二十××年一月九日――。
 本日は、百合泉乃中高等学園の始業式。
 聖花にとって、残り少ない学園生活が始まったのだ。
 始業式も無事に終わり、聖花は自身の教室である3―Aにいた。
 両耳に貼るピアスを光らせる聖花の顔を優れない。
 白と契約を交わして以来、例のあやかし鴉は現れていない。
 不可解な出来事が起きることもなく、恭稲探偵事務所からなにか指示が出るわけでもない平穏な時間が流れていた。
 まるで嵐の前の静けさのようだと、聖花は日々不安と恐れを抱えながら過ごしていた。


「はぁ~」
「溜息でっか!」
 鎖骨下まで伸ばされたストレートの黒髪をハーフアップにした学生は、ビー玉のような瞳を大きく見開かせ、長いまつ毛をパサパサと上下させる。守里愛莉だ。
「そないに大きな溜息ついてたら、魂が抜けてまうで?」
 と言いながら、愛莉は聖花の正面で膝を折る。机に手の指先をちょこんと乗せて小首を傾げるその姿はまるで小動物のようだ。だが性質は猛獣に近い。むしろ小動物の性質を持つのは聖花の方だろう。


「愛莉」
 聖花は愛莉の笑顔に肩の力を抜く。
「溜息くらいで魂が抜けるわけあらへんやろ」
 聖花はどこか呆れ口調で言いながら、苦笑いを浮かべる。
「せやったらええねんけ――?」
「……あの瞳はなぁ」
 近くで話すクラスメイトの声に愛莉の耳が反応する。思わず口を閉め、聞き耳を立てる。


「愛莉?」
 クラスメイトの声が耳に届いていなかった聖花は、怪訝な表情で愛莉を見つめるが、愛莉はお構いなしだ。
「だって、あの瞳はちょっと怖い」
 クラスメイトが小声でそう言った所で愛莉が「はぁ⁉」と、切れたように声を上げて立ち上がる。
 その声量にクラスメイトの視線が愛莉に一点集中した。愛莉の視線はと言うと、クラスメイトの一人をロックオンしていた。


「坂口、今なんてゆうた?」
「ぇ? え?」
 ドスのきいた声音と共に、唐突に自分へ向けられた怒りの矛先に対し、坂口《さかぐち》汐里《しおり》右往左往する。
 愛莉は大股で汐里の所まで歩く。
 座っていた汐里は慌てて立ち上がり後ずさる。教室の出入り口がある真ん中の席にいた汐里に逃げ場はなく、すぐに壁に背をぶつけてしまう。
「愛莉っ!」
 聖花は慌てて愛莉の後を歩く。


「さっき、瞳がどうのこうの言うてたやろ? うち、耳ええから、よぉ~聞こえてたわ」
「愛莉、どぉどぉどぉ」
 聖花は愛莉を落ち着かせるように後ろから抱きしめる。聖花より八センチ身長が低い小柄な愛莉を抱き包むのは容易だった。愛莉の馬鹿力が爆発しない限りの話だが。


「ぁ!」
 聖花の瞳を見た汐里は、何故愛莉の怒りの矛先が自身へと向いているのかを理解する。
「ちゃう。ちゃうからッ」
 汐里は顔の前で両手を振り、自分は無罪だとアピールする。

「何がちゃうんよ?」
「ぅ、うちが話してたんは碧海さんのこととちゃうねんよ」
 汐里は腹正しさを抑えぬ愛莉に怯みながらも言った。
「聖花のこととちゃう?」
「せや! せやで! 碧海さんの瞳のことやない。うちが言うてたんは、保険の先生のことやもん」
 愛莉の牙が少しなりを潜めたことを察知した汐里は、ここぞとばかりに無罪を主張する。
「保険の先生?」
「?」
 愛莉と聖花は汐里の言葉にキョトンとする。
 二人が知る限り、百合泉乃中高等学園の保険の先生はごく一般的な瞳の色をしていたはずだ。


