「ねぇ、知ってる? 月の出る夜、教室であるおまじないをやると、すごく美人な女の子の幽霊が出るんだって」
「聞いたことある! 確か……ヨウコ様?」
「そうそう! ヨウコ様を無事に呼べたら、一つだけ願いを叶えてくれるんだよ」
「えー! 私だったら何を叶えてもらおう」
薄暗い教室の中、セーラー服を着た少女が神妙な面持ちを浮かべている。
カーテンの隙間からは月明かりが差し込んでいて、とても学生が学校にいていい時間とは思えない。
少女の目の前には、紙皿。少し深みのあるその皿に、水が揺れていた。水面に映る少女の不安そうな顔も、揺らぐ水に合わせてぐにゃりと歪む。
かすかに震える手で、少女はスカートのポケットから小さなソーイングセットを取り出す。そして、クリアケースを開け、まち針を指で摘み上げる。
「…………ヨウコ様、ヨウコ様」
か細い声が、名前を呼ぶ。
まち針を細い指の先にぷつりと刺す。彼女は痛みに目をつむった。
それから針の先を濡らした赤い血液を、紙皿の水の中に垂らす。薄い赤が水に溶けていくようで、思わず見入ってしまう。
しかしすぐに我に返り、少女は言葉を繰り返す。
「……ヨウコ様、どうか姿をお見せください」
しん、と痛いほどの沈黙が突き刺さる。
現れるわけないか、と自嘲しながら、少女は水面から目を逸らす。
そのときだった。
「俺を呼んだのはおまえか」
「えっ?」
突然月明かりを遮るように現れた影。ばっと顔を上げると、少女の前に美しい一人の男が立っていた。着物姿のその男は、どこか浮世離れしている。
息を飲む。それもそのはず。男の頭には、獣耳が、背中の後ろにはふわふわの尻尾が見え隠れしていたのだから。
「えっ……あれ……ヨウコ様、は?」
クラスメイトの女子が話しているのをこっそり聞いた、おまじない。
願いを一つだけ叶えてくれる、幽霊の女の子を呼ぶための儀式。
手順は間違っていなかったはずだ。それなのに、目の前にいるのは息を飲むほど美しい、獣耳の男だ。
戸惑う少女に、男は言った。
「俺が妖狐だ」
「えっ? ヨウコ様って綺麗な女の子の幽霊じゃないんですか!?」
「妖狐は狐のあやかし。幽霊ではなく妖怪だ」
バカめ、と鼻で笑われて、少女は項垂れる。
「じゃあ願いごとを叶えてくれるっていうのもデマかぁ……」
「願い? 俺と契約すれば一つだけお前の望みを叶えてやるが」
妖狐のその言葉にぱっと少女は顔を上げる。その目は希望に満ちていて、表情は明るい。
おまじないを一人で行なっていたときの緊張した面持ちが嘘のようだ。
「叶えてください! 願いごと!」
スカートを揺らして前のめり気味に机に手をつく。指先から血が垂れたが、少女は気にしない。
妖である男を怖がることもなく、ぐい、と顔を近づけた少女に、男の方が思わず身を引く。
嫁入り前の女があまり男に近づくのは良くない、とかたいことを言うので、少女はくすりと笑った。
「妖狐様ってこの世のものではないみたいに美しいけど、中身は人間みたいね」
素敵です、と少女が微笑むと、妖狐はしばらく黙った後、自身の指先をカリ、と噛む。あまりに美しい光景に思わず見入っていると、男は指先からあふれる血を、少女が儀式に使った紙皿の上に一滴垂らした。
「…………飲め」
「………………はい?」
「俺を呼び出したおまえの血。それから妖である俺の血が混ざったこれを飲めば、契約は完了する」
さすれば、おまえの望みを一つ叶えよう。
そう言われて少女は目を瞬かせる。
自分の血と男の血が混ざった水は、少し、いや、かなり気味の悪いものだが、少女にはどうしても叶えてほしい願いごとがあった。
だから、軽率になってしまった。契約の内容も聞かず、紙皿に手を伸ばす。そして、それをぐい、と煽った。
ごくん、と喉の奥に流し込むと、かすかに鉄の香りがした。でも不思議と不快感はない。
