・・・
「懐かしの我が家―!」
 私は家の中に向かって声を張り上げたが、すぐに何とも言えない心地に陥る。
 蜘蛛の巣が好き放題に張られ、木板にもうっすらと埃が積もっているからだ。壁にも穴が空き、ちゅうちゅうと鼠の親子が私の目の前で駆け抜ける。
 ・・まぁ、こんな状態になるのも詮方なき事と言うものよね。私は幾日も帰らないし、手入れをする機会なんて滅多にないものね。
 まるで空き家の様な我が家に、私はがっくりと肩を落としてから振り返った。
「申し訳ないのだけれど、予想以上に中が惨状だったの。だからこっちで良い?」
 ビシッと我が家の前に立つ、松の木を指して頼み込む。
 いばなは「構わん」と返してから、私を再び横抱きしてから颯爽と枝に飛び移り、安全な幹の方に私を下ろした。
 私がその場に腰を下ろすと、いばなもスッと隣に腰を下ろす。
「ねぇ」「なぁ」
 二人並んで座るや否やで、お互いの声が重なった。そしてまた「何?」「何だ?」と言う声が重なる。
 二度重なった声に、私は小さく吹き出してから「どうぞ」と、いばなに先を譲った。
 いばなはふんと鼻を鳴らしてから「大した事ではないが」と、前置きしてから話し出す。
「先の男は、お前の何だ?随分と親しげであったが」
 やや不機嫌気味の問いかけに、私は「徳にぃ様の事?」と首を軽く傾げてから「血が繋がっていない兄君みたいなものよ」と朗らかに答えた。
「・・兄?」
「えぇ、そうよ。幼少の頃から共に親方様に仕えていたから、自然と兄妹みたいになったの。あちらも私を妹の一人にしか見ていないわ」
 だから過剰なまでにお節介を焼いてくれるの。と、小さく肩を竦める。
 いばなは「兄、か」と独りごちてから「あの目は、とても妹を心配している兄の目だとは思えなかったがな」と、憮然と腕を組んだ。
 私はその呟きに「え?」と返すが、いばなは「気にするな」と言ってから「お前は?」と話を先に進める。
 なんだかはぐらかされた様な気がするのだけれど・・。と思ったものの、聞き返した所で、もう一度「気にするな」と言われてしまうのが目に見えている。
 私は内心で「まぁ、良いか」と肩を竦めてから、「親方様との事よ」と答えた。
「何を話されていたの?かなり長い事話していたでしょう?」
 いばなは私の問いに、「まぁ色々だが」と始めはぶっきらぼうに答えたが。「久方ぶりに、人間に感服したものだ」と、泰然と言葉を継いだ。
「言葉を交していると、成程日の本に名を轟かす将だと思ったな。あんな人間は久方ぶりに見た、稀有な男だ」
 人間なのがげに惜しい所よ。と、いばなは感嘆しながら言う。
 私は滔々と並んだ主君の褒め言葉に、「そうでしょう!」と食い気味に反応してしまった。その勢いが強く、あわや転落しかけたが。いばなが素早く止めてくれたので、無事だった。
 まぁ、「全く、気をつけろ」と言う物々しい諫言は付いてきてしまったけれど。
 私は「ごめんなさい」と謝ってから「そうでしょう?」と、もう一度力強く言った。
「親方様は実に素晴らしいお方なのよ。いずれ必ずこの国の天下を獲るお方だと思うわ」
「・・それは、大いにあり得るだろう」
「そうでしょう?」
 自分の事を言われた訳ではないのに、私はふふんと鼻高に答える。
「親方様が天下を獲る為に私に出来る事があれば、何でも尽力するつもりなの」
 胸をドンと打ちながら告げると、いばなは神妙な面持ちで「そうか」と頷いた。
 その微妙な反応に、目を少々側めて「なに?」と訊くと。いばなは「何でも無い」と、小さく肩を竦めてから、私が何か言う前に「お前の厚い忠義は分かった」と言葉を継いだ。
「では、その武田が死んだ後、お前はどうするのだ?」
「・・親方様がご逝去された話なんてしたくないわ」
 縁起でもないもの。と、憮然として答えると、いばなは「遅かれ早かれそうなる話だろう」と容赦なく言う。
「俺は、お前のその後を訊きたいのだ」
 真剣な口調で訊ねられると、「縁起でもない」と少し憤っていた私が大人しくなった。
 それは、今までその事を「縁起でもない」と片付け、真剣に考えていなかったと気づかされたから・・だと思う。
 親方様に尽くす。ただそれだけを考え、まっすぐに生き続けてきた。
 だから今まで逃げてきた質問を真っ向からぶつけられ、私は初めて「自分のその後」を真剣に考えだす。
 そして自分の中で広がる数本の道をあれこれと吟味し、一番行きたい道を選んだ。
 私は「親方様がご逝去なさるなんて、少しも考えたくないけれど」と弱々しく前置きしてから、「もしそうなれば」と答えを明かす。
「私は・・いばなと共に生きていけたら良いなと思うわ」
 いばなの顔を見つめ、まっすぐ伝えた。
 初めて真剣に考えた「その後」の隣に居て欲しいのは、貴方だと。
 けれど、目の前のいばなは無反応だった。無反応と言うか、ただ私を見つめながら唖然としているだけ。
 羞恥をぐっと飲み込み、真剣に伝えたというのに!何故、まるで聞いていなかった様な薄い反応をされているの?!
