今すぐ、君に会いたい。
僕は浮ついた心で、跳ねるように地面を蹴った。
さっき受け取ったばかりの花束が崩れないように、それだけは大事に抱えている。
すれ違うタクシーも、そんな僕の姿に期待の目を向けるが、応える余裕なんてない。
僕はこれから、初めての告白をする。
彼女は高校の同級生で、当時は接点なんてなかった。僕は美術部で彼女は文藝部。美術室から見上げた図書室の窓辺に座る彼女の、揺れる黒髪をいつも見つめていた。容姿端麗で人気者の彼女に、僕なんかが話しかけられる訳が無い。
僕の家は地元では由緒ある名家として有名だ。
有名ではあるが、評判は良くない。
だから、学校でも僕は避けられる存在だった。
「死神の子」なんて言うあだ名でよばれ、誰も怖がって僕には近寄ってこないから、いつも1人。
彼女もそんな僕と関わりたくないだろう。
そんな家に生まれた自分を憎んだし、その黒い影から逃げたくて絵の世界に没頭した。
僕は、特異な能力を持たずに生まれた子。
高校を卒業し、進学もせず僕は相変らす絵ばかりを書いている。
決まって書くのは天使の絵だ。好きなものくらい、明るいモチーフを描きたい。「死神の子」ってあだ名に、嫌味で抵抗しているって理由もあるけど。
屋敷の中の隅の部屋で、肩身は狭いが気楽なもんだ。
僕のことに興味のない家族の目を盗むのは簡単で、夜な夜な僕は画材を手に取り、夜に駆け出した。
そして。
ある春の夜に、僕は彼女と再会した。
再会したというのは、ずいぶん一方的だから、出会ったという事にしよう。彼女はきっと僕を認知していないだろう。そう思った。
そんな月夜の話だ。
公園のベンチに座る彼女を見つけた。
十六夜月が彼女を照らす。
白いワンピースが良く似合う。制服を着ていたあの頃から、まだ僅かしか経っていないのに、その容姿はずいぶん大人びて見える。
変わらないのは長く揺れる黒髪をそっと耳にかける仕草と、長い睫毛。久しぶりに見る彼女の姿に、月夜の光を受け止めて輝くまん丸い黒目に、思わず見惚れて僕は立ちすくんだ。
気づいた彼女はゆっくりとこちらに顔を向ける。
「あら?⋯御影くん?」
自分の名前を呼ばれたことにドキッとした。そして震えた声で「どうも。近衛さん、⋯だよね?」と挙動不審に答えを返す。
「名前⋯」彼女は困ったように首を傾げる。
僕は慌てて「あっ⋯その、同じ学校で⋯」と、今度は声を詰まらせた。憧れの人を前にして堂々とできる男がいるなら、今すぐに手本を見せて欲しい。人付き合いもろくにしてこなかった僕には、まるで耐性がないのだ。
「知ってるよ?御影くんも私を知っててくれたんだ⋯そっか」
ニコッと笑う彼女を見て、僕は胸を撫で下ろした。
それもつかの間。会話のターンは僕にある。
「近衛さんは⋯僕が怖くないのかい?」
「どうして?知ってる顔に会えて嬉しいけど?」
黙り込んだ僕を不思議そうに見つめる彼女。
その眼差しが、僕を急かすようだ。
鼓動が激しく騒ぎ出す。
「つっ⋯つ、月が綺麗だね」
焦った僕は、彼女の真上に浮かぶ十六夜月を話題にした。
「ふふっ⋯」っと彼女は笑う。
「えっ⋯?」
「私みたいな文学女子に、それ言っちゃダメだよ」
「僕、何か変なこと言った⋯?」
「知らない?夏目漱石」
「わかるよ。猫の人だろ。吾輩は、猫」
「うん。じゃぁこの話はここまでにしとこう」
彼女は含み笑いを残し、持っているノートに視線を落とした。鉛筆を顎に添えて、物思いにふけり始める。
僕は彼女との距離を保ちながら、持ってきたキャンバスをイーゼルに立てた。画材道具から鉛筆を取りだし、構えたところで目の前の暗闇にモチーフなんてありやしない。街灯に照らされた白いキャンバスを、僕はぼーっと見つめた。
「ねぇ、何描くの?」
また、大きな瞳がこちらを見ている。
「いや⋯今描いたら、ただキャンバスを黒く塗りつぶすだけだ。イーゼルを前に置くと気持ちが落ち着くから、それで⋯」
僕は目の前の景色を指さして答えた。
「決まってないならさ、⋯私を描いてよ!」
彼女は自分の顔を指さして、控えめにはにかんだ。
唐突な彼女の期待に「えっ?」と固まった僕の答えを彼女は待っている。真正面からその顔でじっと見られたら、僕は正気を失ってしまいそうだ。だから、こう提案をした。「横顔でもいいかな⋯」
「いいよ。御影くんの好きなように描いて」
嬉しそうな声で答えた彼女は、ベンチに綺麗な姿勢で座り直す。それからピンと背筋を張って、じっと静止した。
「えっと⋯好きにしてて大丈夫。近衛さんの自然な表情を描くよ。だからそれの続きを、どうぞ」僕は彼女の傍に置いてあるノートと鉛筆を指さした。すると、ふぅと息を吐き出して彼女は肩の力を抜いた。
「1時間じっとしててって言われたらどうしようかって後悔したの。自分でお願いしといてあれだけど⋯だから安心した」
まだ子供みたいに無邪気に笑う彼女に、僕の表情もつい緩んでしまう。
「デッサンじゃないから⋯」
僕の脳裏には、君の横顔は写真くらい鮮明に焼き付いている。何度も何度も美術室で頭に書き殴ったから。だからじっとしていなくても君を書く事なんて容易い。君に引かれそうで、そんな事は口に出せないけど。
スーッとひとつ、線を描く。
「じゃあ、私も。お言葉に甘えて」
彼女もスラスラと鉛筆を走らせた。
ふたつの鉛筆の音が交差する。
その不協和音に落ち着かず「⋯近衛さんは、何を書いてるの?」と、僕はすぐに静寂を割いた。
「これ?あー⋯小説だよ。私の新作。新作って、まだ作家でもないくせにね。気分だけは一流作家だけど」
「へー⋯すごいな」
「その感じ興味無さそ⋯御影くん理系コースだもんね」
「いや、そうじゃなくて。僕、本もあまり読まないし。読まないって言うか、読むと寝ずに没頭しちゃうから、自制してるって言うか。だから興味は⋯あります。多少は読んだことあるし⋯」
これは嘘じゃない。半分だけ、嘘じゃない。
なにか彼女との接点を持ちたくて、本を読み漁った時期があるのだ。
「どんなの読むの?」
「ラノベ⋯とか」
「好きなジャンルは?」
「異世界バトルもの」
「さすが男の子だ。私はラノベはラブコメが好き!」
「近衛さんもラノベ読むんだ。純文学とか⋯本格派のばかり読むのかと思ってた。あっ、ほら文藝部だったし」
「好きよ?もちろん。純文学。おじいちゃんの家が古本屋でね。ずいぶん通って読み漁ったの。中学生の頃に日本文学全集読破。まるで本の虫よね。でも、それを読んだからって全部を知れるわけじゃない。どんな本にもそれぞれの解釈と答えと⋯なにより作者の心がある。それが面白くって」
「そうか。今どんなの書いてるの?その小説の⋯近衛さんの心って?」僕はまたノートを指さして聞いた。
「これ⋯?んー⋯初恋にして最後の恋。かな?それくらい切なくて甘酸っぱくて、命が燃えつきるような。純粋で、儚くて⋯ごめん。実はまだプロットの状態なの。プロットってわかる?まだ設計図」
「構図みたいなもんか⋯それが近衛さんの心の欠片⋯」僕の言葉を遮るように彼女が口を開いた。
「ねぇ、御影くんは恋したことある?」
その言葉は、僕の耳に凛と響いた。
はっきりと。正確に。
そして瞬時に、強がりな僕が「あるよ」と言う。
「大人だね⋯顔は童顔なのに、私より大人だ」
「近衛さんは、⋯ないの?」
弱気な僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
「恥ずかしいけど⋯ないの」
「そうか」
「だから、その⋯お願い。手伝ってくれないかな?私の小説。私が知らない感情を教えてくれないかな?」
その唐突な提案に、僕の脳は一瞬凍りついた。
火照った顔の中で、冷静な思考がせめぎあう。
彼女は小説を心と言う。
僕がその心に触れていいのか?