「お正月に仲口先生が骨折してしもうて、急遽三月から赴任される予定やった先生に変わったんよ」
「赴任?」
 聖花はこんなタイミングよく新しい先生が赴任されるものなのかと、怪訝な顔をする。
「ぁ! 新しい先生はすっごい美形なんよ! 愛莉さん達も見てきはったらええわ。ほなうちが碧海さんのことを話してたんやない、って分かってもらえるんとちゃうやろか」
 愛莉にできた少しの間を上手く掴んだ汐里は、顔の前で両手を合わせ、饒舌に話す。


「行こう!」
 愛莉は首を上げて聖花を見上げる。その瞳は爛々と輝いていた。愛莉のイケメン好きが発動されたようだ。
「……。せ、せやな」
 聖花は少し呆れたように相槌を打ち、苦笑いを浮かべる。
 返答に少しの間が出来てしまったのは、白の反応を待ったからだ。前回であれば、左耳に貼ってあるピアスのトランシーバーで色々な指示を受けていた。
 だが二回目の契約以降、白が聖花に連絡を取ってくることはなかった。聖花はそこに対し、不思議と不安感を覚えながらも、愛莉と共に保健室に足を向ける。
 残された坂口汐里は、助かったぁ~! とばかりに盛大に息を吐くのだった。

 *


「イケメン保険医かぁ」
 ニマニマ笑顔を浮かべた愛莉の足取りは軽い。その横で歩く聖花の足取りはどこか重い。


「ご機嫌やなぁ」
「そりゃまぁ、美しいは正義で癒しですから」
 肩越しに振り向く愛莉は口端を上げる。
「美しいは正義で癒し……なぁ」
 愛莉の言葉に白と智白の姿を脳裏に浮かべた聖花は、あの二人は癒しの欠片もないなと、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「せや。ぁ! 坂口は瞳の色見にいったらええ言うてたけど、そこはスルーしとこうな。あんまり興味本位で見せてもらうんは失礼やし、相手も気ぃ悪いわ」
「興味本位で顔を拝ませて貰いに行くのはええねんね」
 聖花は愛莉に聞えぬ声量でぽそりと呟く。
 愛莉はご機嫌に前を向いて歩く。浮足立っているためか、段々と聖花の歩幅とのズレが生じていた。


(それにしても、なんで今回はこんな放置されるんやろぉ? 一度目の依頼で契約違反してしもうたから? もしそうやとしても、こんな放置されることってある? それだけ今は安全ってことなんやろか?)
 眉間に皺を寄せながらそんなことを思い歩く聖花は愛莉の背中にぶつかる。


「⁉」
「あたっ⁉」
 衝突された愛莉は素っ頓狂な声を上げ、聖花は驚きで顔を上げる。すでに保健室前に到着していたようだ。
「聖花、大丈夫か? 具合悪いん?」
「いや、悪くないよ」
 心配そうに自身の顔を覗き込んでくる愛莉を心配させまいと、聖花は慌てて顔の前で両手を振りながら答える。
「せやったらええねんけど……」
 愛莉は些か納得していないのか、じとーっとした視線を聖花に向ける。
「うん。大丈夫大丈夫」
「大丈夫やったらええね――って、全然ええくないわ!」
 愛莉はいきなり両手で頭を抱え、自身の言葉を否定した。
「ぇ?」
「聖花、大変や! うちは大変なことを頭から落としてしもうてた」
 きょとんとする聖花の二の腕を掴む愛莉の顔がいきなり真剣になる。


「ど、どないしたん?」
 愛莉の変化に戸惑う聖花は、どもりながらも訳を聞く。
「だってな、よくよく考えてみたらここ保健室やん? 意味もなく来たら変に思われるやろ? ミーハーやと思われたら嫌やんッ」
「み、ミーハーって」
 聖花は、なんやそんなことか、とでも言うように、上目遣いで見てくる愛莉に苦笑いするしかない。
「ってことで、聖花は寝不足かつ貧血で気分悪いって設定にしといてな。目の下にクマも出来るし、半分はほんまや」
「そなあほなぁ」
 聖花は間抜け感が滲む声で言いながら、呆れたように両肩を下げる。
「まぁまぁ。ええから、ええから。うちに任せといて」
「何がええんかも分らへんし、任せとくんも恐怖やわ」
 胸の前で手の平を当てて目をキラキラと輝かせてくる愛莉に対し、聖花は戦々恐々だ。



