翌日――。
 
「行ってきます」
 マスクをした聖花は、洗浄した黒の電動自転車に跨り、学校へと向かう。


――消毒液を混ぜた水を自転車にかけ、洗浄しておいた方が身のためだろう。目的地に着き次第手を洗え。それまでは自転車以外のモノに触れるな。


 聖花は前事件の際、白から指導された身を守る術を変わらずに実践していた。
 本日は、昨日行けなかった三が日セールのリベンジマッチ。売り尽くしセール目的のショッピングを愛莉と楽しむため、ホームに向っていた。


 くよくよしていても仕方がない。引き籠っていても悪い方ばかりに思考がいってしまって苦しくなる。それならば、愛莉と楽しい時間を過ごしていた方がいいと思ったのだろう。



「昨日のはただの事故であって、事件ではあらへん。大丈夫や」
 不安に押しつぶされそうになる自分に言い聞かせるように、聖花は「大丈夫大丈夫」と何度も呟いた。
 そんな聖花の後を追うように一匹の鴉は飛行し、地上では青年が一人後をつけていた。
 聖花はそのことに気づく様子もなく、ペダルを漕ぎ続けた。


 †


「聖花~」
 先に駅前へ到着していた聖花を見つけた愛莉は、小柄な身体を目立たせるように大の字になりながら飛び跳ねる。
「愛莉、ごめん。お待たせ」
 聖花は愛莉に手を振りながら駆け寄る。
 一方、聖花の後ろをつけていた青年は聖花の視界に入らぬ場所で足を止め、誰かと通話をしていた。



『姫。行ったよ』
『姫って呼ばないで。って言ってるじゃない? 貴方の耳は腐ってるの?』
 通話相手は青年への苛立ちを露わにさせる。


『ははは。姫は相変わらずだね』
『本当に腐ってたのね』
 通話相手は青年の態度に諦めモードだ。かつ青年の耳が腐っていたことを認定した。


『じゃぁ、僕はあちら側に戻るから。後はよろしくね』
『了解』
 話しを終えた青年は来た道を戻り、碧海家へと足を向けた。


 青年と入れ替わるように、とある少女が二人の後をついていった。


 そんな二人のやり取りを知る由もない聖花は電車を乗り継ぎ、大型ショッピングセンターへと足を向け、愛莉と楽しいひと時を過ごすのだった。



  †


「じゃぁ、次は学校で。また連絡するなぁ」
 自宅の駐輪所に自転車を止めた愛莉は、笑顔で見送る聖花に言った。
「はーい。じゃぁ、また。今日はありがとぉ」
 白を基調としたショップ袋を自転車の前籠に入れた聖花は、自転車に跨ったまま言った。


「こちらこそ。気ぃつけて帰ってな」
「うん。ありがとぉ」
 笑顔で頷く聖花の返答に納得したように頷き返した愛莉は、ほなまた。とオートロック式のガラス扉を開き、自宅に戻る。聖花は愛莉の姿が見えなくなるまで見送った。


 そんな聖花の頭上には、今朝と同じような鴉が一匹ぐるぐると回っていた。



「私も帰ろぉ」
 聖花は愛莉のマンションを後にしようと、自転車の向きを出入り口に向ける。
「ッ!」
 自転車の前に一匹の大きな鴉が立ちはだかり、聖花は恐怖で息を飲む。
 一歩でも動いたら突かれそうだと、聖花は動くことが出来ない。



『碧海聖花』
 厚みのある低い声音が辺りに響く。

「⁉」
 聖花は肩を震わし、当たりを見渡す。


 時刻は夕方三時過ぎ。
 父と息子が手を繋ぎどこかに向っている。
 目の前にあるアパートからは、女子二人組がでてくる。とても先程の声を出せるとは思えない。



『どこを見ている。吾輩のことが見えていないのか?』
 少しざらつきの残る声質と独特の緩いテンポで紡がれる音は耳に残りやすい。
「まさか……」
 聖花は正面にいるカラスと向き合う。


『やっと気がついたか。聡明さの欠片もなく、力もなく育ったものだな』
「なんで、カラスが喋って……るん?」
 ぎょっとする聖花は、つまりつまりで言葉を紡ぐ。
『吾輩は本来、このような姿をしていない。これは仮の姿だ』
「か、仮の姿?」
 猜疑心を前面に表す聖花は鴉に答えを求める。
『嗚呼。詳しく答えるつもりはない』
「……あやかし?」
 答えを自ら作り出す聖花は背筋が寒くなる。


『人の子から見れば、吾輩はあやかしとなるだろう。だが、お前にあやかし呼ばわりされるのは心外だ』
「?」
 鴉の言っている意味が分からない聖花は怪訝な顔で首を傾げた。
『玄音が言っていたことは本当だったようだな』
「黒崎玄音⁉」
 震駭する聖花は息を飲む。


『お前は、なぜ碧海家に住んでいる。あの者達と血を分け合ってないのであろう?』
「ぇ? 何を言ってはるんですか?」
『嗚呼、お前はまだ目に見えるモノしか知らないのか』
「どういうことですか?」
 聖花は怪訝な顔で鴉に問う。自転車の漕ぎ手を握る手には自然と力が入る。
『真実と思うものが虚像だということだ。お前と血を分け合った――ッ』
「聖花せぇーんっぱい」
 重苦しい空気を引き裂くように、可愛らしい声音が辺りに響く。
 聖花が声の方に視線を向けると、ギリギリ睫毛にかかる前髪と、内巻きにセットしたミディアムヘアーを靡かせた同年代の少女が一人立っていた。



「聖花先輩、何してるんですか?」
 声の主である少女、|西条(さいじょう)|春香(はるか)はビー玉のように丸い瞳をきょとんとさせながら小首を傾げる。
「春香ちゃん」
 見知った後輩の姿に、聖花の緊迫した糸が自然と解れる。
『チッ』
 鴉は邪魔が入ったかとばかりに舌打ちを一つ落とし、大空へと旅立っていった。



「大きなカラスさんでしたね」
 春香は今しがた飛んでいった鴉を見上げて言う。
「せやね~。――ところで、さっきの話聞いてた?」
「さっきの話?」
 春香は何のことを言っているのだろう? という風に小首を傾げる。
「ぁ、聞こえてへんかってたらええんよ。気にせんといて」
 聖花は慌てて言葉を撤回させるように、顔の前で右手を左右に振る。
「そうですか? ならいいんですけど」