 抑えていた羞恥といばなの無反応で生まれた混乱が、ぶわりと己を飲み込んだ。
 かーっと体温が沸々と上がり、頭がぐちゃぐちゃと混乱して回り出す。
 そして生まれる「言うんじゃなかった」と言う、凄まじい後悔・・!
 私は内心で激しく身悶えしながら、「あ、ああぁの!」と素っ頓狂な声を張り上げた。
「別に、そうしろと言う訳じゃないのよ!?ただ、そうなれたら良いなって思うだけ!そう、そう言うだけ!それだけ!それだけの事なの!」
 言葉がめったやたらに飛び出す。
 もう、自分でも何を言っているのか分かっていなかった。
 しかしそれが更に羞恥やら何やらを大きくし、どんどんと「己」を見えなくさせていく。
 何を言っているの、私は!と、思っているはずなのに口が全く止まらない!どうすれば良いの?!
 ちっぽけな私がわたわたと泡を食いながら「だから、そう、いばなは気にしないで!」と、表の私が声を張り上げた。
 その次の瞬間だった。
「それは無理だ」
「・・えっ?」
 いばなの冷静な声と言うか、威圧的な声がバチンと慌てふためく私を止める。
「全く。一方的にまくし立てるだけまくし立てて、俺の話を聞かないで終わらせようとするな」
 はぁと半ば呆れ半ば苛立ちを込めた息を吐き出されると、私はゆるゆると平静に戻らされた。あれだけ見えていなかった己も、じわじわと鮮明に見えだす。
 私は「ごめんなさい」と小さく謝ってから、「どういう事?」と首を少々傾げた。
 するといばなは「どうもこうもない」と、やや重たい口で言葉を紡ぐ。
「俺もお前と同じ心を持っている、故に気にしないと言う事は出来ぬ・・それで分かるだろう」
 今度は私が呆然とする番だった。
 脳内でぶっきらぼうにかけられた言葉を反芻し、真意を刮ぐ。そしてその真意を手に取り、抱き寄せると、ようやく表の私が言葉を発した。
「・・嘘」
「遅い」
 いつぞやの様に淡々と突っ込まれるが。そんな突っ込みは、未だに夢見心地の私には入ってこなかった。
 故に、唖然としたまま「信じられない」と、言葉を継いでしまう。
「私が言った時、無反応だった、のに」
「それは、あれだ。次代に仕えるとか、他の奴の女になるとか言うと思っていたからな。予想外だったのだ。だから驚き固まった、ただそれだけだ」
 歯がみしながら憎々しげに告げると、いばなはふんと尊大に鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった。
 立てた片膝に頬杖を突いて、ぶすっと分かり安い程にふて腐れる。
 けれど、その横顔には彼の髪と同じ様な朱色がほんのりと差されていた。
 私の胸がキュッと締め付けられ、ドクンと心臓が大きく跳ねる。
 私は胸にピタリと付いた勾玉をキュッと握りしめ、そんな自分の存在を紛らわせた。
 そして「私が忠誠を誓ったのは、親方様だけよ」と、愛おしい横顔に向かって言う。
「だから若様が当主をお継ぎになられても、他の者が立っても、私は誰にも仕えないわ。それに、私が他の奴の女になるなんて言う訳ないでしょう」
 私は艶然として言うと、空いた左手にソッと手を乗せた。
「これからも、遠い先の未来でも、いばなの側に居る。それでも構わない?」
 いばなは「無論だ、下らぬ事を聞くな」と唾棄してから、こちらに顔を向けてキュッと私の手を握りしめる。
「それに、お前が側に居ないと話にならぬ。俺は、お前の人生を貰い受けるつもりなのだからな」
