「琵加は俺を溺愛した。重く、息苦しいほどに。かと思えば次の瞬間には、美しく整えられた爪で俺の皮膚を裂いた」
彼女にとって、焔幽は愛する男の息子。と同時に……憎らしい女の産んだ子でもあった。
「琵加は穏やかな笑みの裏で、ずっと母を妬んでいたんだろうな。わからぬではない」
愛されない女同士。そのことがふたりの絆を深めていたのだとしたら、焔幽の母に皇帝のお渡りがあった時点でふたりの関係は壊れたのだろう。たとえ一度きりのことでも、二度と友人には戻れない。
「鬼の形相で殴りつけ罵倒する。その後すぐに、女神のごとき慈愛で俺を抱き締める。朝と夜で、昨日と今日で、別人のようになる。琵加という女がわからなくて、ただひたすら恐ろしかった」
彼女は彼女で壊れていたのかもしれない。後宮という場所は女たちを狂わせる。
『愛しているわ』
『あなたなんかを愛してあげるのは世界中で私だけ』
『私だけを見て、私の言葉だけを聞いていなさい』
彼女はそう唱え続けた。
「俺は世継ぎの候補にすらあがっていなかったから、誰も俺に感心など寄せることはなく……世界は彼女とふたりきりだった。まぁたしかに、俺を愛してくれたのは琵加だけだった」
閉ざされた世界のなか、おぞましい愛に溺れ、静かに息絶えていく少年の姿が目に浮かぶようで香蘭の背筋は凍った。
気がついたら叫んでいた。
「違う! 支配は……愛ではない。それを愛と呼んではいけません」
ほの暗いものを抱えている男だとは初めから思っていた。だが、彼の闇は想像していたより真っ黒で底が見えない。
彼は香蘭にほほ笑みかける。その笑みは悲しく、ゾッとするほどに美しい。
「当時の俺にそれを教えてくれる者はいなかった。あの女の愛にすがる以外に生きる術がなかった」
冷えきっているであろう彼の手を握ることも、いつもより小さく見える身体を抱き締めることも、香蘭はしなかった。そんな安っぽい愛で彼の傷が癒えることはないからだ。
彼にとって、女の愛は自分を痛めつけるムチなのだ。
(厭うなどという生優しい感情ではないですね。目を背けたくなるほどの恐怖……)
「転機は長兄の死だった。俺にとっては雲の上のような存在で言葉を交わしたことすらなかったが、国中の期待を一身に背負う優秀な世継ぎだったそうだ」
彼が次の王。みながそう信じていて、当時の瑞国には世継ぎ争いなどありえない話だった。
「ところが、彼の死で状況は一変した。兄はほかにも大勢いたが、これといって有力な者はおらず、いくつもの派閥に分かれ宮中は混乱した」
その事態を誰もが憂い嘆いたが、ただひとり焔幽だけは神に感謝した。
「かつぎあげる神輿として俺の名を思い出す者もいてな。地獄から抜け出す、ただ一度きりのチャンスだと思った。どんな手を使ってでも皇帝になると決意し、成し遂げた」
そこで焔幽の味方になってくれたのが、現在の臣下や夏飛たちだったようだ。
「……琵加という女は?」
絞り出すように香蘭は声を発した。自ら聞いておいて、答えを聞くのが空恐ろしかった。
「死んだよ。力を得た俺に拒絶されて……自死した」
やはり聞かなければよかった。
「鬼は、最期まで鬼だったのですね」
なんという卑劣な女だろうか。最期の瞬間まで、彼の心をムチ打ち続けた。もうとっくに、焔幽の心は修復不可能なほどボロボロだっただろうに。
「それについては俺も偉そうなことは言えない。今でも……長兄の死を幸運だったと思っているからな」
そんなことで鬼のような女と焔幽は同列にはならない。そう言いたかったが、さまざまな感情が頭をグルグルと回り言葉にならなかった。これは怒りだ。香蘭は今、猛烈に腹を立てている。
焔幽はふっと、いつもの彼らしい表情を取り戻した。
「こういうとき、女とは美しい涙を流してみたり、そっと寄り添ってみたりするものじゃないか?」
「……涙は悲しいとき、もしくはうれしいときに流すものです。怒り狂っているときには出てきません」
香蘭の肩は小刻みに震えていた。
泣きそうな顔で彼は笑う。悲しいのだろうか、それともうれしいのだろうか。
「お前のそういうところが……俺はわりと好きだ」
この話はおしまい。そう示すように彼は前を向いて歩き出す。
(忘れられませんが、忘れたふりをしましょう)
彼の過去には二度と触れまい、香蘭はそう決意した。
