「き、きよかぁ」
 涙目の響子は震えた声で聖花の名前を呼ぶ。


「聖花、何してたん?」
 愛莉はいつもより低い声で問いかける。
「ぁ、愛莉こそ、何してるん?」
 聖花は無意識に右手で左手首を掴む。

「ん~……人質取ってる?」
 愛莉はサイコパスな笑顔を浮かべながら疑問形で答える。その瞳には愛莉の優しさも愛情といった温かいものはなく、肌と心が凍えるほど冷え切っていた。
「ッ」
 息を飲む聖花に対し、愛莉は追い打ちをかけてくる。


「聖花、おいで? あんたの大切なお母さんを殺されたくあらへんやろ?」
「ぁ、あかんッ。聖花逃げて」
 ガッ!
「ひッ‼」
 響子の喉が恐怖で鳴き声を上げる。
 愛莉はなんの躊躇もなく響子の顔の近くにナイフを振り落としたのだ。響子の血液が流れることはなかったもものの、響子の髪の毛が何本か切れる。

「やめてッ!」
 聖花は悲鳴のように声を上げる。

「うん。ええよ。聖花が大人しくこっちにきてくれたら……やけどね」
 と、不気味な笑みを浮かべる。愛莉は次の一手とばかりに、右腰付近についているポケットに左手を突っ込み、同じ型の小型ナイフを取り出した。


「ぁ、あかん……やめて。逃げて」
 響子は声を振り絞るようにして聖花を止め、愛莉の制服の腹部を両手で掴む。だが恐怖でカタカタと震える両手の力はなく、そっと添えるような形となってしまう。
 そんな微力な抵抗を気にもとめない愛莉は、姫に手を差し伸べる王子のように聖花へ手を差し伸べる。
 こうなってしまえば聖花の答えは一択となる。
 今の聖花が唯一頼れる雅博はこの場にいない。例え助けを求め叫んだとて、雅博に声が届くとは限らない。愛莉の手中に響子がいる今、雅博に助けを求める行為は危険すぎる。

 いつも助けてくれていた白は静観でもしているかのように、無反応を突き通していた。
 誰も助けてはくれないのだと、諦め混じりの重たい息を吐く聖花は、ゆっくりと愛莉に歩み寄ってゆく。



 十七時五十七分。

 聖花は拳を固く握りしめ、ジリジリと歩み寄る。
 愛莉は手を伸ばせば届く距離まで歩み寄った聖花に、まるで飼い犬に待てでもするかのように左掌を突き出す。


「?」
 呼んだのはそちらじゃないかと、怪訝な顔をしながら聖花は足を止める。
「しゃがんで」
 人差し指をフローリングを差すように下げて指示を出してくる愛莉の要望通り、聖花は両膝をフローリングにつける。
「いい子」
 愛莉はドキリとするほど優しい微笑みを浮かべたかと思うと、聖花の左腕を思いっきり引っ張り、聖花の肩口に蹲るようにして抱きしめる。その際、例のお線香の香りが聖花の鼻腔を擽ることはなかった。
 聖花はそのことにホッとした。本物の愛莉が敵ではなかったことが分かったからだ。
 それと同時に、傀儡であることを見抜くことが出来ず、傀儡愛莉を招き入れてしまった自分を悔やまずにはいられない。


「あんた、人非ざる力を借りてるやろ?」
「ぇ?」
 耳元で低く囁かれる言葉に戸惑う。
 動揺する聖花の首元から鎖骨へと指先を這わせた傀儡愛莉は、左手を勢いよく聖花から離す。


「ぁ!」
 傀儡愛莉の指先に引っかかったネックレスのチェーンが勢いよく飛び散る。
 聖花の首から外れる際にネックレスの力が作動したことにより、聖花の首元がミミズ腫れのように色づくことはなかった。


「その顔、上手くいったみたいやね」
 傀儡愛莉は手に引っかったチェーンを落とすように掌を開ける。目には見えないアイテム壊しに成功した傀儡愛莉は、なんとも満足そうな笑みを見せる。


