俊のことを幼なじみの男の子だと自覚したのは小学校を卒業する頃だ。家が近所で、母に幼稚園に連れて行ってもらう時にはいつも、彼の家の「天海」という表札を眺めていた。漢字は読めなかったけれど、この立派な表札のある大きな家に住んでいる男の子が、自分と仲良くしてくれている俊なのだと思うと胸がときめいた。
俊はスポーツができて、頭がよくて、私が持っていないものを全部持っている。小さい頃は生意気なことを言うガキ、という表現がしっくりくるような男の子だったけれど、中学生になる頃にはすっかりませていた。周りの女子も、俊のことを格好いいと言い、俊が体育でサッカーやバスケをしている時にはこぞって応援に出かけていた。私は、すっかり学校のアイドルになってしまった俊に気後れして、彼女たちの前に出ていくことができなかった。
「今日のスポーツ大会、凛も見てくれたか?」
年に一度行われるスポーツ大会の日の帰り道、偶然一緒になった俊からそう聞かれた時には、曖昧に「うん」と頷いた。見ていない、と言ったら気を悪くしてしまうかもしれないと思ったからだ。
「そっか。よかったー。俺、初めてあんなに綺麗なシュートを打てたんだ」
「……格好よかった、よ」
実際にその貴重なシーンを見ていない私は、自信なさげにそう言うしかなくて、すぐに「やっぱり見てないだろ」と俊にバレてしまった。
「ごめん……」
きっとがっかりするだろうな、と思って。
なんて、自意識過剰すぎて言えなくて、私はそっと俯くだけだった。
「いや、いいんだけど。俺、凛に見せるために頑張ってるとこ、あるから」
俊の頬が、耳が、赤く染まっていくのが、山の端に沈んでいく夕日のせいなのかそうでないのか分からない。
俊はいつだって、私の前で男らしくて、少年漫画の主人公みたいで、私は俊の陰で脇役を演じてるんだと思っていた。でも俊はたぶん、ずっと脇役の私のことを見てくれていた。
一週間前、中学校の卒業式の日、私は俊に呼び出された。校庭の桜の木はまだちらほらと蕾を膨らませている最中で、花は咲いていない。でも、目を閉じると桜の香りが漂ってくるような気配がしていた。
「今日で卒業だな」
「うん」
「凛は……本当に、行っちまうんだな」
「……うん」
お父さんの仕事の都合で、高知の高校に行くことになったと俊に告げたのは、今年の1月のことだった。お父さんの会社は、毎年12月に異動が発表されるらしく、ちょうど私の高校入学のタイミングで、お父さんの転勤が決まってしまったのだ。
単身赴任をすることも考えたようだが、お母さんがそれを拒否した。家族はいつも一緒でないと嫌だ。凛は高校生になるんだし分かってくれるはず、とお母さんの申し出をお父さんが受け入れるかたちで家族会議は終わった。とてもあっけなくて、私が口を挟む暇はなかった。せいぜい、「大丈夫」と頷くくらいで、いろいろと言いたいことはあったけれど、確かにお母さんの言う通りだと、喉元までせり上がってくる言葉を飲み込んだ。あの時、私は一体何を言おうとしていたのだろう。本当は東京から離れたくないって、心が叫んでいたのかな。分からない。でも、目の前で寂しそうな表情を浮かべる幼なじみの男の子の顔を見ると、じわりと胸に滲む苦い後悔のようなものが、私の心を弱くした。
「俺さ、凛のことずっと好きだった」
この時期の春風は、どうしても暖かいと思えない。
まるで突風のように吹いた風が、俊と私の前髪を揺らす。
周りで友達と写真を撮る卒業生の声が、遠く耳に響いた。
「凛が遠くへ行ってしまうって知って、言わなきゃって思って。でも俺臆病だから。こんなタイミングになってしまってごめん。だけど、この気持ちは本物だ」
ああ、俊はどうしてこんなにも格好良くて、優しくて、まっすぐに私の目を見てくれるんだろう。周りにいたクラスメイトの女子が、「好き」という言葉に反応したのか、こちらをちらちらと見ているのが分かった。私は耳まで赤くなるのを感じで、その場で俯いた。
