「どうかした?」
じっと見過ぎていたせいか、真冬は首を傾げて手を口元に当てる。何かついてる? と言いたげに焦る姿が、なんだか可笑しい。
「なんでもない。別に、何もついてないよ」
「そう?良かった」
口元から左手を下ろし、真冬はふっ、と息を吐く。反対側は、まだ手袋で覆ったままだ。昨日の夕飯のときと違い、周りには他のお客さんが居るからかもしれない。
「それにしても、美味しいね。ここの朝ごはん」
真冬は、嬉しそうに言う。
「うん。女将さんが料理長も兼任してるんだよ」
「えっ、そうなんだ。いや、民宿って大体そうなのかな?」
「さあ。私はここしか知らないから、分からないけど」
「あの……昨日も思ってたけど、臨未ちゃんってここに来たことある?」
遠慮がちに、真冬はこちらを覗き込む。今は無人になっているキッチンを見据えて、私は頷いた。
「あるよ。かなり昔だから、女将さんは覚えてないだろうけど」
「やっぱり……、」
水を流し込まれた真冬の喉が、ゴクリと静かに上下する。別の何かも一緒に呑み込んだような音だ。
「どうして浜名湖に連れてきたんだって、思ってる?」
代わりに言うと、正面の瞳がわっと大きくなって、瞬きを繰り返す。
その直後、向こうで食事を終えた若いカップルが、彼の後ろを通り過ぎるのを見送ってから視線を戻す。それでも真冬は、同じように目を見開いたままだった。
「そんなに驚くこと言った?」
「いや……、うん。訊いて良いのか、昨日からずっと考えてて」
「別に、いいよ。大した理由じゃないけど」
「うん。……知りたい」
真冬は空気を呑んで言う。彼が箸を置いた先には、食べ終えた焼き魚の骨が綺麗に整列していた。
「昔、弟が生まれる前にね、両親と一緒に来たところなのよ」
「両親……」
「弟が生まれたら、私に構う時間も減っていくから。たぶん、それで」
当時、八歳だった私は、子どもながらに両親の想いを汲み取っていた。
——あまり遠出できなくてごめんね。
と、身重だった母と家計を守る父が申し訳なさそうに、でもどこか幸せそうに微笑む表情を、今でもハッキリと思い出せる。
「あれが結局、最後の旅行になっちゃったけど」
「え……?」
「うちの両親も、自分たちで死を選んだの。……きっと、命を絶つことで、私と弟を守ろうとしたの。周りからは『若いのに勿体ない』って、散々言われてたけど」
他人には話したことのない身の上話が、ぽつりぽつりと零れていく。ずっと言葉にすることを避けていたはずだった。
「臨未ちゃん」
真冬が、唇を割る。
「ここに、連れて来てくれてありがとう」
「……え?」
柔らかく微笑む真冬の表情に、声が震える。
「臨未ちゃんの大切な場所に、僕を連れて来てくれてありがとう」
そう言われて、湿りそうな瞳が揺らぐ。たまらず残っていた味噌汁を啜ると、もう大分冷めていた。冷めていたけれど、鰹節を浸した出汁の香りが心を温めた。
初めてここに来たときは分からなかったけど、両親が絶賛していたワケを、今になって理解した。
——本当に美味しいですね。何度でも食べに来たいくらいだ。
特に、家業を継いだばかりの父は「癒される味だ」と、ゆったり背に凭れて味わい、女将さんに言っていた。
だから、八歳の私はその台詞を反芻して、女将さんに
——おばちゃん。お味噌汁の作り方、教えてください。
と、両親の目を盗んで訊ねた。仕事で疲れている父のために、家でも作れたらと思ったのだ。
でも、子どもに教えてくれるわけがないか、と半分諦めていたのも事実だったので、女将さんが
——じゃあ、一緒にやってみましょうか。もちろん、メニューも書いて渡すわ。
と、調理場に立たせてくれたことに、私は驚いた。手加減なく、出汁を取るところから丁寧に、詳細に教えてくれる女将さんの言葉は、あれから九年経った今にも受け継がれている。
子どもだから、と対応に優劣を付けない女将さんを、素直に好きだと思った。
「なんで……真冬が『ありがとう』なんて言うのよ」
空になったお椀を置いて、強張った瞳で彼を見据える。知らずのうちに、言葉も力んでしまったかもしれない。
「なんで、か……。素直にそう思ったからかな。あと、少し安心した」
「安心?」
「臨未ちゃんは、ここで消えたいって思っているのかと、てっきり」
真冬に緊張感があったのはそのせいか、と今さら納得する。
一足早く食事を終えた彼は、手袋に覆われた右手の先を摘まんでいた。感覚がないと言っていたけれど、その仕草を見るのは数度目になる。きっと、癖になっているのだろう。