「ッ」
 唯一とも言える盾を無くした聖花は、不安と恐怖から指先を自身の首元に当てる。


「聖花、お母さんを殺されたくないよなぁ?」
 傀儡愛莉の物騒な問いに聖花の心臓が跳ね上がる。激しく頷く聖花に対し、傀儡愛莉は持っていたナイフを床に滑らせるようにして投げ、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「?」
 傀儡愛莉の意図が汲み取れず、聖花は傀儡愛莉に瞳で問う。

「それで自分の命の終止符を打って」
 傀儡愛莉は冷淡な口調でとんでもないことを言い放つ。その瞳は氷のように冷え切っており、とてもじゃないが冗談などとは思えない。

「ぇ?」
 思わぬことに聖花はますます戸惑う。

「駄目ッ!」
 戸惑う聖花に、響子は悲鳴交じりに叫ぶ。
 苛立ちを露わにする傀儡愛莉は、五月蠅いッ! と声を荒げた。

「ッ!」
 肘をフローリングに立てて上半身を起こそうとしていた響子の首を両手で包み込むように抑えた。それにより、少しだけ浮き上がっていた響子の身体はフローリングにピッタリと密着する。

「ゔっ!」
 苦痛に顔を歪める響子は小さな呻き声をあげる。

「やめてッ! お母さんには何もせんといて!」
 全身の血の気が一気に失われるかのように体温を奪われる聖花は、悲鳴交じりに叫ぶ。

「なら、あんたが今せなあかんことはわかってるよな?」
 勝ち誇ったかのように意地が悪い笑みを口端に浮かべた傀儡愛莉は、優しい口調で問いながら首を傾ける。


「私は貴方の要望を組む。そのかわり、両親や友人。私の大切な人達には、指一本傷つけんといて!」
 聖花は意志が強い瞳で傀儡愛莉を睨み据える。


「ふーん。あんたはどこまでも自分の命より、他者の命のほうが大切やねんな」

 この状態に陥ってもなお、自らの命より大切な人達の命を選択する聖花に対し、傀儡愛莉はどこか不服そうに言う。


「私の要望を飲むならその手を離して。お母さんを開放して! お母さんは何も関係あらへんやないの!」

「この状況で私に指図できるとか……えらい強ぉなったもんやな」
 傀儡愛莉は、意外だ。とでも言いたげにビー玉のような瞳をさらに大きくさせた。


「早くお母さんから手を離して! そこからさっさとどいて」

 早く聖花は胸の前にやった拳を開きながら肩を後ろにスイングするかのように、どいてくれとジェスチャーをする。


「ええよ。せやけど、ここからはどかれへん。あんたの命の灯が消えることを見届けてからやないとな」

 傀儡愛莉は余裕ある口調でそう言いながら響子の首から両手を離し、お手上げポーズを取る。


「今、あんたの要望を全て飲んしまうんは安心でけへん。口先だけならなんとでも言える」
「そ、そっちやって」
 聖花はせめてもの抵抗をするかのように言い返す。

「せや。あんたが自ら命の灯を消したとしても、私があんたの要望を飲むとは限らへん。せやけど、あんたが今その行動に移さへんと、私はあんたの目の前でこの人を殺める。私の言葉を信じて灯を消してしまうか、自分の命を救うことを選ぶか――あんたはどっちの道を選ぶ?」

「ぁ、か……へん……ッ……きよ、かぁ」
 意識が朦朧としているなかでも響子は娘を想い、掠れた声で言葉を紡ぐ。

「私は……」
 聖花は意を決したかのように手を伸ばし、ナイフを手に取る。

「私は?」
 傀儡愛莉は聖花の次の言葉を促す。


「あんたを信じる」

 聖花は覚悟が決まったかのように、傀儡愛莉を射抜くような瞳で見つめながら、力強い口調で言い切った。


『フッ』
 馬鹿にしたように鼻で笑う音が聖花の左耳に届く。

「ぇ?」
 耳馴染みのある音に聖花の身体がピタリと止まる。まるで挙動不審な小動物かのように、聖花の視線が定まらない。
『よく“信じる”などと言えたものだな』
「く、恭稲……さん?」
 なぜ今になって? という思いに駆られる聖花だが、その言葉はグッと呑み込んだ。


