結局、洗濯から乾燥が全部終わるまで、わたしは洗面所にいた。そしたら母が帰宅する時間帯になっていて、母につかまって夕食を作る手伝いをした。料理が出来上がった頃に父が帰ってきて、そのまま三人で夕食。

 おかげで、二階にある自分の部屋に戻るのが遅くなった。
 机の上に置きっぱなしにしていたスマホが、いくつもの受信や着信を知らせて点滅していた。
 大半は、フォローしているアーティストの新着情報を知らせるものだ。気分が乗らないときに見ても、目が滑ってしまう。

「後でしっかり見よう」
 ため息にのせてつぶやいて。
 次の瞬間、息が止まる。

「瑞己くん……!」

 ミュートすることも、ましてやブロックすることなんて、とてもできない。むしろ、相馬瑞己と書かれた新着通知さえスクリーンショットで全部保存しておきたいくらい、大事な存在。特別な名前。
 わたしは無視を続けているのに、どうして?
 おそるおそる、わたしは瑞己くんからのメッセージを表示してみた。

〈そよ先輩、今日の放課後に少しだけ会えませんか?〉
〈カップの修理がうまくいったので見てほしくて。放課後に渡り廊下で待ってます。そよ先輩が来るまで待ってますから〉

 その二つのメッセージがトークルームに届いたのは、朝の始業直前だ。わたしがスマホを家に置き忘れていなかったら、授業のために電源を落とす前、最後にチェックする時間帯。
 さっと背筋が冷える。

「待ってますって、そんな……」

 疑問形でわたしの意思を確かめてからじゃなく、断固とした宣言だ。
 瑞己くんがそんな強い態度に出たのは初めてだった。なのに、わたしはそのメッセージに気づいていなかった。
 わたしの既読がつかない間、瑞己くんはどんな気持ちでいただろう?
 もしかして、本当に宣言どおり、放課後に渡り廊下でずっと待ってたんじゃ……?

「で、でも……ああ、どうしよう?」

 今さら確かめる方法は、本人に尋ねてみるしかない。
 わたしは震える手で返信を打った。

〈ごめんなさい!〉
〈今日は家にスマホを忘れて、帰ってからもちょっと手がつけられなくて、やっと今になってメッセージを見ました〉

 頭を抱えて、ため息をつく。
 その瞬間。
 送ったばかりのメッセージが既読になった。そして間髪をいれず、瑞己くんからの通話が入る。
 さすがに今ここで避けるわけにもいかない。
 わたしは、震える指で通話アイコンをタップした。

「も、もしもし? 瑞己くん……?」

 少し間があった。
 スピーカーから聞こえてきた声は、瑞己くんのものではなかった。

「そよ、すまんな。瑞己はぶっ倒れて、話せる状態じゃねえんだ」
「……登志也くん?」
「正解。真次郎もいるぞ」
「えっ、どういうこと? いや、その前に、瑞己くんが倒れたって、ど、どうして……?」

 ぞっとして、体が震えた。口の中が干上がっていく。
 まさか、あの予知夢が当たってしまったということ?
 瑞己くんがガラスの人形みたいにバラバラに割れてしまう情景。ぐったりした瑞己くんを、登志也くんが抱えている場面。その後は真次郎くんも加わって、深刻な顔で瑞己くんの様子を見ていた。
 目覚めた瞬間から怖くて怖くてたまらなかったあの夢が、やっぱり実現してしまったの?

「そよ! おい、聞いてるのか?」
 真次郎くんが電話の向こうで苛立った声を上げている。

「ご、ごめん。聞いてる。あの、瑞己くんは……」
「体を冷やしたのが引き金で発症、発熱した。喉の腫れから見て、おそらくアデノウイルスによる風邪だな。登志が日課のランニングのために瑞己と落ち合って、まあ今日はこの雨だからジムで落ち合ったらしいが、とにかくそのときに瑞己が倒れたんで、うちのクリニックに担ぎ込んだんだ」

 わたしはへたり込んだ。
「か、風邪?」
「ああ。プール熱とも呼ばれる風邪で、夏場に子供の患者が増える。瑞己は、カフェひよりの姉妹からうつされたんだろうな。あの二人も熱を出したらしいから」
「えっと、ほんとに、普通の風邪……?」

 あの壊れてしまう夢は、このことだったの? 登志也くんが瑞己くんを抱えている様子も、発熱して倒れた瑞己くんを心配している場面だったってこと?
 真次郎くんが冷静な声で言った。