「ここで、じゃなくてもいいし、ここでもいいよ。真冬が殺してくれるなら。……でも——私の、あんな傲慢な願いを請け負える理由を、知ってみたい」
手元から持ち上げられた、実直な瞳と交わる。真冬は「うん」と小さく頷く。
「屋上で約束した、真冬が人生を捧げて完成させたいって言ってた絵を、見てから死にたい」
——あのさ……今日は、真冬の絵を見たいの。約束の絵じゃなくて、ただの、真冬の絵を見てみたいの。
今朝、客室の扉を開いた後、私は開口一番にそう言った。
思い描くビジョンの通りに、体が動かないことの苦しみを、再び彼に背負わせる。そんな自分の残酷さから目を逸らしたくて、それでもただ純粋に、彼の描くところを見てみたいと思った。
「まだ、捧げる準備は出来てないけど……じゃあ今日は、リハビリに付き合ってくれるかな」
真冬は苦々しい笑みを浮かべて言う。実年齢よりも若く見られそうな童顔が、大人びた表情で私を見つめる。頼んだのは私なのに、先手を取られたような情けなさと、彼の甘ったるい優しさに、脳が少しクラリとした。
「うん。……じゃあ、付き合ってあげる」
「ふっ。臨未ちゃんは、意外と面白いね」
背を凭れて笑う彼の、クスクスと揺れる肩から視線を逸らす。返す言葉を探しながら、私は体の真ん中が締め付けられるような感覚に、戸惑っていた。
キッチンの奥の方から騒がしい声が聞こえたのは、ちょうどそのときだ。
「うあぁぁん……っ、うぁぁん!」
脳に針を刺すような、鋭い子どもの泣き声が次第に近づく。
「ごめんねぇ……私がこんな風になっちゃったから、」
「ほら、また今度。な?約束するから」
続けて響くのは、太く柔らかい女将さんの声と、知らない男の人の声——。私たちは思わず顔を見合わせた。
「どうしたんだろうね、あっち」
「うん」
頷いて、どちらからともなく腰を持ち上げる。キッチンの向こうへ顔を出すと、そこには女将さんと細身の男性がソファに掛けていて、床にへばりついて泣きじゃくる少年を、困ったように見据えていた。
「あのう……」
真冬が声を掛けると、少年に注がれていた視線が私たちの方へ向けられる。
「あら、ごめんなさいね」
じっと見過ぎていたせいか、真冬は首を傾げて手を口元に当てる。何かついてる? と言いたげに焦る姿が、なんだか可笑しい。
「なんでもない。別に、何もついてないよ」
「そう?良かった」
口元から左手を下ろし、真冬はふっ、と息を吐く。反対側は、まだ手袋で覆ったままだ。昨日の夕飯のときと違い、周りには他のお客さんが居るからかもしれない。
「それにしても、美味しいね。ここの朝ごはん」
真冬は、嬉しそうに言う。
「うん。女将さんが料理長も兼任してるんだよ」
「えっ、そうなんだ。いや、民宿って大体そうなのかな?」
「さあ。私はここしか知らないから、分からないけど」
「あの……昨日も思ってたけど、臨未ちゃんってここに来たことある?」
遠慮がちに、真冬はこちらを覗き込む。今は無人になっているキッチンを見据えて、私は頷いた。
「あるよ。かなり昔だから、女将さんは覚えてないだろうけど」
「やっぱり……、」
水を流し込まれた真冬の喉が、ゴクリと静かに上下する。別の何かも一緒に呑み込んだような音だ。
「どうして浜名湖に連れてきたんだって、思ってる?」
代わりに言うと、正面の瞳がわっと大きくなって、瞬きを繰り返す。
その直後、向こうで食事を終えた若いカップルが、彼の後ろを通り過ぎるのを見送ってから視線を戻す。それでも真冬は、同じように目を見開いたままだった。
「そんなに驚くこと言った?」
「いや……、うん。訊いて良いのか、昨日からずっと考えてて」
「別に、いいよ。大した理由じゃないけど」
「うん。……知りたい」
真冬は空気を呑んで言う。彼が箸を置いた先には、食べ終えた焼き魚の骨が綺麗に整列していた。
「昔、弟が生まれる前にね、両親と一緒に来たところなのよ」
「両親……」
「弟が生まれたら、私に構う時間も減っていくから。たぶん、それで」
当時、八歳だった私は、子どもながらに両親の想いを汲み取っていた。
——あまり遠出できなくてごめんね。
と、身重だった母と家計を守る父が申し訳なさそうに、でもどこか幸せそうに微笑む表情を、今でもハッキリと思い出せる。
「あれが結局、最後の旅行になっちゃったけど」
「え……?」