「ところで春香ちゃん、一人でどないしたん?」
「テレビで大福アイスを見てたら食べたくなって、コンビニに行こうかと」
 春香はへへへっと、照れ隠しかのような笑みを浮かべながら答えた。


「テレビの誘惑って凄いもんなぁ」
「そうなんですよね~。冬休みのテレビ番組は誘惑だらけで」
「確かに」
 聖花は困り眉で苦笑いする春香に笑顔で同調する。


「そう言えば、春香ちゃんって愛莉とお家が近かったんやねぇ」
「そうみたいですね。私、愛莉先輩のお家どこにあるか知らなかったので。聖花先輩のお家も近いんですか?」

「愛莉の家から私の家まで三分くらいやろか。めっちゃ近いんよ」
「そうなんですね。ぁ、近くのコンビニまでご一緒していいですか?」
「うん。私もコンビニスイーツでも買って帰ろうかな」
 こうして聖花は春香と共にコンビニにより、帰宅するのだった。


 *


「ただいまぁ」
 リビングに入った瞬間、聖花は眉間に皺を寄せる。普段家にはない香りが漂っていたからだ。
「お母さん、誰か来てたん?」
「ぁ、聖花ちゃん! お帰り~。 さっきまで津田のおじさんがきてたんよ」
 帰宅した聖花に駆け寄る母、響子の手には、チョコレート十二粒入った箱が持たれていた。


「津田のおじさんって、お父さんのいとこやったよね? 確か、東京で仕事してたんやったっけ?」
「そうそう。でな、東京のお土産として、このチョコレートくれたんよ。聖花ちゃんと雅博さんが帰ってきてから皆で食べよぉ思うて」
 響子は嬉しそうにチョコレートが入った箱を聖花に手渡すように見せる。
 金粉がついたキューブのチョコレート。ドライフルーツが乗っけられてデコレーションされたチョコレート。ハート型やアーモンド型――と言ったなんとも見ていて楽しいチョコレート達だった。


「そうなんやね。可愛いチョコレート……ッ⁉」
 聖花が可愛いチョコレート達に微笑んだのは一瞬で、すぐに驚きで目を開かせ、苦悶するように顔を歪ませる。


「このチョコレート、ちょっと変な香りせーへん?」
 手の甲を鼻先に押し当てた聖花は苦痛に顔を歪ませながら問う。
「変な香りって?」
 響子は全く香りを感じていないのか、きょとんとしている。

「なんかこう、生臭いというか……。ちょっと、蓋閉めて見て?」
 表現しきれない香りを漂わせるのはチョコレートだと予想する思う聖花は、香りの元となっているであろう物の回路を閉じることを求める。

「うん」
 響子は不思議な顔をしながらチョコレートの箱を閉じた。
「どう? まだ匂いする? 三が日の生ごみの香りが充満してるんやろうか? ちゃんと閉めてるんやけどなー」
「今はせんくなったような気がする」
「ぇ、じゃぁこのチョコレート腐ってるん?」



――本来は、収穫前のアーモンドの香りにより、アーモンドエッセンスなどの甘い香りとは異なる。また、遺伝的にこの臭いを感じない人が二十%〜四十%いるようだ。

 いつかの日に白に言われた言葉が聖花の鼓膜に甦る。



――微量でも、青酸ガスの発生を感じたならば、すぐに換気をした方が身のためだ。



「⁉」
 まさか! と、目を見開く聖花はドタバタとキッチンに走る。
 換気扇の強ボタンを慌てて押す聖花の顔からはどんどん血色が失われていく。
「き、聖花ちゃん? そないに慌ててどないしたん?」
 慌てて聖花に歩み寄る響子は不思議そうに問う。



――青酸カリを飲むと胃液の塩酸と混じり合って化学反応を起こし、猛毒の青酸ガスを発生させる。それにより窒息をし、死をみることになる。


「お母さん、そのチョコレート食べん方がええかもしれん」
 白から得た青酸カリの学びが、聖花の危機回避能力に変化する。


「ぇ、腐ってるん?」
「かも? 食べるんやったらちょっと待ってみて欲しい」
「? 腐ってるのに待つん⁉ ぇ、熟成?」
「いや、えっと、取り合えずちょっと待ってて」
 聖花は上手い言葉が見つけられず、しどろもどろにお願いをする。


「聖花ちゃんがそう言うんやったら」
「ありがとう。えっと、玄関が涼しいから玄関に置いといてもええ? 風通しもあるやろし」
「せやね、リビングとかは暖房がきいてるし、冷蔵庫に入れたら固すぎになってまうかもしれんし」
 響子は小首を傾げる聖花にチョコレートの箱を渡した。


「うん。じゃぁ部屋に戻るついでに置いてくるな」
「ん。じゃぁ、よろしく」
 響子は差し伸ばされている聖花の両掌にチョコレートの箱を乗せた。


「うん。ぁ! しばらく換気扇回しといてくれる?」
「ええけど――そないに臭かったんか?」
「う~んまぁ。私の苦手な香りすぎただけかもしれへんけど」
 まさか青酸カリの匂いを飛ばすためだとは答えられるわけもない聖花は、苦笑いをしながら言葉を濁し、そそくさとリビングを後にした。


 聖花はそのまま大人しく玄関にチョコレートを置くわけもなく、チョコレートを手に自室へと足を向けた。
「これはヤバいんとちゃうん?」
 一人焦る聖花はチョコレートを勉強机にそっと置き、窓を全開にする。窓から一気に流れる寒風が聖花の額に流れる冷や汗を乾かした。
「開《かい》」
 白と回線が繋がらないかと呟いてみるが、帰ってくるのは無音。
「そりゃそうやんなぁ」
 希望は立たれたとばかりに項垂れる聖花は、猫脚と背もたれの猫耳が可愛らしい黒のアンティークチェアに深く腰を下ろす。


「ホーム下に落下。喋る黒い鴉。三年振りに会いに来た津田のおじさん。そして、青酸カリが仕込まれているようなチョコレート――また、何かが起こり出している? それに、黒い鴉が言っていたわけわからん言葉」
 聖花は両手で頭を抱え、首を垂れる。