「飲みました、妖狐様」
「…………契約成立だな。名前を聞こう」
「つむぎです。あなたは?」
妖狐はふっと優しく笑い、朔だと答えた。
朔はつむぎの前に跪き、低く優しい声を奏でる。
「我、妖狐の王、朔。契約者つむぎの祈りが叶うまで、我の命をもって汝を守り抜くと誓う」
「………………?」
意味が分からない、と首を傾げるつむぎに、朔は呆れたような声を上げた。
つまり、つむぎの願いを叶えるまで、朔が命をかけて守ってくれる、ということらしい。
そんなの良いこと尽くしではないか、とつむぎが恐縮していると、朔が跪いたまま、顔を上げる。
「ではつむぎ。願いが叶った際には汝の魔力を全て我に捧げることを誓ってもらおう」
魔力。魔法を操る力だろうか。そんな便利なもの、あったらとっくに使っている。
どうせ大してないのだろう、とつむぎは二つ返事でかまいません、と答えた。
「…………では、契約成立だ。つむぎ、おまえは何を願う?」
着物を直しながら立ち上がった朔が、つむぎに問いかける。
つむぎの答えは、もう決まっていた…………。
翌日、つむぎはいつも通り登校していた。いつもよりも夜更かししてしまったせいですごく眠たいが、気を抜いていては学校は乗り切れない。
よし、と一人呟き、教室の扉に手をかける。ガラリと開けたその瞬間、全身に冷たい水を浴びせられる。
「ぎゃははは! すげー! タイミングばっちり!」
クラスメイトの下卑た笑い声を聞きながら、つむぎは俯いて唇を噛む。
どうしよう。バケツで水をかけられるなんて思っていなかった。確か体操着があったからそれに着替えて、それから床の掃除。ハンカチしか持っていないので心許ないが、それで髪を少し拭いて、後は自然乾燥でいいだろう。
大丈夫大丈夫、と自分に言い聞かせて顔を上げると、視界に入ったのはつむぎの机。そこにはびりびりに破かれた体操着が置かれていた。
「…………っ」
「ほら、早く着替えろよ。そのままだと風邪ひくぞ?」
意地悪な男子の声に泣きそうになる。噛み締めた唇からじわりと血の味が滲んだけれど、それをやめたら泣いてしまいそうだった。
セーラー服をぎゅっと絞り、少しでも水気を取る。それから二つ縛りにしていた髪も解き、同じように水を床に垂らした。
「うっわ! 神原のせいで床が濡れたじゃん!」
神原というのはつむぎの苗字だ。
床が濡れたのはそもそもつむぎに水をかけてきた男子のせいなのだが、そんなことを言い返す気力もない。
つむぎが黙っていると、相変わらず薄気味悪いな、と暴言を吐かれる。そして、一人の男子生徒がつむぎに歩み寄り、首根っこを掴んだ。
「きゃあ!」
「濡れた床、今すぐ綺麗にしろよ」
「し、します。しますから離してください……!」
その声に応えるように、男はぐい、とつむぎの頭を床に近づけて放した。
濡れた床に膝をつく形になり、ハイソックスにじわりと水が染み込んでいく。
「ほら、床を舐めて綺麗にするんだろ」
信じられない言葉に思わず顔を上げるが、許してくれそうな空気ではない。舐ーめーろ、舐ーめーろ! とコールが湧き上がる。
もちろんそんなことしたくなくて、涙目で唇を噛んでいると、再び男に首元を掴まれる。そして床と顔がくっつくほどに近づけられた、そのときだった。
「誰の許可を得てそいつに暴力を振るっている」
低く、冷たい声が教室に響き渡る。
首元が緩んだ拍子に慌てて男子生徒から距離を取ると、とすん、と誰かにぶつかった。
振り向いた先にいたのは、着物姿の狐耳の男、朔だった。
「え……なに、コスプレ?」
朔の珍しい格好に狼狽えるクラスメイト。そんな有象無象に興味を示すこともなく、朔はつむぎに怪我がないことを確認し、小さく頷く。
そしてつむぎが一人で立てるよう肩をぎゅっと握ると、そっと手を離し、一歩離れる。
その行動でつむぎは昨夜の言葉を思い出す。
