瑞己くんがゆっくり歩いていたのは、顔のほてりを冷ますためだったのかもしれない。

 図書館の裏手は住宅地になっている。江戸時代からの由緒ある土地柄で、かつては上級武家の住むエリアだったらしい。今でも、上等な庭つき一戸建てが並んでいる。
 その住宅地の入口に、こぢんまりとしたカフェがある。それが目的の場所だった。

「カフェひより? 聞いたことある気がする」

 わたしは首をかしげた。
 お店の看板は手作りみたい。フレームは、木切れや松ぼっくりやドライフラワーをセンスよく組み合わせてあって、ナチュラルな感じが素敵だ。そのフレームの中に、元気いっぱいな子供の字みたいなフォントで店の名前が書かれている。
 この看板も見覚えがある。どこで見たんだっけ?
 瑞己くんは店のドアを開けて、どうぞ、と手振りで示した。わたしはエスコートに従って、ドアをくぐった。

「いらっしゃいませ」

 女の人と女の子の声がいくつか重なった。かわいらしい店内を見回すと、四重奏だったらしい。
 カウンターテーブルの内側に、三十代半ばかな、という年頃の女の人。
 その対面に、中学生と小学生の姉妹らしき女の子たちが座っている。
 キッチンから顔を出したのは、大学生っぽい女の人。
 店内のお客さんは、読書をしているマダムや新聞を広げたおじいさん、ケーキを食べているおばあさんの二人連れだ。常連さんなんだろうか。落ち着いた空気が店内に満ちている。

 カウンターテーブルの女の人が、おっとり優しい声で、わたしと瑞己くんに言った。
「お待ちしていましたよ。瑞己くん、来てくれてありがとう。窓際のテーブル席にどうぞ」

 姉妹がサッと立って、席まで案内してくれた。
 椅子に腰掛けると、姉妹のうちお姉ちゃんのほうがメニューを出してくれながら、てきぱきと自己紹介した。

「このカフェで母の手伝いをしています。(ふう)()といいます。中一です。こっちは妹の()()。小二です」
 あっちにいるのが母、と言って、楓子ちゃんはカウンターテーブルのほうに目を向けた。

 瑞己くんはわたしの対面に座りながら、そわそわと視線をさまよわせている。
 詩乃ちゃんが、じとっとした目で瑞己くんを見すえていた。

「瑞己兄ちゃん、『友達を連れてくる』って言って、怪しいなって思ってたら、やっぱり女の人を連れてきたのね」
「と、友達って言ったっけ? いや、えっと、先輩なんだよ。学校で、お世話になってるっていうか……」
「そんなにあわてて、変なの」

 詩乃ちゃんはぷいっと顔を背けた。ほっぺたをふくらませているのがかわいい。
 瑞己くんのことが大好きなんだろうな。だから、わたしなんかに焼きもちを焼くんだ。
 楓子ちゃんが詩乃ちゃんの腕をつかんで、カウンターのほうへ引っ張っていった。表の看板の「カフェひより」の字は、詩乃ちゃんが書いたのかな。元気いっぱいで、すごくいい字だった。
 瑞己くんは、ほっと息をついた。

「いきなりすみません。ここの店長の(なつ)()さんは、僕の母のいとこなんです。夏美さんは、僕が生まれた頃から僕のことを知ってるし、僕も、楓子ちゃん詩乃ちゃんが生まれた頃から二人のことを知ってます」

 夏美さんがカウンターの中で何か手を動かしながら、瑞己くんの話に応じた。

「ここにお店を出すときも、瑞己くんのお母さんには力になってもらったんですよ。この場所を見つけてくれたのも彼女だったの」
「母は、このあたりに先祖代々の家があるから、近所の土地や不動産の情報には強くて。それに、家の近所にカフェがほしいとも言っていたので、いろいろ噛み合ったんですよ」

 わたしは、なるほどと思った。

「じゃあ、瑞己くんはこのあたりに住んでるんだ?」
「はい。すぐ近くに」
「武家の血を引いてるんだね。うん、しっくりくる。着物、絶対に似合うよね」
「そ、そうですか?」

 キッチンからチラリと顔を出した女の人は、大学生アルバイトの(はつ)()さんというらしい。「僕がいるときはホールに出てこないんです」と瑞己くんが説明した。一度、初奈さんの前でパニックになったことがあって、それ以来、気を遣ってもらっているそうだ。
 瑞己くん自身の口から、そんな事情をサラッと話してくれた。夏美さんも、ごく落ち着いた顔で聞いている。
 ここは瑞己くんにとって安全な場所なんだ、と感じた。
 わたしはメニューを広げてみた。途端に歓声を上げてしまう。