俊は格好良い。頭も良くてスポーツができてよくモテる。時々子供みたいなことを言うこともあるけれど、そのギャップが好きだという女子も多い。
そんな彼が、どうして私なんかを好きなってしまったんだろう。
ただ家が近所で小さい頃から縁があって隣にいるだけだった。私のように地味な女の子に、彼のような完璧な男の子は不釣り合いだ。
「もし凛が俺と同じ気持ちなら……付き合ってほしい」
彼らしからぬ、祈るようなまなざしを私に向けていた。
私は素直に、その目がとても愛しく思えた。でも同時に、私の目の前に広がっている不確定な未来が私の目の前を真っ暗にしていく。私はこれから、まったく知らない土地で生きなければならないのだ。そこに俊はいない。だたっ広い荒野に、俊を連れていくことなんてできるのだろうか。
「……っ」
一瞬のうちにぐるぐると頭の中を思考が駆け巡った。私が答えを出すのに逡巡しているのを感じたのか、俊の瞳は次第にうるんでいった。
「……ごめん、私、分からない」
今思えば、どうしてこんな曖昧な言葉でごまかしてしまったんだろうかと後悔している。でも俊は、そのどうしようもないほどの優しさで「そっか」と私の返事を受け入れてくれた。
振るでも振られるでもなく、私たちの関係はそこで終わってしまった。
近くで見ていた女子たちが、「なにあれ」とささやく声が聞こえる。彼女たちからすれば、私の答えは納得がいかないものなんだろう。ずるくて、卑怯で、感じ悪い。きっと俊だって同じことを思っている。口には出さないが、煮え切らない態度の私に怒っているだろう。
「なんかあったら、いつでも相談して。俺はずっと、凛の味方だから」
痛いくらいの優しい言葉が、塞いでいた私の耳にするりと入ってきた。どうして俊はいつも、そんなに他人のことを思いやれるの。私は、自分のことしか考えられないのに。
「……ありがとう」
まだ冷たい春風が、再び私たちの間を吹き抜ける。俊の背が、いつの間にか私よりも20cmほど高くなっていることに気がついた。小さい頃は、私の方が高かったのに。知らない俊。私の知らない幼なじみの男の子。この日を境に、俊は私の中で、神様にみたいになってしまった。
俊はスポーツができて、頭がよくて、私が持っていないものを全部持っている。小さい頃は生意気なことを言うガキ、という表現がしっくりくるような男の子だったけれど、中学生になる頃にはすっかりませていた。周りの女子も、俊のことを格好いいと言い、俊が体育でサッカーやバスケをしている時にはこぞって応援に出かけていた。私は、すっかり学校のアイドルになってしまった俊に気後れして、彼女たちの前に出ていくことができなかった。
「今日のスポーツ大会、凛も見てくれたか?」
年に一度行われるスポーツ大会の日の帰り道、偶然一緒になった俊からそう聞かれた時には、曖昧に「うん」と頷いた。見ていない、と言ったら気を悪くしてしまうかもしれないと思ったからだ。
「そっか。よかったー。俺、初めてあんなに綺麗なシュートを打てたんだ」
「……格好よかった、よ」
実際にその貴重なシーンを見ていない私は、自信なさげにそう言うしかなくて、すぐに「やっぱり見てないだろ」と俊にバレてしまった。
「ごめん……」
きっとがっかりするだろうな、と思って。
なんて、自意識過剰すぎて言えなくて、私はそっと俯くだけだった。
「いや、いいんだけど。俺、凛に見せるために頑張ってるとこ、あるから」
俊の頬が、耳が、赤く染まっていくのが、山の端に沈んでいく夕日のせいなのかそうでないのか分からない。
俊はいつだって、私の前で男らしくて、少年漫画の主人公みたいで、私は俊の陰で脇役を演じてるんだと思っていた。でも俊はたぶん、ずっと脇役の私のことを見てくれていた。
一週間前、中学校の卒業式の日、私は俊に呼び出された。校庭の桜の木はまだちらほらと蕾を膨らませている最中で、花は咲いていない。でも、目を閉じると桜の香りが漂ってくるような気配がしていた。
「今日で卒業だな」
