さて、展示室に入ってまず目に止まったのは年表である。いつ、どこの移民が、どの文明を作ったのか、それの説明とともに記されている。だが、それは既に学習済みだ。きっと現地に住む方々よりも詳しく知っている。今回僕が来た目的は歴史の勉強ではない。展示物の鑑賞だ。画面越しでは見れない細部の装飾、傷、質感、それを見るためにここに来た。


とは言え僕だって記念の写真は撮りたくなる。今はそれが出来る装置を持っていないが、悲しいかな。僕以外の人はほとんどカメラ、もしくはスマホを持っていた。その中で一際目立っていたのはお高めで大きめな一眼レフカメラを持っていた老人だった。ふと彼に視線を向けると、ちょうど彼がそのカメラを落としてしまったところだった。


腰が悪いようで床に堕ちたカメラを取りづらそうにしている。「お人好し」自分がそうだとよく分かっている。それでいくら損をしても直そうという気にはならなかった。手伝った、助けた相手の顔が笑顔になっていれば、それまでの負債が帳消しになるほど嬉しかったからだ。


「はい。これあなたのですよね?」


カメラを手に取り精一杯の笑顔で老人に笑いかける。


「おお、ごめんね。助かるよ。どうも腰痛が癒えないもんでね、歩くので手一杯だ。いや、歩くのに使うのは足だから手一杯はおかしいか、はっはっ」


「いいえ、そんなこと言ったら『手を汚す』『足を洗う』なんてのがあるじゃないですか。細かいこと気にしてたら何も話せなくなっちゃいますよ。それより、カメラ壊れてませんか?」


「いいや、大丈夫。傷は付いちゃいない。新品同様だよ。なんせ肌見放さず持ってるし、ちゃんと手入れしてるからね」


かなり陽気な人だ。話下手な僕には助かる。話すより聞く、返答するほうが慣れていることもあって会話好きな人とは付き合いやすく感じる。その後も、できるだけ小声で、彼と話ながら鑑賞を楽しんだ。


どうやら、というかやはり彼は写真を取るのが趣味でよく美術品や気に入った風景を撮っているらしい。その過程で建造物、美術品に詳しくなったそうだ。今日撮った写真を見せていただいた。…肉眼で見るよりきれいに見える。科学の力ってすげえ。


「そうだろ!肉眼は次第に衰えて視力もなくなる。でもこれはどうだ!写したものはずっとその形で写真に写り続ける。君のような若者はいいが俺はもう老眼でね。写真に撮らないとよく見えん。少しでもきれいに、はっきり見るにはこれしかもう方法がないんだよ」


口に出してしまってたらしく、それを聞いた彼は僕に熱弁した。


「…僕、写真を撮るのはいいけど、それに夢中になる人にそこまでいいイメージが無かったんですよ。マナーの悪い人もいるし、何よりレンズ越しの風景を見ることは真にそれを見たことになるのか疑問だったんです。肉眼じゃない、レンズを介したものを見る。そのときに見えるものは現物とは差異があるんじゃないか。そうおもってたんです」


「ほうほう」


「でも、おじいさんの話聞いて、そんな考えかたもあるのか、そんな理由で撮ってる人もいるのかって思って、ちょっと写真、興味出てきました」


他人だから話せることもあるのだろう。こんな機会じゃなかったら、きっと一生話さなかった。嘘偽りない自分の考え。些細なことだが、その一部を話せた。


「そうか。そりゃ嬉しい限りだね。良ければ一枚試しに撮ってみろよ」


「え、いいんですか?」


「いいんだよ。こんな爺さんの話に付き合ってくれた礼だ。一人で来たんだからきっと静かに見たかったろうに」


「いえ、そんなことないです!僕の周りにこうゆうのに興味ある人いなくて、今日話せたことは嬉しくて…とにかく迷惑とか思ってないです!」


「そうか?ならいいんだ。俺も同じだよ。こんな若くて素直ないい子、今まであったことないよ。だからこれ貸すって言ってんだよ。ほれ」


そう言って僕の手にカメラを乗せた。重い。重量もそうだが、誰かの大切なものを持つ責任、それも今僕にのしかかっている。


「じゃあ、一枚、撮りますね」


そう言って一枚撮った。写真に写っているのは笑顔のおじいさん。


「へえ、俺ってこんなふうに見えんだね。やけにいい顔してやがる。隠してるわけじゃないけど、やっぱり嬉しいね。こうやって誰かと話すのは」


写真を見ながら彼はより一層いい笑顔になった。




展示スペースを出た後、彼は用事があるらしく足早に帰っていった。


「いやあ喋り過ぎちゃったね。お医者さんに怒られちゃうよ。ああ、そうだ。もし今度どっかで会ったら写真の撮り方教えてやるよ」


「え、いいんですか?なんの経験もないような素人ですよ。きっと時間かけないととても上手にはなれません」


「そう言うなよ。最初はみんなそうさ。慣れないことして失敗し、そうして成長していくんだよ。きっと今だって上手く出来ないこととか、立ち行かないことだってあるだろ?それも結局取っ掛かりをつかめれば簡単に解決出来るようなもんがほとんどなんだから、写真なんてそれより簡単だろうに」