 信じられない言葉を聞いた気がして、私は「えっ」と愕然としてしまうが。私を射抜く真剣な眼差しと、嘘偽り無いと切に感じる熱い言葉が、その驚きを緩やかに喜びや嬉しさに変えていった。
 じわじわと大きく開かれた視界が歪み、半開きになっていた口がわなわなと顫動しながら「それって、つまり」と、弱々しく言葉を吐き出す。
「いばな・・私を」
「娶る」
 いばなは私の言葉を先取って力強く告げると「悪いか」と、刺々しく言った。
 私はすぐにぶんぶんと首を横に振り、涙が潤む目のままいばなを見つめる。
「悪くないわ、何も悪くない!私は喜んでいばなの妻になる・・ううん、なりたいわ!」
 勢い込んで前のめりに言うと、目の前のいばなは少し呆気に取られたが。すぐにふんと鼻を鳴らして「良いだろう」と尊大に告げた。
「誓ったからにはその約束、必ず守ってもらうからな。千代」
 私は相好を崩して「ええ、勿論」と力強く頷くが。「でも」と、言葉を続ける。
「親方様がご逝去なさるまでは出来ないわよ」
「・・不承不承ではあるが、それ位の時は待つ」
 今すぐと言いたい所ではあるがな。と、いばなは苦々しく答えた。
 私はその微笑ましい顔を見つめながら「ありがとう」と言うと、彼の肩にとんと頭を乗せる。
「今からその時が楽しみだわ。いばなとであれば、幸せな未来しか思い描けないもの」
 独り言つ様に囁いた。
 すると、いばなが「クソ」と恨みがましく唾棄する。
「・・武田を先にくたばらせるか」
「ちょっと!とんでもない事を言わないで!」
 横から聞こえた悍ましい言葉に絶叫して、バッと離れると。ゴンッと私の頭がいばなの顎を打ち、私の肘が彼のみぞおちに深々と入ってしまった。
 いばなから「うぐっ」と苦しげな呻きが漏れるが。いばなに降りかかった悲劇は、それだけで終わらなかった。
 力強い衝撃のせいで、いばなの身体はぐらりと後ろに崩れる。
 私が「あっ!」と声を上げた時には、いばなの身体は虚空に放り投げ出されていた。
 私は慌てて手を伸ばし、落ちるいばなの手を掴もうとしたが。私の手はいばなの指を掠る事もなかった。
 目の前で、いばなの身体が地面に近づいていく。
 だが、自分が思う惨事にはならなかった。いばなはくるんっと宙で後転し、ストンッと足から軽やかに着地する。
 いばなは着地するや否やで「急に何をするんだ!」と、怒髪天を衝いた。
 けれど、ホッと安堵する私の耳に怒声は何一つ入らない。
 いばなは鬼だから、人間以上の身体能力がある。これくらい何ともなかったんだわ。
 良かった。と、着地したいばなに胸をなで下ろすが。安堵したのも束の間、今度は私の身体が虚空に飛び出していた。手を伸ばした際に、身体をきちんと元に戻していなかったのだ。
 あっ!と思う時には、もう遅い。
 私の身体は、ひゅーっと落下していた。まるで果実が木から落ちる様に。
 落下の恐怖がビタビタッと張り付き、果実がぐちゃりと潰れる場面が瞼裏に思い起こされる。
 そのせいで、私の全身はガチガチに強張ってしまうが。「手を広げていろ!」と下から聞こえた怒声に、私はハッとする。
 そして思いきりバッと手を広げた刹那。私はドンッと強く受け止められてから、ぶんっと振り回される様に一回転させられてから、ストンッと足から着地した。
 急展開と急回転に軽く目を回しながら、私は受け止めてくれたいばなに顔を向ける。
「あ、ありがと」
「全くとんでもない阿呆だな、お前は!」
 いばなは私の礼を遮って怒声を浴びせた。
「冗談を真に受け突き飛ばしただけにあらず」
