3、君の憂鬱を消し去りたい。

テトラポッドに座る君はぼんやりしていて、
髪の毛先が潮風で弱く揺れている。

夕日に照らされた君のその表情も美しいけど、
君の悩みをすべて消し去る魔法をかけてあげたい。



「悩みなんてないよ」
「そんなわけないでしょ」と僕がそう返すと、菜央(なお)は寂しそうに微笑んだ。

 海辺の小さな街に住んでいる僕たちは、いつも行くところなんてない。
 今日も2両編成の列車を降りて、相当昔に無人になってしまった湿った空気の木造の古い駅舎を通り抜け、廃墟になった小さな商店街を歩いている。
 小学校から、高校3年生まで僕と菜央はずっと一緒だったけど、付き合い始めたのは去年の夏からだった。来年の夏頃にはきっと別な街で暮らしているはずだから、ずいぶんといい季節を菜央と過ごさず無駄にした。

「登校日なんて、なんで無駄なことさせられるんだろう」
「無駄のおかげで久々に菜央と会うことができたから、俺はそれだけで十分だよ」
 夏休みに入ってから、お互いにすれ違い会うことができていなかった。
 
「ねえ。涼生(りょうせい)」
「なに?」
「もし、夢の中で私が死ぬって暗示されたらどうする?」
 唐突なそんな質問に、高3になって急に中二病をこじらせたのかと思った。
 もし、菜央が中二病をこじらせたのなら、僕もこじらせて、黒のTシャツを着て、シルバーの謎の十字架のネックレスをつけて、終末戦争について語ってもいいかなとも思った。
 だけど、今までずっと見てきた菜央にはそんなイメージなんてなかった。

「なんだよ。悩んでるかと思ったらさ、鬱っぽい話して。大丈夫?」
「そうだよね、それが普通の感覚だよね。なんかさ、いちご食べたくない?」
「会話、めちゃくちゃじゃん」
「今すぐ、いちご食べたいから、寄っていこう」
 菜央は駅前通りと国道の交差点にある小さいスーパーを指さしたから、僕はいいよと言って、とりあえず菜央のことを全肯定することにした。



 二人で割り勘して、ボトルのカフェオレ2本と、練乳、500ミリリットルの水、小さいレジ袋、そして、いちごのパックを買った。

 僕がレジ袋を持とうとしたら、今日は持ちたい気分だから持たせて。と菜央に言われたから、僕は菜央のバッグを持つことにした。
 スーパーを出ると、僕たちは無言のまま歩き始めた。菜央はなぜかスーパーを出てすぐに駆け出して、先へ行ってしまった。そのあと歩き始めたから、僕は菜央のことを追いかけることもせず、ただ、菜央の10歩後ろを歩いた。
 目的地まではすぐそこだし、いずれ僕たちはまた横並びになる。道の先が空の青と、海の青で溶けているゆるい下り坂を、菜央は白いレジ袋をぶらぶらさせながら歩いていた。制服のスカートの裾が微温い風で揺れ、チェック柄がグレーのコンクリートからの陽炎で揺れていた。

 僕はそんな8月の午後の夏がずっと続いてほしいと思った。



 いつもの浜辺に着き、いつも持っている白と青のストライプ柄のレジャーシートを砂浜に敷き、二人で肩をくっつけながら座った。
 海はいつものように穏やかで、水平線の先に貨物船がゆっくり進んでいるのが見えた。左手にはテトラポッドが見えていて、その先にコンクリートでできた漁港の湾岸が見えていた。
 こんな田舎の片隅のビーチになんて人が来るはずもなく、今日も浜辺は静かだった。

「追いかけてほしかったな」
「先に行くほうが悪いよ」
「そうだね。いつも涼生はマイペースだもんね」
 棘のある言い方のように感じた。列車降りる前までは普通だったのに、さっきただ単に悩みがあるの? と聞いたあとから、こんな調子だ。どうして急にそんなことになっているのか理解に苦しむよ、僕だって。
 そんなことを考えているうちに菜央はレジ袋から、すべてのものを取り出し、レジャーシートの上に並べた。そしていちごのパックを開けたあと、ペットボトルの水を開け、それをいちごのパックの中に注いだ。水がいちごの表面に跳ね返り、キラキラとしていた。
 菜央はある程度、水が入ったところで、パックに水を注ぐのをやめた。そして、パックを持ち、無数のいちごを右手で押さえながら、パックを砂浜へ傾け、水を切った。