『嫁入り前の女があまり男に近づくのは良くない』
水をかけられてずぶ濡れ。しかもいじめられている場面を目撃されてしまった。
そんなシーンだというのに、つむぎの胸の奥がむずむずとくすぐったくなる。
「おい、答えろ。つむぎに暴力を振るっていいと、誰が言った」
威圧的な雰囲気に、つむぎをいじめていた男子生徒たちが息をのむ。
それから冗談めかして笑ってみせた。
「いやいや! 暴力とかそんなんじゃないですって! ただじゃれてただけっすよ!」
「ほう。そうなのか、つむぎ」
視線が一斉に集まり、つむぎは固まる。
暴力なんてそんな……大袈裟なものじゃ、と小さく呟きながら、涙を堪える。
いじめは暴力だ。それ以外の何物でもない。でも、いじめといえば途端に少しやわらかい表現になる。実際に行われていることは、暴力と変わらないのに。
朔がふむ、と小さく応える。
それからふいに着物の上に着ていた羽織をつむぎの肩にかけ、首を傾げる。
「俺は異国の出身でな。この国のことはよく分からないが」
「あー! オニイサンちょっと変わってるっすもんね! 日本ではこれくらい普通っすよ」
「なるほど、普通か」
朔がふっと笑みをこぼしたことに、なぜかつむぎの胸がぎゅっと傷んだ。
頭のおかしいクラスメイト達の言うことを、朔が信じてしまった。助けにきてくれたと思ったのに、この人達に洗脳されてしまった、と。
しかしつむぎは間違っていた。そのことを一瞬で思い知る。
朔は微笑みを浮かべたまま、つむぎをいじめていた中心人物に近づき、首根っこを掴み上げた。
そして、そのまま男子生徒を引きずり、開いている窓の方にぐい、と押し込んだ。
「うわああああ!? 何するんだよ!?」
「じゃれているだけだ。日本では普通なんだろう?」
「やめろ! 落ちる! やめてくれ……!!」
ぐいぐいと無理矢理体を窓の方に押し付けていく。
ここは三階。窓の下は、確かコンクリート。
そう考えた瞬間に、つむぎは弾けるように朔に駆け寄っていた。そして朔の腕に飛びつき、待ってください! と声を上げる。
私ってこんなに大きな声が出るんだ、自分でも驚くほどよく響く声だった。
朔は、自分の腕にしがみつくつむぎを、信じられないものでも見るかのような目で見た。そして、「こいつはおまえに暴力を振るったんだぞ?」と怒りの混じった声で紡いだ。
「そうです、でもだめです。だめなんです。朔様は、そんなことしたらだめです……!」
「なぜそう思う」
「だって朔様は優しいんです……! 優しい人は誰かを傷つけたらいけないんです…………!」
言っていることが無茶苦茶な自覚はあった。でも、必死に紡いだ言葉だった。
朔は優しい。
だって、月の光が差し込むあの孤独な教室で、つむぎがまじないをしたからって、わざわざ出てくる必要なんてなかったのだ。
まだ契約を結ぶ前。何の価値もないつむぎの前に、姿を見せてくれた。話を聞いてくれた。願いを叶えてやると言ってくれた。
そんなに優しい人が、誰かを傷つけていいはずがない。
涙目で訴えるつむぎに、朔は数秒見入っていた。それから小さくため息を吐くと、「もう二度とつむぎに関わるな。もしまた同じようなことがあれば、貴様をここから落とす」と恐ろしいことを言ってのけた。
解放された男子生徒は半べそをかいていて、腰の抜けた体で必死に朔から距離を取る。
分かったな、と繰り返した朔に、こくこくと何度も頷いて、ついには涙を流し始めた。
「それからつむぎ」
「は、はい!」
「昨夜も言ったが、嫁入り前の娘が男の身体に不用意に触るものじゃない」
そう言いながら優しく払い除けられた手を、少しだけ寂しく思うのはどうしてだろう。
朔に触れていた手でぎゅっと借り物の羽織を握りしめると、朔が「行くぞ」と着物を翻す。
「え、ど、どこにですか?」
「この胸糞悪い空間の外だ」