――人の子から見れば、吾輩はあやかしとなるだろう。だが、お前にあやかし呼ばわりされるのは心外だ。



「なんで私だけが心外なん? まるで私が同類のような言われようや。私は人間や」
 鴉に言われた言葉が幼少期に言われた言葉と重なる――。



  †

 十年前――。

 八歳の聖花は響子と共に、近所の公園に遊びに来ていた。
 ブランコや滑り台や鉄棒。砂場と手洗い場があるシンプルな公園だ。
 深緑が夕日に当てられ、紅葉しているように色づかせていた。
 春休みということもあり、幾人かの家族が遊んでいる。



「一緒にあそぼぉ?」
 聖花は母の手を握りプラプラとさせる。
「聖花ちゃん、ちょっと待っててなぁ」
 PTAの会長ママに捕まった響子はすぐに聖花と一緒に遊ぶことは出来ない。
 しばし大人しく待っていた聖花だったがしびれを切らし、響子の傍から離れる。
 ブランコで遊ぼうかとも思ったが、すでに四席埋まっていた。



「ねぇねぇ。私も一緒に遊んでええ?」
 早々にブランコを諦めた聖花は、砂場に集まる同じ年頃の子供達に話しかけた。

「ええよー」
 三つ編みをした七歳ぐらいの女の子が振り向く。

「ええの?」
 聖花は嬉しそうに女の子の正面にしゃがみ込み、再度問うた。

「ひっ!」
 先程まで笑顔だったはずの女の子は聖花の瞳を見た瞬間、小さな悲鳴をあげて涙を溢す。
「……ぉ、おばけっ!」
「ぇ?」
 思いもしない言葉を投げかけられた聖花は、反論すら出来ずに硬直してしまう。
「ママ~!」
 怯え切った女の子は、涙を流しながら母親の元に駆け寄っていった。



「きよかは、おばけやなんかあらへんもん」
 一人取り残された聖花は、悲しさと悔しさで涙を溢し、深く項垂れる。



「聖花ちゃん⁉ どないしたん?」
 逃げて来た女の子と聖花の様子で何かあったと感づいた響子は、慌てて聖花に駆け寄る。
「おかーさーん」
 聖花は響子の胸に飛び込み、「きよかはオバケやないよね? ちゃんと人間やんねぇ?」と泣きじゃくる。
「!」
 響子は瞠目する。そして、また同じことを繰り返してしまったと、自分を悔いた。



「何をあほなことを言うてんのや? 聖花ちゃんが人間なのは当たり前やないの。お母さん達と同じ人間や。オバケなんかやあらへん」
「ほんまに? 嘘ついてへんの?」
 響子は自分に縋りついてくる聖花と視線を合わせるように、聖花の顔を覗き込む。
「ほんまに決まってるやないの。聖花ちゃんはこんなにあったかいやん。それが生きてる証拠。それに、お母さんが聖花ちゃんの涙を拭ってあげられるやろ?」
 響子は穏やかな口調で言いながら、ポシェットからスミレの花の刺繍が可愛らしいタオルハンカチを取り出し、聖花の涙を優しく拭い取る。
「うん」
 聖花は鼻水を啜る。



「お母さんと手も繋げるなぁ」
 響子は左手で聖花の小さな左手を優しく包み込んだ。
「うん」
「それに、こうして抱きしめ合える。お母さんの鼓動の音が聞えるやろう?」
 響子は幼い聖花を抱き寄せる。


「なんか、とくん、とくん……って感じる」
「そう。それは生きている人だけが持つ音。心臓が息をしている音」
 響子は自身の胸に耳をすませるかのように、ぎゅっと抱き着いてくる聖花の頭をそっと撫でた。


「きよかもなってる?」
「もちろん! お母さんにはちゃーんと聞こえてんで」
「ほんまに?」
 響子と視線を合わせる聖花の顔はどこか疑い深い。


「お母さんが嘘ついてると思ってるんか? それは心外やわぁ」
 眉根を下げて話す響子は、聖花の小さな両手を聖花自身の胸に当てさせた。

「静かに、音を感じてみぃ」
 聖花は両目を瞑り、口つぐむ。そして、自身の鼓動音に感じ取ってゆく。


「なってる。きよかにも、とくん、とくん……ってなってる」
「そう。それが一番の証拠。聖花ちゃんがオバケやない証拠。お母さん達と一緒」
「そっか」
 泣き腫らした聖花の顔が華やぐ。
 響子はそんな聖花をそっと抱き寄せ、優しく背中をさすった。


「ごめんなぁ」
 響子の口だけが動く。その音が幼い聖花の耳に届くことはなかった。



  †


「私は、人間や」
 聖花は胸に両掌を当てて、自身の鼓動を感じ取る。
 そうすることで、ざわつく心を落ち着かせることが出来た。



――なぜ碧海家に住んでいる。あの者達と血を分け合ってないのであろう?

 一つの言葉に対して落ち着きを取り戻す心だったが、新たなる言葉が鴉の羽根のように黒い影を落としてゆく。



――真実と思うものが虚像だということだ。お前と血を分け合った――ッ。

 鴉に言われた言葉が聖花の脳裏でグルグルとまわる。



「あの鴉、何を言おうとしてたんやろう。真実と思うものが虚像ってどういう意味なん?」
 聖花は難しい顔をして頭を悩ませる。
 相談しようにも誰にもできない。今は白や智白の目に見える縁は消えてしまっている。


「恭稲探偵事務所に行くにしても、満月やないとあかんしなぁ」


 自らでは手も足も出せない状態に絶望するかのように、聖花は深い息を吐く。
 それもそのはずだ。


 恭稲探偵事務所は誰彼構わず、いつ何時でも訪れることはできない。
 探偵兼オーナーは白狐。
 探偵の右腕となる智白もまた白狐。

 恭稲探偵事務所は、人の子ではないモノ達が営む探偵事務所なのだ――。



【満月が輝く深夜二時。
 真実の扉の先を願いし望み人。

 伏見稲荷大社の地へ一人。
 神と人の世を繋ぎ紅の扉、千三百十四をくぐりたし。

 二列に並ぶ紅の扉。
 左の世を一歩踏み入れし時、零の世界ととす。
 
 九九九墓の世に佇み、夜をとぶらひて。

 ものない世に、“も”を使ふとき。
 天に上りしきて、沈黙した青の世界。

 自由の粒子を飛ばし、九壱〇、弐九六、一八五をとぶらひたとき、真実の扉が開かれむ】

 選ばれし者だけが知りえる暗号。
 聖花がその暗号を解き、リモートアプリ『skyblue』のユーザー、[tugumo_kutou185]と縁を繋いだことは記憶に新しい。
 聖花はすでに暗号の答えを手にしていたが、満月というタイミングが合わず、訪れることは出来ない。