「そう、ですかね。だといいです」


「またな!頑張れよ!」


彼は僕にそう言い残した。抱えているもの、それは簡単に解決できるもの。でも、その問題。自分の抱える感情、それはどこから来るのか、どう形容すればいいのか、それすら考えようとしない、気付こうとしない僕はきっとスタートラインにすら立てていない。


「いつか、次、今度」で始まる約束は大概叶わないと知っている。でも、今日のそれはいつか叶うといいな。そんなことを思い、博物館を立ち去った。展示物の内容には満足した。だが、それよりもあの老人との会話が心に残っている。ここまでしっかりと他人と会話をしたのはいつ振りだろうか。ああ、許されるのならもう少し話してみたかった。




博物館を出た後は近くの商店街、デパートを見て回った。大声で客を呼び込むガタイのいい男の店員。値引きを試みる主婦。地元にはない景色に心が躍る。同じ日本とは思えない程に差があった。一人大通りの真ん中を堂々と歩く。誰も僕に興味なんて無いんだ。好きにやって構わないだろう。この開放感はきっと他では味わえない。周りを見ると食べ歩きをしている観光客が大勢いた。手に持っていたのはりんご飴のように飴で周りがコーティングされたいちごやぶどうの付いた串。


「すみません、フルーツ串一つ」


「はい、三百円ね」


同じものを頼んでみた。よく冷えていて火照った体が少し冷えるのを感じる。味は、まあ普通だった。「映え」意識のものに期待はしていなかったが。




そうこうするうちに気づけば夜七時を回っていた。「そろそろ帰らなければ」そう思い駅に向かう。日が暮れているが辺りは看板から放たれる光や信号機の色で染まっていた。人通りは依然変わらず多いままだ。変わったことがあるとすれば、道の両脇に女性が並んでいることだ。ある人はスマホを眺め、ある人は僕の二倍は生きているであろう男性と何やら話している。ハンドサインが見えた。意味がわからないほど純粋ではない。


人の欲が凝縮されたような地帯。しかし、そこを歩くのになんら嫌悪感は抱かなかった。むしろ好感さえ覚えた。思えば今日出会い、見てきた人はみんな楽しそうな顔をしていた。抑圧なんてされていない。自分に嘘をつかずに生きていた。そんなことを思い歩く。




信号が緑に変わった。歩き出そうとするが、足が動かない。疲れ、いや違う。それでも動くくらいは出来る。なんだ。どうして。金縛り、もっとありえない。ああ、無理だ立っているのすらままならない。顔が濡れているのがわかる。熱中症か、まだあり得る。手で顔を拭った。それでも顔は濡れ続ける。これは、汗じゃないのか?だが雨は降っていない。…ああそうか。これは涙だ。でもなんで、どうして泣いている?こんなことしている場合じゃないのに。帰らなきゃ。帰らなきゃ。帰らなきゃ!帰らなきゃ!帰らなきゃ!




ああ、そうか、帰りたくないんだ。




帰った先にある生活。期待を裏切った罪悪感を背負う生活。もう一度苦労を重ねる生活。期待され続ける生活。自由に生きられない生活。劣等感に苛まれる生活。それが嫌で何も出来ない生活。怠惰で無気力で無意味で情けなくてつまらなくてどうしようもない逃げ続けて生き恥をさらす生活。それが怖い。そうだ。「怖い」これに尽きる。


それが、今日は違った。楽しい、嬉しい。感情が明るい、世界が明るい、人が明るい、そんな一日。好きに生きて、好きに振る舞って、好きに思って、好きに話せる、そんな一日が、そんな人がきっと、僕には眩しすぎた。誰もがこの街ではそうしてる。その当たり前が四畳半の僕の部屋にはない。一つもない。どこにもない。何もない。


わかった。そうだ。きっとこのまま。今日が続けばいいと思ってるんだ。二十四時の訪れと同時に月が西から東にのぼり、太陽がそれを追いかけてのぼり、永遠に終わらない今日。そんな今日、創作物のような世界を、こんな世迷言が現実になる世界を欲してしまっている。でもそんなことは起こらない。きっとまた東から太陽はのぼる、月は西に沈む。こうしてうずくまっている間にも秒針は動き時を告げる。


ああ、だめだ。知らないほうが良かった。気づかずのうのうと生きていたほうが良かった。現に僕は今ここを動けずにいる。辛い。抑えきれない。涙が止まらない。ずっと生きた心地がしなかった。満たされない。何も出来ずに続く面白みのない日々。それが続いても、こんな気持ちになるならそれで良かった。もう戻れない。こんな自由を知ったらもう、その日々を生きていけない。


「帰りたくない…」


口に出してしまった。もう飲み込めない。無かったことには出来ない。それでももう、この思いを抑えられない。誰に聞かせるでもなくて、訴えるでもない。それでも口に出さないと耐えられない。抑えられない。


「帰りたくないよ…!」




「そう、なら、泊まらせてあげようか?」


ふと顔を上げて前を見た。そこには一人の女性がいた。黒いスニーカー、青のジーンズに白のシャツ、長くて艶のある黒い髪の彼女が僕の顔を覗き込んでいた。心配するでもなく、からかうでもない。ただ、穏やかな笑顔で涙でぐしゃぐしゃになった僕を見ていた。