6、夏色の君に願いを込めて。

 全ての恋はシステマティックなのかもしれない。
 だって、恋なんて、結局はどうやって、お互いに惹かれて、お互いのことを理解して、そして、そのまま二人で過ごすのか、それとも、お別れしましょうって、なるのか。
 その程度のことだ。
 その中で、思い出というたくさんの重石をエメラルドとか、サファイアとか、ダイヤモンドとか、そういうメジャーな宝石を紐でくくりつけて、それを心の奥にあるハートにぶら下げる。
 別れたら、その宝石は意識的に切り落としていく。
 バツっ。バツっ。ってハサミで紐を切っていくことで、その人の思い出を忘れていくんだと思う。

 だけど、中には切りたくても無意識が邪魔をして切れない思い出があり、それはきっと、その恋が終わって、何十年経っても、一定の重さを心に与えたまま、自分が死ぬまで一定の質量を与え続けるのかもしれない。

 それを思い出すたびに、つらいのか、それとも青かった切なくて、甘酸っぱい、いい思い出になるのかは人それぞれだと思うけど、多かれ少なかれ、失恋を経験した人は、心にブラ下がったままのカラフルで時折、差し込む光を重厚感ある反射をする、エメラルドとか、サファイアとか、ダイヤモンドとか、そういうのを、カフェで一人、ぼんやりとコーヒーを飲んでいるときに、ふと、思い出すのかもしれない。

 つまり、私が言いたいことは、恋は全てシステマティックになっていて、大きな恋も、小さな恋も、すべて、その人の人生に影響を与え続けるということだ。
 さらに、私が言いたいのは、それは人類が無自覚だけど、意識しているという点、人類すべてに共通しているという点で、システマティックさを感じる。
 だから、私はこの現象のことをこう言おうと思う。
 システマティックロマンス、と。



 かくいう私は、今、海がしっかりと綺麗に見えるベイエリアにあるスターバックスの中で、グラスに入ったアイスコーヒーを飲みながら、さっき思いついたことをiPhoneにかき殴った。
 ――20歳。
 多くのことを学んだようで、学んでいないなと、ふと自分のことを振り返り、左手でアイスコーヒーが入ったグラスを持ち、一口飲んだ。あたりを見回すと、みんなフラペチーノを飲んでいた。
 当たり前だ。
 先週末に発売された期間限定のフラペチーノを飲みたいって、みんなそう思っているから、世の中、全ての商売が成立するんだから。これも恋と同じでシステマティックなんだ。

 高校生までの私は痛かった。
 その行動原理ができあがったのは、きっと、恋を覚えたからかもしれない。

 そして、それらは未だに自分の中でも不可解だと思っているし、私の場合、宝石が心の中にぶら下がっている感覚はなく、宝石を模した、ダイヤモンドカットされた、プラスチックの塊が心の中でまだ、一生懸命にキラキラと輝いているに過ぎなかった。
 小学生の頃までは少なくとも私は痛くなかったと思う。中学2年生で上大内真斗(かみおおちまさと)くんに恋したのが大きな原因だと思う。



 上大内真斗くんは、幼稚園のときから一緒だった。小学校に上がり、4回、同じクラスにもなった。
 
 そして、中学2年生になり、また一緒のクラスになった。そして、奇跡はさらに加速して、上大内くんと、隣の席になった。
 それは夏休みまであと49日になった5月末の出来事だった。ちなみになんで私が、夏休みまでの残り日数をカウントしていたのかというと、単純に学校が嫌いだったからで、この頃の私は小学生の頃、嘘みたいにそこそこ楽しく過ごしていた日々なんてすっかり忘れてしまうくらい、鬱屈していたからだった。

 中学2年生の私にとって、学校へ行く楽しみは上大内くんだけになっていた。



 ゴールデンウィークが終わった直後、日直に当たったとき、日直者の名前と、意味もなく、今日の日付を書く、黒板の右端に『夏休みまであと、65日!』と書いたら、先生に無意味に休みの喪失感を強くするなと、朝の会で言われ、クラスの3分の1程度がクスッと笑った出来事を起こした。
 元々、4月の時点であまりクラスになじめていなかったこともあり、私は簡単にクラスの婦人公論からは外された。