先を歩く朔を追うように、つむぎも小走りで廊下を抜けていく。
学校にいるのに、こんなにも足取りが軽いのは初めてのことだった。
学校を抜け出してやってきたのは、大きな池のある自然公園だった。
濡れた服も少し乾き始めてはいるけれど、やはり肌に張り付いて気持ちが悪い。
ぱたぱたと服を揺らして少しでも乾かそうとしていると、朔がぱっと目を逸らした。
「つむぎ。おまえはもう少し女としての自覚を持つべきだ」
「え……? でも、学校でもあんな感じですし……私のことを女の子として見てくれる人なんていないですよ」
自嘲しながらそんなことを言うと、朔が隣で大きなため息をこぼす。
何か怒らせてしまっただろうか、とおろおろしていると、ふいに真剣な瞳がつむぎを捉える。
「昨日、つむぎが願ったことを覚えているか」
「もちろんです」
私、学校でいじめられていて……友達がいないんです。だから、朔様。朔様が私のお友達になってくれませんか。
つむぎはそう願ったのだ。
たった一人でいい。自分のことを味方してくれる友達。好きになってくれる友達がほしい。
そうしたらきっと、学校で辛いことがあっても、乗り越えられるから、と。
朔は難しい表情を浮かべながら、口元に手をあて、何かを考える素ぶりを見せる。
どうしたのだろうか。
つむぎが首を傾げるのと、朔が再び口を開くのはほとんど同時だった。
「俺はあやかし。大体の願いごとは叶えられる」
「はい、存じております」
「だが……つむぎの願いは叶えられないかもしれん」
「えっ」
それは、優しい朔でさえも、つむぎとは友達になりたくないということだろうか。
人間どころか、あやかしにすら嫌われるなんて、と泣きそうになっていると、朔がふっと優しく微笑む。
「勘違いするな。『友達』にはなれない、と言っただけだ」
「充分ショックですよ…………」
「続きを聞け」
朔が髪をかき上げる。驚くほど絵になって、つむぎは思わず息を飲む。
「つむぎの美しい心根に惹かれた。おまえを『友達』ではなく『伴侶』として迎え入れたい」
予想外の言葉に、つむぎはこてんと首を傾げる。
伴侶。配偶者。結婚相手。そんな関連ワードが頭の中にぽんぽん浮かび、つむぎの頰が真っ赤に染まる。
「その場合、残念ながら願いを叶えることが出来ないままになる。つまり、俺は一生おまえを守り抜く義務があり、つむぎは魔力を俺に捧げる必要もない」
どうだ、魅力的だろう?
そう言って笑う彼が、その提案よりもずっと魅力的だった。
「は、伴侶は……さすがにハードルが高いので…………恋人から、は、どうでしょうか……?」
上目遣いに問いかけたつむぎの言葉に、朔は目を見開く。
恋人、とは何だ。と訊かれてしまい、お互いに好き同士で、結婚の一歩手前の関係です、としどろもどろに答える。
「好き同士! いい響きだ」
「あ…………」
自分が朔のことを好きだ、と伝えたような形になってしまった。
恥ずかしさに俯くと、朔が身を屈めてつむぎの顔を覗き込む。
「では、恋人になろうか、つむぎ」
「…………っ!」
「契約は有効。友達になってほしいというつむぎの願いが叶うその日まで、おまえを守り抜くと誓おう」
まあ、そんな日は来ないがな。と笑う朔に、胸の奥がきゅんと鳴く。
尻尾がゆらゆらと揺れている。触りたいな、でもまた怒られてしまうだろうか。そんな葛藤の末、ちょこんと触れてみると、朔は驚いたように目を丸くした。
「……あやかしの尻尾を触る、という行為は、まぐわいをしてもいいという合図だが、いいのか?」
「まぐわい……? ………………ち、ちがいます! その、尻尾が揺れていて、触りたくなっただけなんです! 深い意味なんてないんです、本当に!」
真っ赤になって答え、触れてしまった手を慌てて引っ込める。