「そのための水だったんだ」
「私、こういう知恵は働くんだ」
 菜央は持っていたパックをレジャーシートに再び置いた。そして、今度は練乳を手に取り、キャップを開けて、右手で練乳をいちごに垂らした。勢いよく出る練乳はいちごの赤と緑を白色に変えていった。

「かけすぎじゃね?」
「いいの。このくらい甘いほうがすきだから」
 菜央が握ったままの赤いチューブからは相変わらず白が下へ落ちていた。
「いいよ。好きにしな」
「私はいつも好き勝手やってる」
 そう言ったあと、ようやくチューブから練乳を出すのをやめてキャップをしめた。そのあと、ボトルのカフェラテを菜央から渡されたから、僕はそれを受け取り、キャップを開け、菜央と乾杯をした。
 一口飲んだカフェオレはまだ冷たく、そして、しっかりとしたほろ苦さが口いっぱいに広がった。

「食べよう」
 左側に座る菜央を見ると、菜央はすでにいちごを食べ始めていた。

「もう、食べてるじゃん」
「めっちゃ美味しい。やっぱり食べたいときに、いちご食べるのって最高だね」
「練乳でドロドロじゃん」
 練乳がいちごのへたについていないものを選び、右手の親指と人差指でつまみ上げ、いちごを口の中に入れた。練乳のかかったいちごは、カフェオレの3倍くらい甘く、酸っぱかった。

「ね、美味しいでしょ」
「こんなに練乳かけたいちご食べたの幼稚園のとき以来だわ」
「じゃあ、美味しいね」
 美味しいとは言っていない。だけど、菜央は一方的にそのいちごを美味しいと決めつけて、ゲラゲラ笑った。帰りの列車の中でも笑ってなかったから、なんだか、久しぶりに菜央の笑顔を見たような気がした。
 そして、ふと、僕は菜央の質問に答えていないことに気がついた。

「――もし、夢で菜央が死んだら悲しむと思う」
「いや、違う」と菜央にすぐに返されて、なんで? って言いたくなったけど、ぐっと我慢することにした。その間に菜央はもう一つのいちごを口に含み、それをしっかりと噛み締めているように見えた。

「私が言いたいのは、夢で私が死にますよって言われて、これが本当に私が死ぬ暗示で、夢をみた数日後に私が本当に死んじゃうってこと」
「それ、暗示じゃなくてお告げじゃん。わかりづらいな」
「だって、さっきは真面目にこの話、取りあってくれなかったじゃん。説明したかったのに。話ちゃんと聞いてよ」
 怒っていた理由はそれか。たまに菜央は冗談で流していいことと、冗談っぽく話が始まって、本気になって聞かなくちゃいけない話題なのかわかりにくいときがある。
 そして、こうして、自分が納得いかないときは決まって、勝手に機嫌が悪くなる。
 だから、僕からしてみたら、いったい、何について怒っているのかわからなくなるときがある。だから、こういうとき、僕は素直に僕のほうが折れることにしている。

「ごめんな。話、聞いてあげてなくて」
「いいよ。許してあげる」
 菜央はにっこりとした笑顔のあと、またすぐに練乳がたくさんついているいちごをパックからつまみ上げ、食べた。

「で、どうする? もし、夢がお告げだったら」
「死因はわからないけど、もし、救えそうな死因だったら、菜央のこと助けると思う。そして、やることはやって、未来を絶対に変えてみせると思う」
「……だよね」
 そうポツリと言って、また菜央は浮かなそうな表情を浮かべた。菜央にとっての正解がわからないよ、それじゃあ。フェルマーの最終定理を証明しようとあがいているみたいな気分だ。
 だから、僕はしばらく黙って、菜央の次の言葉を待つことにした。
 その間も、時折強く風が吹き、レジャーシートの端がめくれては元に戻っていた。そして、いちごは着実にパックの中から減っていった。

「『たまに予知夢、みるときがあるんだ』」
「どういう夢?」
「去年はおじいちゃんが交通事故に遭う夢をみて、その5日後に事故が本当に起きた」
「――あの事故か」
 小さい街だから、ニュースになるレベルの事故はこの街に住んでいたら自然に知っている。

「だけど、菜央のおじいちゃん、今も元気だろ。電柱は倒したけど」
「そうだね。死ぬ予知夢じゃなかったから、よかったけど、もし、私がなにか言ってたら、おじいちゃん事故らなかったんじゃないかなって思うんだ」
「結果論だよ。そんなの」
「もちろん、おじいちゃんは軽いけがだけだったし、車が廃車になったこと以外、大したことなかったけどさ。――『この前ね、』君がね、『死ぬ夢、みちゃったんだ』」
 菜央はすでに涙ぐんでいるように見えた。僕はすっと息を吐き、現実味のないことを告げられたことを冷静に受け入れることにした。
 思わず、手がパックのほうに伸び、そして、いちごをとりあえず食べてみたけど、『ふわふわしたような、嫌な気持ちは消えなかったよ』って、弱々しく言いたくなったけど、僕はそれをぐっと我慢した。