僕がその心を覗いてもいいのか?
「だめ?かな⋯」
男はつくづく馬鹿な生き物だと思う。決して彼女が意図的にやったとは思えないが、上目遣いで頼まれると嫌とは言えない。これは男子の本能であり、異世界だったら女キャラの最強のアビリティではないだろうか。僕は二つ返事で「いいよ」と言った。
「僕もひとついいかな?今日でこの絵は完成しない。だから毎週この時間に、ここで会うってのは⋯どうかな?絵が完成するまで」
ドキドキと高鳴る鼓動のリズムに載せて、僕は強がりな提案を持ちかけた。ズルい交換条件だ。でも、また彼女に会えるなら手段はいくらでも使いたい。
「いいよ、じゃあ約束」
以外にもすんなりと彼女は受け入れる。
「指切りだね」と、差し出された小指に僕も指を絡めた。「指切りげんまん、嘘ついたら⋯」彼女は口上の途中で言葉を飲み込む。
「嘘ついたら?」
「嘘ついたら⋯⋯この世から消えてなくなる」
「いや、嘘ついたら針千本飲ますだろ?」
「⋯だね?」
それから僕の腕の時計をちらっと見た彼女は、サッと小指を解くとバツの悪そうな顔をして荷物をまとめ始めた。「私、行かなきゃ。またね」
振り返ることなく、彼女は月夜に消えていった。
立待月の夜。
月を見上げながら、ソワソワと彼女を待った。
約束の日だ。馬鹿げた話、来てくれる確証なんてない。ただの口約束だ。連絡先を交換しておくべきだったと、家に帰って猛省した。今日は一応、ジャケットのポケットに番号を書いたメモを忍ばせてある。
ガタガタと不安定な足場にイーゼルを置き、僕は描きかけのキャンバスを立てた。家で描き足すことも出来たが、勇気と引き換えに手にしたこの時間が惜しい。わざと手をつけずに、あの日線を引いた構図のままだ。LEDの街灯に照らされるキャンバスの中で、君の輪郭は弱々しい。
「良かった⋯御影くん居た」弾む声で彼女が現れた。
「来てくれたんだ⋯」ホッと安堵の声を漏らす。
「だって指切りしたでしょ?嘘ついたら⋯?」意地悪な笑顔で彼女は言った。
「僕も君に針を千本飲ますのは辛い」
「私は、御影くんとなら何度でも指切りできるなー。指切りって信頼してる人としかできないんだよ?」
「じゃあ、次はなんの約束を?」
僕は小指を彼女に差し出した。
「そうだな⋯また会おうね。それが約束」
「もちろん」
僕たちは二度目の小指を結ぶ。
「それで、小説は進んだ?」
「少しね⋯あっ、私またここに座ってたらいい?」
「あっ、うん。お願い」
彼女はベンチに座るときちんと横顔を僕に見せ、ノートを捲った。
「御影くんは、夢とかある?それともお家を継ぐの?」
「近衛さんもやっぱり知ってるよな。御影って名前、この街じゃ⋯。僕は、父さんや兄さんみたいに特別じゃない。出来損ないなんだ。だから家業は継がないよ。ずっと気ままに生きていたい」
「ごめん⋯嫌なこと聞いたね」
「いや、慣れてる。それより夢がある?なんて聞いてくれたのは君が初めてだ。そっちのが嬉しい」
「じゃぁ⋯御影くんの夢は?」
「これかな。君が小説を書くように。僕は絵を描く。キャンバスに命を吹き込むんだ。君が言った小説に心があるように、僕の心はここにある。誰かにそれが届いて欲しい。小さい夢だけど⋯」僕は小さくはにかむ。
「小さくない。素敵な夢だね」
「君は?どんな夢を未来に見てる?」
「私の夢か⋯未来の私は⋯。きっとこの小説の完成を夢見てる。それを叶えてあげるの。それが私の夢よ?」
「じゃあ⋯僕が叶えてあげないとな。その夢」
「えっ?」
「僕の助言無しには完成しない。だろ?」
月明かりの下で、彼女はじっと僕の瞳を見つめる。
子猫みたいな愛らしい輪郭に、アイラインが跳ねたメイク。たまらなく可愛い。「ごめん、調子いいこと言って⋯」僕は目線を逸らすと頭を搔いて、照れ隠した。
スっと立ち上がった彼女が僕の真正面に立つ。
「ねぇ、御影くん。睫毛になにか付いてるよ」
彼女の左手が、僕の睫毛にそっと触れる。
僕は目を閉じた。
その時、ふわりと石鹸の香りが鼻先をくすぐった。
僕の唇に柔らかいものが触れる。
ハッと目を開く。
「近衛⋯さん?」
目の前に顔がある。
風に揺れた彼女の髪が僕の頬を撫でる。
「不意にキスされた男の子の気持ち⋯聞かせて?小説に書きたいの」
月夜に照らされた君は、憂いを帯びた熱を纏う。
淡く紅潮した頬に、じれったい笑窪が控えめに浮かぶ。
僕の初めてのキスは、君に奪われた。
小悪魔みたいなフリをする、天使のような君に。
言いようのない多幸感に、感情が震える。
これは甘美な毒だ。
好きが体を巡る。
どこまでも深く、君に堕ちる。
「キスは、甘美な毒だ⋯」
「甘美な毒か⋯文学的表現ね。いいじゃない」
「その⋯君はなんとも思わないのかい?⋯キス、したのに」
「小説は体験と経験の産物よ?貴重な体験ができたわ」
小悪魔みたいに意地悪な顔で彼女は笑った。
「君らしいや」
僕は呆れて笑う。
「僕の初めてをあげたんだ。しっかり作品に生かしてくれよ」
何事も無かったように彼女は筆を取り、ノートに文字を綴り始めた。僕はその横顔を鉛筆でなぞる。
2人の沈黙は暫く続いた。
下弦の月が、寂しく笑う。
焦りは禁物だ。
去り際に交換した連絡先だって、鳴りを潜めた。
あの日の毒はまだ僕の頭を支配している。
そんな頭でベンチに座り空を見上げると、風に揺られるハナミズキの蕾も恋の色をしている。弾けそうな僕の恋心と同じく、君を待っている様だ。なんて、普段と違う思考になるくらいに僕は恋ってやつに溺れている。
「もうそろそろ咲くのかな?」
いつの間にか彼女も、愛用のノートを抱きしめながら隣で上を見上げていた。
「いつからそこに?」
「今着いたところよ?御影くん、考え事してそうだったから。声かけずに座ったの」
「音もなく居たから、びっくりした」
「可愛い蕾ね」
「時期に咲くよ」
「⋯れるといいな⋯」
「ん?何か言った?」
聞き取れなかった言葉を僕は尋ねる。
「えっ!あぁ、咲くといいなって。綺麗に咲くといいね」