『また、自らの命より他者の命を選ぶのか?』

 白の問いに聖花は何も答えない。


『昨日痛い目に合っているのにも関わらず、また同じ選択をするとは……悲惨なほどに学習能力がないな』

 白は溜息交じりに、哀れむような口調でそう言った。


「なっ」

『仮にもし今、碧海聖花がこの場で命を落としたとしよう。だが果たしてそれで、大切な人を守れたというのか? 自分が世界と分別してしまえば最後、何かをすることはおろか、何かを伝えることすらも不可能となる。永遠にだ。そのことを理解しているのか? そのような危険を犯し、不透明な言葉や相手を信じるほど、馬鹿げたものはない』


「なら誰をッ! 何を信じろと言いはるんです? この状況で私にどうしろって言いはられるんですかッ⁉」


『何も、誰も、信じるな』

「は?」
 聖花は白の思わぬ返答に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。


『信じたければ信じて構わない。だが、最後の最後に信じるべきは自分だ。物でも人でもモノでもない。本来であれば、どんなに時が経とうとも、自分だけが自分を裏切らず、自分だけが自分を愛し続けることが出来る。自分だけが自分で望んだ世界を創作(クリエイト)でき、自分だけが自分を幸せにできる存在なのだ。ただし、それには条件が必要だ。今の碧海聖花には、その条件が揃っていない』


「条件ってなんですか? 言っている意味が分かりません」

 焦って答えを求めるかのように、聖花は頭を左右に振る。


『自ら考えろ。すぐ他者へと答えを求めるな。例えそれで扉の鍵を得たとしても、その次にはまた、違う鍵穴のついた扉が現れる。人生を歩み続けるということは、鍵のかかった扉を閉めては開けてを繰り返すようなモノだ。その度に他者から得た鍵で扉を開けていたら、碧海聖花本来の人生を歩むことなど出来ない』

「ッ」
 正論を突き返されてぐうの音も出ない聖花は、悔し気に下唇を噛み締める。


『自分の人生を、運や他者に頼り切るな。投げやりになるな。人は自分の人生を創作(クリエイト)できる。選びたい道を選べ。必要なのは意図と覚悟と決断。そして、今を生きることだ。向き合うことを恐れるな。戦いから逃げるな。どんな人生の波に抗おうとも、元を正さねば、何も変わりはしない。
 碧海聖花。今自ら命を絶つことが自分の正解か不正解かを考えろ。それとも、本気で今自分の人生を全て投げ出す気なのか? この世界を生きていたくはないのか? 碧海聖花の望みは? 今の碧海聖花が心から創作(クリエイト)したい未来はなんだ?』


「……わ、私はッ」
 聖花はナイフの柄を両手で握りしめる。


「私は、生きたい! 大切な人達と生きてゆきたいです!」

 そう宣言した聖花はナイフの刃先を傀儡愛莉に向ける。
 先程まで不安や恐怖や戸惑いの色で揺れていた瞳が、傀儡愛莉一点に絞られる。


「私は生きる。今も、これからも。そして、大切な人達も守る……貴方の要望には応えない。私は貴方を信じないッ」

 聖花は毅然とした態度でそう断言した。


「ふ~ん。それがあんたの答え?」
 傀儡愛莉はどこか興味なさげに問う。
 聖花深く頷き、ゆっくりと立ち上がる。



 十八時――。

「まぁ、合格点と言えば合格点か」

 傀儡愛莉はそう言って小さく頷く。その瞳には先程までの氷のように凍てつくものはなく、春のような優しい温かさが宿っていた。
 傀儡愛莉と響子は灰色の粒子となり、跡形もなく消えてゆく。


「え⁉」

 驚異する聖花は何事だと視線をさ迷わせ、怯える小動物顔負けにオロオロする。何が起きているのか皆目見当がつかない。


『少しは落ち着け。視線が騒がしい』
「せやかて、二人が灰に……ぇ、何が起こったんですか?」

『守里愛莉はもちろん、碧海響子も傀儡だった。ただそれだけのことだ』
「そ、それだけのことって……。傀儡だとしても、なんで突然灰になったんですか?」


『突然ではない。今回の傀儡はこちらが事前に用意していたものであり、十八時になれば二体は灰になるように設定していた』
「どうしてそんな設定を?」
 聖花は狐に抓まれたような顔をして問う。