「――どうやって死んだの?」
「わからない。だけど、お葬式に行ってる夢だった」
「ただの夢じゃない?」
「うん。ただの夢だとも思うよ。だけど、おじいちゃんの予知夢みたあとから、そういう怖くてリアリティがある夢をみると怖くなるんだ」
 そう言っている途中から、すでに菜央の頬は濡れて、太陽の光でキラキラしていた。だから、僕は左手で菜央の左頬の涙を拭った。だけど、拭ったあとも、何粒も涙が菜央の頬を濡らした。

「――ねえ」
「なに?」
「私から離れないって誓って」
 僕は菜央が小指を差し出す前に右手の小指を菜央の左手の小指に結んだ。



 3か月ぶりに帰ってきた地元の駅はいつものように寂れていて、ここに帰ってきたんだという現実感が一気にわいた。
 大学生になった僕は夏休みにあわせて帰省した。元々、人付き合いが苦手な僕は積極的にサークルに入ったり、バイトに打ち込むこともせず、ただ、しっかりと講義に出て、読書をして、そして、たまに派遣バイトで、パン工場で働いた。

 寂れた駅前通りを歩きながら、バッグからiPhoneを取り出した。そして、時間を確認し、僕はもう進んでいい時間であることを確認して、iPhoneをポケットに入れた。 
 
 小さなスーパーを通り過ぎ、海へつながる下り坂を歩いていく。坂はオレンジ色に照らされていて、海の青にオレンジが混じっていた。
 去年、白いレジ袋をぶらぶらさせながら、僕の10歩先を歩いていた制服姿の菜央のことをふと思い出した。
 そして、あの日、言われたことを思い出し、僕は少しだけ、そのことを切なく感じた。
 だから、『瑞々しかった過去の出来事になりつつあるのが少しだけ寂しく感じたから、そのまま伝えようと思ったんだ』と、菜央に言おうと僕はそう心に決めた。

 浜辺に着いた。
 だけど、LINEでやり取りしたようにはいかなった。
 
「いないじゃん」
 小声でそう言ったけど、その声を聞いていそうな人影は砂浜にはなかった。僕はため息を吐いたあと、バッグからiPhoneを再び取り出した。そして、左側のテトラポッドの方をみると、見覚えのある人影がテトラポッドの上に座っているのが見えた。
 赤いノースリーブのワンピース姿で座っているのは、絶対に離さないと約束した菜央で、そんなただ、海を眺めている菜央の姿を残したくて、僕はカメラを起動し、iPhoneで菜央の姿を残した。

 話したいことがたくさんあるけど、まず、菜央の憂鬱を消す魔法をかけられるように、その写真をLINEで菜央に送った。







「面白かったよ」
「でしょ? 私、すごいでしょ」
 自分ですごいと思うなら、小説家にでもなればいいのに。iPadか、MacBookでも買ってもらって、ワードで書けよ。今どき手書きでノートって、ものすごく個性的すぎるよ。

「はいはい、すごいね」
「あー、なにそれ。めっちゃあしらってるじゃん」
「自信あるなら、もっと世の中に公表しろよ。なんで僕だけに読ませるんだよ」
「いいじゃん。私は、日比谷くんに読んでほしいから」
 なにも疑いもなく、そう元気よく言う涼葉は一体、何をめざしているのか、僕にはよくわからなかった。

「よくわからないよ」
「えっ、なにが?」
「『』のところ」
「あー、気づいちゃった? そのほうが印象に残るかなって思って」
 大事なところそうな文を『』で括る小説なんて珍しいなって思った。僕の数少ない読書経験のなかでも、そんな小説は読んだことがなかった。

「参考書で大事なところが太字になってるやつと同じってこと?」
「そう、察しがいいね。そのほうがわかりやすいし、伝わりやすいじゃん」
「へぇ」 
 僕は予想したとおりの涼葉の返答に興味が持てなくて、空返事をしてしまった。

「興味なさそうじゃん」
「だけど、面白かったよ」
 僕は続けてそう言うと、涼葉は嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。