♪ コンコンコン。
 愛莉はそんな聖花をお構いなしで保健室の扉をノックする。


「聖花、しんどそうにして」
「ぇ⁉」
 愛莉から小声で入る演技指導に聖花は焦る。
「すみません。お友達が具合が悪いみたいなんです。入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
 扉の向こうから、透明感のある柔らかなハイトーンボイスが届く。その声音に聞き覚えがあるように感じた聖花は、不思議そうな顔をして小首を傾げた。


「聖花。間抜けな顔じゃなくて、ちょっとしんどそうな顔してて」
 上半身で振り向く愛莉から演技のダメ出しが入る。
「ま、間抜け顔って……」
 白や智白だけでなく、心友までにも間抜け面を指摘された聖花は眉根を下げ、ガクリと両肩を落としきって項垂れる。それが幸いし、どこかしんどそうな生徒が出来上がった。

「うんうん。ええ感じ」
 納得する愛莉監督は聖花の右手を握り、「失礼いたします」と保健室に入る。



「わぁ」
「ぇ?」
 愛莉は声を弾ませ、聖花は戸惑いの音を溢す。


「こんにちは。初めましてと言うべきか、二度目ましてと言うべきか……。骨折してしまった仲口先生の代わりとして数ヶ月早く赴任された、風間(かざま)亜樹音(あきと)です」
 全体的に薄くありながら、桜色の富士山型の上唇が印象的な口元から、透明感のある柔らかなハイトーンボイスを発す白衣姿の二十代前半程の男性は微笑む。

 重たい印象を与える前髪のマッシュウルフヘアーだが、ダークミルクティー色に染め上げているため、どこか重々しくない。
 表情は前髪で隠れていて分かりにくいが、柔らかで優しい雰囲気に満ちており、警戒心が剝ぎ落される。


「こんにちは。3―Aの守口愛莉です。先生ってこないだこの子を――」
 愛莉はそこで一旦言葉を止め、聖花を自分より前に出す。
「碧海聖花を助けて下さった方ですか?」
「えぇ。あの時は災難でしたね。貴方に怪我がなくてよかったです」
 風間は聖花の姿を見て安堵したように微笑む。出会った時よりも口調が変化しているのは、先生と生徒という立場が出来てしまったからだろう。
「やっぱり! もう運命やわ」
 愛莉は顔の前で両手を重ねて一つ音を鳴らし、心友を救出してくれたヒーローの登場にテンションを上げる。

「あの時はありがとうございました」
 冷静な聖花は深々と頭を下げる。その表情はどこか硬い。黒崎玄音の記憶がある聖花にとって、なんて素敵な運命なの! という乙女思考にはなれないのだろう。

「いえいえ。それで、具合が悪いのは碧海聖花さんのほうですか?」
「はい。そうなんです」
 聖花の代わりに愛莉が頷く。
「確かに顔色が悪いようですね。ちゃんと眠れていますか? 目の下のクマが凄いですが」
 風間の問いかけに対し聖花は、いえ、と首を左右に振った。
「そうですか。では、しばらく仮眠するといいですよ。ここは静かで安全ですからね」
 と立ち上がった風間は聖花を保健室のベッドへ誘導した。
 愛莉はにこにこ笑顔で二人の後をついてゆく。