『その必要性があったからだ。このことを知った奴は……』

「聖花!」
 聖花が答えを知ることを遮るかのように、雅博がドタバタと音を立てながら、転がるようにリビングに入ってくる。

「お父さん!」
 父の姿を見た聖花は安堵したように身体から力みを手放す。


『油断するな! 飛び退け』

「ぇ?」
 我が子の無事を安堵する雅博は娘を抱きしめる――のではなく、持っていた木刀を聖花に向って振り落とす。


「‼」
 白の忠告によって、聖花の身体は瞬時に木刀から飛び退く。が、滑り止めのついていないスリッパとフローリングの相性が悪くバランスを崩し、左膝をついてしまう。


「ぉ、お父さん?」

 なんの真似? とでも言うように苦笑いを浮かべる聖花の瞳が動揺で揺れ動く。


「ほんまに父親やと思ってるんやな」
 憐憫の眼差しで聖花を見る雅博は嘲笑う。

「ぇ?」
 様子の可笑しい雅博の姿に聖花は戸惑い、目を白黒させる。


「それよりも、聖花は今誰と話してたんや?」
「だ、誰って……」
 冷徹な眼差しを向けながら、苛立ちが滲む声音で問うてくる。聖花はそんな雅博の言葉に上手く答えられない。秘密を抱えるほど、出来る言動も限られてくるのだろう。


「隠さんでもええやん。もしかして脅されてるんか? 大丈夫やさかい。俺にゆーてみ」
 口元に笑みを浮かべながら優しい口調で話す雅博の瞳には、いつもの温かさが感じ取れない。


『面倒な奴だな』

 小さな息を溢す白は例のごとく、白狐ストラップを自身の姿へと変化させた。


「!」
 聖花の瞳には、繊細ながらも威厳と頼りがいのあるスーツ姿の白の背中が映る。

「なっ⁉」
 いきなりのことに驚愕する雅博は足を止める。
 白は脇下まで伸ばされた白髪をサラリと揺らし、肩越しに聖花を見る。


「く……とう、さん?」

 どこまでも美しく整った白の顔に、まだ見慣れていない聖花は息を飲む。驚きで涙は止まってしまったようだ。


「いつ見てもあほ面をしているな。碧海聖花。もう少し聡明な顔は出来ないのか?」

 青みがかかった紫色に、透明感のあるバイオレット・ゾイサイトを彷彿とさせる瞳が、聖花を捉える。形の良い薄い唇と切れ長の目元が微笑を浮かべる姿は、どこか怪しげだった。

「ぁ、ああ、ああんた、だっ、誰やねん? どど、どっから出てきたんや⁉」
 腰を抜かして尻もちをつく雅博は、カタカタと震える指で白を指差す。
 白はそんな雅博を呆れるかのように小さな息を吐く。そんな白の姿にハッとした雅博がまた口を開く。


「分かったで! あんたがうちの大事な娘を狙っていたんやろ?」
 雅博は恨めし気な瞳で白を睨む。それに対し白は、「とんだ猿芝居だな」と、興醒めしたような目で雅博を流し見る。


「ぉ、お父さん! この人はちゃうねん」
「聖花は黙っときぃ!」
 あらぬ誤解に焦る聖花の説明を拒むように雅博は声を上げる。その声には苛立ちと焦りが含まれていた。

「ッ⁉」
 これまで雅博から声を荒げられたことのない聖花は、身体をビクリと震わせる。恐怖で何も言い返せない。


「よくそんな台詞が言えたものだな。白々しい。碧海聖花の命を狙っていたのは其方《そなた》のほうだろう?」


「ぇ? 何を……言ってはるんですか?」
 聖花は怪訝な顔で白の背中を見つめる。零れた声は動揺によって激しく揺れ動く。


「ふ~ん。お見通しってわけか?」
「当たり前だ」
 聖花はクエスチョンマークを頭上に浮かべることしかできない。

「ということは、俺の邪魔してたんはあんたやったってわけか」
 雅博は合点がいったとばかりに話す。

「ぇ?」
 雅博の言葉に聖花の心臓がドクリと跳ねる。そうであって欲しくないという思うのに、聖花の脳内はそればかりで埋め尽くされる。
 一度生唾を呑み込んだ聖花は意を決し、「ぉ、お父さん? なんの話をしてるん?」と、答えを求めた。