「もうすぐたよ。ほら、あんなに膨らんでる」
─僕の気持ちも。
あれから、何事も無かったように接する彼女に、戸惑いと安心が半分ずつ。唇を合わせて気まずくなっていたらどうしよう、と言う不安は解消されたが、あのキスで君には何も残らなかったのかと、残念な戸惑いは深く心に残った。
「そうだ、小説ね。もうすぐクライマックスなんだ。今日の質問はちょっと悲しい質問。いい?」
「うん。どんな質問?答えられたらいいけど⋯」
「好きな人が旅立つの。夢を叶えるために。それを見送るあなたは、その子にどんな言葉をかける?」
「えっ⋯と⋯」
「酷な選択だよね。どうしても私には答えが書けなくて」
「その決別で、彼女の夢は叶うの?」
「⋯うん。きっと。」
「⋯待ってる。夢を叶えた君を。⋯かな」
「⋯待ってる。待ってるか⋯。」
「あっ、弱い?在り来りかな⋯」
「ううん。それも答えよ。あなたは優しいから」
「そうかな」
「あなたは三日月みたいに優しい顔で笑う。一緒にいると幸運が訪れそう」
「そう?なんだか⋯照れるな」
「忘れないでね、その笑顔。ずっと大事にしてね」
彼女はサラサラと筆を走らせ始めた。
不意に筆を止め、大きくため息をつく。
初めて見る彼女の悲しげな顔に、僕は何か答えを間違えたのかと不安に駆られた。
「近衛さん?」
「へ?あ⋯ごめんね。ちょっと自分の世界に」
「これ、来週には完成しそうだよ。僕の絵も」
「ありがとう。楽しみだわ」
新月の夜。
額縁に入れた君のスケッチを脇に抱え、何度も辺りを見渡した。落ち着かない僕の気持ちとは裏腹に、静寂な暗闇だけがそこに広がる。
初めて君は約束の場所には来なかった。
月明かりのない夜に、僕のスマホの明かりが寂しく光る。
『今日は、ごめんなさい。御影くんも帰っていいよ』
既読。
『君に、話したいことがあったんだ』
既読。
『じゃあ⋯明日のお昼に、ハナミズキの下で』
既読。
決めた。僕は明日、君に告白をする。
生まれて初めての告白だ。
特別なものがいい。
そうだ、花を用意しよう。
きっと、君には花が良く似合う。
傍から見たら、ダサいかもしれない。笑われるかもしれない。
だけど、これが僕の等身大だ。
古風だけど、僕らしい。
君にだけ、ちゃんと伝わればいい。
弾む息を整えて、僕は水をがぶりと飲んだ。
燦燦と照り付ける太陽の下、僕はハナミズキの木の下で彼女を待った。ようやく咲いた花が可愛げに揺れている。
後ろ手に花束を隠して、いよいよ迫る告白の文句を頭の中で繰り返し呟いた。そう言えば、彼女とは初めて陽の光の下で会う。
「ごめんね、待たせちゃった?」あの白いワンピースの裾をふわりと揺らしながら彼女はやってきた。
「いや、今来たとこ」
「昼間に会うとか、緊張しちゃうな⋯全部見えちゃうでしょ?」
「陽の光の下でも、君は相変わらず可愛い」
「嬉しいな⋯だけど」
彼女の瞳からひとつ涙が流れる。
「どうしたの?」
「小説がね、完成するの。あなたのお陰で」憂いを帯びた表情で君は僕よりずっと遠くを見つめている。
「僕でも、少しは役に立てたかな」
「そうだね⋯」
「そうだ、これ。君に似合うと思って」
僕は花束を彼女に差し出した。
淡いブルーの、彼女のための花束だ。
震える手で彼女は花束を受け取る。
「ありがとう。あなたでよかった。これでサヨナラだ」
「えっ。サヨナラって⋯?」
僕はその言葉に動揺を隠せなかった。
御影の家は、死者をあの世に送る運命。
その餞に花束を渡す。それは家業を継いだものだけが知る掟だ。
この時の僕はまだ知らなかった。
僕が彼女に手渡した花束が、何を意味するのかを。
「えっ⋯」
僕は初めて彼女の足元にあるべきものが無いことに気がつく。
影がない。彼女の後ろにだけ、影がないのだ。
今までは夜の闇に紛れて、それが在ったか、無かったのかさえ気が付いていない。
「近衛さん⋯君は⋯?」
「ごめんね。私はずっと病気だったの。もうこの世にいれるのもあと少し。未練だけは残したくなくって。ワガママよね。君の記憶には残ってしまうから。最後にどうしても君と一緒にいたくて」
「嘘、だって。だってあんなに⋯それに僕に死者は見えないはずだ⋯」
「私が願ったの。君に送って欲しいって。そしたら月夜に君に会えた。何度も病院を抜け出して君のところに行った。ねぇ、約束⋯覚えてる?嘘ついたら消えてなくなるって言った、あの約束」
「指切りしたやつ⋯かな?」
「うん。私は嘘ついてた。ずっと。だって私は君にずっと恋をしていたの。恋したことないなんて⋯嘘。君に出会わなきゃ良かった。君と話さなきゃよかった。君が。君が私を⋯好きにならないでって思ってた。消えるのが辛くなるから」
大粒の涙が、彼女の目からほろほろと溢れる。
僕は彼女を抱きしめる。
暖かい涙をそっと指で拭った。
僕の体温で君が熱を取り戻せるように、段々と硬くなる体を強く抱きしめる。
今にも壊れてしまいそうな君を、僕は⋯。
「痛いよ⋯」
雪白の月みたいに、白く。君の体は熱を失う。
「ごめん、だって⋯」
「違うの。心が。痛いんだね、こんなにも」
「僕も、痛いよ」
堪えていた感情が一気に溢れ出す。ぼやけた視界の中で、僕は彼女を必死に記憶に残そうとした。
「やだな⋯やだよ⋯」
そう呟く彼女は、次第に人としての感触が失われていく。もう涙も流れない。
「だめだ、逝くな⋯」
「さようなら、私が愛した最初で最後の君。どうか私のことは忘れてね?貴方は貴方の幸せを見つけて欲しい⋯約束だよ」
彼女は僕から離れると、小指をゆっくり差し出した。精一杯の笑顔で。
僕も小指でしっかり彼女を掴む。
ぎゅっと彼女は僕の小指を抱きしめた。
「指切りげんまん、嘘ついたら⋯」
「待って⋯」
消えゆく彼女を見つめ、僕は精一杯の笑顔を作る。
それから、僕は初めての告白をした。
「月夜の君は、綺麗だった」
彼女は最後にもう一度笑った。
彼女がいた足元に、バサッと音を立てて花束が落ちる。
その音で、僕は現実に引き戻された。