互いに何事もなかったかのように、予定どおりに公主李蝶の宮に寄った。
一風変わった事件の報がもたらされたのはその日の夜更けのことだった。
六 モグラ、幽鬼退治に駆り出される
月が厚い雲に隠され、暗い夜だった。千華宮、焔幽の室。
香蘭が淹れた茶を飲みながら夏飛の話を聞く。
「幽鬼に襲われた?」
狐につままれたような顔で焔幽は目を瞬いた。
「幽鬼が出るといううわさなら私も聞きましたよ」
香蘭も口を挟む。香蘭はあちこちの妃嬪たちの宮に顔を出しているが、数日前からそんな話題がよく出るようになった。そういえば先ほどの李蝶の宮の女官たちもそんなことを言っていた。
『ときおり、地面から幽鬼の血だらけの手が伸びてくる』
『庭の柳の木に、髪の長い幽鬼が逆さづりになっているそうで』
耳にしたのは、そんな他愛のないうわさ話だ。
「いつものこと、と聞き流しておりましたが」
幽鬼が出ただの出ないだのというネタは、毒にも薬にもならないので頻繁に流行するのだ。もちろん、真実であるケースも多いだろう。
(なにせ、ここは千華宮。この世を恨んで出てくる幽鬼がわんさかいても納得です)
王位争いに敗れた者、無実の罪を着せられ断罪された者、毒殺、暗殺、大虐殺。血と死にまつわる話の宝庫だ。
夏飛は弱った顔で後頭部をかく。
「僕もそう思ってましたよ。また流行り出したな~くらいにね! ところがですよ。今夜は実害が出たのです」
夏飛の話によれば舞台は甘月麗の住まう琥珀宮。そこの護衛をする宦官が幽鬼に襲われ、顔を切りつけられたのだという。
「被害にあった宦官に会ってきましたが、たしかにひどい傷でした。自作自演ってことはまずないと思います」
「幽鬼ではなく、人間に襲われたんじゃないのか?」
焔幽の冷静な意見に香蘭もうなずく。幽鬼が出るといううわさが流行っているなかで夜に怪しげな人影を見ればそう思い込んでも不思議はない。
「ですが、本人があれは絶対に人ではないと。生きている人間とは思えぬ土気色の顔で足がなかった。恐ろしく鋭利な爪で切りつけられたと主張しています」
「……ふむ」
香蘭は夏飛に顔を向ける。
「琥珀宮の人に話は聞きましたか? 誰か怪しい人物を見たとかは?」
「ちょうど今、行ってきたところなんです」
夏飛はズイと身を乗り出し、仕入れてきた情報を報告する。
「女官のひとりがその幽鬼を目撃していたんですよ。彼女もまた、土気色の皮膚で足がなかったと証言しています」
となると、被害者の思い込み説を主張するのは苦しくなるだろうか。
夏飛は首がもげそうなほどに大きくひねって、つぶやく。
「実体のない幽鬼が人を切りつけるってありえるんでしょうか」
「呪い殺すとか生気を奪うとかそういう話は聞いたことがあるが、作り話なのか事実なのかはっきりしないものばかりだな」
焔幽も悩ましげに眉根を寄せた。
香蘭はきっぱりとした口調で言った。
「たいていの場合、人を傷つけるのは生身の人間でしょうね。もし実行犯が幽鬼なら……裏に妖術師がいるはずです」
ふらふらと現世を漂っているだけの幽鬼など、案外とか弱い存在なのだ。せいぜい人をびっくりさせることしかできない。だが、彼らに特殊な力を与えることのできる妖術師がいれば話は変わってくる。妖術師は幽鬼の持つ怨念を増大させ、化物へと作り変えてしまう。
焔幽の眉間のシワはよりいっそう深くなる。
「妖術師……も実在するものなのか、俺にはわからぬが」
「しますよ。少なくとも私はひとり知っております」
そして、その力が本物であることも目の当たりにした。
といっても、見たのは香蘭ではなく蘭朱だが。七十年前までは妖術師はもっと一般的な存在で、作り話などとは誰も思っていなかった。
(時代の流れというやつでしょうか)
だが、妖術はその名のとおり術なのだ。正しく継承し、鍛錬を積めば普通の人間でも会得できるもの。香蘭は妖術師がゼロになっているとは思わなかった。
「わかった、調べよう。香蘭、お前も知っている情報はすべて話してほしい」
「御意」
七十年前だというところを軽くぼかせば必要な情報を彼に与えることは可能だろう。
「にしても」
夏飛が憂鬱そうな顔で天井を仰いだ。
「幽鬼も妖術師も恐ろしいですが、僕は琥珀妃がもっとも恐怖ですよ」