「うん」
「凛は……本当に、行っちまうんだな」
「……うん」
お父さんの仕事の都合で、高知の高校に行くことになったと俊に告げたのは、今年の1月のことだった。お父さんの会社は、毎年12月に異動が発表されるらしく、ちょうど私の高校入学のタイミングで、お父さんの転勤が決まってしまったのだ。
単身赴任をすることも考えたようだが、お母さんがそれを拒否した。家族はいつも一緒でないと嫌だ。凛は高校生になるんだし分かってくれるはず、とお母さんの申し出をお父さんが受け入れるかたちで家族会議は終わった。とてもあっけなくて、私が口を挟む暇はなかった。せいぜい、「大丈夫」と頷くくらいで、いろいろと言いたいことはあったけれど、確かにお母さんの言う通りだと、喉元までせり上がってくる言葉を飲み込んだ。あの時、私は一体何を言おうとしていたのだろう。本当は東京から離れたくないって、心が叫んでいたのかな。分からない。でも、目の前で寂しそうな表情を浮かべる幼なじみの男の子の顔を見ると、じわりと胸に滲む苦い後悔のようなものが、私の心を弱くした。
「俺さ、凛のことずっと好きだった」
この時期の春風は、どうしても暖かいと思えない。
まるで突風のように吹いた風が、俊と私の前髪を揺らす。
周りで友達と写真を撮る卒業生の声が、遠く耳に響いた。
「凛が遠くへ行ってしまうって知って、言わなきゃって思って。でも俺臆病だから。こんなタイミングになってしまってごめん。だけど、この気持ちは本物だ」
ああ、俊はどうしてこんなにも格好良くて、優しくて、まっすぐに私の目を見てくれるんだろう。周りにいたクラスメイトの女子が、「好き」という言葉に反応したのか、こちらをちらちらと見ているのが分かった。私は耳まで赤くなるのを感じで、その場で俯いた。
俊は格好良い。頭も良くてスポーツができてよくモテる。時々子供みたいなことを言うこともあるけれど、そのギャップが好きだという女子も多い。
そんな彼が、どうして私なんかを好きなってしまったんだろう。
ただ家が近所で小さい頃から縁があって隣にいるだけだった。私のように地味な女の子に、彼のような完璧な男の子は不釣り合いだ。
「もし凛が俺と同じ気持ちなら……付き合ってほしい」
彼らしからぬ、祈るようなまなざしを私に向けていた。
私は素直に、その目がとても愛しく思えた。でも同時に、私の目の前に広がっている不確定な未来が私の目の前を真っ暗にしていく。私はこれから、まったく知らない土地で生きなければならないのだ。そこに俊はいない。だたっ広い荒野に、俊を連れていくことなんてできるのだろうか。
「……っ」
一瞬のうちにぐるぐると頭の中を思考が駆け巡った。私が答えを出すのに逡巡しているのを感じたのか、俊の瞳は次第にうるんでいった。
「……ごめん、私、分からない」
今思えば、どうしてこんな曖昧な言葉でごまかしてしまったんだろうかと後悔している。でも俊は、そのどうしようもないほどの優しさで「そっか」と私の返事を受け入れてくれた。
振るでも振られるでもなく、私たちの関係はそこで終わってしまった。
近くで見ていた女子たちが、「なにあれ」とささやく声が聞こえる。彼女たちからすれば、私の答えは納得がいかないものなんだろう。ずるくて、卑怯で、感じ悪い。きっと俊だって同じことを思っている。口には出さないが、煮え切らない態度の私に怒っているだろう。
「なんかあったら、いつでも相談して。俺はずっと、凛の味方だから」
痛いくらいの優しい言葉が、塞いでいた私の耳にするりと入ってきた。どうして俊はいつも、そんなに他人のことを思いやれるの。私は、自分のことしか考えられないのに。
「……ありがとう」
まだ冷たい春風が、再び私たちの間を吹き抜ける。俊の背が、いつの間にか私よりも20cmほど高くなっていることに気がついた。小さい頃は、私の方が高かったのに。知らない俊。私の知らない幼なじみの男の子。この日を境に、俊は私の中で、神様にみたいになってしまった。