「普通の風邪だ。しかし、高熱が出やすい型で、喉や目をひどくやられることもある。今、瑞己は薬が効いて症状が落ち着いて、ここで眠ってるがな。点滴も打ってやってるから、脱水症状の心配もない」
「そ、そっか」
「気管支や肺に炎症が及んでいる様子はないし、数日ですっきり治るだろう、というのが親父の診断だ」
 真次郎くんのお父さんは内科医だ。わたしのかかりつけ医でもある。

 登志也くんの声が割り込んできた。
「瑞己のやつ、放課後ずっと渡り廊下にいたらしい。今日は気温が低かったし、あそこは雨が降り込んでくるだろ? 肌寒い中、半袖で濡れ続けたせいで、体が冷えたんだ」
「やっぱり、待ってたんだ……」

 登志也くんは事情をわかっているらしかった。ちょっとあきれたような、いくらか怒っているような口調で言った。

「そよのせいとは言わねえよ。妙な意地を張り続けた瑞己自身の責任だ。そよと話したいなら、教室でも家でも訪ねていきゃよかったんだ。そよが来るかどうかを試すようなやり方は、ずるいだろ」

 わたしはかぶりを振った。ぶんぶんと、髪が弾むほど振ったけれど、音声通話の登志也くんにそれが伝わるわけもない。
 涙交じりで震えそうになる声が情けない。それでも喉を振り絞って、ちゃんと言葉にする。

「違う。瑞己くんのせいじゃないよ。わたしが、どうしていいかわからなくて、黙って離れるしかできなくて、そのせいで瑞己くんを戸惑わせて、だから、だから……!」

 そよ、と、わたしを呼ぶ登志也くんと真次郎くんの声が重なった。譲り合う気配があって、結局、真次郎くんの声がわたしに告げた。

「瑞己は悩んでるぞ。そよに避けられる理由の心当たりはないが、可能性は二つ考えられると言っていた。瑞己がうっとうしいことをしたか、そよが瑞己に関する予知夢を見たか」
「予知夢? 瑞己くんがそう言ったの?」

 ふん、と真次郎くんが笑った。
「予知夢のほうで正解か。壊れものの予知夢というやつだな。瑞己が壊れる夢でも見たのか?」
「や、えっと、その……」
「予知夢なんてのは非科学的な話だが、俺だって悪夢にうなされたり、正夢に気づいて変な気分になったり、そういう経験くらいある。そよ、何があった? なぜ瑞己を突き放して苦しめるんだ?」

 淡々として落ち着いた真次郎くんの声を聞くうちに、わたしはとうとう涙を抑えられなくなった。
「あの、あのねっ、夢を見たのが怖くて、どうすればいいかわからなくなって……!」

 うん、と真次郎の静かなあいづち。聞いてるぞ、と登志也くんの冷静な声。
 わたしは我慢するのをやめた。泣きながら、全部打ち明けた。

 昔から、ひとつながりの同じ夢を見続けていること。一連の悲恋の夢に「運命の恋人たちの夢」と名づけていること。その夢の登場人物に瑞己くんが似ていると気づいてしまったこと。
 春休みの頃から、壊れものの予知夢を見るようになったこと。夢のとおりにものを落としたり壊したりする、その場面に必ず瑞己くんが居合わせること。つまり、奇妙な夢に瑞己くんを巻き込んでしまっていること。
 そして、決定的に恐ろしい、壊れものの予知夢を見たこと。瑞己くんがバラバラに壊れてしまう場面と、倒れた瑞己くんのそばで登志也くんと真次郎くんが深刻な顔をしている場面。その夢が怖くて怖くて、もうどうしようもなくなったこと。

「壊れものの予知夢は当たっちゃうの。だから、瑞己くんに何があったらどうしようって……これ以上巻き込んで、危害を与えてしまうくらいなら、離れたほうがいいんじゃないかって、思って……」

 涙で声が詰まる。息が苦しい。胸が痛い。
 結局、あの予知夢は実現してしまったんだ。夢で見た情景ほど恐ろしいことは起こらなかったけれど。

 スピーカーから、ふわっと柔らかな笑い声が聞こえた。
 登志也くんではない。真次郎くんでもない。聞き間違えようがない。

「み、瑞己くん!」

 ふわっと、また笑った声。

「やっぱりそういうことだったんですね、そよ先輩」

 夏風邪で喉が腫れているせいだろうか。瑞己くんの声は、少ししゃがれて、かすれている。

「話、聞いてたの? いつから?」
「電話の最初からです」
「え? 眠ってるって、さっき真次郎くんが……」
「嘘だったんです。ごめんなさい。僕がそよ先輩に電話できずにいたから、登志くんが代わりにかけてくれて、真くんが事情を説明してくれて、僕はそばでずっと聞いてました。あ、真くんちのクリニックで横になって点滴してもらってるのは本当です」

