷を覗いていました。失礼なことだとは分かっていたのですが、その当時の私は明るい声や話題に飢えていたようで」
陰陽師ともなれば、貴族の汚い部分を見ることが多いのだろう。相手を呪い、呪い返す。心身が疲れてしまうのも、無理はなかった。
「その時、夕日に照らされた彩姫を見て、夕彩という言葉がとても似合う方だと思いました。いつしか、私の中で彩姫は夕彩姫と勝手ながら呼んでいたのです」
「夕彩……」
夕日を受けて、ものの色などが美しく輝く言葉。私の彩に掛けて。途端、顔が熱くなるのを感じた。
「勿体ないお言葉です」
「いいえ。それほど美しかったのです。後に、夕方になると簀子縁に顔を出すのが日課だと知り、式神に文を届けさせました。初めは返事など来るとは思わず、舞い上がったものです」
「え? 式神?」
「はい。童の姿に変えて。今日、迎えに行った、あのものですよ」
私は思わず振り返った。狐さんはただ、私たちを穏やかな表情で眺めていた。
「今日もあの時と同じく、賭けでした。式神の本当の姿を見せることも、勝負事をふっかけることも。そして、貴女がここに来ることも全て」
「……賭け」
「もう、今日しか機会がなかったのです。不快に思われても仕方がないのですが……」
「そんなっ! 不快だなんて。時実様との文のやり取りはとても楽しく、お返事を待っていたのに……」
非難しようとした直後、私はあることに気がついて、ハッとなった。すると、透かさず時実様も反応する。
「さすがは聡明な方だ。私が何故、このようなことをしたのか、察していただけたとは有り難い」
「い、いえ。これは私の憶測です。あくまでも……」
しかし、それ以上は言えなかった。言葉にしたら、本当のことになりそうだったから。そんな私の気持ちを汲んでくれたのか、代わりに時実様が仰られた。その真実を。
「えぇ、もう返事ができない身の上になってしまったんです。流行り病に罹り、そのまま。長い旅路で体も弱っていたのでしょう。あっという間でした。式神に文を託すこともできないほどに」
「陰陽師でも、ままならないことがあるのですね」
「万能ではありませんが、一つだけ。生と死の堺に貴女を呼ぶことができました。最初で最後の邂逅になってしまいましたが、こうして直接お話できたこと、幸せに存じます。これでもう、悔いはない」
思わず私は時実様に抱きついた。
まだお話したいことがあるのに。もっとご一緒したいのに。言葉にならない想いを込めて。
「夕彩姫」
時実様が呼んでいたという、私の名前。親しみの籠もった声音に、時実様がどれくらいその名で私を呼んでいたのかが想像できた。
それなのに、私は何も応えることができない。
「夕彩姫。先ほども言ったように、ここは生と死の堺。そして私は陰陽師です。無意識に生者を、死へ連れて行ってしまうかもしれないでしょう。だから……だから……離れては……もらえ、ませんか?」
時実様の言いたいことは分かる。私を死者にしたくない。でも、私を無理に引き離したくない。その優しさに胸が締めつけられた。と同時に、頬を流れる涙。
「私を連れ去ってはくれないのですか?」
「何をいうのですか! 確かに生前はそうしたい気持ちはありました。身分が違い過ぎますから。届かない想いを、文にしたためないように注意していたくらいです。だからこそ、貴女は生きなければ!」
「生きてどうするというのですか? 会ったこともない。好いてもいない帝のところへ入内させられる可能性だってあるんですよ。それなら一層のこと……」
時実様と死者の世界へ行くのもいいかもしれない。
「会ったことがない、というのなら、私は? 嫁いでからの恋もありましょう。そう、悲観なさる必要はありません。夕彩姫は、その名の通り美しい。帝も私と同じように感じることでしょう。そして、私と交わした文の内容を話せば、興味を持つはずです。帝は、いえ今上は外に出たことがない御方ですから」
「もしかして、そのために?」
「叶わないのなら、せめて貴女の役に立ちたかったのです」