「頭の回転が悪いこって。挙句に聡明さの欠片もあらへん。まぁ、ええけど。俺はな、あの日からちょくちょく、手を変え品を変えやってきたんや――せやのに、なぜか知らんけど邪魔されんねん。まぁ、お前の精神力の図太さもあるんやろーけど」

「ま、まって! ちょぉ待ってーな」
 容量がついて行かない聖花は自身を落ち着かせるために、両掌を突き出し、話を制止させる。


「ぉ、お父さん……さっきから、何を言ってるん?」
「何をって……文句?」
「なんの?」
「お前がまだこの世界にいることへの?」
 雅博は小首を傾げながら、さも当然とばかりな口調で言った。

「ッ! ぉ、お父さん……やったん?」
 精神的な打撃を受ける聖花の呼吸が浅くなる。質問するのにも言葉がつまり、スムーズに言葉が出てこない。瞳にはまた涙が滲みだす。


「碧海聖花。目の前の男へとまともに耳をかすな」

 白は聖花の心を庇うかのように凛とした声で言った。


「犯人が俺やったらどないするん? 親子の縁を切るんか? 大体、なんでお前が白狐と繋がりがあるねん? どこでどう繋がったんや?」

 雅博の言葉に呆然とする聖花は一言も発せない。世界の全てを遮断するかのように、フローリングの一点をぼんやり見つめ続ける。頬から伝う涙がフローリングにシミを作った。


「其方に答える理由はない。其方と話すだけ時間とエネルギーの無駄だ」

「さいですか。まぁ、俺もあんたと仲良うするつもりもなければ、興味もあらへんけどな」
 聖花の代わりに答えるかのような白の言葉に対し、雅博はさも興味なさげに言いながら、左小指で左耳を穿る。


「なら、この場から去るか?」

「ありえへんやろ。こちとら時間があらへんねん。本日の深夜零時までに、碧海聖花を朽ちらせなあかへんのや」
 雅博は小指についた粉のような耳垢をふぅ~っと吹き飛ばす。


「⁉」
 いきなり耳に飛び込んでくる物騒な言葉に聖花は目を剥く。


「其方の命と引き換えに……だろう? 駒の命は儚いモノだな」

「五月蠅い!」
 憫笑《びんしょう》する白への腹正しさで眉尻の血管を浮かばせる雅博は、持っていた木刀を白に向って投げつける。
 白はその木刀をいとも簡単にキャッチした。避けることも容易かったが、後ろに聖花がいてはそうはいかないだろう。

 雅博はスリムパンツの左ポケットから小型ナイフを取り出し、二人に見せつけるかのようにしてレザーカバーからナイフの刃をだす。
 傀儡愛莉が所持していた折り畳み式ナイフは、パンケーキナイフのように細身であったが、こちらは包丁のように太い。木製の茎の部分は指にフィットするように波打っており、峰の部分がノコギリ状となっていた。


「そのような陳腐な物で、この私に戦いを挑もうとでも言うのか?」
「まさか。俺はお前と話しをするつもりも、無駄な戦いに時間を消費するつもりもあらへん」
 雅博は首を竦めながら答える。


「ならどうする?」
「お前は今、碧海聖花側にいるんやろ? せやったら……」
 雅博は二人に向けていた刃を自身の首元にむける。


「碧海聖花をこちらへ渡せ。もし渡さへんゆうなら、この命はないと思うんやな」
 その言葉通り、雅博が首に刃当てて腕を右に引いた時点で、雅博の命は危ぶまれるだろう。

「やめてっ!」
 蒼白する聖花は悲鳴のように叫ぶ。


「ふ~ん。聖花は俺の心配をしてくれるんやな。えっらい優しい子に育ったもんや。せやけど、俺の命を守るってことは、自分の命を捨てることになるってわかってるんか?」
「ッ!」
 聖花は言葉につまる。

「碧海聖花。どうしたい? 守里愛莉のときと同じように、自身の命と引き換えにして、目の前の男を救うつもりか?」
 白は正面を向いたまま問う。
 聖花は白の言葉にハッとする。


