4時間目を終え、私はすぐさま教科書を片付けた。

『屋上デートだねー』

 音声入力アプリを立ち上げていた私のスマホに、巴の台詞が入力された。含み笑いをしていた巴を睨みつける。

『明美ちゃん先生のあれは、ちょっと特殊だって。嘉那はもうちょっと積極的に恋してもいいと思うよー』

 私は髪が顔に当たるくらい、激しく首を横に振った。

「ち、が、う!」

 口パクでも分かるように、はっきり口を動かして否定した。
 椚君に失礼だ。彼はきっと、耳が聞こえない私を気に掛けてくれているだけだ。
 私はリュックから弁当とおやつの残りを引っ張り出し、ノートとペンを持って教室を出ようとした。その行く手を、新の手が遮る。

「スマホ!」

 私の机の上にある、音声入力アプリが立ち上げられたままのスマホを指さしている。
 いつも机の上にあるからか、どうもそれが当たり前に感じて持って行くのを忘れてしまう。
 椚君と話すときに音声入力アプリが必要だというのに。そもそも、時間を確認できるものが私には必要なのだ。また明美ちゃん先生に怒られるところだった。
 私は自分のスマホを持って、今度こそ教室を出た。

***

 椚君は今まで、お昼ご飯をどこかで食べてから屋上に来ていたはずだ。
 今日は屋上で食べる約束をしていたわけだから、彼のほうが先に屋上にいるかと思っていた。
 その予想は外れ、実際は私のほうが早く着いた。

 屋上には誰もいない。
 もしかして、私は彼に弄ばれただけだろうか。
 べつにそれでも構わないけど。どのみち、お昼はここで食べるつもりでいたから。

 私は屋上の隅に座って、フェンスに背中を預ける。
 今日は晴れているけど、風が吹いているからまだマシだ。

 私は空を見上げながら、本当に彼が来るのだろうかと考えた。
 来るかも分からない人を待っているのも、時間の無駄だ。
 約束を守る人かどうかも分からないし。先にご飯を食べ始めていてもいいだろうか。

 流れる雲をぼんやり眺めていると、屋上のドアが開くのが見えた。
 現れたのは椚君だった。
 本当に来たんだ……。

 彼は手にパンの袋を2つと、ペットボトルのお茶、財布を持っていた。
 あぁ、購買でお昼を買ってきたのか。
 購買ってどんなところなんだろう。私は行ったことがない場所に思いを馳せる。そもそも、この高校の中で行ったことのある場所のほうが少ない。私の中での購買は、学生たちが押し合いへし合いしている場所というイメージ。
 椚君は私のほうに近づいてくると、すぐにスマホ画面を見せてきた。

『隣、座っていい?』

 メモアプリに表示されていた文字は、ここに来る前に用意されていたのだろう。文字を打つ仕草はなかったから。
 頷くと、椚君はニコッと笑って私の隣に腰を下ろした。
 私は椚君が話しやすいように、音声入力アプリを起動する。それを彼に見えるようにして置いた。

『あ、そっか。それがあるんだったね。そのアプリ、おれのスマホにも入れられる?』

 頷いたはいいけど、これが何というアプリなのかはよく分かっていない。
 新に教えてもらって、新が入れてくれたアプリだから、詳しいことはよく分からない。

『もしよかったら、そのスマホ見せてもらえる? なんのアプリか、見せてもらったら分かると思うから』

 私は椚君にスマホを貸した。
 椚君は少しだけ私のスマホ画面をいじってから、自分のスマホの上でスイスイと指を動かした。
 椚君の口が小さく動いたものの、私のスマホは彼の手だから、なんて言ったのか分からない。ただの独り言だろうか。

『はい、ありがとう。おれのスマホにも入れたよ』

 椚君は、私にスマホを返してくれながら言った。
 その台詞は、椚君のスマホと私のスマホで文字化されていた。
 私は返してもらった自分のスマホ画面を閉じる。椚君のほうで音声入力アプリを使うなら、私のスマホは必要ない。どうせ私が話をするときは、ノートを使うから。

『待っててくれてありがとうね。購買が並んでてさ。それじゃあ食べよっか』

 椚君はさっそくパンの袋を破った。
 袋にはカツサンドパンと書かれていた。

『いただきます』

 私も早く食べよう。
 私は持って来た弁当を広げた。

『え、それ、全部秋波が食べるの?』

 椚君は、私が弁当袋から出した弁当を見て、目を丸くしていた。
 新と巴も、最初はそんな反応だった。私の3つの2段弁当を指さしながら、目を丸くしていた4月頃を思い出す。

『その体のどこに入るの?』

 その言葉に思わず笑いながら、私は自分のお腹を指さした。
 私はいただきます、と手を合わせてお箸を持った。
 椚君は、パンを齧りながらチラチラと私を見ていた。
 少しの気恥ずかしさを感じながらも、ペロッと弁当を空にした。

『すご』

 弁当を空っぽにした私は、おやつの残りを袋から出した。

『え、まだ食べるの? あ、いや、ダメってわけじゃないよ?』

 椚君は慌てて付け加える。
 私は椚君にたい焼きを差し出す。食べる?

『え、くれるの?』

 こくりと頷けば、椚君は遠慮がちに手を出した。
 もらっていいのか迷っているように見えた。私は彼の手にたい焼きを乗せた。

『ありがとう。いただくよ』

 私は椚君に笑みを見せて頷いた。
 なぜか頬を赤くした椚君に目を逸らされた。
 たくさん食べるのが恥ずかしいと思うタイプなのかもしれない。

 私はジャムパンを掴み、包装を破く。
 それに倣って、椚君もたい焼きの袋を破き、大口でたい焼きの頭に噛り付いていた。