「取り合えず、このチョコレートを処分せな」


――物を燃やしまえ。そうすることで、青酸ガスは、水と窒素、二酸化炭素へと分解され、無毒化される。

 白に言われた言葉が聖花にヒントをもたらすように、聖花の脳裏で蘇る。



「物を燃やせゆーても、自宅じゃ厳し――ぁ」
 何かを思い出した聖花はチョコレートをビニール袋に入れて密封させ、学校へと向かった。


  †


 近年、プラスチックゴミから発生するダイオキシンが発育異常に危険を及ぼす。とのことから、所脚路は軒並み姿を消している。だが、ここ百合泉乃中高等学園ではまだまだ健在だった。
 もちろん、プラスチックゴミなど、なんでもかんでも燃やしているわけではない。

 学園で使用した制服やバッグなどを一年に一度、お焚き上げをするのだ。
 度々オークションにて、百合泉乃中高等学園の制服などが高値落札される事件が起こっていた。そのことも理由の一つなのだろう。だが一番の理由は、過去に終止符を打ち、感謝の気持ちを元に、新たなステージへと向かう決心をつけるためだ。


 始業式である一月十一日。
 年末年始に集まった物達のお焚き上げを放課後に行うことが、この学園の一大行事の一つでもあった。



 百合泉乃中高等学園。
 グラウンドに自転車を止めた聖花は、チョコレートの箱を手に焼却炉に足を向けた。

 聖花の頭上では大きな鴉が一匹、鳴き声一つ立てずに飛び舞っていた。



「今の時季で助かった」
 誰に出会うこともなく焼却炉の前に辿り着いた聖花は、ふっと息を吐く。


『それを、どうするつもりだ?』
 少しざらつきの残る声質と、独特の緩いテンポで紡がれる音が辺りに響く。
「⁉」
 聖花は肩を震わし、辺りを見渡す。もちろん誰もいない。


『こちらだ』
 聖花の頭上を飛んでいた鴉が聖花の正面に降り立つ。恐怖でぞっと身震いをさせる聖花は後ずさり、身構える。木刀もなければスタンガンもない。手には青酸カリが含まれているであろうチョコレート。残念ながら、これを投げれば喜んでどこかに飛んで行く鴉ではない。


「つけていたんですか?」
『それを、どうするつもりだ?』
 鴉は聖花の問いに答えることもなく、聖花が手に持つチョコレートの箱を見る。


「どうするって……処分するんですよ」
『ほぉ。気がついたのか? その香りに』
 鴉はどこか感心したように声を上げる。


「……まさかっ」
『勘違いをするな。それを渡したのは吾輩ではない』
 聖花が言わんとしていることを汲み取った鴉は先手を打って答える。


『やはりお前は……ッ!』
 鴉の言葉を遮るように、一枚の呪符が鴉目掛けて飛んでくる。鴉は器用にそれを避け、空を舞う。
『チッ』
 邪魔が入ったとばかりに舌打ちを一つ溢した鴉は、颯爽とその場を去ってゆく。
 聖花の恐怖の焦点が鴉から呪符を投げた者へと転換する。辺りを見渡すと、二時の方角から長身の男性が歩み寄ってくる。ふわふわと柔らかなパーマをかけている甘栗色の髪が風に遊ばれている。
 近づいてくる男性が誰なのか理解した聖花は、安堵したように全身の力を抜いた。


「その後も、生きていたようですね」
 目尻などに皺があるものの美しい顔を持つ男性はそっと微笑む。ヘーゼル色の瞳には、涙を滲ませた聖花が映っていた。
「……智白さん」
 喜びと安心感で全身の力が抜けたのか、聖花はへなへなとその場にしゃがみ込む。無理もない。
 自分しか持たぬ記憶を持ちながら過ごす日々の中で相談相手もいぬまま、連続する不可解な出来事。それと共に、命の危機に晒されたこともあったのだから。
 何故ここにいるのか、というように聖花は顔で問う。


「貴方はまだ白様の管理下の中にある、と言うことです」
「?」
「別れた日の言葉、もうお忘れですか?」
 脅迫事件が片付いた契約最終日の夜のことを言っているのだろう。
 聖花は、十二月 二十日 深夜まで記憶を巻き戻す。



――いいか、碧海聖花。どこでどんな生き方をしようと勝手だが、碧海聖花の命は私の手中の中だということは忘れるな。

 それは、お稲荷様の銅像の前に移されたR3ホノグラムの恭稲白が残した言葉だった。



「……監視?」
「品のない物言いは止めて頂けますか? 管理下に置いているだけです」
 智白の言う違いが分からぬ聖花は小首を傾げる。
「それを」
 智白は聖花が握りしめていたチョコレートの箱を人差し指で指す。
「ぇ、ぁ、はい」
 聖花は戸惑いながら返事をし、力なく立ち上がって智白に箱を手渡す。
「よく、気がつきましたね」
 智白はどこか感心したように、口端を浮かべる。ヘーゼル色の瞳が静かに聖花を見据えていた。
「恭稲さんに教えてもらっていた知識のおかげです」
「……そうですか」
 智白は少しの間を置き、冷静な相槌を打つ。そんな智白の空気感に不信感を覚えた聖花が口を開こうとする。智白はそれを遮るように口を開く。



「白様がお呼びです」

「ぇ?」
「深夜零時。貴方の部屋の窓の前に迎えに行きます。貴方のご家族に引き止められては面倒ですので、私が両手を広げたら、貴方は窓から飛び降りて下さい。私が受け止めます」