「うちの両親も、自分たちで死を選んだの。……きっと、命を絶つことで、私と弟を守ろうとしたの。周りからは『若いのに勿体ない』って、散々言われてたけど」
他人には話したことのない身の上話が、ぽつりぽつりと零れていく。ずっと言葉にすることを避けていたはずだった。
「臨未ちゃん」
真冬が、唇を割る。
「ここに、連れて来てくれてありがとう」
「……え?」
柔らかく微笑む真冬の表情に、声が震える。
「臨未ちゃんの大切な場所に、僕を連れて来てくれてありがとう」
そう言われて、湿りそうな瞳が揺らぐ。たまらず残っていた味噌汁を啜ると、もう大分冷めていた。冷めていたけれど、鰹節を浸した出汁の香りが心を温めた。
初めてここに来たときは分からなかったけど、両親が絶賛していたワケを、今になって理解した。
——本当に美味しいですね。何度でも食べに来たいくらいだ。
特に、家業を継いだばかりの父は「癒される味だ」と、ゆったり背に凭れて味わい、女将さんに言っていた。
だから、八歳の私はその台詞を反芻して、女将さんに
——おばちゃん。お味噌汁の作り方、教えてください。
と、両親の目を盗んで訊ねた。仕事で疲れている父のために、家でも作れたらと思ったのだ。
でも、子どもに教えてくれるわけがないか、と半分諦めていたのも事実だったので、女将さんが
——じゃあ、一緒にやってみましょうか。もちろん、メニューも書いて渡すわ。
と、調理場に立たせてくれたことに、私は驚いた。手加減なく、出汁を取るところから丁寧に、詳細に教えてくれる女将さんの言葉は、あれから九年経った今にも受け継がれている。
子どもだから、と対応に優劣を付けない女将さんを、素直に好きだと思った。
「なんで……真冬が『ありがとう』なんて言うのよ」
空になったお椀を置いて、強張った瞳で彼を見据える。知らずのうちに、言葉も力んでしまったかもしれない。
「なんで、か……。素直にそう思ったからかな。あと、少し安心した」
「安心?」
「臨未ちゃんは、ここで消えたいって思っているのかと、てっきり」
真冬に緊張感があったのはそのせいか、と今さら納得する。
一足早く食事を終えた彼は、手袋に覆われた右手の先を摘まんでいた。感覚がないと言っていたけれど、その仕草を見るのは数度目になる。きっと、癖になっているのだろう。
「ここで、じゃなくてもいいし、ここでもいいよ。真冬が殺してくれるなら。……でも——私の、あんな傲慢な願いを請け負える理由を、知ってみたい」
手元から持ち上げられた、実直な瞳と交わる。真冬は「うん」と小さく頷く。
「屋上で約束した、真冬が人生を捧げて完成させたいって言ってた絵を、見てから死にたい」
——あのさ……今日は、真冬の絵を見たいの。約束の絵じゃなくて、ただの、真冬の絵を見てみたいの。
今朝、客室の扉を開いた後、私は開口一番にそう言った。
思い描くビジョンの通りに、体が動かないことの苦しみを、再び彼に背負わせる。そんな自分の残酷さから目を逸らしたくて、それでもただ純粋に、彼の描くところを見てみたいと思った。
「まだ、捧げる準備は出来てないけど……じゃあ今日は、リハビリに付き合ってくれるかな」
真冬は苦々しい笑みを浮かべて言う。実年齢よりも若く見られそうな童顔が、大人びた表情で私を見つめる。頼んだのは私なのに、先手を取られたような情けなさと、彼の甘ったるい優しさに、脳が少しクラリとした。
「うん。……じゃあ、付き合ってあげる」
「ふっ。臨未ちゃんは、意外と面白いね」
背を凭れて笑う彼の、クスクスと揺れる肩から視線を逸らす。返す言葉を探しながら、私は体の真ん中が締め付けられるような感覚に、戸惑っていた。
キッチンの奥の方から騒がしい声が聞こえたのは、ちょうどそのときだ。
「うあぁぁん……っ、うぁぁん!」
脳に針を刺すような、鋭い子どもの泣き声が次第に近づく。
「ごめんねぇ……私がこんな風になっちゃったから、」
「ほら、また今度。な?約束するから」
続けて響くのは、太く柔らかい女将さんの声と、知らない男の人の声——。私たちは思わず顔を見合わせた。
「どうしたんだろうね、あっち」
「うん」
頷いて、どちらからともなく腰を持ち上げる。キッチンの向こうへ顔を出すと、そこには女将さんと細身の男性がソファに掛けていて、床にへばりついて泣きじゃくる少年を、困ったように見据えていた。
「あのう……」
真冬が声を掛けると、少年に注がれていた視線が私たちの方へ向けられる。
「あら、ごめんなさいね」