「冗談でも言って欲しくない事だったからよ!それにわざと突き飛ばした訳ではないわ!」
 今度は私がいばなの言葉を遮って憤慨し、バチバチと火花を散らす。
「わざとであって堪るか!俺でなかったら、お前も突き飛ばされた奴も死んでいたからな!」
「それは素直に謝るわ!けれど、親方様を殺すだなんて二度と言わないで!」
「お前が大切に思う人間を殺す訳がないだろう!俺は何の利にもならん事なぞせん!それくらい分かれ!」
「分かっているけれど、口に出さないで!そんな悍ましい事を!」
 いつもの様にバチバチと火花を散らし、互いの怒りをぶつけ続ける私達。
 バリバリと迸る火花が、甘く惚ける雰囲気を粉々に壊していった。
 つい先程婚約の誓いを交し合ったと言うのに。今の私達は、そんな愛おしい雰囲気を共に紡いでいたとは、とても思えない。
 そんな風に思ってしまうと、私の口から思わず笑みが零れてしまう。
 なんて私達らしいのだろう、と。
 すると目の前のいばなからも、フッと同じ笑みが零れた。きっと彼も、同じ思いに駆られたからだろう。
 私達は互いの笑みに気がつくと、互いに牙をゆるゆると収め始めた。
 いばなは「やめだ、馬鹿馬鹿しい」と肩を竦めて唾棄し、私は「そうね」と首肯してからふうと残っている怒りを外に吐き出した。
 その時だった。
「すぐ仲直りが出来る様になったのは、げに素晴らしい事ですよ」
 突然柔らかな声が聞こえ、私達は慌ててその声の方を向く。
 するとそこには、微笑を称えた天影様が立っていた。
 いつの間に現れ、いつから見られていたのか。まるで分からない。
 私は「て、天影様!?」と、驚きと羞恥が入り混じった声で呼んでしまったが。いばなの方は、憎しみと怒りを込めた声で「天影」と呼んだ。
「色々、お前には言いたい事がある」
 険悪に言葉をぶつけると、天影様は微笑を崩す事なく「一体、何の事だろうね」と飄々と答える。
 その姿に、いばなの怒りが瞬く間に沸き、一触即発の事態になるかと思ったが。
「いばな、君は何故私が皆を置いて、ここに現れたと思っているのかな?今は癇癪を起こしている場合ではないと、いい加減気がついて欲しいのだけれどね」
 天影様の鋭い問いかけが、噴き出さんばかりの怒りをガツンと堰き止める。
 いばなはキュッと眉根を寄せるが、すぐにハッと何かを悟った様な顔になった。
「確か、か?」
「私が間違う訳がないよ」
 二人の鬼の間で交される言葉は、何一つ分からなかったが。彼等の表情を見れば、何か並々ならぬ事態が起きたと言う事は分かった。
 ・・一体、何が起こったのかしら。
 二人の後ろ暗い表情で、私の心にも暗いものが広がった。
 それを拭って欲しくて、別の物に塗り替えて欲しくて「いばな?」と彼を窺う。
 いばなは私の視線に気がつくや否や、キュッと唇を堅く結んでから「悪い」と独りごちる様に言った。
「すまん。また後で・・酉の刻頃に会おう」
 いばなはぶっきらぼうに告げてから、天影様を一瞥し「行くぞ」と声をかける。
 天影様が首肯すると、いばなはダンッと力強く大地を踏みしめ、高く飛び上がった。
 天影様も私に「申し訳ありません」と謝してから、パッと軽やかにいばなの後を追う。
 私はと言うと、豆粒みたいになる赤と青の背中を呆然と見つめる事しか出来なかった。
 拭って欲しかった物は、消える事も変えられる事もなく、しっかりと内に残されたまま。
 私は遠くなっていく背をジッと見つめながら、胸元の勾玉を強く握りしめた。