「本当はどっちでも良かったのよ。だから『それなら親子丼にするわ』って言ったんだけど、二人とも、『お母さんは食べたい方を食べて』って聴いてくれなくてね。最初にカレーを選んだから、後から引っ込みがつかなくなっちゃったのよ」
「それは、……お二人とも、優しいんですね」

 私が言うと、女将さんの頬が緩む。

「ありがとう。そう言ってくれるのね、臨未ちゃんは」

 向けられた笑みが、小さな頃の記憶にある彼女の表情と重なって、目蓋がじんわりと熱くなった。
 女将さんは「さて、そろそろ夕食の支度を」と腰を浮かせて、微かに眉根を寄せる。まだ、負傷した足が痛むのだろうか。

「大丈夫ですか」
「ごめんね。もうすぐ息子が帰ってくるはずなのよ。そうしたら、バトンタッチしてもらうわ」

 駆け寄って支える背中は、まだ丸まっている。不意に、パーカーの上から透けたその影が、叔父さんの背骨と重なった。ドナーになるときに署名をお願いした、あの日の背骨だ。
 口のなかに、あるはずのない苦さを覚えながら、私は唇を割った。

「女将さん。良かったら——」


 私がお手伝いします——。
 そう言ってキッチンに立つ私を、女将さんは後ろに椅子を置いて見守っていた。

「なんか新鮮っ。うちの娘のことも、こんな風に見ていたことはないから」

 振り返ると、「緊張しちゃうわよね。ごめんね」と女将さんは眉を下げた。
 家庭用よりも一回り大きいコンロに、深さのある大きな鍋を置いて、水を火にかける。昆布と鰹節を用意してから、私は女将さんに言われた通りの具材を冷蔵庫から取り出した。

「いえ。見守ってくれていた方が安心できます。……家で作るよりも量が多いですし」

 そう言って苦笑を向けると、女将さんは何度か大きく瞬きをする。

「お家でも作ってるの?」
「はい。たまに、ですけど」

 トーンを落として言うと、感心したように「そう」と息を吐いた女将さんの声が、背中に聴こえた。

「まだ若いのに、立派ね。真冬くんにとってもきっと、自慢の——、」

 ザクッと、小松菜の根を切り落とす。女将さんの声が途絶えて、思わず目を上げると、長電話を終えた真冬がカウンターの向こうに立っていた。
 元から大きな目が、二重を際立たせるように見開いている。目玉が飛び出る、という表現がピタリと嵌まる表情だった。

「えっ、なんで臨未ちゃんが、」

 予想通りの反応に、思わず頬が緩む。

「うん。ちょっと、手伝い」

 と言うと、真冬は背伸びを繰り返しているのか、不自然に視線を上下させる。私は手元を隠しながら彼を睨んだ。

「だめ」
「え?」
お客さん(・・・・)は、夕食の時間まで立ち入り禁止」

 そう言うと、彼は

「わかった」

 と素直に頷いて、食堂を後にした。彼が残した、力の抜けた朗らかな表情だけが頭に残る。

「真冬くん、いつも臨未ちゃんを気に掛けているわよね」

 切った小松菜を水に浸していると、女将さんが感心したように言う。

「本当、いいお兄さんだわ」

 真冬が閉めたばかりの扉に、女将さんの声が向けられる。本当の兄妹ではないことに罪悪感を覚えながら、私は言った。

真冬(あに)は……、なんていうか、世話焼きですよね。私のことなんか、気に掛けなくてもいいのに」
「それだけ、臨未ちゃんが大切ってことよ」
「でも私は、大切にされるような人間じゃ、」

 ちょうど、蛇口から勢いよく流れた水が、シンクに跳ねて目を瞑る。すると、半端に途切れた言葉を補うように、

「大切にされちゃいけない人間なんて、この世にはいないわ」

 と、女将さんは言った。諭したり、励ましたりするような抑揚はなく、淡々と、当然のように言った。私は、エプロンで手を拭って振り返る。

「これまでに沢山、人を傷つけていても、ですか」

 どうして、いま溢れ出したのだろう。
 私の震えた声に、女将さんの瞳がゆっくりと持ち上げられる。

「もちろん」

 彼女は、また当然のように頷いた。
 向こうで、鍋が静かにクツクツと音を立て始める。それを掻き消すように、私は「でも」と続けた。

「私は……まだ何も出来ない、未熟な高校生なのに、少ない選択肢のなかでしか人を守ることが出来ないのに……、私自身を傷つける言葉で、人を傷つけてしまったんです。知らない間にも、深く傷つけてしまった人がいるかもしれないんです」