冗談だ、と笑う妖狐に、ほんの少しだけ先行きが不安になりながらも、初めて未来が楽しみだと思うのだった。
「聞いたことある! 確か……ヨウコ様?」
「そうそう! ヨウコ様を無事に呼べたら、一つだけ願いを叶えてくれるんだよ」
「えー! 私だったら何を叶えてもらおう」
薄暗い教室の中、セーラー服を着た少女が神妙な面持ちを浮かべている。
カーテンの隙間からは月明かりが差し込んでいて、とても学生が学校にいていい時間とは思えない。
少女の目の前には、紙皿。少し深みのあるその皿に、水が揺れていた。水面に映る少女の不安そうな顔も、揺らぐ水に合わせてぐにゃりと歪む。
かすかに震える手で、少女はスカートのポケットから小さなソーイングセットを取り出す。そして、クリアケースを開け、まち針を指で摘み上げる。
「…………ヨウコ様、ヨウコ様」
か細い声が、名前を呼ぶ。
まち針を細い指の先にぷつりと刺す。彼女は痛みに目をつむった。
それから針の先を濡らした赤い血液を、紙皿の水の中に垂らす。薄い赤が水に溶けていくようで、思わず見入ってしまう。
しかしすぐに我に返り、少女は言葉を繰り返す。
「……ヨウコ様、どうか姿をお見せください」
しん、と痛いほどの沈黙が突き刺さる。
現れるわけないか、と自嘲しながら、少女は水面から目を逸らす。
そのときだった。
「俺を呼んだのはおまえか」
「えっ?」
突然月明かりを遮るように現れた影。ばっと顔を上げると、少女の前に美しい一人の男が立っていた。着物姿のその男は、どこか浮世離れしている。
息を飲む。それもそのはず。男の頭には、獣耳が、背中の後ろにはふわふわの尻尾が見え隠れしていたのだから。
「えっ……あれ……ヨウコ様、は?」
クラスメイトの女子が話しているのをこっそり聞いた、おまじない。
願いを一つだけ叶えてくれる、幽霊の女の子を呼ぶための儀式。
手順は間違っていなかったはずだ。それなのに、目の前にいるのは息を飲むほど美しい、獣耳の男だ。
戸惑う少女に、男は言った。
「俺が妖狐だ」
「えっ? ヨウコ様って綺麗な女の子の幽霊じゃないんですか!?」
「妖狐は狐のあやかし。幽霊ではなく妖怪だ」
バカめ、と鼻で笑われて、少女は項垂れる。
「じゃあ願いごとを叶えてくれるっていうのもデマかぁ……」
「願い? 俺と契約すれば一つだけお前の望みを叶えてやるが」
妖狐のその言葉にぱっと少女は顔を上げる。その目は希望に満ちていて、表情は明るい。
おまじないを一人で行なっていたときの緊張した面持ちが嘘のようだ。
「叶えてください! 願いごと!」
スカートを揺らして前のめり気味に机に手をつく。指先から血が垂れたが、少女は気にしない。
妖である男を怖がることもなく、ぐい、と顔を近づけた少女に、男の方が思わず身を引く。
嫁入り前の女があまり男に近づくのは良くない、とかたいことを言うので、少女はくすりと笑った。
「妖狐様ってこの世のものではないみたいに美しいけど、中身は人間みたいね」
素敵です、と少女が微笑むと、妖狐はしばらく黙った後、自身の指先をカリ、と噛む。あまりに美しい光景に思わず見入っていると、男は指先からあふれる血を、少女が儀式に使った紙皿の上に一滴垂らした。
「…………飲め」
「………………はい?」
「俺を呼び出したおまえの血。それから妖である俺の血が混ざったこれを飲めば、契約は完了する」
さすれば、おまえの望みを一つ叶えよう。
そう言われて少女は目を瞬かせる。
自分の血と男の血が混ざった水は、少し、いや、かなり気味の悪いものだが、少女にはどうしても叶えてほしい願いごとがあった。
だから、軽率になってしまった。契約の内容も聞かず、紙皿に手を伸ばす。そして、それをぐい、と煽った。
ごくん、と喉の奥に流し込むと、かすかに鉄の香りがした。でも不思議と不快感はない。
「飲みました、妖狐様」
「…………契約成立だな。名前を聞こう」