狡い。そうやって、私から時実様への想いをわざと冷めさせようとする行為が。まるで、体ではなく、その想いを連れ去られているような気がした。
私はさらに泣きながら、ゆっくりと後ろへ下がった。時実様が私を想ってしてくれているのなら、それに応えるべきだと。
悲しくても、辛くても。たとえ出会ったばかりでさえも、別れを告げなくては。
「私もまた、時実様の文に惹かれた者の一人ですから。きっと帝も興味を示してくれると思います」
「はい」
「……人は生まれ変わると聞いたことがあります」
「夕彩姫?」
「ですから、また会える日を楽しみにしたいと思います。今日、初めて会ったのですから、寂しくはありません。もう文をいただけない以外は。それでも、私の文箱には時実様との思い出が詰まっています。それを読みながら待つのも良いと思いませんか?」
自分でもおかしなことを言っているのは分かっている。それでも、時実様がしようとした別れ方はしたくない。
涙が流れているのを感じながら、私は微笑んだ。きっと変な顔になっていたかもしれない。けれど時実様もまた、微笑み返してくれた。
「叶うことなら、今度は貴女の傍がいいですね」
「えぇ。そうお願いしてください。いつまでもお待ちしていますから」
「ありがとうございます。とても名残惜しいですが、ここに生者を長く引き止めて置くのは、本当に危険なんです。私の力が及ぶ内に、どうか」
そう言って、狐さんのいる方へ手を差し出した。私は思わずその手を取る。もう握ることができない、その手を。
「お会いできて嬉しゅうございました。呼んでくださったことも」
別れの挨拶はいつだって辛い。私は一度口を閉じ、ゆっくりと深呼吸してから、その言葉を告げた。
「さようなら、時実様」
「いつまでもお元気で、夕彩姫」
食事の準備は勿論のこと、差し迫る夜に向けて各々、やることが多いのだ。特に恋する者へ届ける文は、この夕暮れ時がよく似合う。
それが秘めやかな恋であればあるほど、暗い夜よりも、薄暗くなるこの時間帯がうってつけである。文使いとして託される者にとってはいい迷惑かもしれないが。
しかし私には、残念ながらそういった相手がいない。
「彩姫様。またこちらにいらっしゃったんですか」
私付の女房、七里が呆れた口調で言い放つ。が、その顔は穏やかさそのもの。何故なら……。
「そういう七里は、抜け出したくて来たのでしょう」
七里に割り振られる仕事は、意外と多い。何せ彼女は、私付の中でも特別な女房だったからだ。
幼なじみであり、乳母の娘。謂わる乳姉妹だった。
「さすがは彩姫様。分かっていても、咎めないんですよね」
「だって、私がここにいるのを七里が咎めないのと同じよ」
そう、私は今、扇子も持たずに御簾の外、それも簀子縁にいるのだ。さらに行儀悪く、柵に腕を置いて。
中納言家の一の姫がはしたない! と言われてもおかしくはなかった。
「それで、今日は何を持って来てくれたの?」
「こちらも抜け目がないですね。今日は干し柿を持ってきました」
小袿の袖口から、七里はこっそりと巾着袋を取り出した。それを中身が取り易いように広げて見せる。
すると、庭先から物音が聞こえてきた。
「何かしら」
「きっと、この干し柿につられてやってきたものでしょう」
確かに。ここ中納言家の屋敷に怪しい者が入り込めば、たちまち捕らえられてしまうだろう。だからこそ、私が呑気に簀子縁にいられるというものである。
七里の言葉が聞こえたのか、まるで応えるようにそのものは姿を現した。夕日の赤さに負けず劣らずな毛並みをした……。
「狐?」
「さよう。某は狐にございます」
「喋った!!」
私の代わりに隣で驚く七里。お陰で私は、冷静にその狐を見ることができた。
美しい毛並み。庭の砂利が薄っすらと、空の赤さに染まっていく中、まるでその化身のような姿に思えてならなかった。それくらい狐は凛とした目鼻立ちをしていたのだ。