(恭稲さんはお父さんのことを一度も、“碧海雅博”とは言わず、“この男”とか、“其方”ってゆうてはる。恭稲さんはいつも人のことをフルネームで呼んではった。それに、守里愛莉の時の同じように……って言葉。まるで、同じことを二度も繰り返すな。って言う忠告のようや。もしかして――)
 聖花は白の背中越しに父親の姿を見つめる。

 その姿は、今朝温かい言葉をかけ、優しく抱きしめてくれた面影はどこにもなく、狂気じみた姿だった。
 ある一つの憶測が聖花の脳裏に浮かぶ。だが、それを証明する確証も確信もないのでは、聖花がどうすることもできない。


「碧海聖花、胸の内に秘めているだけでは相手に伝わらない」


――辛いなら辛いと言えばいい。怖いなら怖いと言えばいい。嫌なら嫌と言え。痛いなら痛いと言え。助けて欲しいなら助けて欲しいと言え。伝えなければ何も伝わらない。伝わらない想いは堂々巡りとなるだけで、いつまでも消化されないままだ。


 いつかの日、白に言われた忠告じみた言葉が聖花の脳裏に過る。

 聖花の想いはちゃんとある。だがそれを素直に言葉には出せなかった。契約を破った依頼者が言っていいのか、虫が良すぎる話ではないか……と、うじうじ虫になってしまうのだ。


「碧海聖花、質問を変えよう。私に、どうして欲しい?」

 白は振り返ることなく問う。その声は幼い子に問うかのようにゆっくりとした速度かつ、優しい声音だった。


「ッ」

 聖花は小さく息を飲む。白は聖花の答えを聞かなくとも分かっているのだ。分かっていてなお、聖花の口を開かせようとしていた。

 白は相手が求めていることを、先手先手で行うだけでは意味がないことに、それは時として相手を壊すことになり得ることを知っているのだ。


「――けて」

 項垂れる聖花は自身の震える両手を揺らぐ瞳で見つめながら、擦れた言葉を発す。


「……」

 声が小さいとばかりに、白は無反応を示す。


「た、す……けて」

 途切れ途切れになりながらも、聖花は絞り出すかのように言葉を発す。一度胸の内を言葉にしたことでブロックが外れたのか、聖花は肺に思いっきり息を吸い込んで叫ぶ。


「助けて下さいッ」
「誰を?」
 白はまだ言わせたりないのか、また違う言葉を促す。
「⁉」
 口に出せたことにホッとしていた聖花の身体がまた固くなる。


「碧海聖花。本当の望みの前には、遠慮も躊躇もプライドもリミッターも不要だ。それら全て、ただの足枷にしかならない」


「うっ」

 表層部分の自分でさえ、理解していなかった自分のことを言い当てられた聖花は、耳と胸が痛むとばかりに呻き声を溢す。


「いつまで偽りの望みを望み続けるつもりだ。いつまで、本質を押し殺して生きてゆくつもりなんだ?」

 その言葉に聖花は決心したとばかりに、白の背中を見る。シワ一つついていない上質なスーツの下に隠された骨格は細身であるのにもかかわらず、相手に有無を言わせないオーラに溢れていた。


「わ、私を、助けて下さい。私の、大切な人達を……守って下さいッ。私をこの事件から救って下さい!」

 最初は躊躇したように口にしていた聖花だったが、最後は叫ぶように本願を口にする。


「碧海聖花、私が碧海聖花の本願を叶えることは容易い。だが、碧海聖花は契約を破っている。忘れたとは言わせない」
 身体全体で振り向く白は聖花を見下ろす。


「なっ」
 白に縋った聖花は、まるで話が違うではないか。というように目を丸くさせて呆然とする。
「それは……」
 聖花は自身の浅はかさと甘さを悔いるように下唇を噛み締めた。


「それでも本願を望む覚悟はあるか?」
「ぇ?」

「なんの代償も覚悟も持たぬ者が、すんなり望みを叶えられると思っているのか? 光と闇。陰と陽。メリットとデメリット。その二面性を全て受け入れて初めて、叶えられる望みがある」