 
 私はそれなりに勉強し、その間も、まだ、上大内くんしか使っていない、消しゴムの包み紙を外して、『上大内真斗♡夏目芽衣香』という表記をじっと見つめて、頬の弛緩を楽しんだ。隣に上大内くんが座っている日々は楽しかった。
 たまに声をかけてくれて、私が、休み時間文庫本を読んでいると、何読んでいるのと聞かれたり、おはよう、暑いな、今日。と言いながら、ワイシャツの胸元を右手でぎゅっと握りながら、バタバタとあおいでいる上大内くんのことを何度も思い出した。
 そのたびに、もっと近づけたら、どんなことになるんだろうって、ずっとワクワクし、そのたびに、胸がピンク色に染まる感覚がした。

 そんな状況下、上大内真斗くんと私の接点ができたのは、消しゴムのおかげだった。

「なあ、夏目芽衣香(なつめめいか)。消しゴムもうひとつ持ってない?」

 上大内くんはすっかり声が変わったばかりの低い声でそう私に聞いてきたから、私の両手は瞬時に汗で滲んだ。
 左隣にいる上大内くんは教室の一番窓側の後側という強運の持ち主だった。
 そして、その隣に私がいて、教室の隅で、二人で並んでいる、この感覚は海の底に潜り始めた小さい潜水艦の窓から、二人で無数の熱帯魚を見ているような気分に思えた。

「うん、いいよ」と私はできるだけ、かわいくて、静かな声を作り、元々、2つ持っていた消しゴムを渡した。
「え、新品だけど、いいの?」と上大内くんが驚いた表情をしながら、私の方を見てきた。

 その間にも授業では三内丸山遺跡の充実ぶりをモデルルームの営業の人みたいに女教師が語っていた。ゴミ捨て場から、ヒスイや土偶がたくさん見つかるくらい、もしかしたら、充実していたのかもって、冗談めいたように女教師は言ったけど、きっと、そのときゴミだと思ったから、捨てたんだよ。

「いいよ、あげる。好きに使って」
「マジ? ありがとう」

 上大内くんはそっと、微笑んでくれた。左側で開け放たれた窓から、強風がブワッと入り込み、上大内くんの髪先が、輝きながら揺れていた。それをずっと見ていたいと思ったけど、上大内くんに変に思われるのは嫌で、再び私は開きっぱなしの教科書に視線を落とした。

 ドキドキする。
 そのドキドキは恋なのか、それとも、スリルなのか――。

 そのときの私はまだ、よくわかっていなかった。だけど、20歳の私が思うにこれはスリルだ。
 だって、貸した消しゴム、紙で覆われた露出していない箇所には、『上大内真斗♡夏目芽衣香』って書いてあったんだから――。
 
 結局、人生で最初と言っていい、恋愛関係での、このスリル体験は私の心の中にキラキラと光って、ぶら下がったままだ。
 そんな上大内くんと1か月後、手を繋ぐことになる――。



 夏休みまで、あと、3日。この日は、期末テストが終わり、誰がどう見ても最高な日だった。
 だけど、依然として、上大内くんから、なにもリアクションが返って来なかったから、私はこのまま、何も起きずに夏休みに入ってしまうのかと思うと、少しだけ嫌になった。

 というか、今更だけど、自分の行動原理が謎だなって、後悔もしていた。そもそも、《上大内真斗♡夏目芽衣香》って書いてある消しゴムを反射的に上大内くんにあげるなんて、どうかしている。
 本当に後先なんて考えていなかったと、あれから一ヶ月も経ったのに今更、後悔し始めていた。

 テストが終わり、この日も私はぼっちのまま、そそくさと、教室を出て、まだ誰もいない、玄関まで直行した。
 玄関はまだ電気がついていなくて、薄暗かった。
 そして、ひんやりした空気が、下校一番乗りであることを教えてくれているように感じた。

 それが唯一の誇りだと、そのときの私はなぜか、そう思っていた。
 一年ちょっとで、薄汚れ、マッキーで書いた自分の苗字が少し黒から、藍色がかり始めた上靴を脱いだ、そのとき、
「夏目芽衣香」と低い声で呼ばれ、え、私と同じくらい早く帰る人がいるの? 
 ってよくわからない考えを思い浮かべながら、左側を向くと、上大内くんが、右手を上げて、立っていた。