歩き方も品があり、私たちがいる簀子縁までやってくると、背筋を伸ばして行儀よく座って見せた。
より近くなったせいだろうか。狐の体型は瘦せ細ってもおらず、だからといって太ってもいない。標準的な体型だった。
もしかしたら、どこかの屋敷で飼われているのだろうか。または……。
「喋れるほどに賢い狐さん。こちらにはどのような用事でいらっしゃったの?」
喋れる、ということは、誰かの遣いのものという可能性の方が高かった。そう、陰陽師の誰かの。
「本当に、この干し柿がほしいのかしら」
「いいえ。でもそうですね、姫君。某と勝負をしてみませんか?」
「勝負?」
「はい。勝負は何でも構いません。しかし、某が勝ちましたら、一緒に来ていただきたいところがあるんです」
「干し柿ではなくて?」
先に違うと言いましたよね、という圧を感じ、咄嗟に私は勝負の内容へと考えを変えることにした。
同じ人間同士なら、囲碁や貝合わせなどといった遊びが使えるけれど、狐……。駆けっこなどの体力を使った勝負事は、明らかに私の方が不利だった。
狐さんもできて、且つ不公平にならない勝負事……。
「そうだわ。七里、私の机からこよりを取って来てくれない? 一つじゃなくて、そうね。七本くらい」
「構いませんが。もしかして、この者の話に乗るんですか?」
「えぇ。だって、折角来てくれたのよ。断るなんて失礼じゃない」
それに面白そうだしね。
面識のない狐さんが、私を連れて行きたい場所、というのも気になるし。狐さんの主もまた。
私がニコリと笑うと、七里は一度目を閉じた後、観念したように立ち上がった。幼い時から共にいるため、言い出すと聞かないことを知っているのだ。
私もまた、強引に押し通せば聞いてくれることを知っているため、ついつい甘えてしまう。
「こよりを使って、何をするのですか?」
狐さんがさらに顔を上げて、七里の後ろ姿を目線で追う。簀子縁に手をかけないところなど、お行儀が良い。
「実はね。しばらく前から、ずっと文を交わしていた相手から返事が来なくて、料紙だけが溜まってしまったの。けれど、次から次へと可愛らしい料紙をお母様からいただいて……」
少し困っていたのだ。お母様は恐らく、好いた殿方と文を交わしているのだろう、と勘違いしているらしく。それで上機嫌となり、次々と。
あの方とは、そういう関係ではないのに。そもそも、知っているのはお名前だけで、どこの誰だかは、私も分からないのだ。
故に深く尋ねられた時は、言葉を濁してやり過ごしていたほどだった。
「古い料紙から、こよりにしたり、小さな冊子にしたりしていたのよ。だから、そのこよりを使って、くじを作るの」
「くじ……ですか? 勝負事としては、些か単純といいますか、軽いといいますか。そちらが負けた時の内容をお忘れですか?」
「忘れていないわよ。それに、勝負なら平等でやりたいの。私と狐さんとでは、色々と違うでしょう?」
納得できなければ、また考えればいいだけのこと。けれど狐さんは、私の想いを理解してくれた。
「いいでしょう。けれど某の手では、くじを引くことはできません。それはどうしますか?」
「七里が代役を務めるわ。狐さんが選んだこよりを引くの。目の前で見ていれば、不正なんてできないしね」
「確かに。けれど、くじを作るのが七里殿では、それも公平とは言い難いのでは?」
「なっ! 失礼ね! この私が、姫様が作った勝負事で、不正を働くとでも!」
今にも簀子縁から降りて、狐さんに掴みかかろうとする七里の衣を抑えた。
「では、こうしましょう。七里。手の空いていそうな女房を一人、連れて来て」
「しかし、こんな怪しげな狐がいるのに、彩姫様を一人残してなど行けません」
「勝負事が済んでいないのに、私をどうこうなんてしないわよ。ねぇ?」
そう促すと、狐さんは頷いて見せた。すると、七里も観念したのか「分かりました」と言って奥へ向かって行った。
七里が戻ってくるまでの間、狐さんは私と話そうともせず、ただただそこにいるだけだった。その姿を見ていると、ただの狐にしか思えない。