「はい?」
「見事なアホ面ですね。変わりがなくて何よりです」
 智白は素っ頓狂な顔をしながら小首を傾げる聖花を鼻で笑う。
「ぁ、アホ面なんてしてませんッ。驚きの表情です」
「危機感のない驚きの表情ですね。では、私はこれで」
「ぇ、ちょっと待って下さいッ」
 話しに置いてけぼりの聖花は慌てて智白を引き止める。

「先程お話した言葉、理解できませんでしたか? 貴方がすることは飛び降りることだけ。簡単でしょう?」
「簡単でしょう? って」
「同じ説明をするつもりはありませんので。私は貴方と違って忙しいのですよ。ではまた後ほど……」
「後ほどって……」
 智白は聖花を気にかけることなく、その場を後にした。

 一人残された聖花は、勝手に展開される話について行けず、しばし呆気に取られることしか出来なかった。



  †


 深夜零時――。


 ♪ コン! コン!
 ガラス窓に何かが軽く当たる音が聖花の部屋に響く。



「⁉」
 クローゼットに隠し持っていた木刀を握りしめ、ベッドに横になっていた聖花は跳ね上がるように上半身を起こす。
「……ちはく、さん?」
 聖花は生唾を呑み込み、ベッドから立ち上がる。
 左手で握りしめた木刀を胸の前で二時の方角に構え、恐る恐る遮光カーテンを開ける。
 半月と街灯の灯りに照らされて浮かび上がる美しい顔を持つ男性が一人、聖花の部屋の窓を見上げていた。
 ふわふわと柔らかなパーマをかけた甘栗色の髪が夜風に揺れている。
 男性は持っていた小石を落とす。先程まで聖花の部屋の窓に当てていたのだろう。
「ほんまに智白さんや」
 世界一有名な探偵が着用していそうな英国レトロなチェック柄のダブルブレストスーツを着用した智白は、両手を広げる。


――深夜零時。貴方の部屋の窓の前に迎えに来ます。貴方のご家族に引き止められては面倒ですので、私が両手を広げたら、貴方は窓から飛び降りて下さい。私が受け止めます。

 聖花の脳裏に、日中に言われた智白の言葉が蘇る。



「ぇ、ほんまに言うてはんの⁉」
 ぎょっとする聖花を尻目に、智白は冷静な顔で口を上下させた。早く飛び降りて下さい、とでも言っているのだろう。
「うぅ」
 聖花は唸り声を上げながら、物音を立てないように窓ガラスの鍵を開け、左窓を全開にした。聖花が飛び降りるには十分のゆとりがある。
 木刀を静かに床に置き、深く息を吐く。
「大丈夫、なんとかなる。だって、智白さんやし」
 聖花はそう自分に言い聞かし、窓枠に右足、左足を乗せ、ジャンプ体制に入る。幸い、聖花の家の周りに塀や木々はない。待っている智白は両手の指先を前後に動かす。
「ちゃんと受け止めて下さいよぉ」
 聖花は弱々しく呟き、意を決して智白目掛けて飛び降りた。
 ふわりと宙に浮いた聖花の身体は、聖花が思うよりも早く落下する。智白との距離があり、このまま行けばコンクリートに打ち付けられる。
 聖花はギュッと瞼を閉じているため、それを分かっていない。


 智白は短い溜息を溢す。
 地に足を踏み込ませるように両膝を曲げた智白は、地を蹴り上げるようにして聖花の元へ飛んだ。見事に宙で聖花を米俵のように担ぎをしたまま、平然とした表情で着地する。
「ゔぅ」
 智白の左肩に当たる鳩尾に着地の衝撃がかかり、聖花は苦し気な声を上げる。
「吐くんですか?」
 智白はげっそりとしながら聖花を地面に下ろす。
「は、吐きませんよ」
 聖花はそう言いながら鳩尾をさする。
「そうですか。それなら結構です」
「受け止めて下さりありがとうございました」
 聖花はペコリと頭を下げる。
「次はもう少しコントロール力を上げて欲しいものですね」
「ぇ⁉」
 次もあるのかとぎょっとする聖花が勢いよく顔を上げると、智白の姿は消えていた。
「ん?」
 聖花は慌てて智白の姿を視線で探す。
「何しているんですか? さっさと行きますよ」
 すでに歩き出していた智白は肩越しに振り向き、冷めた口調で言うと再び歩き出す。
「ぁ、待って下さい!」
 聖花は慌てて智白の背中を追いかけた。



  †


【満月が輝く深夜二時。真実の扉の先を願いし望み人。
 伏見稲荷大社の地へ一人。
 神と人の世を繋ぎ紅の扉、千三百十四をくぐりたし。

 二列に並ぶ紅の扉。
 左の世を一歩踏み入れし時、零の世界ととす。

 九九九基の世に佇み、夜をとぶらひて。
 ものない世に、“も”を使ふとき。
 天に上りしきて、沈黙した青の世界。

 自由の粒子を飛ばし、九壱〇、弐九六、一八五、をとぶらひたとき、真実の扉が開かれむ】

 それは人間が恭稲探偵事務所に訪れるための鍵となる暗号だ。
 前回聖花はこの暗号を解き、恭稲探偵事務所へ訪れた。


 本日は半月。時刻は零時四五分。伏見稲荷大社という場所は同じで在れど、今回は暗号で指定されている状態が違う。



「私がいるので状況など関係ないんですよ」
 今まで無言で前を歩いていた智白は唐突に話す。
「ぇ?」
 思っていた考えに答えを与えられた聖花は、きょとんとする。
「人間に与えられた条件付きの暗号と、現在の状況は違いますからね。心配性な貴方のことです。一人脳内でモヤモヤ考えていたのでしょう? 煙のように」
「そ、それはそうですけど。って、煙って何なんですか?」
 智白はその問いには答えず、聖花を桜門前につれて行った。


 桜門前。右には珠を咥えたお稲荷様。左側には鍵を咥えたお稲荷様の銅像が向かい合うようにして建てられている。
「白様がお待ちです」
 と言った智白は鍵を咥えたお稲荷様の銅像の前に聖花を立たせる。