─あぁ、僕は君に何一つ残せていない。
いつも自分のことばかりだ。僕だけが舞い上がって、君の心をちゃんと見れていなかった。
「ごめんね」と後悔しても、ずっと遅い。
「ありがとう」と今更想うのも違う。
もう、何を言っても君の耳には届かないかもしれない。
それに彼女が死んだなんて信じられない。
本当は信じたくない。
まだ、僕はちゃんと本人に伝えてないんだ。
幽霊の彼女じゃなく、本人に伝えたい。
電話で君を呼ぶ。
何度も、何度も繰り返す。
冷たいアナウンスだけが、僕に答えた。
そして、その日。
病室で彼女は眠るように息を引き取ったと、あとから聞いたんだ。
寂しげに四日月が空に昇る通夜の夜。
人が疎らになった会場の中で、僕はひとり、彼女の近くにいる。
相変わらず彼女は綺麗な顔のまま、花の中ですやすやと眠っていた。
「近衛さん⋯そのまま聞いてくれるかな。大事な話をするよ。ちゃんと君に伝えたいんだ。君に言えないまま、別れるのは寂しいからさ」
僕は口元で三日月の形を作った。
頬は微かに震えている。
「僕は君が好きです。ずっと前から君を⋯」
─ねぇ、近衛さん。高校で君に告白をしてたら未来は違ったかな?あの日、僕にもっと勇気があったら?僕がこの気持ちと早く向き合っていたら?君の心を早く見つけていたら?君はなんて答えてくれたかな?
あの日僕が⋯。
戻りたくても、もう戻れないあの日に。
僕は、僕は⋯。
ねぇ、会いたいよ。
「⋯君に、会いたい」
後悔の念に押しつぶされそうな僕の口から、言葉が溢れ出す。
「僕は待ってるって言ったろ?夢が叶った君を⋯早く帰ってきてよ。ねぇ、起きてくれよ。近衛さんの絵⋯持ってきたよ。ほら、見てよ⋯色もつけたんだ、綺麗だろ?なぁ約束したろ、ほら、指切りして⋯⋯」
彼女の胸の上で組まれた右手の小指だけが、指切りの形で固まっているのに気がついた僕は、堪らずその場で泣き崩れた。子供のように泣きじゃくった。君がいなくなったという事実が、やっと僕に現実を突きつけた。たった数十センチの君との距離が、果てしなく遠く感じたんだ。
遺影の横に置かれた、僕の書いた似顔絵の君が微笑む。
棺に入れようと思った絵を、彼女の母が残しておきたいと声をかけてくれたのだ。「あの子、こんな顔もするのね」と、彼女の母は優しく僕の絵を抱きしめてくれた。それから、僕に1冊のノートを渡してこう言った。
「少し前の夜にね、あの子急にこんなことを言ったの。もし私に何かあったら、これを御影くんに渡して欲しい。きっと私の絵を持ってきてくれるから。って⋯。まるで遺言みたいに言うから。だから、これは貴方が持っていて」
泣き止んだ僕は、力無く君の前の椅子に座り、渡されたノートをぼんやりと見つめた。
『月夜の君に、私は恋をする。』
彼女の最後の小説だ。
パラパラとページを捲る。
─十六夜月が君を連れてきた。躊躇っていた気持ちがもう一度目を覚ました。最後にもう一度だけ、恋をしようと決めた。
─初めてのキスは、想像よりもずっと近くに君を感じた。これは何よりも毒だ。私の自由を愛で縛り付ける。甘美な毒だ。
─三日月みたいに笑う君の優しい顔が、たまらなく好き。大好き。
そして最後のページで手が止まる。
「私は嘘をついてた。ずっと。だって私は君にずっと恋をしていたの。君に出会わなきゃ良かった。君と話さなきゃよかった。君が。君が私を⋯好きにならなきゃよかった。約束は守るよ。私、そろそろ逝かなきゃ⋯ね」
言葉は言霊だ。
私の体は色をなくしていく。
ゆっくりと透明に変わり、ふわりと宙に浮かぶように空を目指す。
君は悲しそうな瞳で私を見つめている。
「だめだ、逝くな⋯待って」
「さようなら、私が愛した最初で最後の君。どうか私のことは忘れてね?貴方は貴方の幸せを見つけて欲しい⋯約束ね」
君は優しい顔で私に言った。
あの三日月みたいな笑顔だ。
それは世界でいちばん綺麗な言葉で。
「 ───────────」
君のその声が、いつまでも私の耳に残ったんだ。
さようなら。サヨウナラ⋯。
「これって⋯」
空白の台詞を見た僕の目から、また涙が溢れた。
「君の心に、僕はちゃんと残ったんだね」
君が託したこの答えは、僕だけが知っている。
紛れもない、君と僕の物語だったから。
僕は浮ついた心で、跳ねるように地面を蹴った。
さっき受け取ったばかりの花束が崩れないように、それだけは大事に抱えている。
すれ違うタクシーも、そんな僕の姿に期待の目を向けるが、応える余裕なんてない。
僕はこれから、初めての告白をする。
彼女は高校の同級生で、当時は接点なんてなかった。僕は美術部で彼女は文藝部。美術室から見上げた図書室の窓辺に座る彼女の、揺れる黒髪をいつも見つめていた。容姿端麗で人気者の彼女に、僕なんかが話しかけられる訳が無い。
僕の家は地元では由緒ある名家として有名だ。
有名ではあるが、評判は良くない。
だから、学校でも僕は避けられる存在だった。
「死神の子」なんて言うあだ名でよばれ、誰も怖がって僕には近寄ってこないから、いつも1人。
彼女もそんな僕と関わりたくないだろう。
そんな家に生まれた自分を憎んだし、その黒い影から逃げたくて絵の世界に没頭した。
僕は、特異な能力を持たずに生まれた子。
高校を卒業し、進学もせず僕は相変らす絵ばかりを書いている。
決まって書くのは天使の絵だ。好きなものくらい、明るいモチーフを描きたい。「死神の子」ってあだ名に、嫌味で抵抗しているって理由もあるけど。
屋敷の中の隅の部屋で、肩身は狭いが気楽なもんだ。
僕のことに興味のない家族の目を盗むのは簡単で、夜な夜な僕は画材を手に取り、夜に駆け出した。
そして。
ある春の夜に、僕は彼女と再会した。
再会したというのは、ずいぶん一方的だから、出会ったという事にしよう。彼女はきっと僕を認知していないだろう。そう思った。
そんな月夜の話だ。
公園のベンチに座る彼女を見つけた。
十六夜月が彼女を照らす。