 叔父さんや真冬、美世たちの顔が脳裏に浮かぶ。

「挙げ句の果てに、私はそういう自分から逃げようとしてる……——逃げようと、しているんです」

 逃げる——心のなかで反芻しながら、屋上のフェンスに手を掛けた時のことを思い出す。真冬と出会った、あの日のことだ。

 お父さんとお母さんは、どうして自死を選んだんだろう。私たちを置いて、どうして二人だけで逃げてしまったんだろう——。
 今でも、ふと過っては消していた疑問。親戚が『勿体ない』と言い散らしていたことも、礼実ちゃんが『そんなことで』と頭を抱えていたことも、本当は間違いではないと解っていた。それでも私は、苦痛から逃げ出した両親の死を、肯定したかった。才能を失った苦痛からも、同級生から向けられる憐憫からも、逃げてしまいたいと思っていた。

 ——僕は、生きなきゃいけないって思う人ほど、死に近づいてしまうんだと思う。

 グツグツと大きくなる鍋の音に紛れて、真冬の言葉が脳裏を縫ってやってくる。彼らしい、優しい言葉だ。
 逃げた、という意識を逸らすために、私はその言葉に縋った。両親は私たちを置いて逃げた、という事実から目を背けるために『二人は、子どもたちのために生きなければと必死に働いて、死を選んだ』と、肯定したかった。私が歩睦のために、礼実ちゃんと叔父さんのために、少しでも財産を残すことによって『勿体なくなんてない』と、示したかった。

「臨未ちゃん!」

 背中から呼ばれて、ハッ、と意識を戻す。沸騰したお湯が鍋から溢れる寸前で、ギリギリ火を窄めた。

「すみません……考え込んでしまって」
「大丈夫?」
「はい。……変なこと言って、すみません」

 菜箸で昆布を取り出し、入れ替えるように今度は鰹節をお湯に沈める。両親に振る舞うために、女将さんから教わった手順だった。

「変なことなんかじゃないわ、全然」

 水に晒した小松菜の横で、油揚げの袋を切る。調理を続ける背中に、女将さんは穏やかなトーンで続けた。

「人を傷つけたことのない人も、それで悩んだことのない人も、私はいないと思ってる」
「悩むことも……私は、出来なかったかもしれません。もし、ここに来なければ」

 酸味とまろやかさを掛け合わせた、絶妙な出汁の香りが、狭いキッチンに立ち込める。

「じゃあ、何かが臨未ちゃんを、ここへ連れてきてくれたのね」
「え?」

 私は包丁を握る手を止めて、思わず振り返る。

「そう。だから、臨未ちゃんが人のために悩むことが出来たのは、きっと偶然じゃないわ」

 ふっくらとした彼女の頬が、ゆっくり持ち上がる。何かに連れられて、という言葉が両親と重なったからか、その優しい笑みに涙腺が緩んでいくのを感じた。
 私は、優しい表情を向けられると涙脆い。その事に気付いて、どうにか雫を溢さないよう目に力を込めた。

「あのね、臨未ちゃん」

 女将さんは言う。

「臨未ちゃんは未熟だって言ったけど、大人も同じよ。私も、私の息子も娘も、大人になっても完璧にはなれなかったわ。それに誰だって、間違えてしまうことはある。……でもね、それでいいの」

 私は包丁を置いて、女将さんを正面に見据えた。

現代(いま)は特に、一つの誤りで周りから、酷いときには事情を知らない他人からも、非難を重ねられてしまうことが多いものね。だから余計に自分の間違いにも、他人の間違いにも敏感になってしまうけど、本当は間違えながら生きていくものなのよ」
「間違えながら……ですか」
「そう。間違えながら」

 出汁の香りが深くなって目に沁みる。女将さんは頷いて、目尻にシワを刻んだ。

「臨未ちゃんが言ったように、逃げてしまったことが間違いだったとしても、それが自分の居場所を見つける旅だったんだ、って。生きている間に、きっとそう思えるわ」

 それに——、と彼女は続ける。

「人は、人と補い合える。完璧じゃなくたって、大丈夫よ」

 ああ、女将さんはやっぱり、フラットだな——と、彼女の柔らかい腕に包まれて思う。足が悪いのに腰を上げて、私を抱き締めてくれたこの人は、真冬と同じくらい暖かい。

「女将さん」

 彼女は私の肩を優しく撫でながら「うん?」と聞き返す。

「私にも、まだ居場所は見つけられるかな」

 立ち込める湯気に混ざる女将さんの香りが、幼少期へ感覚を戻したからか。思わず敬語を忘れてしまう。
 けれど女将さんは、肩を撫でたまま深く頷いてくれた。