六月に入った。夏服への移行期間だ。
蒸し暑いなと思う日が五月のうちから続いていたから、半袖のポロシャツが解禁されて、何となくみんなが浮わついているように見える。
わたしはうまくついていけない。
朝、ぼーっとしたまま長袖のカッターシャツを着てしまって、学校に着く頃には汗ばんでいた。袖を折り返してごまかす。スカートも、分厚い生地の冬服のままじゃ蒸し暑いのに、昨日もまた衣替えをし忘れていた。
しっかりしなきゃ。
休み時間はいつもどおりのふりをしたくて、友達とのおしゃべりの間、笑ってごまかしていた。でも、どうしても、話をちゃんと聞けずにいたみたいだ。
「ねえ、嘉田ちゃんもだよね」
いきなり水を向けられて、びっくりしてしまう。
「え? えっと……」
「どしたの? 顔色悪くない? 早くも夏バテ?」
「あー……ご、ごめん、ぼーっとしてた」
「やだもー、嘉田ちゃんは英語得意だから、ぼーっとしてても小テストいけるんだー」
クラスメイトの曽我さんは、いじけたようなことを言って、笑い飛ばしてくれた。
今年のクラスはとても雰囲気がいい。いじめがないっていう、奇跡みたいなクラスだ。おかげで助かった。
でも、だからといって気を抜いちゃいけない。人の話を聞けないなんて、そもそも失礼きわまりないんだから。
「ごめんね、ほんと。今、ちょっと悩んでることがあって、昨日眠れなかったんだ」
差しつかえがない範囲で打ち明けておく。予防線だ。上手にやらなきゃって計算している。
瑞己くんだったら、きっとこんな計算なんてしないよね。ただまっすぐ一生懸命に、クラスの中で頑張っているはず。それに引き換え、わたしはずるいんだ。
曽我さんは首をかしげた。
「嘉田ちゃんが悩むのって、やっぱり演劇部のこと?」
「あ、まあ……そう、だね」
「んー? 今の微妙な空白は何? もしかして全然違って、恋の悩みだったりする?」
「いや、こ、恋じゃないよっ。ほんと、恋なんて……違う……」
恋とか、とても言えない。もっとシンプルなことだ。
そばにいたい人のそばに、近寄ってはならない。自分で決めたそのルールに苦しめられている。
頭がぐちゃぐちゃだ。
わたし、今、どんな顔をしているんだろう? きっとひどい顔だ。曽我さんが眉をひそめている。
「やっぱ嘉田ちゃん、きつそうだよ。保健室行くとか、いっそ帰っちゃうとかすれば? 無理しないでね」
「ありがとう」
「早く解決すればいいね」
うなずきながら、わたしは考えてしまう。
解決って、何だろう? いつになれば、もう瑞己くんは大丈夫って言えるようになるの? わたしが瑞己くんのことをすっかり忘れてしまえば、瑞己くんは安全になるのかな?
できそうにないよ。でも、何とかしたいよ。
わたしが瑞己くんにとっての疫病神なんだ。守りたいって気持ちに嘘はないのに。
だらだらと間延びしながら過ぎる時間。それでもどうにか、わたしは放課後を迎える。
次の公演の話し合いもしないといけない時期だ。でも、誰も決定的なアイディアをひらめかないみたいで、幸いなことに今日も召集がかからない。
いつの間にか放課後になっていて、部室に行く気の起こらないわたしは、のろのろと帰路に就いた。
このパターンだと、公演の準備は期日ギリギリになって取りかかって、無理やり間に合わせることになるんだろうな。
そうなると、衣装や大道具や小道具を作るのが本当に大変なんだ。今年は作業の速い瑞己くんがいてくれるとはいえ……。
「……ダメだ。危険だよね」
悪夢の残像が頭の中によみがえる。
でも、わたしが声をかけなくても、誰かが瑞己くんを公演の手伝いに呼ぶんじゃない?
わたしは、それじゃあ、どうすればいい?