「?」
 ジジジッ。
 低音のさざ波立った機械音が辺りに響く。
 前回のことが脳裏にフラッシュバックした聖花は思わず身構える。


『何故、身構える』
 今となっては耳馴染み深き声が辺りに響く。その刹那、お稲荷様の銅像が白く光り輝く。その光は徐々に人の姿へと変化していった。

 粉雪のような肌。美しいEラインを作っている綺麗な鼻。形の酔い薄い唇。脇下まで伸ばされたハイレイヤーのウルフスタイルをベースの白髪。
 右目の下にある黒子が印象的な切れ長のアーモンドアイ。バイオレット・サファイアを彷彿とさせる瞳。余分な脂肪が何処にもない八頭身を質のいいスタイリッシュなスリムスーツが包み込む。
 いつ何時、何処で会ったとしても、その高貴さと威厳さ、独特の色香が消えることのない恭稲白が、高い位置で腕を組みながら凛と立っている。だが、そこに実体はない。


「ッ!」
 R3ホノグラムの光でありながらも、その圧倒的な美しさとオーラに聖花は息を飲む。それでも冷静さを取り戻すため、フルフルと首を左右に振る。


『ナメクジの次は、犬にでもなったのか?』
「なってません」
 聖花は少しムッとして否定する。

『犬ではないと言いながら、よく鼻が効くようだが?』
 白は聖花に例のチョコレートの箱を見せる。

「それッ」
 聖花は左人差し指で指しながら声を出す。
 智白が処分すると言っていたのに、白の手に渡っていては驚きもするだろう。
 肩越しに振り向いてみるも、智白は微笑を浮かべるだけで何も答えてはくれない。今はコレについて話すことは無意味なのだと理解する聖花は視線を白に戻す。


『何故、分かった?』
「それは恭稲さんが知識を与えてくれていたおかげです」
 白の前置きのない問いに対し、アーモンド臭のことについての話しだと理解する聖花は、すんなり答える。


『……知識か』
 白は少し間を置き、頷く。

「どうして私を呼んだんですか?」
『自分が良く分かっているはずだが』
「……私には恭稲さんに会いたいと思う事情があります。ですが、恭稲さんには私に会う必要性がないように感じます。そもそも恭稲さんは、その後の私をご存知ないですよね?」


 契約終了時間。十二月 二十日 深夜二時四十三分以降。聖花は白と接触していない。アイテムを持たされていても、過去のようにアイテムが役立つことはなかった。


『碧海聖花はしばらく私の監視下に置く。と言ったはずだが』
「監視されていた覚えはないですが」

『フッ』
 白はどこか小馬鹿にするように鼻で笑う。
『残念ながら碧海聖花に与えたアイテムは、今でもしっかりと役割を果たしてくれている』
「ぇ?」
 聖花は怪訝な顔し、思わずピアスを触ろうと腕を上げた。


『触るなと教えたはずだが?』
 白の言葉に聖花は姿勢を正す。

 聖花の両耳に光る貼るピアスは、ただのアクセサリーではない。貼るピアスに内蔵されている機能の性能は触れると落ちてゆくらしい。中々に繊細だ。


「や、役割を果たしていたと仰いましたが、契約終了以降、一度も回線は繋がりませんでした」

『当たり前だ。碧海聖花とは既に契約が切れている。そちら側がどんなに連絡を望もうとも、繋がるわけがない。だが私は碧海聖花の動向を知っている』


「監視カメラで見ていたと?」
 聖花の言う監視カメラとは、右耳の貼るピアスのことだろう。監視カメラ+人の体温が目視できるサーモグラフィ機能が内蔵されている。


『嗚呼。二〇××年一月三日、碧海聖花は何者かにホーム下へと突き落とされ、ある青年に助けられた。二〇××年一月四日。守里愛莉と別れた後《のち》、人の言葉を話す鴉と出会い、不可解なことを言われて項垂れる。帰宅してみれば、このチョコレートが届けられていた。碧海聖花の身に起きている出来事は全て理解している。そして今、誰に狙われているのかも……』


「⁉」
 聖花は瞠目する。
 全て筒抜けとなっていたことへの驚き、自分の全てを知っていながらも、自分の声に無反応だったことに対しての失望感と苛立ち、そしてまた自分が命を狙われていることへの恐怖。
 色々な感情が聖花に押し寄せた。


『どうした? 言いたいことがあるのなら、自らの口で表明すれば良いだろう? 声が出ないのならば、手や文字で表現すればいい。疑問、怒り、恐怖――抱えた負は自分を喰らう。心の共食いを重ねていては、前進しているつもりが後退しているも同然だ』


「ッ!」
 聖花は白の言葉に息を呑み込む。
 やはり恭稲白は恭稲白なのだと実感する。


「ど、どうして……」
 聖花はそこで一度次の言葉を呑み込み、拳を握り締めて白から視線を逸らす。だかそれは一瞬のことで、聖花は意を決したように声を出す。




「どうして私の呼びかけに応じてくれなかったんですか? どうしてあの夜から一度も、声をかけてくれなかったんですか?」
『既に契約終了されているからな』
 聖花は白に怯むことなく、質問を続ける。
「契約終了されているにも関わらず、何故私に換喩《かんゆ》してくるんですか? 何故、私の動向を確認しておく必要性があるんですか?」


『碧海聖花はしばらく私の監視下に置く。と言ったはずだ。何度も言わせるな』
「ど、どうして監視下に置く必要性があるんですか?」
『何故、それを答えなければならない。契約を破った者に真実の鍵を与えるつもりはない』
 白はどこか冷たい眼差しを聖花に向ける。それは、聖花が初めて向けられる視線だった。


「ッ……」
 白の眼差しと言葉と圧力に怯む聖花は怯む。
 聖花は本来であれば、真実の鍵を得ることが出来ているはずだった。
 だが聖花は、恭稲探偵事務所の五つある契約の一つに背いてしまっていたのだ。


 三、こちらが依頼者に必要だと判断した言動を素直に従ってもらう。という契約を。


――何をしている。さっさと碧海聖花の目の前にいる守里愛莉を切れ。

 聖花の脳裏に傀儡愛莉との格闘していた時間がフラッシュバックする。


――こ、殺せとゆうことですかッ?


――まぁ、ある種そうなるな。


――ある種って……意味が分かりませんッ。何を言ってはるんですか? そないなことできるわけないやないですかッ!