「つむぎです。あなたは?」
妖狐はふっと優しく笑い、朔だと答えた。
朔はつむぎの前に跪き、低く優しい声を奏でる。
「我、妖狐の王、朔。契約者つむぎの祈りが叶うまで、我の命をもって汝を守り抜くと誓う」
「………………?」
意味が分からない、と首を傾げるつむぎに、朔は呆れたような声を上げた。
つまり、つむぎの願いを叶えるまで、朔が命をかけて守ってくれる、ということらしい。
そんなの良いこと尽くしではないか、とつむぎが恐縮していると、朔が跪いたまま、顔を上げる。
「ではつむぎ。願いが叶った際には汝の魔力を全て我に捧げることを誓ってもらおう」
魔力。魔法を操る力だろうか。そんな便利なもの、あったらとっくに使っている。
どうせ大してないのだろう、とつむぎは二つ返事でかまいません、と答えた。
「…………では、契約成立だ。つむぎ、おまえは何を願う?」
着物を直しながら立ち上がった朔が、つむぎに問いかける。
つむぎの答えは、もう決まっていた…………。
翌日、つむぎはいつも通り登校していた。いつもよりも夜更かししてしまったせいですごく眠たいが、気を抜いていては学校は乗り切れない。
よし、と一人呟き、教室の扉に手をかける。ガラリと開けたその瞬間、全身に冷たい水を浴びせられる。
「ぎゃははは! すげー! タイミングばっちり!」
クラスメイトの下卑た笑い声を聞きながら、つむぎは俯いて唇を噛む。
どうしよう。バケツで水をかけられるなんて思っていなかった。確か体操着があったからそれに着替えて、それから床の掃除。ハンカチしか持っていないので心許ないが、それで髪を少し拭いて、後は自然乾燥でいいだろう。
大丈夫大丈夫、と自分に言い聞かせて顔を上げると、視界に入ったのはつむぎの机。そこにはびりびりに破かれた体操着が置かれていた。
「…………っ」
「ほら、早く着替えろよ。そのままだと風邪ひくぞ?」
意地悪な男子の声に泣きそうになる。噛み締めた唇からじわりと血の味が滲んだけれど、それをやめたら泣いてしまいそうだった。
セーラー服をぎゅっと絞り、少しでも水気を取る。それから二つ縛りにしていた髪も解き、同じように水を床に垂らした。
「うっわ! 神原のせいで床が濡れたじゃん!」
神原というのはつむぎの苗字だ。
床が濡れたのはそもそもつむぎに水をかけてきた男子のせいなのだが、そんなことを言い返す気力もない。
つむぎが黙っていると、相変わらず薄気味悪いな、と暴言を吐かれる。そして、一人の男子生徒がつむぎに歩み寄り、首根っこを掴んだ。
「きゃあ!」
「濡れた床、今すぐ綺麗にしろよ」
「し、します。しますから離してください……!」
その声に応えるように、男はぐい、とつむぎの頭を床に近づけて放した。
濡れた床に膝をつく形になり、ハイソックスにじわりと水が染み込んでいく。
「ほら、床を舐めて綺麗にするんだろ」
信じられない言葉に思わず顔を上げるが、許してくれそうな空気ではない。舐ーめーろ、舐ーめーろ! とコールが湧き上がる。
もちろんそんなことしたくなくて、涙目で唇を噛んでいると、再び男に首元を掴まれる。そして床と顔がくっつくほどに近づけられた、そのときだった。
「誰の許可を得てそいつに暴力を振るっている」
低く、冷たい声が教室に響き渡る。
首元が緩んだ拍子に慌てて男子生徒から距離を取ると、とすん、と誰かにぶつかった。
振り向いた先にいたのは、着物姿の狐耳の男、朔だった。
「え……なに、コスプレ?」
朔の珍しい格好に狼狽えるクラスメイト。そんな有象無象に興味を示すこともなく、朔はつむぎに怪我がないことを確認し、小さく頷く。
そしてつむぎが一人で立てるよう肩をぎゅっと握ると、そっと手を離し、一歩離れる。
その行動でつむぎは昨夜の言葉を思い出す。
『嫁入り前の女があまり男に近づくのは良くない』