 18時を過ぎ、いつものように図書室を締め、鍵を職員室に返した。
 そして、いつものように駅まで涼葉と歩いている。
 
 今日は珍しく、お互いに無言のままだった。落ち込んだとか、喧嘩したとか、特にそんなことは全くなかったと思うけど、涼葉は珍しく、黙ったまま、ただ歩いているからきっとそんな気分なんだろうなと思って、僕も黙ることにした。
 深いオレンジ色に染まったモコモコした雲は立体的に見え、その雲の下の世界はすでに藍色で夜が始まろうとしていた。そんな空を眺めながら、のんびりいつもの下り坂を下っていると、脳内でルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズが流れ始めていた。

 別に歌詞は夕暮れとリンクなんてしてない。ただ、スカイの部分だけが、微かにかすっているだけだ。
 チェンバロの心細い響きと、シンプルなベースライン、そして、ロックオルガンの和音で、レトロフューチャーのように自由に想像したデタラメな未来予想図みたいな雰囲気が好きだった。

「ねえ」
 急に小さな声で涼葉はそう言った。僕はそんな、か弱い涼葉の声を聞いて思わず立ち止まってしまった。
「えっ」
 涼葉は間抜けな声をだして、振り向いた。そのあとすぐ、僕と涼葉の隣をEV車がキーンとしたモーター音を出しながら、ゆっくりと通り過ぎて行った。一瞬、僕と涼葉は、LEDのヘッドライトで照らされた。
 それで僕はわかった。涼葉の頬が濡れていることに。

「公園寄ろう」
 僕がそう言うと、涼葉は小さく頷いた。


 

 公園の自販機で缶のカフェオレを2本買った。そして、1本を涼葉に渡すと、小さな声でありがとうと返してくれた。

 すでに公園は夜になり始めていて、街灯の心細い明かりが並木道に沿って照らされていた。深くなり、もうすぐ緑の頃を終えようとしている木々が、風で弱く揺れていた。僕と涼葉はその道をなぞるように進み、そして、噴水の前にあるベンチに座った。
 座ってすぐ、弱い風が吹いた。まだ夏の余韻を残したままの微温い風で涼葉の後れ毛が揺れた。一体、なんて話かけたらいいかなって少しだけ考えたあと、僕はこう言うことにした。

「とりあえず、飲もう」
 そう言うと、涼葉は小さく頷いてくれたから、少しだけ安心した。そして、お互いに缶を開けて、無言のまま、お互いの缶をあわせて乾杯した。一口カフェオレを飲むと予想した通りの甘ったるさが口の中に一気に広がった。

「ごめんね。別に泣くつもりなんてなかったのに」
 涼葉はぼそっとした声でそう言ったあと、カフェオレをもう一口飲んだ。

「いいよ。誰だって、泣きたいときはあるよ」
「ありがとう。優しいね」
「よく言われる。小学校の卒アルのアンケートでもそう書かれたことある」
「昔からなんだね」
「昔から地味認定されてるんだよ」
「それはそうだと思う」
 僕の自虐で少しだけ涼葉が笑ってくれたから、たまにはそんなことを言ってみるのも悪くなかったなと思った。もう一度、涼葉の横顔を見ると、涙が乾いたあとが頬に残っていた。
 僕はため息を吐いたあと、空を見上げた。
 すでに空は夜になっていて、都会の明るさに負けずに一等星がいくつか白く輝いていた。左側には低い位置に、三日月が浮かんでいた。
 数日後には新月になりそうな、そんな細さだった。

「たまにね、全部に絶望しちゃうときがあるんだ。こんな日々を送っていても意味ないじゃんって」
「そうなんだ。誰でもあるよ。そういうこと」
「――だよね。誰でもあるんだろうね」
 涼葉を肯定したつもりだったけど、肯定することができなかったみたいで、もう少し考えて何かを言えばよかったと僕は思った。

「いや、嘘」
「えっ、嘘なの?」
「誰でもあるわけじゃないよ。絶望することって」
「嘘つきじゃん」
 涼葉はそう言って、ふふっと笑った。だって、そう言わないと、さっき、励ますことが出来なかった分を挽回できないじゃん。なにか補足しなければ、きっと、涼葉は僕に対して失望してしまうかもしれない。だから、僕はさらに話を続けることにした。 

「みんなゲラゲラ笑いながら、過ごしてるんだよ。図書室に引きこもったり、小説読んだり、書いたりなんてする人なんて、ごく一部だってことだよ」
「日比谷くんって、たまによくわからないこと言うよね。そのよくわからなさが面白いけど」
「小田切さんだって、よくわからないよ」
「だったら、私と日比谷くんって似た者同士だね」
「――かもな」
 急に顔が熱くなるのを感じ、僕は思わず、涼葉から視線をそらしてしまった。
 本当に似た者同士なのかもしれない。