白いワンピースが良く似合う。制服を着ていたあの頃から、まだ僅かしか経っていないのに、その容姿はずいぶん大人びて見える。
変わらないのは長く揺れる黒髪をそっと耳にかける仕草と、長い睫毛。久しぶりに見る彼女の姿に、月夜の光を受け止めて輝くまん丸い黒目に、思わず見惚れて僕は立ちすくんだ。
気づいた彼女はゆっくりとこちらに顔を向ける。
「あら?⋯御影くん?」
自分の名前を呼ばれたことにドキッとした。そして震えた声で「どうも。近衛さん、⋯だよね?」と挙動不審に答えを返す。
「名前⋯」彼女は困ったように首を傾げる。
僕は慌てて「あっ⋯その、同じ学校で⋯」と、今度は声を詰まらせた。憧れの人を前にして堂々とできる男がいるなら、今すぐに手本を見せて欲しい。人付き合いもろくにしてこなかった僕には、まるで耐性がないのだ。
「知ってるよ?御影くんも私を知っててくれたんだ⋯そっか」
ニコッと笑う彼女を見て、僕は胸を撫で下ろした。
それもつかの間。会話のターンは僕にある。
「近衛さんは⋯僕が怖くないのかい?」
「どうして?知ってる顔に会えて嬉しいけど?」
黙り込んだ僕を不思議そうに見つめる彼女。
その眼差しが、僕を急かすようだ。
鼓動が激しく騒ぎ出す。
「つっ⋯つ、月が綺麗だね」
焦った僕は、彼女の真上に浮かぶ十六夜月を話題にした。
「ふふっ⋯」っと彼女は笑う。
「えっ⋯?」
「私みたいな文学女子に、それ言っちゃダメだよ」
「僕、何か変なこと言った⋯?」
「知らない?夏目漱石」
「わかるよ。猫の人だろ。吾輩は、猫」
「うん。じゃぁこの話はここまでにしとこう」
彼女は含み笑いを残し、持っているノートに視線を落とした。鉛筆を顎に添えて、物思いにふけり始める。
僕は彼女との距離を保ちながら、持ってきたキャンバスをイーゼルに立てた。画材道具から鉛筆を取りだし、構えたところで目の前の暗闇にモチーフなんてありやしない。街灯に照らされた白いキャンバスを、僕はぼーっと見つめた。
「ねぇ、何描くの?」
また、大きな瞳がこちらを見ている。
「いや⋯今描いたら、ただキャンバスを黒く塗りつぶすだけだ。イーゼルを前に置くと気持ちが落ち着くから、それで⋯」
僕は目の前の景色を指さして答えた。
「決まってないならさ、⋯私を描いてよ!」
彼女は自分の顔を指さして、控えめにはにかんだ。
唐突な彼女の期待に「えっ?」と固まった僕の答えを彼女は待っている。真正面からその顔でじっと見られたら、僕は正気を失ってしまいそうだ。だから、こう提案をした。「横顔でもいいかな⋯」
「いいよ。御影くんの好きなように描いて」
嬉しそうな声で答えた彼女は、ベンチに綺麗な姿勢で座り直す。それからピンと背筋を張って、じっと静止した。
「えっと⋯好きにしてて大丈夫。近衛さんの自然な表情を描くよ。だからそれの続きを、どうぞ」僕は彼女の傍に置いてあるノートと鉛筆を指さした。すると、ふぅと息を吐き出して彼女は肩の力を抜いた。
「1時間じっとしててって言われたらどうしようかって後悔したの。自分でお願いしといてあれだけど⋯だから安心した」
まだ子供みたいに無邪気に笑う彼女に、僕の表情もつい緩んでしまう。
「デッサンじゃないから⋯」
僕の脳裏には、君の横顔は写真くらい鮮明に焼き付いている。何度も何度も美術室で頭に書き殴ったから。だからじっとしていなくても君を書く事なんて容易い。君に引かれそうで、そんな事は口に出せないけど。
スーッとひとつ、線を描く。
「じゃあ、私も。お言葉に甘えて」
彼女もスラスラと鉛筆を走らせた。
ふたつの鉛筆の音が交差する。
その不協和音に落ち着かず「⋯近衛さんは、何を書いてるの?」と、僕はすぐに静寂を割いた。
「これ?あー⋯小説だよ。私の新作。新作って、まだ作家でもないくせにね。気分だけは一流作家だけど」
「へー⋯すごいな」
「その感じ興味無さそ⋯御影くん理系コースだもんね」
「いや、そうじゃなくて。僕、本もあまり読まないし。読まないって言うか、読むと寝ずに没頭しちゃうから、自制してるって言うか。だから興味は⋯あります。多少は読んだことあるし⋯」
これは嘘じゃない。半分だけ、嘘じゃない。
なにか彼女との接点を持ちたくて、本を読み漁った時期があるのだ。
「どんなの読むの?」
「ラノベ⋯とか」
「好きなジャンルは?」
「異世界バトルもの」
「さすが男の子だ。私はラノベはラブコメが好き!」
「近衛さんもラノベ読むんだ。純文学とか⋯本格派のばかり読むのかと思ってた。あっ、ほら文藝部だったし」
「好きよ?もちろん。純文学。おじいちゃんの家が古本屋でね。ずいぶん通って読み漁ったの。中学生の頃に日本文学全集読破。まるで本の虫よね。でも、それを読んだからって全部を知れるわけじゃない。どんな本にもそれぞれの解釈と答えと⋯なにより作者の心がある。それが面白くって」
「そうか。今どんなの書いてるの?その小説の⋯近衛さんの心って?」僕はまたノートを指さして聞いた。
「これ⋯?んー⋯初恋にして最後の恋。かな?それくらい切なくて甘酸っぱくて、命が燃えつきるような。純粋で、儚くて⋯ごめん。実はまだプロットの状態なの。プロットってわかる?まだ設計図」
「構図みたいなもんか⋯それが近衛さんの心の欠片⋯」僕の言葉を遮るように彼女が口を開いた。
「ねぇ、御影くんは恋したことある?」
その言葉は、僕の耳に凛と響いた。
はっきりと。正確に。
そして瞬時に、強がりな僕が「あるよ」と言う。
「大人だね⋯顔は童顔なのに、私より大人だ」
「近衛さんは、⋯ないの?」
弱気な僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
「恥ずかしいけど⋯ないの」
「そうか」
「だから、その⋯お願い。手伝ってくれないかな?私の小説。私が知らない感情を教えてくれないかな?」
その唐突な提案に、僕の脳は一瞬凍りついた。
火照った顔の中で、冷静な思考がせめぎあう。
彼女は小説を心と言う。
僕がその心に触れていいのか?
