「っ! あ、あれ?」

 急に電源が入ったようにパチリと目を開くと、周りにはただただ真っ黒で何も見えない世界が広がっていた。圧迫感のある闇の中にポツンと一人、私だけが佇んでいる。

「え? ここ、どこ?」

 目を閉じる前まで私は自分の教室に居たはずで、そこで急に現れた彼が叶えてあげるって……確か、夢の中で矢田君に会わせてくれるって。

「じゃあここは……夢の中?」

 この、真っ暗で何も無い怖い場所が? こんな所で矢田君に会うの?
 上下左右、全てを見渡してみても何一つとして目に入るものが無い。どこに立っているのかすらも分からない。
 こんな場所で私に会う夢なんて怖過ぎて矢田君困っちゃうよ……なんなら私だって怖い……!

「どうしよう……!」
「? 誰か居るのか?」
「っ!」

 あたふたしていると、突然何もない世界に響いた声。その、低くて優しい声には聞き覚えがあった。

「誰?」
「あ、あの……」
「! もしかして、帆宮さん?」

 そう彼が私の名前を口にした瞬間、真っ暗な世界に薄っすらと色がつき始め、世界が見慣れた場所へと姿を変えていく。
 そこは教室だった。そこに居たのは自分の席に座る私と、その隣の席に座る彼——矢田君。本当に矢田君がこの場所に現れて、ここは二人きりの、私達の教室になったのだ。
 無言で見つめ合う私達。目を大きく見開いて、じっと私を見つめる矢田君は驚きのあまり言葉を失っている様にも見えた。そうなって当然だ、急にこんな所に連れて来られて……びっくりしているだろう。

「矢田君、その……突然ごめんなさい」

 なんて言おう。何を伝えれば良いのだろう。
 言いたい事はたくさんあるし、伝える為に今この場所に私は居る。真っ暗な世界じゃない、ここは、私達の教室。私達の席。私達の、思いの詰まった場所。もうすぐ終わってしまう、私達の高校生活。無くなってしまったはずのその一時が、今ここにある。けれど困らせる訳にはいかないから、早く終わらせなければならない。

「わ、私……」
「帆宮さん。あのさ、覚えてる? 一年の時、入学早々帆宮さん遅刻したよな」
「!」

 何から話そうかと焦る私をよそに、矢田君は嬉しそうに微笑むと口を開いた。それは私が迷子になったあの日の話で、もう二年も前になる、高校生活一番始めの思い出の話だった。

「その時の帆宮さん、ちっさい声で迷子になりましたって言いながら教室に入って来てさ、ドアの前で泣きそうになってた」
「それはっ、もう忘れて……っ!」

 やめてやめてと、身を乗り出して慌てる私に、あははは!と、矢田君は弾ける様な明るい笑い声を返し、

「その時さ、俺キュンとしちゃって。守ってあげたいって、気になりだしたのはその日から。それからずっと帆宮さんの事好きだったんだ」
「……え?」
「だから今、会えて嬉しい」

 ——なんて。恥ずかしがる事も無くさらりと言うと、温かい眼差しで私を見つめて、矢田君はゆっくりと優しくもう一度微笑んだ。
 その矢田君の表情や言葉、仕草の全てに私の心がぎゅっと締め付けられる。急にこんな所に現れた私を、もう死んでしまった幽霊の私を、矢田君はこんなにも温かく受け止めくれるのだと思うと、奥底からどんどん何か熱くて重いものが、思い出と共に溢れ出してくる。

「わ、たしも……私も、矢田君の事が好きだった……」

 いつも私の事を気にかけてくれる所も、元気をくれるその明るい笑顔も、温かくて優しい矢田君の全部が私は大好きだった。そんな矢田君だから私を受け入れてくれるんだって、そんな事、こんな未来が、まだ残っていたなんて。
 あぁ、良かった。知る事が出来て。伝える事が出来て。本当に、本当に良かった。
 私は、本当に幸せ者だ。

「嬉しい。最後に矢田君に伝えたくて……それでここに連れて来て貰ったんだ」
「誰に?」
「……桜の樹の下に居る、彼に」
「桜の樹の下……? それってもしかして、桜の樹の下の幽霊?」
「え……?」

 思いもしない言葉が返ってきて、瞬きと共に言葉を失ってしまった。だって今まで一度も、生きている時にだって誰からも、その言葉を聞いた事は無かったのに。

「あー、なんかさ、俺の母親もこの学校出身なんだけど、入学する前に言われたんだよな。あの学校、桜の樹の下に幽霊がいるんだよって」
「…………」
「でも入学してからそんな話してる奴一人も居ないし、実際に見た訳でもないし、昔の学校の七不思議とか流行った頃の話だって言うからきっと嘘なんだって思ってたんだけど……まさか、本当に居るの?」
「……うん」