出会った時もそうだ。陰陽師の式神か何かなら、怖いと感じるのかもしれないが、そういう要素も気配もない。
狐さんの主は優しい人物なのだろうか。それならば、会ってみたいとも感じてしまった。
「彩姫様。連れて参りました。如何なさるんですか?」
そうこうしているうちに、七里が戻って来た。年は同じくらいだろうか。尋ねてはいるが、彼女に何をやらせようとしているのかは分かっているらしい。
手の空いているものといっても、年配の女房や女童ではなかったのが、その証である。
「ここに七本、こよりがあるでしょう。一本だけ印をつけてほしいの。そうね、端に墨で色をつけてちょうだい。つけ終えたら、等間隔に並べてほしいの。端の方は布で隠して」
私たちが何をやろうとしているのか、その女房は察しがついたようだった。七里が事前に用意していた墨に筆をつけ、言われた通りにこよりに手を伸ばした、ところで私は背を向ける。
どれにつけたか、など見るのは違反行為だ。それは狐さんと七里も同じこと。私が背を向けたのと同時に、二人とも体の向きを変えた。
「彩姫様。できました」
声をかけられて振り向くと、女房の前の床に七本のこよりと、その上にかけられた一枚の布があった。
私は一つ頷いて、その女房を下がらせる。あとで七里を通して褒美をやらなければ。些細なものだから、たくさんある料紙を幾つか見繕って。
「さぁ、準備はできたわ。印がついたこよりを引き当てた方が負け。それでいいかしら」
「構いません。先行は如何なさいますか?」
女房がいなくなったのを確認した狐さんが尋ねる。
「七里。碁石を一つ、持って来て。その時、私たちには見えないように握り締めてね」
「分かりました」
「なるほど、七里殿が持ってきた碁石を当てるというわけですか」
「えぇ。同じ勝負事でも、こっちは七里が味方だし、すぐに決まってしまう味気ないもの。それでは勿体ないでしょう。わざわざ狐さんが来たのに」
すると、狐さんが驚いた表情をした。
「確かに、貴女様は面白いお方だ。主様が求めるのも分かる」
「主様?」
やはり狐さんが連れて行きたい、というのは主の元らしい。私は益々、興味が湧いた。
「お待たせしました。それでは、どちらを選びますか?」
七里はそういうと、真剣な眼差しで私の前に両手を差し出した。
その腕と袖の長さ。七里の表情など。さすがは私付の女房。不正などしません! と顔に書いてあるようだった。
思わずクスリと笑ってしまったが、それにも嫌な顔は見せない。この奇妙な出会い、勝負事にここまで付き合ってくれる人物も、そうそういないだろう。
先ほどとは違う笑顔を七里に向けて、私は右を選んだ。
「では某は左を」
「ごめんなさいね、先に私が選んでしまって」
「いいえ。七里殿の手間をかけたのですから、これくらいは」
こちらはこちらで、紳士的な狐さん。
七里もそう感じたのか、狐さんの方を向いて、両手を広げた。せめてこれくらいは先に見る権利がある、とばかりに。
「おや、某の勝ちでしたな」
「そのようね。でも次は負けなくてよ」
しかし私の勝負運は、元々良くなかったらしい。いや、日が悪いのだ。そう、きっと。
***
「ふむ。選んだもの、全てが外れだった、ということは最後の一つを選ぶ権利のある、某の勝ちですな」
「いいえ。この最後も印がついていない、ということもあるわ」
「それは、先ほど呼んだ女房殿に対して失礼なのではありませんか?」
「うっ!」
少しだけ意地になっていたのだろう。指摘されるまで気がつけなかった。
狐さんは七里に視線を送り、最後の一本を引くように促す。そして……。
「狐殿の勝利ですね。それで、彩姫様をどちらに連れて行くつもりですか? さすがに私までは無理でしょうから、行先だけでも教えてください」
ここまで協力したのだから、いいでしょう、と言わんばかりの態度を狐さんに向ける七里。
「えぇ、構いません。話したところで、ついて来られる場所でもないので」