何が正しいのか、もう全然わからない。眠れなくて、考えることに集中できなくて、瑞己くんと話したくて、〈ごめんなさい〉のメッセージがまた届いたことも心苦しくて。
ふと。
突然。
「そよちゃん?」
肩を叩かれて、わたしはビクッと固まった。半端に肩に引っかけただけのリュックを、思わず取り落とす。
あーあ、と言いながらリュックを拾ってくれたのは、友恵だった。
「やっぱりおかしくなってる。そよちゃん、何があったの?」
「と、友恵……」
「当ててあげようか? 土曜日に話してた悪夢のことでしょ。正夢が本当になるのが怖くて、相馬を避けてる」
友恵は、わたしにリュックをきちんと背負わせると、わたしの手を引いて歩きだした。
わたしは引っ張られて歩きながら、顔を上げられない。
「だって、どうしていいかわからなくて」
「詩乃ちゃんだっけ。あの子に言われたこと、気にしてるの?」
「だって……」
「だってだってって、そういうのはストップ。そよちゃんのせいで相馬に負担がかかってるなんて、あたしは思わないけどな」
「でも……」
「でももストップ。あたしがそよちゃんを捜して追いかけてきた理由、教えてあげる。相馬に頼まれたからだよ」
「え?」
顔を上げると、友恵はわたしのほうをチラッと振り向いた。小さい子供の面倒を見るときみたいな、やんわりした微笑み方をしている。
「教室でね、ガチガチに緊張した相馬が、『そよ先輩のことで』って相談しに来たんだ。相馬のほうから話しかけてきたのは初めてだよ。ちょっとびっくりした。相馬は、そよちゃんのために必死になってた」
「そんな、わたし……」
言葉が紡げない。何を言ったらいいか、わからないんだ。
「相馬のこと、避けてるんだって? どうして?」
「壊れものの夢が当たったら困るから。わたしと関わってると、瑞己くんが危ない目にあうかもしれない。そんなの嫌だ」
「そよちゃんと顔を合わせなかったら、相馬は安全なの?」
「わからない。だけど、それしか思いつかなくて」
友恵はため息をついた。
「それならそうと、相馬にも伝えてやればいいのに」
「もし伝えたら、瑞己くんはきっと『自分は大丈夫』って言って、今までどおりにしようとする。わたしはそれが怖い。ねえ、友恵。このこと、瑞己くんには教えないで。お願い」
振り向いた友恵は、ふふっ、と柔らかく笑った。
「同じこと言うんだ」
「誰と?」
「相馬に決まってるでしょ。『あたしがそよちゃんの考えを聞いてきて、相馬に伝えようか?』って提案したら、相馬は『教えてくれなくていい』って。そよちゃんの様子が心配だから見てきてほしいけど、そよちゃんとは自分で直接話したいらしいよ」
「え……?」
「あたしも相馬に賛成だな。だから、あたしは、今そよちゃんから聞いたことを相馬に言わない」
「と、友恵、それじゃ、あの予知夢は……」
「予知夢についても、相馬は気づいたことがあるんだって。大丈夫だと思うよ。相馬はあのとおり怖がりだけど、そよちゃんの予知夢のことは少しも怖がってないもん」
友恵がわたしの手をしっかりと握り直した。のろのろとして足運びが乱れるわたしを、背筋を伸ばして堂々とした早足で、前へと導いてくれる。
ぐるぐると考え続ける頭がこんがらがって、八方ふさがりだ。思考の迷路の出口が見えない。答えはおろか、声すら出なくなってきたわたしは、ただ黙ったまま歩を進める。
友恵は明るく言い放った。
「そよちゃんは、まず休みなよ。悪いほうにしか考えが向かってないでしょ。それ、よくないよー?」
そうなのかな?
頭の中のこのぐるぐるをいったん止めたら、いいアイディアが何か浮かぶ?