「えっ」と私はそう返すのが精一杯で、約3秒間の時が失われたように感じた。

「一緒に――、帰ろう」と、上大内くんは少し詰まり気味に、そう言ったから、私は信じられなかった。
 だって、これ、『夢で見た光景、そのまんまだったから』――。



 という設定にしたら、きっと恋が成就するだろうなと思いながら、私は満足げな気持ちに浸っていた。
 それなりにテスト勉強をしたご褒美が上大内くんと二人きりなんて最高だ。153センチの私の横にいる、上大内くんとはきっと身長差が20センチもある。上大内くんはきっと、170センチを超えているし、それが、大人っぽく感じるし、何より、はたから見たら、それはきっと、理想的な身長差で、私と上大内くんは似合っているに違いないと思った。

「ねえ、夢で見たままだよ」
 当時の私は中二病を拗らせているなんてこと、気にも留めずにそう言ってあげた。そうすることがいい女の条件だし、ロマンティックだと思っていたから。

「なんだよ。それ」と、わりと真剣なトーンで聞き返した上大内くんは、なんでこんなに純粋でかわいいんだろうって、いい女設定のまま、たった一言、そう聞き返してくれた上大内くんに対して、上から目線でそう思った。

「玄関で、話しかけられると思ったんだ。いつか」
 《いつか》と付けたのは、そういう願望がありますよって、アピールだ。ちゃお、りぼん、なかよし、フラワーコミックス。世の中の少女コミックから頂いた、必殺恋愛術だ。

「マンガみたいだな、それ」と軽く笑いながら、返され、図星すぎて、嫌な気持ちになった。
 だけど、この田舎町の潮風は夏らしい潮風をしっかりと運んできてくれていて、潮の香りでその気持ちすらも、一瞬で爽やかな気分になった。
 そこで私は、もうひとつ試してみたいことを思いついた。

「ねえ」
「なに?」
「――帰るだけじゃないよね?」
「えっ」と驚かれてしまい、私の方がむしろ、その3倍くらい驚きそうになったけど、ぐっと我慢した。きっと、上大内くんはこういうことに疎いんだ。だから、こんな、かわいい驚き方をするんだ。だったら、私から、引っ張ってあげるしかない。胸の中で、親がいつも車の中でよく聞いていた、ZARDの《負けないで》のイントロが流れ始めて、私の気持ちは勝手に舞い上がり始めた。

「――二人で、コーラ飲みながら、海見よう」とそっと、言うと、急に顔が熱くなるのを感じた。首から上がり、頬も、そして、耳の先まで一気に血流が巡るのを感じた。

「せっかくだし、そうするか」と上大内くんはそう言って、右手を前に突き出したかと思うと、上大内くんの右手の人差し指の先には赤い自販機があった。



 手に持つコーラは冷たく、そして、太陽はジリジリしている。
 砂浜から続く海岸線の先には半島の先端が見えていて、お椀をひっくり返したような低い山には薄くて白いベールがかかっていて、はっきりしていなかった。

 「そこに座ろう」と上大内くんは、砂浜へ続くコンクリート階段を指さした。
 15時過ぎの平日金曜日。田舎町の浜辺にいる人はまばらだった。数人の人が砂浜の上にレジャーシートを敷いて、海を眺めていたり、海に入っている人の姿が見えた。

 階段に座ると、夏の熱気を感じた。上大内くんとこんなに至近距離になれたのは始めてのことだったし、何より、男の子として意識した友達とこうして、学校以外の場所で横並びになって座るのは単純にドキドキした。
 
 上大内くんはそのあと、なにも言わずに缶を開けて、炭酸が抜ける音が涼しく感じた。
 だから、私も缶を開け、缶から二酸化炭素を排出し、地球温暖化に参加した。フロンガスでオゾン層が破壊されるとか、海面上昇しているとか、そんなのは私にとってどうでもよかった。
 それはきっと、上大内くんにとっても同じで、そんなことよりも、将来、大きくなったときに軌道エレベーターで、月の海原を一望できるホテルに一緒に行ってみたい。
 まだ、そんな関係じゃないけどね。