 自らの命を守るため、心友である愛莉の命を奪えと平然と言ってのける白に対し、第三の契約に背くことになると分かっていながら、聖花は全力で拒絶した。

 そんな聖花に対し白は、五つ目の契約を忘れたのか? と脅しをかけてきた。


 白が提示してきた契約書の五つ目の条件。


〈これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼主の命の保証はない。また、求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも、恭稲探偵事務所側の権利となる〉


 聖花はこの条件をしっかりと記憶し、理解していた。それでもなお、白の指示には従えなかったのだ。


『ぐぅの音も出ぬようだな。自らの失態を悔いるか?』


「悔いりません。失態とも思っていません」
『ならば、しけた顔をするな。己の選択は間違っていなかったと、堂々としていればいいだろう』
「……」
 俯いていた聖花は白を睨み据えるように向き合った。


「私はこれからどうすればいいんですか? また命を狙われているんですよね? 何故私はこうも変なモノ達から命を狙われなければならないんですか?」


『その問いに答えるつもりはない。だが碧海聖花が望むならば、再び契約を交わしても構わない』

 白は蠱惑的な笑みを浮かべながら言った。


「……私の命を狙っているのって、あやかしですよね? あやかしであるならば、こちら側で人を守護する人に縋っても意味がありません。そのまま放置したとしても、いずれ私が命を落とすことになってしまう。それと同様に、私の大切な人達の命も危ぶまれている。この状況に置いて、私に選択権などないように思うのですが」


『碧海聖花がそう思うのならば、そうなのであろうな』
「契約内容は自由なんですか?」
『嗚呼。但し、碧海聖花は私の駒であるということを忘れるな』
「駒?」
 聖花は怪訝な顔で問う。


『三つ目の契約を破ったときに言ったはずだが』
――碧海聖花。今から私の駒になってもらおうか。
 傀儡愛莉から聖花を守るために現れた恭稲白がその時に放った言葉が、聖花の脳裏に一瞬でフラッシュバックした。


「こ、駒って――何するんですか?」
 焦りと警戒心から、聖花はじりっと半歩後ずさる。
『何もするな。碧海聖花はただ私に動かされていればいい』
「動かされていればいいって……」
 聖花は白の言葉に呆れと困惑を覚える。
『何か問題でもあるのか? 私の指示に従っていれば、碧海聖花と共に、碧海聖花の周辺にいる者達の命も守れる。そこに何の問題があるという』
「うぅ」
 小さな唸り声のようなものを上げる聖花は、それはそうなのだがそうではないのだ、と口の中で言葉をもごもごとさせる。


『嗚呼。碧海聖花は駒ではなく犬だったか』
 思い出したかのようにほんのり声を弾ませる白は、『……番犬にもなりそうにないな』と、からかうような短い笑いを溢す。


「……」
 完全にもて遊ばれていると理解する聖花は、菩薩《ぼさつ》のごとく感情を殺す。ここで感情を暴れさせるだけ無駄だし、自分はそこまで子供ではないのだ。と言いたげに。


『相も変わらずつまらぬな。未だに感情を押し殺して生きているとは。まぁいい。時期にそんな生き方は出来なくなるだろうからな』
「どういうことですか?」
『碧海聖花の望む依頼を言ってみろ』
 問いに答えるつもりはないとばかりに、白は話す。
 これ以上聞いても無駄だと理解する聖花は、新たな言葉を紡ぐために口を開く。



「私の命を狙う主犯が見つかり、安全確保出来るまでのあいだ、私と私の大切な人達の身を守って下さい。それが一つ目の依頼です。二つ目の依頼は、私の本当の両親を見つけて欲しいです」


『一の依頼は理解し得るが、何故二つ目の依頼が必要になる』


「鴉が言っていた言葉が気がかりなんです。全てが筒抜けであったのであれば、私が言われていた言葉もご存知ですよね?」

『嗚呼。“お前は、なぜ碧海家に住んでいる。あの者達と血を分け合ってないのであろう?”とかなんだと言われていたな。その言葉を易々と信じるのか?』


「信じる信じないではありませんッ」
 聖花は少し強い口調で言いながら首を左右に振る。

「……ただ、気がかりなだけです」
 いつもより声音を暗くさせる聖花は俯く。


『それは、信じているも同然だと思うがな。昨日今日会ったばかりの不可解な鴉が発する言葉が、何故そうも気がかりになるのか分かるか?』
 白から投げかけられた答えを導き出せない聖花は、困ったように視線を泳がせながら俯く。


『碧海聖花の胸の内ではすでに両親への不信感が存在していたということだ。でなければ、生れ落ちた瞬間から共に同じ世界で旅をしてきた者達への絆や想いは、容易くブレることなどないはずだ。碧海聖花の中ではすでに気がかりの種――”不信感”があったと言う証拠。だから鴉の真実か偽りかも分らぬ言葉に容易く揺り動かされることになる』


「不信感なんてありま――っ」
『本当にそうだと言いきれるのか?』
 白は聖花の言葉を遮るように言った。その全てを見透かしたような両眼に、聖花は一言も言い返せない。


『まぁいい。その二つの依頼を元に、再び碧海聖花と契約を結ぶ。後のことは智白に――』
 と言った矢先、R3ホノグラムの恭稲白は姿を消す。
 R3ホノグラムの光を失った銅像前には、頼りない月明かりだけが残った。


 *


 上半身だけで振り向いた聖花は、背後でことの様子を見守っていた智白を縋るように見る。


「貴方は捨てられた子犬ですか?」
 智白はクスッと笑う。それに対し聖花は、本当にこの二人は失礼しちゃうと、内心でムッとした。
「まぁ、そう拗ねないで下さい。面倒なので」
「面倒って……」
 聖花は酷いとばかりにしゅんとする。
 智白は聖花に左掌を突き出す。


「?」
「スマホ、貸して頂けますか? 早急に」
 智白はきょとんとする聖花に対し、少し溜息交じりに言った。
「何するんですか?」
「例のアプリを入れるだけですよ。変な疑いをかけないで頂けますか? そもそも、契約を交わすならば私達を疑わないで頂きたいものです」
「す、すみません」
 聖花は素直にホームロックを解除したスマホを智白に手渡した。
 それを受け取った智白は手慣れた手つきでスマホを操作する。
 例のアプリと言うのは、〈skyblue〉のことだろう。