水をかけられてずぶ濡れ。しかもいじめられている場面を目撃されてしまった。
そんなシーンだというのに、つむぎの胸の奥がむずむずとくすぐったくなる。
「おい、答えろ。つむぎに暴力を振るっていいと、誰が言った」
威圧的な雰囲気に、つむぎをいじめていた男子生徒たちが息をのむ。
それから冗談めかして笑ってみせた。
「いやいや! 暴力とかそんなんじゃないですって! ただじゃれてただけっすよ!」
「ほう。そうなのか、つむぎ」
視線が一斉に集まり、つむぎは固まる。
暴力なんてそんな……大袈裟なものじゃ、と小さく呟きながら、涙を堪える。
いじめは暴力だ。それ以外の何物でもない。でも、いじめといえば途端に少しやわらかい表現になる。実際に行われていることは、暴力と変わらないのに。
朔がふむ、と小さく応える。
それからふいに着物の上に着ていた羽織をつむぎの肩にかけ、首を傾げる。
「俺は異国の出身でな。この国のことはよく分からないが」
「あー! オニイサンちょっと変わってるっすもんね! 日本ではこれくらい普通っすよ」
「なるほど、普通か」
朔がふっと笑みをこぼしたことに、なぜかつむぎの胸がぎゅっと傷んだ。
頭のおかしいクラスメイト達の言うことを、朔が信じてしまった。助けにきてくれたと思ったのに、この人達に洗脳されてしまった、と。
しかしつむぎは間違っていた。そのことを一瞬で思い知る。
朔は微笑みを浮かべたまま、つむぎをいじめていた中心人物に近づき、首根っこを掴み上げた。
そして、そのまま男子生徒を引きずり、開いている窓の方にぐい、と押し込んだ。
「うわああああ!? 何するんだよ!?」
「じゃれているだけだ。日本では普通なんだろう?」
「やめろ! 落ちる! やめてくれ……!!」
ぐいぐいと無理矢理体を窓の方に押し付けていく。
ここは三階。窓の下は、確かコンクリート。
そう考えた瞬間に、つむぎは弾けるように朔に駆け寄っていた。そして朔の腕に飛びつき、待ってください! と声を上げる。
私ってこんなに大きな声が出るんだ、自分でも驚くほどよく響く声だった。
朔は、自分の腕にしがみつくつむぎを、信じられないものでも見るかのような目で見た。そして、「こいつはおまえに暴力を振るったんだぞ?」と怒りの混じった声で紡いだ。
「そうです、でもだめです。だめなんです。朔様は、そんなことしたらだめです……!」
「なぜそう思う」
「だって朔様は優しいんです……! 優しい人は誰かを傷つけたらいけないんです…………!」
言っていることが無茶苦茶な自覚はあった。でも、必死に紡いだ言葉だった。
朔は優しい。
だって、月の光が差し込むあの孤独な教室で、つむぎがまじないをしたからって、わざわざ出てくる必要なんてなかったのだ。
まだ契約を結ぶ前。何の価値もないつむぎの前に、姿を見せてくれた。話を聞いてくれた。願いを叶えてやると言ってくれた。
そんなに優しい人が、誰かを傷つけていいはずがない。
涙目で訴えるつむぎに、朔は数秒見入っていた。それから小さくため息を吐くと、「もう二度とつむぎに関わるな。もしまた同じようなことがあれば、貴様をここから落とす」と恐ろしいことを言ってのけた。
解放された男子生徒は半べそをかいていて、腰の抜けた体で必死に朔から距離を取る。
分かったな、と繰り返した朔に、こくこくと何度も頷いて、ついには涙を流し始めた。
「それからつむぎ」
「は、はい!」
「昨夜も言ったが、嫁入り前の娘が男の身体に不用意に触るものじゃない」
そう言いながら優しく払い除けられた手を、少しだけ寂しく思うのはどうしてだろう。
朔に触れていた手でぎゅっと借り物の羽織を握りしめると、朔が「行くぞ」と着物を翻す。
「え、ど、どこにですか?」
「この胸糞悪い空間の外だ」
先を歩く朔を追うように、つむぎも小走りで廊下を抜けていく。