「守里愛莉さんはどうしますか? 始業式のお話は終わりましたよね?」
 少し頼りない顔をした愛莉は上半身だけで振り向き問うてくる風間に対し、少し控え気味に問うた。
「えっと、聖花の具合が良くなるまでいても構いませんか?」
「えぇ、どうぞ。一緒にご帰宅したほうがお友達も安心でしょう。貧血や寝不足で倒れる方もいますし」
「はい。じゃぁ私、鞄とか取ってきます」
 風間からの許可を得た愛莉は満面の笑みで左腕を高らかに上げる。

「分かりました」
 風間は微笑まし気に頷く。目元が前髪で隠れており終始本来の姿が分からない。それでも、その口調と堪えぬ穏やかな微笑みが相手に安心感を与えていた。
「じゃぁ、聖花の鞄とうちの鞄とか持ってくるから待ってて。ぁ、寝ててもええから」
「うん。ありがとう」
 聖花の微笑みに対し、笑顔で頷き返した愛莉は早足で保健室を後にした。



 残された二人にしばしの沈黙が流れる。


 風間がその沈黙を破って口を開く。


「警戒、されていますか?」
「ぇ?」
 聖花は唐突な問いに戸惑う。
「貴方はすでに知っているでしょう。僕の瞳のことを」
 風間はそう言いながら前髪を掻きあげ、隠していた自身の瞳を露わにさせた。

 少し釣り目気味でありながらも、存在感のある涙袋と二重が柔らかさを与えている絶妙なバランスの目元は男性アイドルのようだ。だがその額縁に収められている瞳の色は、バイオレットと黒と白が淡く混ざり合い、時空のゆがみを感じさせる。その不思議な色合いと、透明感のない艶やかな光沢感を例えるならば、上質なチャロアイトのようだ。


「!」
 聖花は一瞬目を見開き身構える。瞳の色に怯えたわけではない。かつて自身の命を狙った黒崎玄音の瞳が脳裏に過ったのだ。

 瞳の色で人間かあやかしか判断してはいけないと分かっていても、本来の瞳の色をカラーコンタクトで隠していた黒崎玄音のことを思うと、ついそういった思考で見てしまうのだろう。


「僕のことが怖いですか?」
「ぇ?」
 どこか哀し気な瞳と声音を向けられては、聖花の警戒心も弱まってしまう。
 聖花も同じように、一般的な瞳の色を持ち合わせていない。
 そのおかげで今まで悲しい出来事に苛まれてきたのだ。


「ぁ、貴方は、誰なんですか?」
 どもりながらも問うた聖花は、恐怖や不安から訪れる微かな身体の震えを、お腹の前で重ねた掌を握り締めることで緩和させる。


「僕は風間亜樹音だよ。他の誰でもない。どんなに他の誰かになりたいと思っても、僕は僕でしかないんだ」
 自嘲気味な笑みを溢してそう答える風間の口調が初めて出会った時のものへと変化する。


「――貴方はこちら側の方ですか?」
 聖花は濁しながら問う。
 瞳の色からして、黒崎玄音側の者とも白側の者ともとれる。だが本当に人間と言う線もある。率直に聞くのは危険だと判断したのだろう。


「君の言う“こちら側”の意味が分からない。人間側なのか、あやかし側なのか。黒妖《こくよう》狐《こ》側なのか、白《はく》妖《よう》狐《こ》側なのか――」
「ッ⁉」
 聖花は息を飲み瞠目する。


「君の聞きたいことに答えるのならば、僕はどちらでもない。どちらにもなりきれなかったんだ。君と同じさ」
 風間はどこか自嘲気味な笑みを溢す。
「どちらでもない? 私と同じってどういうことですか?」
 質問したいことが山ほどある聖花の気持ちを察す風間は、あまり多くは語るつもりはないとばかりに背を向ける。


「僕はあの人の駒のようなもの。君の味方にも敵にもなれる。それと同時に、未来の君の気持ちが一番よく分かるモノだと思うよ」
「それは一体どういう意味ですか?」
 微かに振るえる声で問うてくる聖花に微笑みだけ返す風間は、無言で仮眠室のカーテンの外へと出て行ってしまった。
 風間がキャスター付きの椅子に腰かける音がやけに大きく響く。
 一人残された聖花は呆然と突っ立っていることしか出来なかった。