 上大内くんは缶を口づけ、喉を鳴らして、コーラを飲んだ。
 首を上げたときに喉がぼこっとしているのが見えて、男らしいなって思い、そう思っている自分に急に緊張を感じたから、上大内くんと同じように、私はわざと喉を鳴らしてコーラを飲み始めた。左手で缶を持ったまま、右手を喉に当てると、飲み込むたびに、上下に動く自分の喉を感じた。

 私はそれに満足したあと、なんとなく、いい女風になればいいなと思って、海を眺めることにした。ちょっと前に読んだ、恋愛のコラムで男は追われるより、追うほうが恋に燃えるっていうのを思い出した。

「なんで喉に手あててるの?」
 あ、しまった。喉に手を当てながらコーラを飲む女なんて、全然、魅力的じゃないじゃん。

「――喉ごしにコーラの冷たさを感じるかなって」
 いつもの変な癖が出てしまった。私は私のことが嫌になって上大内くんを見ることができなかった。

「ホント?」と聞かれたから、結局、私は上大内くんを意識的に見ることにした。
 上大内くんがいる左側に視線を向けると、上大内くんは、さっき私がコーラを飲んだときのように、左手で缶を持ち、缶を口に当て、右手を喉にあてていた。
 私はそのことが受け入れられなくて、少しだけ引いた。
 実際に他人がそうやって私の変なところの真似をされると、よくわからない気持ちになる。

「なあ」
「なに?」
「消しゴムみたよ」
「えっ」
 私の中で急に時が止まりそうになり、危うく持っている缶を落としそうになった。
 あー、やらかしてたんだ、私。
 上大内くんへの恋が終わったかもしれない。そう思いながら、恐る恐る上大内くんを見ると、上大内はなぜか優しく微笑んでいた。

「夏目芽衣香」
「ねえ。ここまで来たら……。下の名前で呼んでよ」
 なにかのドラマで言っていたなセリフを焼き回して、小さな声で上大内くんにそう返してあげた。そして、瞬時に頭の中でZARDの《揺れる想い》が流れ始め、恋が始まる予感を私はしっかり味わうことにした。

「じゃあ。……芽衣香」と上大内くんは慎重そうな低い声でそう言ってくれたから、私は運命を受け入れる決意をするために、息を飲んだ。

「大体さ、私と一緒に居てもいいことないと思うよ」
 これも焼き回しのセリフだ。
「芽衣香、違うよ、それは。俺はもっと知りたいと思ったんだ」
「――何を知りたいの」
「全てだよ」
 上大内くんは前を向いたままだったから、私は上大内くんの横顔を眺めていた。制服の白い長袖ワイシャツを腕まくりした腕は、しっかりとした筋肉質で、すこしだけ日焼けしていた。
 耳に少しだけかかっている長めの髪は風で揺れていて、大きいはずの目をあえてなのか、細めながら、海を眺めている、そんな上大内くんは最高に夏が似合うと思った。
 
「――がんばって」
 私も同じ気持ちだよ。いつか読んだ恋愛コラムで、男の子が告白するのを、ためらっていたら、そう言えばあなたの気持ちは伝わるよって。そして、男の子のハードルもぐっと下がるって。

「え、なにを?」
 ――なにを? って決まってるじゃん。
「意外と鈍感なんだね」
 私はそう言って、上大内くんの頬にキスをした。触れた頬は柔らかくて、私が唇をそっと離すと、すでに上大内くんの顔は赤くなっていた。

「やっぱり、変わってるな。そういうところが好きだよ」
 そのあとすぐ、私の唇は簡単に塞がっていた。



 『だから、告白されて嬉しかったよ』
 全ての恋はシステマティックなのかもしれない。

 20歳の私は一通り、自分の恋愛観をiPhoneに書きなぐり終わると、少しだけ気持ちがすっきりした。
 テーブルにiPhoneを置き、スタバの中心から、店内の様子を見渡した。私が自分のなかに潜っている間も、穏やかな空気は変わらないままだった。グラスを持ち、紙ストローでコーヒーを一口飲んだあと、再び、グラスをテーブルに置いた。