 居るよ。本当に居る。

「私が一年生の時からずっと。それよりも前からずっと」

 彼は、そこに居る。ずっと一人きりで。ずっと変わらず、その姿で。

「矢田君のお母さん、その幽霊について何か言ってた?」
「なんか、見えた人の願いを叶えてくれるって……確か名前は、大河(おおかわ)さん」

 その途端、またしても世界の色が変わる。それは瞬きの間の出来事で、一瞬にして私達はあの桜の樹の下に移動していた。そこにあるいつものベンチに——彼は、居た。
 
「そうだ、それが俺の名前……俺は、大河基道(おおかわもとみち)

 ベンチに座る学生服の彼が桜の樹を見上げて呟くのが聞こえてきた。桜に樹は満開で、はらはらと散る花弁が彼の頭に一枚降ってくる。

「……君も夢の中に居たんだ、言ってくれれば良かったのに」
 
 そう声を掛けて頭に乗った花弁を取ってあげると、まん丸にした目で彼は私へ向き直る。

「思い出した……今、全部思い出したんだ」
「?」
「俺、ここで願いを叶えてた。今まで何回も、君にしたみたいに」
「そっか、すごいね」
「すごくない、すごくなんてない! 俺、きっとまた君が居なくなった後もすっかり忘れてここで同じ事を繰り返すんだ……ようやく答えが見つかったって。君を見送って俺もやっと終わりに出来るって、そう思ったのに」
「…………」

 思考に飲まれる様に頭を抱えて項垂れる彼。そんな彼の様子を見るのは初めてで、戸惑いながら矢田君の方へ目をやると、矢田君はびっくりしたままその場に固まっていた。
 そうだよね、初めて桜の樹の下の彼の姿の見て、何も知らない内にこんな事に巻き込まれてしまっているんだから……ここは私がなんとかしないと。

「……大河君」

 そっと彼の名前を呼んでみる。間違っていないよねと、恐る恐るの事だった。あまりにも動揺しているその姿に、少しの刺激で彼が変わってしまう、そんな気がしてたまらなかったから。私の知ってる彼とは違うものになってしまったらどうしようと、不安と焦りが募り出す。
 なぜなら今この瞬間、世界が彼の心境を表すかの様に安定感を無くし、私達は乱れた映像の様に消えたりついたりを繰り返す状態になっていたから。今にも崩れ落ち、この世界共々消えてしまう。それが今の彼の心情なのだと感じたから。

「……君も、一緒に卒業したいと思ってくれてたんだね」
「そうだよ! 決まってるでしょ? こんな所でまたひとりぼっちなんて嫌だ!」
「うん。私も君をここに置いていくなんて嫌。そんな事は出来ないよ」

 彼、大河君も、卒業したいという意思がある。それが確認出来て良かったと思う。今こうして傷つく様に動揺しているのは、またここに一人残されてしまうのが怖いからだったのだ。私の願いを叶えて一緒にここから離れられると考えていたのに、その未来が無くなってしまった絶望感に打ちひしがれている。
 その気持ちは私にも分かる。永遠の孤独と変わらないその辛さを想像する事も、未来が見えない不安と信じていた希望が無くなる絶望も、全部全部。
 大河君が矢田君と話をさせてくれたから、私の中にはもう未練は無い。ただ、このまま君をここに置いていく事になるのなら……それは、私の未練になるだろう。こんなに君の心が分かるのに、絶対にそんな事はしたくない。君をこの桜の樹の下に取り残したりはしない。
 大丈夫、きっとなんとかなる。だってここには矢田君が居るのだから。

「矢田君!」

 その場に立ち尽くしていた矢田君と向き合うと、私の気持ちを察してくれたのか、矢田君はスッと落ち着いて真っ直ぐな目で私に視線を返してくれた。

「あのね、お願いがあるの」
「何?」
「卒業式にさ、一緒に私と大河君の名前も呼んで貰える様に先生にお願いして貰えないかな」
「!」

 ハッとして顔を上げたのは大河君。その顔色は真っ青で、今にも倒れてしまいそうな彼に、大丈夫だよと私はにっこりと微笑み返した。

「あのね、私達もみんなと一緒に卒業したいんだ。だから卒業生の中に名前を並べて欲しい。そしたらきっと、一緒に卒業出来ると思うんだ」
「…………」
「無理なお願いだって分かってる。でも私、大河君も一緒に卒業したいの。ずっと、ずっと私の傍に居てくれた人だから」
「……分かった」

 矢田君がうんと、大きく頷いてくれる。

「絶対になんとかする」
「ありがとう」

 段々と歪んでいく世界。真っ暗な闇がじわりじわりと染み出してくる。身体はもう残像の様にはっきりと形を保っていなくて、もうこの一時は終わるのだなと理解した。もうこれで夢はおしまい。また明日がやってくる。卒業に向かう、私達の明日が。
 最後に矢田君に伝えたい、伝えるべき言葉が私にはまだあった。

「矢田君、今までありがとう。矢田君のこれからを私、ずっと応援してるからね」
「……うん。帆宮さんも、元気で」

 その声を最後に、意識を失う様に真っ黒に包まれた世界。気がつくと私はまた、桜の樹の下に居た。
 並んで座るベンチの隣には、いつも通りに彼が居る。学ラン姿の彼、大河君が。