『そうだ。まだ名乗ってなかったですよね。おれ、(くぬぎ)荒野って言います。あ、漢字が違う。えっと、紅に弥生のやで、こ、う、や、です。1年です』

 彼……椚君は、私のスマホに顔を近づけて自己紹介をしてくれた。
 さっきまでより、口の動きがゆっくりになっている。心なしか、はっきり話してくれているように見えた。スマホが声を拾ってくれるように意識しているのだろう。

『あなたの名前はなんですか?』

 訊かれてハッとした。流れ的に、私も自己紹介をしなければいけない。でも今は手元にノートがない。とりあえず、何か入力できるアプリとかないだろうか。それに入力できれば……。
 そう思ってスマホを弄っている間、彼はずっと待っていてくれた。
 あまり待たせてはいけないと思うと、人間焦るものだ。カレンダーアプリを開いてしまった。これが全然関係ないアプリだということだけは分かる。

 私がおたおたしていることを不審がってか、椚君がスマホを覗き込んできた。
 何か言いたそうだった。
 私はさっきの音声入力アプリに画面を切り替える。

『もしかして、スマホ苦手ですか?』

 やっぱりバレるか。お恥ずかしい……。椚君から目を逸らして頷いた。

『メモアプリとかだったら、文字入力できますかね? 少し借りてもいいですか?』

 このまま私がスマホを握っていても、できることは何もない。素直に椚君にスマホを渡した。
 サッサッと指を動かし、すぐにスマホを返してくれた。メモアプリが開かれている。
 彼は画面を突くように指をさす。ここに文字を入力して、ということだろう。
 私は画面に指を滑らせ、自己紹介を入力する。

 が、打っては誤変換して、消して、消しすぎて、また打って、タップし過ぎてひらがなが行き過ぎる。
 ようするに進まない。

 恐る恐る椚君を見ると、顔を隠して肩を震わせていた。
 笑われている。これは絶対に笑われている。
 私は恥ずかしくなって、椚君に背を向けた。
 椚君が前に回り込んできて、「ごめん」と口を動かしながら、手を合わせた。
 私は恥ずかしさに、涙目でそっぽを向いた。

 今日は彼が屋上に来たら、さっさと教室に戻ろうと思っていた。まさか話すことになると思っていなかったから、ノートも持ってきていない。スマホでどうにかするしかないのだから、頑張らなければ。
 私は四苦八苦しながら、自己紹介の続きを入力した。

『秋波嘉那です。1年です。耳が聞こえません。無視していると思わせてしまっていたなら、すみません。機械が苦手で、打つのが遅くてすみません』

 私はずっと待ってくれていた椚君にスマホを渡す。受け取った彼は、さっきとは違い優しく微笑んでくれた。
 読み終わったのか、彼はまた私のスマホの上で指を滑らせた。
 返ってきたスマホには、椚君が入力した文字が増えていた。

『1年なんだ。同じだね』

 顔を上げて頷く。
 彼は自分のスラックスからスマホを出し、何やら操作してから私に見せた。

『さっき、何か困ってたみたいだけど、何かあったの?』

 私と同じメモアプリが開かれている。
 今の一瞬でこの文章を入力したのだろうか。すごいスピードだ。
 私は文章を打ち込もうとして、でも面倒になった。また笑われるのも嫌だし。
 手っ取り早く、カメラアプリを起動する。

『カメラ? もしかして、カメラの使い方に困ってた?』

 私は控えめに頷いた。

『なるほど』

 また笑われるかと思ったが、椚君は「かして」と口を動かして、手を出しただけだった。
 椚君にスマホを渡すと、「ここ」と口を動かしながら、私がさっき押した丸いボタンを指さす。
 そこを押して写真を撮るのは分かってるよ……。そう思いながら、ボタンを押す。
 その瞬間、またスマホの向こう側で光ったのが見えた。

 椚君は何か理解した顔で、画面を操作した。
 すぐに私にスマホを返し、丸いボタンを指さした。
 押せということだろうか。私は指示されるままにシャッターボタンを押した。今度は光らなかった。

『フラッシュ設定になってたみたい。これで大丈夫だよ』

 なるほど、フラッシュ。知ってる、あの眩しいやつ。
 私は納得して2度ほど頷いた。

「ありがとう」

 私は口パクでお礼を伝えると、早速屋上の写真を撮り始めた。
 誰もいない屋上。屋上から見下ろすグラウンド。屋上から見上げる空。屋上から見える遠くの町並み。屋上から見る畑、田んぼ、花壇、バス停、教科棟、校門、中庭。
 屋上を走り回り、あちこちの写真を撮った。

 スマホを下ろすと、誰かに肩を叩かれた。振り返ると、椚君が立っていた。
 椚君がいたことをすっかり忘れてしまうほどに、写真に熱中してしまった。

「時間」

 椚君が、昨日のように腕時計を見せてくれた。
 もうすぐ予鈴が鳴る時間だった。
 そろそろ戻らないと、5時間目に遅れてしまう。
 私は椚君に頭を下げ、お礼を伝えた。

 屋上の隅に置いてあった弁当を持って屋上を出る。
 階段を下りかけていた私の腕を、後ろから引っ張るように掴まれた。
 驚いて振り返ると、椚君が「待って」と言ったのが分かった。
 首を傾げると、椚君は素早く自分のスマホを操作した。

『もしよかったら、明日ここで、一緒にお昼を食べてもいいかな?』

 お昼のお誘いだった。
 私はいいけれど、椚君はクラスメイトとご飯を食べているんじゃないのだろうか。ここでご飯を食べていないところを見ると、昼休みの残りの時間で屋上に来ているだけに思えるが……。

『君と、もっと話がしてみたい』

 追加された言葉に、私は目を丸くした。
 私と話すのは、とても手間がかかるだろう。それなのにこんな私といて、何の得があるというのか。
 困り果てて椚君を見上げると、懇願するような目で私を見ていた。

『嫌なら、無理にとは言わない。でも、君のこと知りたいなって思った』

 椚君の言葉はストレートだった。
 予想外の言葉に、顔に熱が集まるのを感じた。

「だめ?」

 そんな捨てられた子犬みたいな目をされたら、ダメとは言いづらい。
 気付いたら、私は首を横に振っていた。
 ダメじゃない。

『いいいってこと!?』

 慌てて打ったのか、「い」が多い。
 椚君は嬉しそうに目を輝かせている。
 なんか、可愛い。

 私は小さく笑って、首を縦に振った。