 上大内くんとの恋は、結局、一年すら持たなかった。
 付き合い始めて、数ヶ月して、付き合い始めたことをクラスメイトに目撃されて、そこから、二人で付き合っている雰囲気ではなくなり、クリスマスが来る前に自然消滅してしまった。高校も別の学校へ進んでしまったため、本当に接点が無くなってしまった。

 私の痛い価値観を初めて肯定してくれたのは上大内くんだったし、そんな私をしっかり知ろうとしてくれていたのは、今まで知り合った男の子の中でも、上大内くんだけだった。

 みんな、私のことをバカにしたり、もう少しまともかと思っていたとか、そんなことを言って、からかった。言った本人は冗談だと思っているだろうけど、私にしてみたら、やっぱり普通じゃないんだと、そう言われるたびに嫌な気持ちになった。
 そのあとから、私は上手く恋愛ができなくなってしまった。20歳になるまでの間、上大内くんを超えるような人なんて現れなかった。

「おまたせ」と後ろから声がした。
 だから、私はソファの背もたれ越しに振り返ると、そこには20歳になった上大内くんが目の前に立っていた。

「久しぶり。というか、こないだはタイミング合わなくてごめんね」
「いいよ。インスタのアカウント教えてくれたじゃん」
 上大内くんはそう言いながら、私の向かい側に座った。左手にはグラスのアイスコーヒーを片手に持っていた。

「フラペチーノじゃないんだ」
「それはこっちのセリフだよ。店入ったとき、芽衣香の席見たら、フラペチーノじゃないから合わせてみた」
「変なの」と私が答えると、それはこっちも言いたいよと言って、上大内くんは弱く笑った。

 20歳になった上大内くんとの再会は電撃的だった。
 昨日の夕方、駅でばったり会った。私はバイトに行く途中だったから、上大内くんの誘いを断ってしまった。

「声、かけられると思わなかった」
「これを見てもそう思う?」と言いながら、上大内くんは右手を下の方に下ろし、なにかをパンツのポケットから取り出そうとしているように見えた。そして、握った右手をテーブルの真ん中に置き、そして、握っていたものを置いた。

「あのときから、ずっと持ってたよ」

 テーブルには新品に近い消しゴムが置いてあった。私はそれをためらいもなく、手に取り、包み紙を取ると、《上大内真斗♡夏目芽衣香》と消しゴムの表面に書かれていた。

「――つまり」
「やり直そうってこと。あのとき、自然消滅させて、悪かった」
「いいよ」と私はもう、別にいい女ぶる年頃でもないから、そう素直に答えた。

「芽衣香」
「――なに?」
「芽衣香と一緒にいたほうが、絶対よかったよなって思うことがたくさんあったんだ」
「――私もだよ」
「芽衣香のこと、もっと知りたい。『君のことがずっと好きだったから』」

 視線を消しゴムから、上大内くんに向けると、上大内くんは、寂しそうな表情で微笑んでいたから、私は久々に上大内くんのことを知りたいと思った。






「具合悪いのに、よく書けたな」
「私、才能あるから」
 いつもなら、だったらその才能を世に出せって強く言い返していたところだけど、涼葉の血色の悪い顔を見ていたら、そんな気になんてなれなかった。

「面白かったよ」
「――ありがとう」
 涼葉は静かにそう僕に返してくれた。左側の背の高いガラス窓から、午前中の白くて爽やかな光が差し込んでいて、今、座っている場所が少しだけ暑く感じた。もうすぐ10月になるのに、ここだけ夏が戻ったようなジリジリした暑さに感じた。
 
「ただ、心配だよ」
「――実はね、大丈夫じゃないんだ。私」
 涼葉の声は静かすぎて、嘘を嘘と言えるような雰囲気ではないように感じた。というか、きっと、大丈夫じゃないのは本当なんだと思う。
 
 ”自分がこの世界に存在していることを自分の言葉で残したら、かっこいいかなって。”
 
 そう言っていたことを思い出した。まだ2週間も経っていないあの言葉がすべてを語っていたのかもしれないと突然、頭の中で結びつき、そして、まだなにも起きていないのに、嫌な気持ちで息が詰まりそうな感覚がした。