「⁉」
 白の言葉が聖花の胸に刺さる。
 聖花は今まで幾度となく願いを望んできた。

 あれになりたい。こうなったら嬉しい。こうだったら良かったのに。そう心の中でぼんやりと思うだけで、どの願いにも着手することなく、願い続けることもなかった。それはきっと――今までの願いは全て聖花の本願ではなかった。ということなのだろう。

 だが、今回ばかりは違う。
 蜘蛛の糸のように細長く垂らされたチャンスの糸を掴み切らねば、聖花は一生後悔することになる。


「私は、これまで通りの平穏な日々を願います。また平和な世界で笑える日々が来るのなら、私はどんな二面性も受け入れます」

「ならば、これまでの碧海聖花は全て捨ててもらおうか」


「え?」
 白の言葉の真意が分らない聖花は当惑する。
 二人に蚊帳の外とされている雅博は痺れを切らし、「さっきからな~にをコソコソしとんねん!」と声を荒げる。


「聖花! さっさとと俺んところにこんかい! せやないと、この命どうなるか分らんでッ」
 雅博は聖花を脅す。先程よりナイフの刃が首に密着し、ほんの少しでも動けば首の皮が捲れるだろう。

「やめて!」
 飛び上がるように立ち上がった聖花は、慌てて雅博の元へ駆け寄ろうとする――が、それは叶わなかった。白が聖花の右手首を掴んだからだ。
 聖花は白の体温の低さにビクリと肩を震わす。


「先程の答えは?」

「そ、それどころやないやないですかっ」
 蒼白して焦る聖花は、白の腕を振りほどこうと自身の腕を振りまくるが、ビクともしない。
 雅博はそれをイライラしながら眺めている。ここで自分が動いては勝ち目がないことを分かっているのだろう。


「碧海聖花は私に願いを望んだ。だが、その願いを自ら叶えに行こうとしている。それがどれだけ無意味なことを理解していないだろう?」

「無意味なんてことないです! だって、私が動かな……」

「それだ」
 白は聖花の言葉を遮るように声を出す。

「へ?」
 聖花は素っ頓狂な声を出し、得意なあほ面を晒す。白の指す“それ”がなんなのか全くもって分からないのだ。


「碧海聖花は信じる力が弱すぎる。弱いが故、すぐ一人で何とかしようと無意味な行動ばかり起こすのだ」


「信じるって……さっきは誰も信じるなって言っていたやないですか」
 話しが矛盾していると、聖花はがぶりを振る。


「そうだ。ただ無意味に信じるのでは馬鹿を見る。自分が一番信じるべきは、深く眠る自分だ。損得などの無意味な計算ばかり始める思考が動く表層部分の自分を信じ切ってはいけない。第六感というもう一人の自分を信じろ。そして、相手を信じることで自分がどうなろうと、それは自分の責任であるという考えを持て。碧海聖花。碧海聖花が今信じる対象はどこだ?」


「それは……」
 聖花は雅博と白を交互に見る。この状況では答えが決まっているようなものだ。


「これまでの私を捨てるとはどういうことなんですか?」


「いつ何時、どんなことが起きようとも、過去の出来事や固定概念、未来へ囚われることなく、“本質で今を生きる”ということだ」


「初めて、答えらしい答えを与えてくれはりましたね」
 聖花の身体からㇷッと緊張の糸が解ける。と同時に、聖花の目元と口元に柔らかさが宿った。


「本当の答えである“本質”は碧海聖花にしか分らぬことだがな」

「分かりました。努力します」
 何かが吹っ切れたように落ち着きを取り戻した聖花は、大きく力強く頷いた。


「努力が無駄にならないことを願っておくとしよう」

 そう言った白は、タップダンスをするようにフローリングでつま先を鳴らす。


「ん?」
「?」
 聖花と雅博は白の唐突な行動に不思議そうな顔をする。
 それは刹那のことで、すぐに雅博の断末魔のような叫び声が響き渡る。


「ぅゔゔわわわああああーッ! っぐ、がはっ!」
「ぉ、お父さんっ⁉」
 手から零れ落ちたナイフを気にもとめず、右手で胸を鷲掴みするかのように掴んだ雅博は、苦痛に耐えるように床で叫び転げる。異様なほどの苦しみかただ。
 雅博の元に駆け寄ろうとする聖花だが、白に手首を掴まれているためそれは出来ない。