「わぁ、季節のフルーツのスムージー、おいしそう! フルーツのジェラートもあるんだ。迷うなぁ。あ、自家製のレモネードやジンジャーエールもおいしそう!」

 あれ? このメニューも、看板同様、見覚えがある。
 はしゃいでしまうわたしに、瑞己くんはくすりと笑った。

「やっぱり喜んでもらえた。ひよりがオープンしたのはこの春休みなんですけど、ジェラートもスムージーも最初から人気があるんです。売り切れも出てしまうくらい」

 春休みという単語と、「やっぱり」という言い回し。わたしはそれでようやくピンときて、思い出した。

「わかった、春休みの市民バザーだ! カフェひよりも出店してたよね。お店の看板も、見たことあると思ったんだ」
「覚えてたんですね」
「うん、予知夢の件もあったから、印象に残ったの」

 小声になって「予知夢」と言ったわたしに合わせて、瑞己くんも内緒話みたいなしゃべり方をした。

「予知夢? ものが壊れてしまうという、あの夢ですか?」
「うん。落としたジェラートを眺めてる夢だった」
「そうだったんですか」

 わたしは肩をすくめた。ひそひそしゃべるのがくすぐったくなって、声の大きさをもとに戻す。

「でも、わたしが落としたんじゃないんだ。実際は、わたしの前に並んでた小さな女の子がジェラートを落として泣きだしそうになったから、わたしが買ったぶんをあげたの。季節のフルーツのジェラートで、いちごベースだった」

 ちょうどお冷やとおしぼりを持ってきた楓子ちゃんが、勝ち誇ったように瑞己くんに言った。
「ほーらね。そよ香さん、ちゃんと覚えてたでしょ?」

 一つ思い出したおかげで、記憶がつながっていく。

「代わりのジェラートを持ってきてくれたのは、楓子ちゃんだったよね? 桜のジェラート」
 楓子ちゃんがうなずく。
「そうです。季節のフルーツはちょうど売り切れたから、桜のほうを」

「桜と季節のフルーツで悩んでたから、桜のジェラートをいただけて嬉しかった。しかも、底のほうにこっそり、季節のフルーツのジェラートも少しだけ入れてくれていたでしょう? おいしかったです。あのときはごちそうさまでした」

 楓子ちゃんと詩乃ちゃん、そして夏美さんにも頭を下げた。
 にっこりした夏美さんがカウンターに身を乗り出して、種明かしをした。

「瑞己くんがね、そよ香さんが季節のフルーツか桜で迷っていたのを、ちゃんと見ていたそうなんです。だから瑞己くん、ほかのどれでもなく桜のジェラートをサッと作って、楓子に持っていかせたの」

 わたしは驚いた。
「えっ、瑞己くんが? バザーのお店、手伝ってたんですか?」
「そうよ。お母さん公認の、初めてのアルバイトだったのよね、瑞己くん。桜のジェラートの底に、半端に余っていた季節のフルーツのほうも入れていたの?」

 水を向けられた瑞己くんは、たちまちのうちに真っ赤になった顔を、きれいな形の手で覆った。

「ええ、まあ、その……す、すみません……」
「またすぐ謝る。どうして謝るの?」
「だって、図書館でペンを拾った件といい、バザーのジェラートの件といい、そよ先輩は僕のこと認識してなかったのに、僕が裏で勝手に先回りして動いてて、気持ち悪いんじゃないかと思って……」

 確かに、一般的に見たら、そうなのかもしれない。ストーカーっぽいと感じてしまうかも。
 でも。

「瑞己くん、すごく現金なこと言っていい?」
「え、あ、はい」
「気持ち悪いなんてこと、ないよ。ただし瑞己くんに限るってやつです」
「……それって、イケメンに限る、じゃないんですか?」
「まったく知らない人だったら、相手がどんなイケメンでも気持ち悪いよ。でも不思議なことに、瑞己くんだったら平気。見ず知らずだったわたしに親切にしてくれてありがとう。その親切も押しつけがましくないから、純粋に嬉しいです」

 真ん丸な目をして息を呑む瑞己くんの顔は、無防備でかわいい。
 わたしは照れくさくなってきて、瑞己くんから視線を外して夏美さんに告げた。

「季節のフルーツのジェラート、今は桃なんですね。おいしそう。桃のジェラート、お願いします」
「うけたまわりました。瑞己くんはいつものカフェオレでいい?」

 瑞己くんはまだ息を呑んだまま、こくこくとうなずいた。

***