「そんな危ないところに、彩姫様を!?」
「危なくはありません。主様の居られるところですから」
「その主様とは、どなたなのですか?」
さすがにそれは聞いておきたかった。すると、狐さんは口籠る。先ほどまで饒舌に話していたとは思えないほどに。
しかし、私と七里を交互に見て観念したようだった。
「……時実様と申します」
「え?」
私は驚きと同時に、不快感を露わにした。何故ならこの間まで文を交わしていた相手の名前が、まさに時実様だったからだ。
***
狐さんの言う時実様が、私と文を交わしていた人物なのは定かではない。だからといって確認の仕様ができないのも、また事実だった。
そもそも私は時実様が、どこの家の者なのも知らない。身分も、姿も。
けれど文に書かれている手蹟は綺麗で、使われている料紙や香りもいい。何より、内容がとても面白く。興味の惹かれるものばかりだったからだ。
そこから私は、何となくだが各地を放浪している者だと思っていた。貴族でも、時折そういう者がいるとも聞くし、僧侶なのかもしれない、と一時期疑ったものだ。
故に、どうしても狐さんの言う時実様が、私の時実様と一致しなかった。
それなのに、何故かしら。同一人物だと、仄かに期待してしまう。
一度でもいいから会いたい。そう思っていたからだろうか。そして相手も……時実様も望んでいると思いたいからかもしれなかった。
「狐さんは本来、このような大きさなのですか?」
私は今、夕焼け空を駆ける狐さんの背中に乗っていた。出会った時は、本物の狐のような大きさだったのに。
「どちらでもありません。自分の意思で大きさを変えられます。手のひらの大きさにもなれますが、今ここでお見せすることができないのが残念です。貴女様を危険にさらされしてしまうと、某が主様に怒られてしまいます故」
「えぇ、勿論よ。安全第一でお願いね」
確かに見てみたいとは思ってしまったけれど、さすがに空の上ではご遠慮願いたいわ。夕日がとても綺麗だけれど。
「そういえば、狐さんの主と同じ時実様から文をいただいたのは、今日みたいな夕日だったわ。赤と橙。紫色もあって、とても美しかった」
「主様も仰っていました。その夕日に照らされた貴女様を見て、この方に文を贈りたい、と」
「え? それでは……!」
「はい。しばらく前から返事が来なかった相手。貴女様と文のやり取りをしていた相手。それが我が主、時実様にございます」
それを聞いた瞬間、私は嫌な予感がした。
狐さんが私の元にやってきた理由は、連れて行くこと。それも時実様のところに。つまり、時実様は今、動けない状態なのだ。
私に会いに来られない。けれど、会いたい。そう思って……。
「狐さん、急いでください」
「無論、そのつもりです」
私は狐さんにしがみついて祈った。
どうか、無事でいて、と。
***
「時実様! どこですか! 彩が、彩が来ました!」
目的地に着いた途端、私は狐さんから降りて名前を呼んだ。
辺りには何もない。いつの間にか夜になってしまったかのように、真っ暗だった。それでも不思議と怖く感じないのは、時実様の安否に心が支配されていたからだろう。
私は必死に探した。相手は一度も会ったことがないというのに。ここで会った人物が時実様ではない可能性だってあるのに。
それでも私は懸命に呼び続けた。
「時実様!」
「彩、彩姫?」
微かに私の名を呼ぶ声が聞こえた。私は再度、辺りを見渡した。
暗いだけで、人の姿すら見えない。右も左も分からず、ただただ不安だけが胸に押し寄せてくる。だから希望を込めて、名前を呼んだ。
「時実様! どこにいらっしゃるんですか?」
「彩姫。私がそちらに行くので、あまり移動しないでください」
今度ははっきりと声が聞こえた。低くて優しい声音。どんなお顔をしているのだろう、と思った途端、今度は緊張が心を支配した。ただ待っている、という行為も相まって。
すると、前方から薄っすらと人の形が見えた。あの方が時実様だろうか。
