なかなか書き進められない台本に、市立図書館の閲覧室で頭を抱えていた午後三時。

「やっぱりわたしが恋愛ものの舞台の脚本と演出なんて、無茶だよ……」

 思わず、泣き言をこぼしてしまった。
 だって、わたしは恋をしたことがない。それを素直に誰かに言えば、高校二年生にもなろうという女の子が、と天然記念物のような扱いを受けてしまう。
 いや、この際、わたしに恋愛経験があろうがなかろうが、そこは重要ではない。
 問題は、演劇部の公演に使う台本がいまだに完成していないことだ。大筋は、一応できている。ただ、肝心の部分、恋する気持ちのクライマックスがうまく表現できない。ラストのインパクトにも欠ける。

 想像をふくらませたら、何でも書ける? ……だったらいいんだけど。
 わたしはため息をついて、窓の向こうを見下ろした。
 視線の先に、市民公園がある。遊具は隅のほうに少し置かれているだけの、細長い形をした緑地公園だ。木々と芝生と花壇の間を、遊歩道が向こうのほうまで続いている。

「あ、バザーって今日だったんだ」

 春休みが始まったばかりの土曜日だ。中高生の友達グループや家族連れ、大学生のカップルかなって人たちも、散歩やジョギングの途中みたいな人たちも、大勢が市民バザーのにぎわいを楽しんでいる。
 小学生の頃、わたしもバザーで売り子をしたことがある。うちの両親はデザイン事務所を経営しているんだけど、従業員の中に手芸が得意な人がいて、バザーに出店するというから、手伝わせてもらったんだ。

「あのときは楽しかったな。今年はどんな店が出てるんだろ?」
 もうバザーを見に行っちゃおうかな。このまま台本とにらめっこしてても、どうせ進みっこないし。
 頭を切り替えよう。
「うん、そうしよ。台本の締め切りまで、まだもうちょっとあるもんね。大丈夫」

 わたしは筆記用具やノートをリュックにしまい込んだ。図書館を出て、市民公園へと歩きだす。

   *

 明るく暖かな日差しの中で、並木の桜がぽつぽつと咲き始めている。
 図書館や市民公園、市民ホールがあるこの一角は、広々として緑が多くて、居心地がいい。普段の静かな様子はもちろんのこと、バザーやお祭りなんかのイベントの雰囲気も、わたしは好きだ。

 大きなくすの木のところから、バザーのテントの列が始まっていた。
 いちばん手前のお店には、かわいい看板が出ている。手作りっぽい木のフレームに、子供が書いたような字の「カフェひより」。ジェラートやフレッシュジュース、コーヒー、手作りのケーキやクッキーを出しているみたいだ。

「季節のフルーツのジェラートだって。いちごベースかな? ピンクでかわいいし、おいしそう。あ、でも、桜もいいな」

 独り言を口にしたつもりが、うっかり声が大きくなっていたらしい。テントの中で働いている人が、パッとこっちを見た。
 男の人だ。というか、背格好から察するに、たぶん同い年くらいの男の子?
 目が合いかけたのは一瞬で、彼はすぐにうつむいてしまった。シャイな人なのかな。

 わたしは、カフェひよりのテントの列に並んだ。わたしのすぐ前にいるのは、たぶん小学校に上がっていない年頃の女の子だ。
 こんな小さな子が一人のはずはないよね? そう思って視線をめぐらせると、くすの木の影にある百葉箱のそばで、泣いている赤ちゃんをあやしながら、女の人が困った顔でこちらを見ている。女の子とおそろいのワンピース姿だし、あの人がお母さんなんだろう。

 順番を待っている間に、テントに掲示されたメニューを見る。季節のフルーツもよさそうだけど、やっぱり桜のジェラートも気になるな。どうしようかな。
 女の子の番が来て、カフェひよりのスタッフさんが優しい笑顔で注文を訊いた。女の子は元気よく答える。
「季節のフルーツのジェラートをください!」
 スタッフさんたちの間で「季節のフルーツ、あといくついける?」「あと二つです」と会話が交わされた。

 ……あれ? ちょっと待って。
 何かこの場面、どこかで……。

 女の子がお金を払って、手早くコーンに盛られたジェラートを受け取って、「ありがとう!」と笑顔を見せて。
 次はわたしの番だ。結局、季節のフルーツのジェラートのほうを選んだ。お会計をして、最後の一つになったジェラートを手渡される。その瞬間、小さな悲鳴が聞こえた。
 わたしは振り返る。

 ……ああ、やっぱり。夢で見たとおりだ。

 女の子がジェラートを落として、今にも泣きそうな顔をした。最後から二番目の、季節のフルーツのジェラートだ。最後の一つがわたしの手にある。
「落としちゃった……」
 女の子がぽつんとつぶやく。
 泣きやまない赤ちゃんを抱いて、途方に暮れた顔のお母さん。女の子まで泣いちゃったら、お母さんも泣きたくなるだろう。

 わたしは思わず、女の子のほうに近づいた。しゃがんで目の高さをそろえて、女の子に笑ってみせる。
「はい、どうぞ」
 鮮やかなピンク色のジェラートを差し出したら、女の子は目を丸くした。
「いいの?」
「うん、いいよ」
「お姉ちゃんはどうするの? ジェラート、食べないの?」
 心配してくれるんだ。いい子だな。
「大丈夫。お姉ちゃんは桜のジェラートにするから。ほら、早く食べないと、溶けちゃうよ」
 女の子が笑った。
「ありがとう!」

 わたしの手から受け取ったジェラートを、さっそくぺろっとなめる。涙の気配はもう去っていた。赤ちゃんをあやすお母さんが、申し訳ないくらい、ぺこぺこと頭を下げている。
 大丈夫です、と、わたしは手振りで示した。
 だって実際、季節のフルーツも桜も、どちらのフレーバーも気になっていたんだし。

 夢で見たのは、女の子がジェラートを落としてしまうところまでだった。そこでおしまいじゃなくて、現実には続きがあったんだ。女の子が笑顔になってくれて、よかった。
 わたしが改めてカフェひよりのテントの列に並ぼうとしたら、声を掛けられた。

「あの、お客さん。もしよかったら、こちらをどうぞ」

 振り向いたら、中学生くらいの女の子がカフェひよりのエプロンをつけて、ジェラートをわたしに差し出していた。ほんのりとしたピンク色で、桜の塩漬けがてっぺんに載っている。

「わあ、いいんですか? やった、ありがとうございます! 季節のフルーツと桜と、どっちにしようか迷ってたんです」

 プレゼントしてもらったジェラートは、ひんやり甘くて、桜の葉の香りと風味がした。シナモンにも少し似た、甘いだけじゃない香り。苦みや酸味とも違う、もどかしいような風味だ。
 今の気分は、こっちだったかも。
 きっぱりしたピンク色で、いかにも甘酸っぱそうな、いちごベースのフルーツ味のジェラートではなくて。

「恋を描いた物語、か……」

 うまく書けなくて、もどかしい。
 やっぱりぐるぐると悩んでしまいながら、わたしは、淡いピンク色のジェラートを口に含んだ。
 どこか切ないような、ほのかな味わいの、桜のジェラートを。

   *

 早春。
 それが始まりの日だったことを、わたしはずっと後になって知った。

   * * *