僕がその心を覗いてもいいのか?
「だめ?かな⋯」
男はつくづく馬鹿な生き物だと思う。決して彼女が意図的にやったとは思えないが、上目遣いで頼まれると嫌とは言えない。これは男子の本能であり、異世界だったら女キャラの最強のアビリティではないだろうか。僕は二つ返事で「いいよ」と言った。
「僕もひとついいかな?今日でこの絵は完成しない。だから毎週この時間に、ここで会うってのは⋯どうかな?絵が完成するまで」
ドキドキと高鳴る鼓動のリズムに載せて、僕は強がりな提案を持ちかけた。ズルい交換条件だ。でも、また彼女に会えるなら手段はいくらでも使いたい。
「いいよ、じゃあ約束」
以外にもすんなりと彼女は受け入れる。
「指切りだね」と、差し出された小指に僕も指を絡めた。「指切りげんまん、嘘ついたら⋯」彼女は口上の途中で言葉を飲み込む。
「嘘ついたら?」
「嘘ついたら⋯⋯この世から消えてなくなる」
「いや、嘘ついたら針千本飲ますだろ?」
「⋯だね?」
それから僕の腕の時計をちらっと見た彼女は、サッと小指を解くとバツの悪そうな顔をして荷物をまとめ始めた。「私、行かなきゃ。またね」
振り返ることなく、彼女は月夜に消えていった。
立待月の夜。
月を見上げながら、ソワソワと彼女を待った。
約束の日だ。馬鹿げた話、来てくれる確証なんてない。ただの口約束だ。連絡先を交換しておくべきだったと、家に帰って猛省した。今日は一応、ジャケットのポケットに番号を書いたメモを忍ばせてある。
ガタガタと不安定な足場にイーゼルを置き、僕は描きかけのキャンバスを立てた。家で描き足すことも出来たが、勇気と引き換えに手にしたこの時間が惜しい。わざと手をつけずに、あの日線を引いた構図のままだ。LEDの街灯に照らされるキャンバスの中で、君の輪郭は弱々しい。
「良かった⋯御影くん居た」弾む声で彼女が現れた。
「来てくれたんだ⋯」ホッと安堵の声を漏らす。
「だって指切りしたでしょ?嘘ついたら⋯?」意地悪な笑顔で彼女は言った。
「僕も君に針を千本飲ますのは辛い」
「私は、御影くんとなら何度でも指切りできるなー。指切りって信頼してる人としかできないんだよ?」
「じゃあ、次はなんの約束を?」
僕は小指を彼女に差し出した。
「そうだな⋯また会おうね。それが約束」
「もちろん」
僕たちは二度目の小指を結ぶ。
「それで、小説は進んだ?」
「少しね⋯あっ、私またここに座ってたらいい?」
「あっ、うん。お願い」
彼女はベンチに座るときちんと横顔を僕に見せ、ノートを捲った。
「御影くんは、夢とかある?それともお家を継ぐの?」
「近衛さんもやっぱり知ってるよな。御影って名前、この街じゃ⋯。僕は、父さんや兄さんみたいに特別じゃない。出来損ないなんだ。だから家業は継がないよ。ずっと気ままに生きていたい」
「ごめん⋯嫌なこと聞いたね」
「いや、慣れてる。それより夢がある?なんて聞いてくれたのは君が初めてだ。そっちのが嬉しい」
「じゃぁ⋯御影くんの夢は?」
「これかな。君が小説を書くように。僕は絵を描く。キャンバスに命を吹き込むんだ。君が言った小説に心があるように、僕の心はここにある。誰かにそれが届いて欲しい。小さい夢だけど⋯」僕は小さくはにかむ。
「小さくない。素敵な夢だね」
「君は?どんな夢を未来に見てる?」
「私の夢か⋯未来の私は⋯。きっとこの小説の完成を夢見てる。それを叶えてあげるの。それが私の夢よ?」
「じゃあ⋯僕が叶えてあげないとな。その夢」
「えっ?」
「僕の助言無しには完成しない。だろ?」
月明かりの下で、彼女はじっと僕の瞳を見つめる。
子猫みたいな愛らしい輪郭に、アイラインが跳ねたメイク。たまらなく可愛い。「ごめん、調子いいこと言って⋯」僕は目線を逸らすと頭を搔いて、照れ隠した。
スっと立ち上がった彼女が僕の真正面に立つ。
「ねぇ、御影くん。睫毛になにか付いてるよ」
彼女の左手が、僕の睫毛にそっと触れる。
僕は目を閉じた。
その時、ふわりと石鹸の香りが鼻先をくすぐった。
僕の唇に柔らかいものが触れる。
ハッと目を開く。
「近衛⋯さん?」
目の前に顔がある。
風に揺れた彼女の髪が僕の頬を撫でる。
「不意にキスされた男の子の気持ち⋯聞かせて?小説に書きたいの」
月夜に照らされた君は、憂いを帯びた熱を纏う。
淡く紅潮した頬に、じれったい笑窪が控えめに浮かぶ。
僕の初めてのキスは、君に奪われた。
小悪魔みたいなフリをする、天使のような君に。
言いようのない多幸感に、感情が震える。
これは甘美な毒だ。
好きが体を巡る。
どこまでも深く、君に堕ちる。
「キスは、甘美な毒だ⋯」
「甘美な毒か⋯文学的表現ね。いいじゃない」
「その⋯君はなんとも思わないのかい?⋯キス、したのに」
「小説は体験と経験の産物よ?貴重な体験ができたわ」
小悪魔みたいに意地悪な顔で彼女は笑った。
「君らしいや」
僕は呆れて笑う。
「僕の初めてをあげたんだ。しっかり作品に生かしてくれよ」
何事も無かったように彼女は筆を取り、ノートに文字を綴り始めた。僕はその横顔を鉛筆でなぞる。
2人の沈黙は暫く続いた。
下弦の月が、寂しく笑う。
焦りは禁物だ。
去り際に交換した連絡先だって、鳴りを潜めた。
あの日の毒はまだ僕の頭を支配している。
そんな頭でベンチに座り空を見上げると、風に揺られるハナミズキの蕾も恋の色をしている。弾けそうな僕の恋心と同じく、君を待っている様だ。なんて、普段と違う思考になるくらいに僕は恋ってやつに溺れている。