 その後聖花は戻ってきた愛莉と共に三十分程保健室で休み、各々帰宅するのだった――。


  *


 風間が赴任されて一週間立ってもなを、白からの指示や智白からの連絡が来ることもなかった。
 かといって風間が何か不審な動きをすることもなければ、特別事件が発生することもない。それどころか、智白や例の鴉が姿を現すこともなかった。
 まるで、命を狙われているのが嘘かのように平穏な日々が続いている。
 たが確実に水面下では物事が動いていた――。


 二〇××年 一月 十五日。
 モノクロを基調としたシックな家具やインテリアで揃えられた五帖の洋室。
 ロシアンブルーの毛並みを彷彿とさせる色合いとベアロ生地に高めのベッドボートが印象的なシングルベッドで碧海聖花は眠っていた。
 布団シーツなどは白を背景にシークレットの百合があしらわれた柄で揃えられている。気高きジャンヌダルクを彷彿とさせるが手に持っているのは剣ではなく、父から護身用にともらっていた木刀だった。
 早朝四時。聖花のスマホに短い通知音が響く。
「⁉」
 木刀を握りしめていた聖花はビクリと身体を震わせて目を覚ます。
「……くとう、さん?」
 聖花は高さのある猫脚が印象的な円形のベッドサードテーブルの上置いているスマホを手繰り寄せる。テーブルの上にはスマホの他に、黒の目覚まし時計とペットボトルの水が置かれていた。
 寝惚け眼でぼんやりする視界でスマホの電源を入れると、skyblueのアプリから一件の通知が届いていた。
 聖花はのそのそと起き上がり、アプリを開く。
 一件のDMが届いていた。差出人のアカウント名は、[tugumo_kutou185]。それは恭稲白のアカウント名だ。
「なんやろう?」
 聖花は恐る恐るDMを開く。
【白様がお呼びです。
 深夜零時、再び向かいに行きますので、例のごとくお願いいたします。
                                              
智白】

 白のアカウントでありながらも基本は智白から連絡が来ることに変わりわないようだ。
「一体なんなんやろぉ」
 戦々恐々な聖花の目はすっかり覚めてしまった。
「めっちゃ早いけどもう起きよう」
 聖花はぼそりと呟き、一階へと降りる。


「あれ?」
 まだ家族も寝静まっているであろう時間帯。普段ならばリビングに誰もいないはずだ。だが本日は、リビングの保安光がついていた。
 左手首に白狐ストラップをぶら下げた聖花は閉まっているリビングのドアをそっと開けた隙間から中の様子を確認する。
 木刀は誰の目にも触れるために二十四時間持ち歩けないが、智白に渡された白狐ストラップは違う。恭稲探偵事務所のアイテムは全て白と智白、そして依頼者である聖花にしか見えない。その為どんなアイテムを持っていようとも、周りからは不審に思われることがない。
 ホワイトカラーのL字型カウチソファに深く腰を預ける碧海雅博は天を仰ぐように頭をソファで支えている。その表情はどこか苦し気で、瞼は固く閉じられていた。
 ソファの背に視線を移せば、碧海響子がいた。いつもの柔らかい笑顔はどこにもない。
 響子はクリーム色の背景にスミレの花が散りばめられたデザインをした遮光カーテンの前で両手を合わし、一筋の涙を流している。
(まただ……)
 聖花は心の中で呟く。
 聖花が今の光景を目にしたのはこれが初めてではない。
 聖花が最初に目にしたのは小学校六年生の冬のことだ。
 両親が醸し出す異様な雰囲気を子供ながらに感じ取った聖花は、何故両親がそうしていたのか聞いてはいけないのだと、何も見ていないふりを何年も決め込んだ。
 その後は今の光景を目にすることもなく過ごしていた聖花だったが、中学二年の時に再び目にすることになった。
 成長した聖花はより両親に真実を教えて欲しいとは言えずに口つぐんだ。だが黙ってみなかった振りをして何事もなかったかのようにした小学校時代とは違う。
 もしかするとこれは両親が毎日行う何かしらの習慣なのでは? と考えた聖花は、一週間同じ時間に起きて確認したことがある。自ら事の真実を探り当てようとしたのだ。
 しかしこのような光景が目に映ることはなかった。ただ一つ分かったことは、このような光景を目にしたのは、どれも一月十五日ということだけだった。
「……」
 聖花は言葉を何も発することなくそっと扉を閉じ、すり足で自室に戻る。
「はぁ~……」
 逃げ込むように自室へと戻った聖花は盛大な溜息と共にベッドにダイブすると、ぐるぐると巡る嫌な思考を振り払うように浅い眠りについた。
 一秒でも早く智白の迎えが来ることを祈りながら。