確認しようと口を開いたが、先に名を呼ばれてしまった。待ちきれなかったのは、どうやら私だけではなかったかのように。
「彩姫。あぁ、そうだ。私の記憶にある彩姫だ」
「え? あ、あの。私たち、会ったことが、あるのですか?」
私は時実様の言葉と、その容姿に驚いてしまい、たどたどしい返事をしてしまった。
だって、ずっと烏帽子を被った公達を想像していたから。
それが時実様にも伝わったのだろう。照れ臭そうにしながら、説明してくれた。私たちの出会いではなく、ご自分の容姿について。
「あぁ、これは、その……幻滅させてしまって申し訳ありません。私も、できればきちんとした姿でお会いしたかったのですが、直衣は旅に不向きなんですよ。出家はしていないんですが、僧侶の姿の方が楽なこともあって」
「あっ、もしかして、賊に襲われた経験が?」
「なきにしもあらず、といったところでしょうか。それに、陰陽師という立場よりも、僧侶の方が民の受けもいい、というのもあるんです」
確かに、陰陽師の機嫌を損ねさせると、祟られるかもしれない、という恐怖心があるのかもしれなかった。逆に僧侶に対しては、そんなに悪いイメージはない。
貴族でそうなのだから、民は尚更だろう。祓えるだけの金品がないのだから。被害だけ受けて泣き寝入りしてしまうかもしれなかった。
「けれど、髪はあるのですね」
「本物の僧侶でもないので。それに短くても、気にする者はいません。袈裟を着ていればいいみたいです」
「まぁ」
思わずクスクスっと笑ってしまった。
「良かった。ようやく笑ってくれた。初めて貴女を見た時も、そのようにコロコロと可愛らしく笑っていました」
「その、宜しければ詳しく聞いてもよろしいですか? 全く見覚えがないものでして」
「勿論です。それに見覚えがないのも当たり前なので気にしないでください。私が一方的に想い慕っていただけなのですから」
そう言って時実様は、懐かしそうな眼差しをしながら話してくれた。
「あの頃はまだ、駆け出しの陰陽師で。師匠と共に貴族の屋敷で仕事を終えた帰りでした。綺麗な夕日を見ていると、楽しそうな声が聞こえてきて……気がつくと中納言家の屋敷を覗いていました。失礼なことだとは分かっていたのですが、その当時の私は明るい声や話題に飢えていたようで」
陰陽師ともなれば、貴族の汚い部分を見ることが多いのだろう。相手を呪い、呪い返す。心身が疲れてしまうのも、無理はなかった。
「その時、夕日に照らされた彩姫を見て、夕彩という言葉がとても似合う方だと思いました。いつしか、私の中で彩姫は夕彩姫と勝手ながら呼んでいたのです」
「夕彩……」
夕日を受けて、ものの色などが美しく輝く言葉。私の彩に掛けて。途端、顔が熱くなるのを感じた。
「勿体ないお言葉です」
「いいえ。それほど美しかったのです。後に、夕方になると簀子縁に顔を出すのが日課だと知り、式神に文を届けさせました。初めは返事など来るとは思わず、舞い上がったものです」
「え? 式神?」
「はい。童の姿に変えて。今日、迎えに行った、あのものですよ」
私は思わず振り返った。狐さんはただ、私たちを穏やかな表情で眺めていた。
「今日もあの時と同じく、賭けでした。式神の本当の姿を見せることも、勝負事をふっかけることも。そして、貴女がここに来ることも全て」
「……賭け」
「もう、今日しか機会がなかったのです。不快に思われても仕方がないのですが……」
「そんなっ! 不快だなんて。時実様との文のやり取りはとても楽しく、お返事を待っていたのに……」
非難しようとした直後、私はあることに気がついて、ハッとなった。すると、透かさず時実様も反応する。
「さすがは聡明な方だ。私が何故、このようなことをしたのか、察していただけたとは有り難い」
「い、いえ。これは私の憶測です。あくまでも……」
しかし、それ以上は言えなかった。言葉にしたら、本当のことになりそうだったから。そんな私の気持ちを汲んでくれたのか、代わりに時実様が仰られた。その真実を。