「もうそろそろ咲くのかな?」
いつの間にか彼女も、愛用のノートを抱きしめながら隣で上を見上げていた。
「いつからそこに?」
「今着いたところよ?御影くん、考え事してそうだったから。声かけずに座ったの」
「音もなく居たから、びっくりした」
「可愛い蕾ね」
「時期に咲くよ」
「⋯れるといいな⋯」
「ん?何か言った?」
聞き取れなかった言葉を僕は尋ねる。
「えっ!あぁ、咲くといいなって。綺麗に咲くといいね」
「もうすぐたよ。ほら、あんなに膨らんでる」
─僕の気持ちも。
あれから、何事も無かったように接する彼女に、戸惑いと安心が半分ずつ。唇を合わせて気まずくなっていたらどうしよう、と言う不安は解消されたが、あのキスで君には何も残らなかったのかと、残念な戸惑いは深く心に残った。
「そうだ、小説ね。もうすぐクライマックスなんだ。今日の質問はちょっと悲しい質問。いい?」
「うん。どんな質問?答えられたらいいけど⋯」
「好きな人が旅立つの。夢を叶えるために。それを見送るあなたは、その子にどんな言葉をかける?」
「えっ⋯と⋯」
「酷な選択だよね。どうしても私には答えが書けなくて」
「その決別で、彼女の夢は叶うの?」
「⋯うん。きっと。」
「⋯待ってる。夢を叶えた君を。⋯かな」
「⋯待ってる。待ってるか⋯。」
「あっ、弱い?在り来りかな⋯」
「ううん。それも答えよ。あなたは優しいから」
「そうかな」
「あなたは三日月みたいに優しい顔で笑う。一緒にいると幸運が訪れそう」
「そう?なんだか⋯照れるな」
「忘れないでね、その笑顔。ずっと大事にしてね」
彼女はサラサラと筆を走らせ始めた。
不意に筆を止め、大きくため息をつく。
初めて見る彼女の悲しげな顔に、僕は何か答えを間違えたのかと不安に駆られた。
「近衛さん?」
「へ?あ⋯ごめんね。ちょっと自分の世界に」
「これ、来週には完成しそうだよ。僕の絵も」
「ありがとう。楽しみだわ」
新月の夜。
額縁に入れた君のスケッチを脇に抱え、何度も辺りを見渡した。落ち着かない僕の気持ちとは裏腹に、静寂な暗闇だけがそこに広がる。
初めて君は約束の場所には来なかった。
月明かりのない夜に、僕のスマホの明かりが寂しく光る。
『今日は、ごめんなさい。御影くんも帰っていいよ』
既読。
『君に、話したいことがあったんだ』
既読。
『じゃあ⋯明日のお昼に、ハナミズキの下で』
既読。
決めた。僕は明日、君に告白をする。
生まれて初めての告白だ。
特別なものがいい。
そうだ、花を用意しよう。
きっと、君には花が良く似合う。
傍から見たら、ダサいかもしれない。笑われるかもしれない。
だけど、これが僕の等身大だ。
古風だけど、僕らしい。
君にだけ、ちゃんと伝わればいい。
弾む息を整えて、僕は水をがぶりと飲んだ。
燦燦と照り付ける太陽の下、僕はハナミズキの木の下で彼女を待った。ようやく咲いた花が可愛げに揺れている。
後ろ手に花束を隠して、いよいよ迫る告白の文句を頭の中で繰り返し呟いた。そう言えば、彼女とは初めて陽の光の下で会う。
「ごめんね、待たせちゃった?」あの白いワンピースの裾をふわりと揺らしながら彼女はやってきた。
「いや、今来たとこ」
「昼間に会うとか、緊張しちゃうな⋯全部見えちゃうでしょ?」
「陽の光の下でも、君は相変わらず可愛い」
「嬉しいな⋯だけど」
彼女の瞳からひとつ涙が流れる。
「どうしたの?」
「小説がね、完成するの。あなたのお陰で」憂いを帯びた表情で君は僕よりずっと遠くを見つめている。
「僕でも、少しは役に立てたかな」
「そうだね⋯」
「そうだ、これ。君に似合うと思って」
僕は花束を彼女に差し出した。
淡いブルーの、彼女のための花束だ。
震える手で彼女は花束を受け取る。
「ありがとう。あなたでよかった。これでサヨナラだ」
「えっ。サヨナラって⋯?」
僕はその言葉に動揺を隠せなかった。
御影の家は、死者をあの世に送る運命。
その餞に花束を渡す。それは家業を継いだものだけが知る掟だ。
この時の僕はまだ知らなかった。
僕が彼女に手渡した花束が、何を意味するのかを。
「えっ⋯」
僕は初めて彼女の足元にあるべきものが無いことに気がつく。
影がない。彼女の後ろにだけ、影がないのだ。
今までは夜の闇に紛れて、それが在ったか、無かったのかさえ気が付いていない。
「近衛さん⋯君は⋯?」
「ごめんね。私はずっと病気だったの。もうこの世にいれるのもあと少し。未練だけは残したくなくって。ワガママよね。君の記憶には残ってしまうから。最後にどうしても君と一緒にいたくて」
「嘘、だって。だってあんなに⋯それに僕に死者は見えないはずだ⋯」
「私が願ったの。君に送って欲しいって。そしたら月夜に君に会えた。何度も病院を抜け出して君のところに行った。ねぇ、約束⋯覚えてる?嘘ついたら消えてなくなるって言った、あの約束」
「指切りしたやつ⋯かな?」
「うん。私は嘘ついてた。ずっと。だって私は君にずっと恋をしていたの。恋したことないなんて⋯嘘。君に出会わなきゃ良かった。君と話さなきゃよかった。君が。君が私を⋯好きにならないでって思ってた。消えるのが辛くなるから」
大粒の涙が、彼女の目からほろほろと溢れる。
僕は彼女を抱きしめる。
暖かい涙をそっと指で拭った。