 深夜零時――。
 ♪ コン! コン!
 聖花の部屋のガラス窓に何かが軽く当たる音が響く。
「……ちはく、さん?」
 勉強机の椅子で項垂れるように膝を抱えていた聖花は視線を窓に移す。
 ♪コン!
 また同じ音が部屋に響く。
 聖花は机の上に置いていた木刀を胸の前で二時の方角に構え、恐る恐る遮光カーテンを開ける。
 いつもの変装姿をした智白が月と街灯の灯りに照らされて浮かび上がっていた。
 智白は持っていた小石を落とし、両掌を広げる。
「やっぱり智白さんや」
 聖花は物音を立てないように窓ガラスの鍵を開け、左窓を全開にした。二度目にしてもう耐久性が出来たらしい。一度しっかり受け止められたことで、智白への信頼感を持ったのだろう。
「思いっきり飛ぶ!」
 聖花はそう自分に言い聞かし、窓枠に右足、左足を乗せ、ジャンプ体制に入る。
 聖花は瞼を閉じ、前回より勢いよく飛び降りる。
 ふわりと宙に浮いた聖花の身体は前回よりも智白との距離が縮んでいるが、このまま行けばコンクリートに打ち付けられそうだ。
「またですか」
 智白は呆れたように短い溜息を溢し、助走をつけ聖花の元へ飛ぶ。宙で聖花の両膝に手を回し、幼子を抱えるように着地する。
「ぁ、ありがとうございます」
「いえ。吐かれても死なれても困りますからね」
「またお手を煩わせてしまい、すみません」
 智白の物言いに対ししょんぼりする聖花は申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ。覚醒していない貴方に期待した私が浅はかでした」
「覚醒?」
「何をしているんですか? さっさと行きますよ」
 すでに歩き出していた智白は肩越しに振り向き、冷めた口調で言うと再び歩き出す。聖花の問いに答えるつもりはないようだ。
「ぁ、待って下さい!」
 聖花は慌てて智白の背中を追いかけるのだった。



 智白は例のごとく聖花を桜門前の鍵を銜えたお稲荷様の前に立たせる。
 立たされた聖花はお腹の前で手もみをしながら、緊張している様子だ。


 ジジジッ。
 低音のさざ波立った機械音が辺りに響き、聖花は息を飲む。


 粉雪のような肌。美しいEラインを作っている綺麗な鼻。形の良い薄い唇。脇下まで伸ばされたハイレイヤーのウルフスタイルをベースの白髪(はくはつ)
 右目の下にある黒子が印象的な切れ長のアーモンドアイ。バイオレット・サファイアを彷彿とさせる瞳が聖花を映す。変わりのないスタイルをいつものスーツで包んでいる。
 R3ホノグラムでありながらも、高貴さと威厳さ、独特の色香と圧倒的な美しさが輝いている。そもそも本当に恭稲白というモノがこの世界に実在するのかと疑ってしまうほどだ。