「えぇ、もう返事ができない身の上になってしまったんです。流行り病に罹り、そのまま。長い旅路で体も弱っていたのでしょう。あっという間でした。式神に文を託すこともできないほどに」
「陰陽師でも、ままならないことがあるのですね」
「万能ではありませんが、一つだけ。生と死の堺に貴女を呼ぶことができました。最初で最後の邂逅になってしまいましたが、こうして直接お話できたこと、幸せに存じます。これでもう、悔いはない」
思わず私は時実様に抱きついた。
まだお話したいことがあるのに。もっとご一緒したいのに。言葉にならない想いを込めて。
「夕彩姫」
時実様が呼んでいたという、私の名前。親しみの籠もった声音に、時実様がどれくらいその名で私を呼んでいたのかが想像できた。
それなのに、私は何も応えることができない。
「夕彩姫。先ほども言ったように、ここは生と死の堺。そして私は陰陽師です。無意識に生者を、死へ連れて行ってしまうかもしれないでしょう。だから……だから……離れては……もらえ、ませんか?」
時実様の言いたいことは分かる。私を死者にしたくない。でも、私を無理に引き離したくない。その優しさに胸が締めつけられた。と同時に、頬を流れる涙。
「私を連れ去ってはくれないのですか?」
「何をいうのですか! 確かに生前はそうしたい気持ちはありました。身分が違い過ぎますから。届かない想いを、文にしたためないように注意していたくらいです。だからこそ、貴女は生きなければ!」
「生きてどうするというのですか? 会ったこともない。好いてもいない帝のところへ入内させられる可能性だってあるんですよ。それなら一層のこと……」
時実様と死者の世界へ行くのもいいかもしれない。
「会ったことがない、というのなら、私は? 嫁いでからの恋もありましょう。そう、悲観なさる必要はありません。夕彩姫は、その名の通り美しい。帝も私と同じように感じることでしょう。そして、私と交わした文の内容を話せば、興味を持つはずです。帝は、いえ今上は外に出たことがない御方ですから」
「もしかして、そのために?」
「叶わないのなら、せめて貴女の役に立ちたかったのです」
狡い。そうやって、私から時実様への想いをわざと冷めさせようとする行為が。まるで、体ではなく、その想いを連れ去られているような気がした。
私はさらに泣きながら、ゆっくりと後ろへ下がった。時実様が私を想ってしてくれているのなら、それに応えるべきだと。
悲しくても、辛くても。たとえ出会ったばかりでさえも、別れを告げなくては。
「私もまた、時実様の文に惹かれた者の一人ですから。きっと帝も興味を示してくれると思います」
「はい」
「……人は生まれ変わると聞いたことがあります」
「夕彩姫?」
「ですから、また会える日を楽しみにしたいと思います。今日、初めて会ったのですから、寂しくはありません。もう文をいただけない以外は。それでも、私の文箱には時実様との思い出が詰まっています。それを読みながら待つのも良いと思いませんか?」
自分でもおかしなことを言っているのは分かっている。それでも、時実様がしようとした別れ方はしたくない。
涙が流れているのを感じながら、私は微笑んだ。きっと変な顔になっていたかもしれない。けれど時実様もまた、微笑み返してくれた。
「叶うことなら、今度は貴女の傍がいいですね」
「えぇ。そうお願いしてください。いつまでもお待ちしていますから」
「ありがとうございます。とても名残惜しいですが、ここに生者を長く引き止めて置くのは、本当に危険なんです。私の力が及ぶ内に、どうか」
そう言って、狐さんのいる方へ手を差し出した。私は思わずその手を取る。もう握ることができない、その手を。
「お会いできて嬉しゅうございました。呼んでくださったことも」
別れの挨拶はいつだって辛い。私は一度口を閉じ、ゆっくりと深呼吸してから、その言葉を告げた。
「さようなら、時実様」
「いつまでもお元気で、夕彩姫」