「まさか――」
「そう。そのまさか。余命宣告では1年前に死んでる予定だった」
 その瞬間、A Day in the Lifeが流れ始めた。静かで夢の中みたいな穏やかな曲と、アラームで起こされ、慌ただしい日常が始まる曲が1曲になった世界で、その穏やかな世界が終わるとき、オーケストラのストリングスが徐々に大きくなり、不気味さを作る。
 そして、不気味さで夢から現実に戻る。
 この不気味なストリングスのところだけが、何度も脳内で再生されているように感じた。

「私、1年前には死ぬはずの診断だっただよ」
「待って。もう、余命宣告は受けてたってこと?」
「珍しく察しが悪いね。そうだよ。もう、中学生のときに余命宣告されてたんだ。だから、今、こうして奏哉くんが私と話してること自体、奇跡なんだよ」
 僕は次に涼葉にかける言葉が思いつかなかった。そして、少し前のやりとりをまた思い出した。

 ”もし、人が死んじゃうまでの残りの日数を見ることができるようになったらどうする?”
 ”じゃあ、質問を変えるね。もし、もうすぐ死ぬのが、私だったらどうする”

「あの話、全部、涼葉のことだった」
「気づいちゃった?」
 いつものようにおどけて、そう返す涼葉のあどけない表情はいつも通りだけど、そんな表情、黄色い顔してじゃ、似合わないよ。

「あのとき、言ってくれたこと嬉しかったよ。だから、今日、言うことに決めたんだ」
「なあ」
「なに?」
「カフェインは飲んでも大丈夫なの?」
「ふふっ、なにも脈絡ないじゃん」
「ちょっと待ってて」
 僕はそう言いながら、立ち上がり、カフェの方へ向かった。




 なんとなく、身体を冷やしちゃいけないと思い、ホットのカフェラテを2つカフェで買って、ペンギンみたいな間抜けな歩き方をしながら、涼葉がいるテーブルへ戻った。
 遠くから涼葉を見ると、ノートを広げて、何かを書いているようだった。

 ゆっくり慎重に歩き、ようやっと涼葉の元へ辿り着き、カフェオレが入った紙コップを涼葉の前に置くと、ありがとうと小さな声でそう言いながら、ペンでノートに何かを書き続けていた。
 僕が椅子に座っても、その作業が終わる気配がなかったから、僕はバッグからAirPodsと、iPhoneを取り出した。そして、AirPodsを耳につけた。

「ねえ」
 涼葉は急に書くのをやめて、顔を上げた。
「なに?」
「片耳で聞かせてよ」
「えっ。ダサい曲しか入ってないよ」
「いいの。ビートルズの明るい曲聴きたい気分なの」
 弱く微笑んだ涼葉は左手をこちらに差し出してきたから、僕は左耳のAirPodをとり、そして、涼葉に手渡した。

「なに聴きたいの?」
「そんなのわからないよ。私、ヘルプしか知らないもん」
「わかった。じゃあ、とびっきりダサい曲かけてやる」
 僕はiPhoneでSpotifyを開いて、抱きしめたいを流した。すると、涼葉ふっと鼻で笑ったあと、再び何かをノートに書き始めた。

 


「できたー」
「おつかれ」
 僕がそう返すと、涼葉はペンを机の上に置き、両手を組んだあと、両腕をあげて身体を伸ばした。

 テーブルに置いたiPhoneをタップして待ち受けを表示させると、涼葉がノートに何かを書き始めてから、2時間が経っていた。その間に僕はずっとニュースフィードを見たり、SNSを見ていた。
 その行為は涼葉と比べて、あまりにも無駄に思えた。涼葉の時間は限られているのに。

「ねえ、奏哉くん」
「なに?」
「どんな話、書いたと思う?」
「恋愛小説に決まってるだろ」
「わからないよ。急にミステリーとか書いたらどうする?」
「ノートを閉じて、ビートルズを聴くことに戻る」
「酷いなぁ」
「嘘だよ。どんな小説でも読むよ。涼葉の小説だったら」
「ありがとう。じゃあ読んでね」
 そう言って、涼葉は開きっぱなしだったノートを僕の方に向けて、差し出してきたから、僕は両手でノートを手元に寄せた。