『碧海聖花、二つ目の依頼について話がある』
 白は挨拶もなく本題に入る。
「分かったんですか?」
『私を見くびっているのか?』
 高い位置で腕を組みながら凛と立つ白はワントーン声音を落とす。
「そんなことありません」
 聖花は慌てて顔の前で両手を振って否定をする。敵に回しては危険人物ナンバーワンに目をつけられては危険だ。
『まぁいい。くだらない小競り合いなど時間の無駄だからな』
(こ、小競り合いって……)
 聖花は内心でツッコミを入れつつ、白の話に耳を傾ける。


『率直に言う。碧海聖花の両親はすでに碧海聖花が生きている世界にはいない』
「……。は、はい?」
 少し間を置いて考える聖花だが、全く理解できずに素っ頓狂な声をあげる。見事な間抜け顔だ。
「私の両親は生きています。今朝もちゃんとこの世に存在していて、一緒に食事をしたりお話をしたりしていました。それら全てが幻想だとでも?」
『まぁ、ある種の幻想かもしれないな』
「もう少し分かりやすく教えてくれませんか?」
『碧海聖花と血の繋がりを持つ両親はすでに碧海聖花と同じ世界には存在しない』
「……現在の両親が偽りだとでも言うんですか? だとしたら、私の両親は一体全体誰なんですか?」
 白の話を聞けば聞くほど意味が分からなくなるとばかりに、聖花の眉間に皺が増える。


『碧海聖花が偽りだと思えば偽りとなるだろうな。私が受けた依頼は‹両親を探して見つけて欲しい›だ。両親の名前が知りたい。などの依頼は受けていない』
「じゃぁ、今依頼を追加します」
『すでに契約中だ。追加の依頼は受け付けない。そんなに知りたければ、自分で動けば良いだろう。私の手を煩わせる問題でもない。碧海聖花が自ら真実を求めることも、解決することも出来る案件であると思うが』
 冷静に追加依頼を提示してくる聖花の話をひと回り上の冷静さでひと蹴りする。
「そんな……」
 聖花は白の返答にがっくし項垂れる。 


『こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。と、契約書にも書いていたはずだが――』
「うぅ」
 恨めし気に白の見上げる聖花は唸り声を上げる。
『弱々しい番犬だな』
「番犬じゃありません!」
 ムッとする聖花は思わず強い口調でツッコミを入れる。


『己で消化しきれない苛立ちを私に向けるな。まぁいい。信じ切れないならば私の話を偽りだと思えばいい。気がかりならば己で真実を深掘りすればいいだけの話だ』
 R3ホノグラムの白は、この話は終わりだとばかりに光を昇華させて姿を消した。
 残された聖花は呆然と突っ立っていることしか出来なかった。

 聖花の背後で静かに事の様子を見ていた智白は何も言葉を発さない。それどころか、聖花を送り届けるときすら、白が伝えた真実に対し何かをフォローすることもなかった。



  †


 恭稲探偵事務所――。

「何故、深く話されなかったのですか?」
 恭稲探偵事務所の出入り口の扉に背を預けた智白は問う。その姿はすでに変装を解いていた。
 いつものチェアに腰掛けていた白は何も答えず、ワインレッド色のシステム手帳を開く。鍵付きのシステム手帳のようだ。随分と使い込んでいるのか所々切れ目が見て取れた。
 白は智白に視線を移すことなく、システム手帳に挟んでいる一枚の写真を取り出し、どこか懐かしむように目を細めた。
「――さらに、深掘りいたしますか?」
「嗚呼。それと、あの二人に話を」
「かしこまりました」
 智白は主に使える有能な執事のごとく胸に手を当てて頭を下げると、自室かつ仮眠室である部屋へと消えた。
 一人残された白は写真をシステム手帳の内ポケットにそっと終い、真実をひた隠すように鍵を閉じる。
「真実の歯車が動き出すのも時間の問題だな」
 ブラインドを開けた大きな窓から見える月を眺め、蠱惑的な笑みを浮かべる白はそっと瞼を閉じた。白色|《はくしょく》の睫毛のカーテンはまだ真実を覆い隠していたいようだった。