 途中で瑞己くんの声が近くなった。スマホが瑞己くんの枕元に置かれたらしい。
 わたしは何と言っていいかわからなかった。とにかく口をついて出てきたのは「ごめんなさい」だった。

「ごめんなさい、瑞己くん。何日もちゃんと返信しなくてごめんなさい。今日、寒い中で待たせてごめんなさい。風邪をひかせてしまって……」
「そよ先輩」
 さえぎるように、瑞己くんがわたしを呼んだ。
「はい」
「全部わかったから、もういいですよ。大丈夫です。謝らないでください」
「……はい」

 もともと優しい響きの瑞己くんの声は、横たわった姿勢のためか、ますます柔らかく聞こえる。喉が痛むはずなのに、丁寧にしゃべってくれている。胸にじゅわっと染み入るくらいに、その声は優しくて柔らかくて。
 わたしは目を閉じた。目尻から涙があふれた。
 瑞己くんの声がわたしの耳をそっとくすぐる。

「そよ先輩に話したいことがあります。壊れものの予知夢のことです。そよ先輩は、一つ、思い違いをしてますよ。僕、その謎が解けたんです。ガラス細工みたいに僕が壊れてしまったという夢で、謎解きが合ってるって確信しました」
「思い違い? 謎解きって?」

 ちょっと前にも、瑞己くんが予知夢のことでわたしに何か話そうとしていたことがあった。部室で二人で話していたときのことだ。友恵と登志也くんが来たから、尻切れとんぼになっていたけれど。

 話をしたい、と思った。
 瑞己くんと話したい。話すべきこと、伝えるべきことを、ちゃんと全部、言葉にして届けたい。電話越しにじゃなくて、触れられる近さで、目を見て話したい。
 逃げたり避けたり離れたりなんて、できるはずなかったんだ。

 だって、こんなにもそばにいたいと思える人、ちょっと会わないだけで苦しくてたまらない相手なんて、瑞己くんのほかにいないのだから。
 わたしは、どうしようもないくらい、瑞己くんのことが好きだから。

 深呼吸を、一つ。
 声に想いをのせる。

「瑞己くん」
「はい」
「今は、熱があるんだよね?」
「はい。眠ってるっていうのだけは嘘でしたけど、風邪で熱が出ているのは本当です」

 罪悪感で胸がざらつく。でも、謝るのはもういいと言われたから、ぐずぐず繰り返さない。次の言葉を紡ぐ。

「会って話がしたい。だから、風邪が治ったら、会ってもらえませんか?」

 ふわっと笑う気配がスマホから伝わってきた。

「僕もです。熱が下がって登校できるようになったら、連絡しますね」
「待ってる」
「もし、また僕に関わる予知夢を見ても、今度は避けないでくださいね」
「もう避けない。ちゃんと話すから」
「よろしくお願いします。じゃあ、また」

 瑞己くんが言葉を切ると、少し遠くから真次郎くんの声が聞こえた。もう十分だろ、と告げる声だ。瑞己くんがうなずいたようで、真次郎くんが通話を代わった。

「一応、話がついたようだな」
「うん」
「とは言え、そよと瑞己はまだ、直接きちんと話したわけじゃない。今の話は、俺と登志を経由してのことだ。そのへん、きちんとしろよ」
「わかった」

 真次郎くんは盛大にため息をついた。
「まったく、世話が焼ける」
 横で登志也くんが噴き出した。
「とか言って、二人のことをめちゃくちゃ心配して、俺が止める間もなく、すごい勢いで世話を焼いたのは真次郎だろ」
「う、うるさい。登志こそ、瑞己に尋ねもせずに、そよにいきなり電話をかけたくせに」
「おうよ。そりゃあ心配したさ。でも、ま、そよと瑞己がちゃんと二人で話すってんなら、そのときは邪魔しねえよ」
「まあ、そうだな」

 登志也くんも真次郎くんも、びっくりするほど優しい声をしていた。二人が「じゃあな」と口々に言って、通話が切れた。
 へたり込んだ格好のままだったわたしは、もう一度、深呼吸をした。

 会って話したい、と瑞己くんに告げた。瑞己くんはもちろん、登志也くんと真次郎くんも聞いている場面で。
 声にのせたこの想いは、もう、瑞己くんに伝わってしまっているだろう。あの二人も察しているはず。
 思い出したかのように、今になって、胸の鼓動が駆け足で高鳴り始めた。
 でも、逃げ出したいなんて気持ちには、もうならないんだ。

「早く話したい」

 胸の奥がきゅっと痛んで、甘くて苦くて切ない。
 瑞己くんの風邪が早くよくなりますように。

***