「はい。お返しします」
 智白はそう言って聖花にスマホを返す。
「はい」
 聖花はスマホを受け取り、確認する。


 新たに入れられたアプリ、〈skyblue〉をタップする。フォロワーもフォロー数も0ではあるが、DMには一件の通知が届いていた。

 差出人は、〈tugumo_kutou185〉からだ。それは、恭稲探偵事務所へと繋がる鍵を手にした者だけが知るアカウントだ。


「もう入っている」
「えぇ。貴方はすでに暗号を解いています。二度も同じことをすることはないでしょう? もちろん前回の内容は消えています」


 本来ならば様々な条件の元、リモートアプリ『skyblue』のユーザー探索で[tugumo_kutou185]のアカウントと繋がりを持たなければ、恭稲白とは繋がれない。今回は色々なものをショートカットしているのだろう。


「分かりました」
 納得したように頷く聖花はDMを開ける。
 DM内容は、恭稲白から送られてきた契約書だった。


【碧海聖花の依頼は恭稲探偵事務所が受け付けました。
 依頼内容に対するこちらの働きかけは、以下のものとする。

 依頼者である碧海聖花の命を狙う主犯が見つかり、安全に生活出来るまでのあいだ、碧海聖花と碧海聖花が大切に思う者達を守ろう。
 それと並行して碧海聖花の本当の両親についての調査を行う。
 その期間は、主犯が見つかり、根本を削除するまでの間とする。
 また、この依頼に関する費用は不要とする。

※提示した働きかけに問題がなければ、こちらが提示する以下の条件(契約)に進んでもらう。それらに対する覚悟があるのなら、依頼者の欄にフルネームを署名し、画像を再添付送信してもらおう。



 一、ここへ通じる道――鍵を口外してはならない。

 二、依頼期間に経験した事柄や知恵は全て、自分の身に留めておくこと。

 三、こちらが提示した鍵で依頼者が真実を知ったとて、恭稲探偵事務所はそれに対し一切の関与はしない。

 四、碧海聖花は契約終了までのあいだ、恭稲白の駒となる。

 五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。
 求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす。


 恭稲事務所が提示した以上の働きかけ。また、全ての条件に対しまして、私、碧海聖花は承諾いたします。
 
                                        依頼者                 】


 聖花は四の条件(契約)を読み、瞠目する。


「どうしましたか?」
 聖花の様子に気づく智白は微笑を浮かべる。その笑みは月明かりの力もあり、どこか怪しげだ。
 智白の笑みを見た聖花は口つぐむ。自分はすでに白側の手の内の中にいるのだと実感したのだろう。そして、この契約を飲まなければ命が危ぶまれることも。


「な、なんでもありません」
 聖花はどこか苦し気に答える。


「安心なさい。貴方のことも、貴方の大切な者達もお守りいたしますよ」
「はい。そのお言葉、信じています」
 聖花はそう言って、スマホについているタッチペンで契約書にサインをしてDMを飛ばす。


 その後、聖花は智白から前回と同じアイテムを受け取り、智白の手を借りて自分の部屋に戻る。


 そこで驚きなのは、ある呪文を唱えた智白は聖花を抱えたまま聖花の部屋の窓枠まで飛び、聖花を部屋へ戻したことだ。


 聖花はやはりこの二人を敵に回してはいけないのだと、実感するのだった――。


 †


 二十××年一月四日。
 深夜二時。
 
 本革と天然木が融合される高級感溢れるレザーチェアに長い足を持て余すように組み、余裕のある作りをした背もたれに、深く背を預けている二十代後半ほどの青年が一人、駄菓子屋などにある串刺しのイカゲソを銜えていた。


 青年の背後にある大きな窓ガラス。
 開け放たれたウッドブラインドから差し込む下弦の月光が、青年の濁り一つない白髪を輝かせる。
 R3ホログラムでも傀儡でもない、実体する恭稲白の姿だ。


 白は目の前のパソコン画面を見つめていた。
 横幅130、奥行き90、高さ80センチ程の英国クラシックデザインの対面式デスクは、深煎りさせたフレンチローストのコーヒー豆のような色合いが、何とも言えない上質かつ優雅さを感じさせる。

 そのデスクの真ん中に主体となるノートパソコン。左にノートパソコン、右にタブレットが卓上スタンドによって宙に浮いている。

 タブレットの下にはスマートフォンがスタンドに立てかけられており、宙に浮いているノートパソコンの下には、高さ22センチ程ある白の陶器キャンディーポットが置かれていた。

 それら端末の他、デスクの上にはキャンディーポットと、純喫茶などにある呼び鈴が置かれていた。あれこれと所持することを好まない白のデスクにはそれ以外の物は何もなく、スッキリとしていた。


「白様、色々とお考えのようですね」
 仮眠室の出入り口の壁に背を預ける男性が一人、ヴァイオリンのD線からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音を恭稲探偵事務所に響かせる。


 月明かりに照らされるのは、少しツヤやハリがない印象があるものの、白同様に年齢からなるものではない白髪を真ん中分けセミロングにセットした五十代前半程の見目を持つ男性は、少し煌めきが薄れたパープルスピネルを彷彿とさせる瞳を向ける。


 恭稲探偵事務所に戻った智白は、ウィッグやカラーコンタクトを外したのだろう。


「――」
 白は何も言わず、イカゲソをかじる。
 白がイカゲソを食しているときは、深く物事を考えこんでいる証拠だ。それは直近や近未来のことはもちろん、もっと先のことまで考えこんでいる。


「当初の予定通り、物事を進ませても構いませんか?」
「嗚呼」
 智白の問いに頷く白の声音は普段より重い。


「承知いたしました。また何かあればお呼び下さい」
 執事かの如く、右手の平を胸に当てて頭を下げた智白は静かにその場を後にした。


 一人残された白は椅子を半回転させ、窓ガラスから見える半月を見上げる。


「再び動き出したようだな――」
 優しく響く低音の中に重厚感のあるアンティークのような深くて切ない色香。まるでバイオリンのD線を奏でるような声音の中に、どこか威圧感が含まれた音が恭稲探偵事務所に響く。
 それはまるで、新たな物語の上映音のようだった――。