……そうなったら、いいけどな。
「ねえ、友恵」
「うん?」
「こんなに胸が苦しくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、瑞己くんのことを考えるとわけがわからなくなっちゃうのは、恋、なのかな……」
何てありふれた台詞。声に出したら、自分がどれだけバカなのか、痛いくらいにわかってしまった。
「あたしが答える必要、ある?」
ちょっとからかうような友恵の言葉に、わたしはかぶりを振った。
わかってる。
もう、どうしようもないくらい、わかってるんだ。
涙をこらえるので精いっぱいだった。
こんなんじゃ、きっと今夜もろくに眠れない。
***
蒸し暑いなと思う日が五月のうちから続いていたから、半袖のポロシャツが解禁されて、何となくみんなが浮わついているように見える。
わたしはうまくついていけない。
朝、ぼーっとしたまま長袖のカッターシャツを着てしまって、学校に着く頃には汗ばんでいた。袖を折り返してごまかす。スカートも、分厚い生地の冬服のままじゃ蒸し暑いのに、昨日もまた衣替えをし忘れていた。
しっかりしなきゃ。
休み時間はいつもどおりのふりをしたくて、友達とのおしゃべりの間、笑ってごまかしていた。でも、どうしても、話をちゃんと聞けずにいたみたいだ。
「ねえ、嘉田ちゃんもだよね」
いきなり水を向けられて、びっくりしてしまう。
「え? えっと……」
「どしたの? 顔色悪くない? 早くも夏バテ?」
「あー……ご、ごめん、ぼーっとしてた」
「やだもー、嘉田ちゃんは英語得意だから、ぼーっとしてても小テストいけるんだー」
クラスメイトの曽我さんは、いじけたようなことを言って、笑い飛ばしてくれた。
今年のクラスはとても雰囲気がいい。いじめがないっていう、奇跡みたいなクラスだ。おかげで助かった。
でも、だからといって気を抜いちゃいけない。人の話を聞けないなんて、そもそも失礼きわまりないんだから。
「ごめんね、ほんと。今、ちょっと悩んでることがあって、昨日眠れなかったんだ」
差しつかえがない範囲で打ち明けておく。予防線だ。上手にやらなきゃって計算している。
瑞己くんだったら、きっとこんな計算なんてしないよね。ただまっすぐ一生懸命に、クラスの中で頑張っているはず。それに引き換え、わたしはずるいんだ。
曽我さんは首をかしげた。
「嘉田ちゃんが悩むのって、やっぱり演劇部のこと?」
「あ、まあ……そう、だね」
「んー? 今の微妙な空白は何? もしかして全然違って、恋の悩みだったりする?」
「いや、こ、恋じゃないよっ。ほんと、恋なんて……違う……」
恋とか、とても言えない。もっとシンプルなことだ。
そばにいたい人のそばに、近寄ってはならない。自分で決めたそのルールに苦しめられている。
頭がぐちゃぐちゃだ。
わたし、今、どんな顔をしているんだろう? きっとひどい顔だ。曽我さんが眉をひそめている。
「やっぱ嘉田ちゃん、きつそうだよ。保健室行くとか、いっそ帰っちゃうとかすれば? 無理しないでね」
「ありがとう」
「早く解決すればいいね」
うなずきながら、わたしは考えてしまう。
解決って、何だろう? いつになれば、もう瑞己くんは大丈夫って言えるようになるの? わたしが瑞己くんのことをすっかり忘れてしまえば、瑞己くんは安全になるのかな?
できそうにないよ。でも、何とかしたいよ。
わたしが瑞己くんにとっての疫病神なんだ。守りたいって気持ちに嘘はないのに。
だらだらと間延びしながら過ぎる時間。それでもどうにか、わたしは放課後を迎える。
次の公演の話し合いもしないといけない時期だ。でも、誰も決定的なアイディアをひらめかないみたいで、幸いなことに今日も召集がかからない。
いつの間にか放課後になっていて、部室に行く気の起こらないわたしは、のろのろと帰路に就いた。
このパターンだと、公演の準備は期日ギリギリになって取りかかって、無理やり間に合わせることになるんだろうな。
そうなると、衣装や大道具や小道具を作るのが本当に大変なんだ。今年は作業の速い瑞己くんがいてくれるとはいえ……。
「……ダメだ。危険だよね」
悪夢の残像が頭の中によみがえる。
でも、わたしが声をかけなくても、誰かが瑞己くんを公演の手伝いに呼ぶんじゃない?
わたしは、それじゃあ、どうすればいい?