「なにかあったのか?」
「さっさと退治しろ。私の身になにかあったらどうする気なのかと、えらい剣幕で怒鳴られまして」
夏飛はおおげさに身震いし、自身の二の腕を抱く。
「顔、あんなにかわいいのに。詐欺じゃないですか?」
本気でがっかりしている様子がおかしく、香蘭と焔幽はクスクスと笑った。
「彼女があの顔でひとにらみすれば、幽鬼も逃げ出すと思うんですけどね」
最初の事件の時点では三人とも、まだ笑って話をする余裕があった。白状すれば、幽鬼が犯人という説をどこかで疑っていたのだろう。たとえば、被害者の宦官と女官の痴情のもつれとか、なにか納得できるオチがあることを期待していた。妖術師の話題をあげた香蘭でさえそうだった。
ところがだ。事件は一度きりでは終わらなかった。宦官たちが次々に幽鬼に襲われ、被害も少しずつ深刻化していく。とうとう、昏睡状態におちいり目を覚まさぬ者まで出てきてしまった。
「昏睡している被害者でもう四人目か。全員宦官、そして琥珀宮づきか」
疲れた顔でこめかみをトントンと叩きながら、焔幽がつぶやく。
「警備をこれだけ強化しているのに、犯人は煙のように消えてしまって跡形も残らない。となると……」
夏飛の言葉を香蘭がつなぐ。
「実行犯は本物の幽鬼。操っているのは妖術師。妖術師を雇っている者が真犯人でしょう」
妖術師と真犯人がイコールである可能性も現時点では否定できないが。
焔幽の表情はますます険しくなる。彼は妖術師の存在をいまいち信じきれないでいるのだろう。彼らは裏で暗躍するのが生業。史実に華々しく登場したりしないので、それも仕方ないかもしれない。
「普通に推理をするなら、犯人は琥珀妃月麗さまに恨みのある人物ってことになりますうよね?」
夏飛の言葉に焔幽は首を横に振る。
「とも言い切れないんじゃないか? 被害者は宦官ばかり。琥珀妃が狙いなら最初から彼女を襲えばよさそうだし」
「たしかに」
夏飛も焔幽もそれきり黙ってしまった。いろいろと妙な事件なのだ。
「妖術師については、香蘭の知っている情報をもとに探っている最中だ。西方の国々では一般的な存在のようだな」
焔幽の言う西方の国々というのは、瑞より西に位置する『祥』や『隗』のことだろう。蘭朱の時代には辺境の蛮族程度の認識だったが、今やどちらもかなりの大国に成長していた。西大陸の影響を強く受け、瑞とは異なる独自の文化と風習を持っている。
「幽鬼をとらえることはできないので、妖術師の線から探るのが一番の近道でしょうね」
言いながらも、香蘭はそう簡単ではないと思っていた。彼らは目的を果たすと、それこそ幽鬼のようにするりと消えてしまうのだ。
(相手は身を隠し暗躍する術を何十年、何百年と磨いてきたプロですからね)
「そうそう」
夏飛が沈んだ声を出す。
「切羽詰まった現実的な問題がひとつありまして……」
「なんだ?」
「人手不足です!」
聞けば、琥珀宮を担当する宦官たちはすっかりおびえてしまい配置換えや暇を希望する者が続出しているのだそうだ。
「幽鬼に襲われる恐怖、さらにはイラ立つ琥珀妃の怒声。やめたくなるのも道理ですよ」
夏飛は彼らに同情的だ。
「では、私がしばらく琥珀宮に手伝いにうかがいましょうか?」
香蘭の提案に焔幽も夏飛も目を見開いた。
「いやぁ、今の琥珀宮は本当に危険ですよ。いつ五人目の被害者が出るかとみな、ヒヤヒヤしていますから」
あまり香蘭に好意的ではない夏飛ですら心配して止めようとする。焔幽も反対と顔に書いてある。が、香蘭は聞かなかった。こうと決めたら決してひかない、それが胡香蘭だ。
「幸い、体術は得意ですから」
「幽鬼に体術は意味がないだろう」
「怨念を跳ね返す精神力も、千華宮一と自負しておりますし」
「それは否定しないが……」
香蘭は焔幽の反対を強引に押し切る。
「なにより! 月麗さまのお相手をするのに私以上の適任者はいないでしょう」
香蘭、いや宦官の蘭楊は気難しい月麗にも好かれている。
「夏飛さんの説が正解で、犯人は月麗さまに恨みを持つ人物かもしれません。彼女の話を聞くことが事件解決の糸口になるかもですよ!」
(それに、そろそろ月麗さま本人がターゲットになる可能性もありますしね)
香蘭はあのかわいい顔して高慢ちきな彼女のことが結構好きなのだ。