僕の体温で君が熱を取り戻せるように、段々と硬くなる体を強く抱きしめる。
今にも壊れてしまいそうな君を、僕は⋯。
「痛いよ⋯」
雪白の月みたいに、白く。君の体は熱を失う。
「ごめん、だって⋯」
「違うの。心が。痛いんだね、こんなにも」
「僕も、痛いよ」
堪えていた感情が一気に溢れ出す。ぼやけた視界の中で、僕は彼女を必死に記憶に残そうとした。
「やだな⋯やだよ⋯」
そう呟く彼女は、次第に人としての感触が失われていく。もう涙も流れない。
「だめだ、逝くな⋯」
「さようなら、私が愛した最初で最後の君。どうか私のことは忘れてね?貴方は貴方の幸せを見つけて欲しい⋯約束だよ」
彼女は僕から離れると、小指をゆっくり差し出した。精一杯の笑顔で。
僕も小指でしっかり彼女を掴む。
ぎゅっと彼女は僕の小指を抱きしめた。
「指切りげんまん、嘘ついたら⋯」
「待って⋯」
消えゆく彼女を見つめ、僕は精一杯の笑顔を作る。
それから、僕は初めての告白をした。
「月夜の君は、綺麗だった」
彼女は最後にもう一度笑った。
彼女がいた足元に、バサッと音を立てて花束が落ちる。
その音で、僕は現実に引き戻された。
─あぁ、僕は君に何一つ残せていない。
いつも自分のことばかりだ。僕だけが舞い上がって、君の心をちゃんと見れていなかった。
「ごめんね」と後悔しても、ずっと遅い。
「ありがとう」と今更想うのも違う。
もう、何を言っても君の耳には届かないかもしれない。
それに彼女が死んだなんて信じられない。
本当は信じたくない。
まだ、僕はちゃんと本人に伝えてないんだ。
幽霊の彼女じゃなく、本人に伝えたい。
電話で君を呼ぶ。
何度も、何度も繰り返す。
冷たいアナウンスだけが、僕に答えた。
そして、その日。
病室で彼女は眠るように息を引き取ったと、あとから聞いたんだ。
寂しげに四日月が空に昇る通夜の夜。
人が疎らになった会場の中で、僕はひとり、彼女の近くにいる。
相変わらず彼女は綺麗な顔のまま、花の中ですやすやと眠っていた。
「近衛さん⋯そのまま聞いてくれるかな。大事な話をするよ。ちゃんと君に伝えたいんだ。君に言えないまま、別れるのは寂しいからさ」
僕は口元で三日月の形を作った。
頬は微かに震えている。
「僕は君が好きです。ずっと前から君を⋯」
─ねぇ、近衛さん。高校で君に告白をしてたら未来は違ったかな?あの日、僕にもっと勇気があったら?僕がこの気持ちと早く向き合っていたら?君の心を早く見つけていたら?君はなんて答えてくれたかな?
あの日僕が⋯。
戻りたくても、もう戻れないあの日に。
僕は、僕は⋯。
ねぇ、会いたいよ。
「⋯君に、会いたい」
後悔の念に押しつぶされそうな僕の口から、言葉が溢れ出す。
「僕は待ってるって言ったろ?夢が叶った君を⋯早く帰ってきてよ。ねぇ、起きてくれよ。近衛さんの絵⋯持ってきたよ。ほら、見てよ⋯色もつけたんだ、綺麗だろ?なぁ約束したろ、ほら、指切りして⋯⋯」
彼女の胸の上で組まれた右手の小指だけが、指切りの形で固まっているのに気がついた僕は、堪らずその場で泣き崩れた。子供のように泣きじゃくった。君がいなくなったという事実が、やっと僕に現実を突きつけた。たった数十センチの君との距離が、果てしなく遠く感じたんだ。
遺影の横に置かれた、僕の書いた似顔絵の君が微笑む。
棺に入れようと思った絵を、彼女の母が残しておきたいと声をかけてくれたのだ。「あの子、こんな顔もするのね」と、彼女の母は優しく僕の絵を抱きしめてくれた。それから、僕に1冊のノートを渡してこう言った。
「少し前の夜にね、あの子急にこんなことを言ったの。もし私に何かあったら、これを御影くんに渡して欲しい。きっと私の絵を持ってきてくれるから。って⋯。まるで遺言みたいに言うから。だから、これは貴方が持っていて」
泣き止んだ僕は、力無く君の前の椅子に座り、渡されたノートをぼんやりと見つめた。
『月夜の君に、私は恋をする。』
彼女の最後の小説だ。
パラパラとページを捲る。
─十六夜月が君を連れてきた。躊躇っていた気持ちがもう一度目を覚ました。最後にもう一度だけ、恋をしようと決めた。
─初めてのキスは、想像よりもずっと近くに君を感じた。これは何よりも毒だ。私の自由を愛で縛り付ける。甘美な毒だ。
─三日月みたいに笑う君の優しい顔が、たまらなく好き。大好き。
そして最後のページで手が止まる。
「私は嘘をついてた。ずっと。だって私は君にずっと恋をしていたの。君に出会わなきゃ良かった。君と話さなきゃよかった。君が。君が私を⋯好きにならなきゃよかった。約束は守るよ。私、そろそろ逝かなきゃ⋯ね」
言葉は言霊だ。
私の体は色をなくしていく。
ゆっくりと透明に変わり、ふわりと宙に浮かぶように空を目指す。
君は悲しそうな瞳で私を見つめている。
「だめだ、逝くな⋯待って」
「さようなら、私が愛した最初で最後の君。どうか私のことは忘れてね?貴方は貴方の幸せを見つけて欲しい⋯約束ね」
君は優しい顔で私に言った。
あの三日月みたいな笑顔だ。
それは世界でいちばん綺麗な言葉で。
「 ───────────」
君のその声が、いつまでも私の耳に残ったんだ。
さようなら。サヨウナラ⋯。
「これって⋯」
空白の台詞を見た僕の目から、また涙が溢れた。
「君の心に、僕はちゃんと残ったんだね」
君が託したこの答えは、僕だけが知っている。
紛れもない、君と僕の物語だったから。