「――だけど、もう似た者じゃないのかもね」
 さっきと真逆なことを言われて、僕はもう一度、隣に座っている涼葉に視線を戻した。涼葉はまっすぐ前を向いたまま、目を細めていた。きっと涼葉の視線の先には、僅かな蛍光灯で照らされた噴水が見えているはずだ。

「嘘つきじゃん」
 僕は冗談にしたくて、そう返してしまった。本当ならもっと気の利いたことを言えたらよかったんだろうけど、情けないけど、思いつかなかった。

「昔のことを思い出しただけだよ」
「昔?」
 僕と涼葉が出会ったのは高校生になってからだから、涼葉と昔を共有したことなんてない。
「たまにね、思い出すと胸が苦しくなるんだ。昔のことを思い出すと」
「苦い思い出ってこと?」
「うん――。なんて言えばいいんだろう」
「いいよ、ゆっくりで」
 そう返すと、涼葉は黙ったまま、上を向いた。そして、数秒間、そうしたあと、また視線を僕に戻した。

「――細かい失敗を思い出しちゃうの。なんでもっと、上手く立ち回れなかったんだろうってね」
「トラウマを受け入れられないってこと?」
「そう。そういう気持ちを整理するために小説を書いているのかもしれないね。だから、今、やりたいことはただ、小説を書くことだけだから、付き合ってほしいな」
「いいよ。いくらでも読んでやるよ」
「ありがとう」
 涼葉は弱く微笑んだあと、カフェオレをもう一口飲んだ。


 

 反対方向の電車が先に到着した。
 すでに彼女はいつものような調子を取り戻していたように、また明日ね。と言ったから、じゃあね。と返した。僕がそう言っている間に、涼葉は電車に乗り込み、開いているドアの前に立った。そして、すぐに電車のドアが閉まり、僕は涼葉と切り離された気持ちになった。
 その間もじっと、涼葉は僕のことを見つめてきていた。
 電車が動き出すと、涼葉は胸元近くの高さで右手を小さく手を振ったから、僕もあまり考えもせずに右手を上げて、小さく振った。

 涼葉が乗り込んだ電車が発車してしまうと、ホームは急に静かになった。
 電車は走り去った方を見ると、ゆるくカーブしたホームに沿って、屋根に付いている蛍光灯の白い明かりが緩い角度で右側に孤を描いていた。レールの先は闇で、電車の窓から漏れている明かりと、テールランプ、そして信号機の赤色が闇の中で光っていた。小さい頃、球場でプロ野球を観たとき、ワンナウトのまま、急に調子を崩して、3ランホームランを打たれ、マウンドでうなだれたピッチャーのことを思い出した。

 数人しかいないこのホームが寂しくみえ、急に取り残された気持ちになった。
 だから、ベンチに座り、バッグからAirPodsを取り出し、両耳につけた。そして、iPhoneを取り出し、Spotifyを開き、ダブル・ファンタジーをタップした。
 そして、その中からWomanをさらにタップすると聞き慣れたゆったりとしたイントロが流れ始めた。

 ため息を吐いたあと、別に意識なんてしなくてもすぐに涼葉のことを考え始めていた。
 なんで泣いていたのか、結局わからなかった。公園を出たあと、結局、なにもなかったかのようにいつもの明るさで、ずっとくだらない話をした。
 
 だけど、僕にはわかったよ。
 涼葉はなにかを隠していることを。

 だけど、僕はあれ以上、どうすればよかったんだろう――。
 



「はやくね?」
「今ね、書きたい気持ちが抑えられないんだ」
 カウンターの中で僕の隣に座る涼葉は得意げにそう言った。昨日は図書室の当番じゃなかった。だから、あんなことがあったのにまるでそんなことなんてなかったかのように、いつも通り涼葉と会うことはなかった。
 今日が金曜日で、涼葉が泣いたのが水曜日だったけど、1日、あいだを挟んだような感じはあまりしなかった。

「また2日で書き上げたんだ」
「すごいでしょ。日比谷くん、私、やっぱり天才だと思う」
「はいはい。それよりも読ませろよ。天才ちゃん」
 そう僕が言い終わる前に、涼葉は開いたノートを僕に手渡してきたから、僕はそれを受け取り、いつもの丸字っぽい癖のある文字を読み始めた。