何が正しいのか、もう全然わからない。眠れなくて、考えることに集中できなくて、瑞己くんと話したくて、〈ごめんなさい〉のメッセージがまた届いたことも心苦しくて。
ふと。
突然。
「そよちゃん?」
肩を叩かれて、わたしはビクッと固まった。半端に肩に引っかけただけのリュックを、思わず取り落とす。
あーあ、と言いながらリュックを拾ってくれたのは、友恵だった。
「やっぱりおかしくなってる。そよちゃん、何があったの?」
「と、友恵……」
「当ててあげようか? 土曜日に話してた悪夢のことでしょ。正夢が本当になるのが怖くて、相馬を避けてる」
友恵は、わたしにリュックをきちんと背負わせると、わたしの手を引いて歩きだした。
わたしは引っ張られて歩きながら、顔を上げられない。
「だって、どうしていいかわからなくて」
「詩乃ちゃんだっけ。あの子に言われたこと、気にしてるの?」
「だって……」
「だってだってって、そういうのはストップ。そよちゃんのせいで相馬に負担がかかってるなんて、あたしは思わないけどな」
「でも……」
「でももストップ。あたしがそよちゃんを捜して追いかけてきた理由、教えてあげる。相馬に頼まれたからだよ」
「え?」
顔を上げると、友恵はわたしのほうをチラッと振り向いた。小さい子供の面倒を見るときみたいな、やんわりした微笑み方をしている。
「教室でね、ガチガチに緊張した相馬が、『そよ先輩のことで』って相談しに来たんだ。相馬のほうから話しかけてきたのは初めてだよ。ちょっとびっくりした。相馬は、そよちゃんのために必死になってた」
「そんな、わたし……」
言葉が紡げない。何を言ったらいいか、わからないんだ。
「相馬のこと、避けてるんだって? どうして?」
「壊れものの夢が当たったら困るから。わたしと関わってると、瑞己くんが危ない目にあうかもしれない。そんなの嫌だ」
「そよちゃんと顔を合わせなかったら、相馬は安全なの?」
「わからない。だけど、それしか思いつかなくて」
友恵はため息をついた。
「それならそうと、相馬にも伝えてやればいいのに」
「もし伝えたら、瑞己くんはきっと『自分は大丈夫』って言って、今までどおりにしようとする。わたしはそれが怖い。ねえ、友恵。このこと、瑞己くんには教えないで。お願い」
振り向いた友恵は、ふふっ、と柔らかく笑った。
「同じこと言うんだ」
「誰と?」
「相馬に決まってるでしょ。『あたしがそよちゃんの考えを聞いてきて、相馬に伝えようか?』って提案したら、相馬は『教えてくれなくていい』って。そよちゃんの様子が心配だから見てきてほしいけど、そよちゃんとは自分で直接話したいらしいよ」
「え……?」
「あたしも相馬に賛成だな。だから、あたしは、今そよちゃんから聞いたことを相馬に言わない」
「と、友恵、それじゃ、あの予知夢は……」
「予知夢についても、相馬は気づいたことがあるんだって。大丈夫だと思うよ。相馬はあのとおり怖がりだけど、そよちゃんの予知夢のことは少しも怖がってないもん」
友恵がわたしの手をしっかりと握り直した。のろのろとして足運びが乱れるわたしを、背筋を伸ばして堂々とした早足で、前へと導いてくれる。
ぐるぐると考え続ける頭がこんがらがって、八方ふさがりだ。思考の迷路の出口が見えない。答えはおろか、声すら出なくなってきたわたしは、ただ黙ったまま歩を進める。
友恵は明るく言い放った。
「そよちゃんは、まず休みなよ。悪いほうにしか考えが向かってないでしょ。それ、よくないよー?」
そうなのかな?
頭の中のこのぐるぐるをいったん止めたら、いいアイディアが何か浮かぶ?
……そうなったら、いいけどな。
「ねえ、友恵」
「うん?」
「こんなに胸が苦しくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、瑞己くんのことを考えるとわけがわからなくなっちゃうのは、恋、なのかな……」
何てありふれた台詞。声に出したら、自分がどれだけバカなのか、痛いくらいにわかってしまった。
「あたしが答える必要、ある?」
ちょっとからかうような友恵の言葉に、わたしはかぶりを振った。
わかってる。
もう、どうしようもないくらい、わかってるんだ。
涙をこらえるので精いっぱいだった。
こんなんじゃ、きっと今夜もろくに眠れない。
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