学校にいるのに、こんなにも足取りが軽いのは初めてのことだった。
学校を抜け出してやってきたのは、大きな池のある自然公園だった。
濡れた服も少し乾き始めてはいるけれど、やはり肌に張り付いて気持ちが悪い。
ぱたぱたと服を揺らして少しでも乾かそうとしていると、朔がぱっと目を逸らした。
「つむぎ。おまえはもう少し女としての自覚を持つべきだ」
「え……? でも、学校でもあんな感じですし……私のことを女の子として見てくれる人なんていないですよ」
自嘲しながらそんなことを言うと、朔が隣で大きなため息をこぼす。
何か怒らせてしまっただろうか、とおろおろしていると、ふいに真剣な瞳がつむぎを捉える。
「昨日、つむぎが願ったことを覚えているか」
「もちろんです」
私、学校でいじめられていて……友達がいないんです。だから、朔様。朔様が私のお友達になってくれませんか。
つむぎはそう願ったのだ。
たった一人でいい。自分のことを味方してくれる友達。好きになってくれる友達がほしい。
そうしたらきっと、学校で辛いことがあっても、乗り越えられるから、と。
朔は難しい表情を浮かべながら、口元に手をあて、何かを考える素ぶりを見せる。
どうしたのだろうか。
つむぎが首を傾げるのと、朔が再び口を開くのはほとんど同時だった。
「俺はあやかし。大体の願いごとは叶えられる」
「はい、存じております」
「だが……つむぎの願いは叶えられないかもしれん」
「えっ」
それは、優しい朔でさえも、つむぎとは友達になりたくないということだろうか。
人間どころか、あやかしにすら嫌われるなんて、と泣きそうになっていると、朔がふっと優しく微笑む。
「勘違いするな。『友達』にはなれない、と言っただけだ」
「充分ショックですよ…………」
「続きを聞け」
朔が髪をかき上げる。驚くほど絵になって、つむぎは思わず息を飲む。
「つむぎの美しい心根に惹かれた。おまえを『友達』ではなく『伴侶』として迎え入れたい」
予想外の言葉に、つむぎはこてんと首を傾げる。
伴侶。配偶者。結婚相手。そんな関連ワードが頭の中にぽんぽん浮かび、つむぎの頰が真っ赤に染まる。
「その場合、残念ながら願いを叶えることが出来ないままになる。つまり、俺は一生おまえを守り抜く義務があり、つむぎは魔力を俺に捧げる必要もない」
どうだ、魅力的だろう?
そう言って笑う彼が、その提案よりもずっと魅力的だった。
「は、伴侶は……さすがにハードルが高いので…………恋人から、は、どうでしょうか……?」
上目遣いに問いかけたつむぎの言葉に、朔は目を見開く。
恋人、とは何だ。と訊かれてしまい、お互いに好き同士で、結婚の一歩手前の関係です、としどろもどろに答える。
「好き同士! いい響きだ」
「あ…………」
自分が朔のことを好きだ、と伝えたような形になってしまった。
恥ずかしさに俯くと、朔が身を屈めてつむぎの顔を覗き込む。
「では、恋人になろうか、つむぎ」
「…………っ!」
「契約は有効。友達になってほしいというつむぎの願いが叶うその日まで、おまえを守り抜くと誓おう」
まあ、そんな日は来ないがな。と笑う朔に、胸の奥がきゅんと鳴く。
尻尾がゆらゆらと揺れている。触りたいな、でもまた怒られてしまうだろうか。そんな葛藤の末、ちょこんと触れてみると、朔は驚いたように目を丸くした。
「……あやかしの尻尾を触る、という行為は、まぐわいをしてもいいという合図だが、いいのか?」
「まぐわい……? ………………ち、ちがいます! その、尻尾が揺れていて、触りたくなっただけなんです! 深い意味なんてないんです、本当に!」
真っ赤になって答え、触れてしまった手を慌てて引っ込める。
冗談だ、と笑う妖狐に、ほんの少しだけ先行きが不安になりながらも、初めて未来が楽しみだと思うのだった。