弁当を食べるために教科棟に移動してきた私たちは、巴に冷やかされた。
 新は冷やかしはしなかったけど、手を繋いでいる私たちを見て、上手くいったことを察してくれた。嬉しそうに目を細め、満足そうに頷いている。
 明美ちゃん先生は、職員室に行っているのか教室にはいなかった。

『いやー、ひとまずハッピーエンドだねー』

 椚君が開いたままだった音声入力アプリの画面を見せてくれた。

『ひとまず?』
『付き合うのがゴールじゃないでしょ? この先もいろいろあると思うから、ひとまず。でも、おめでとう。今は盛大に祝わなくちゃねー』

 新の不思議そうな顔に、巴が当然のことのように言った。
 たしかに巴の言う通りかもしれない。
 私の耳はいつもどおり聞こえていない。今も、巴と新の声は聞こえない。
 さっき椚君の声が聞こえたのは、やっぱり気のせいだったのかもしれない。それとも、神様が一瞬だけ私に聴力を返してくれたのか。

 どちらにせよ、これからも私の耳が聞こえないことで、椚君に不便な思いをさせることもあるだろう。
 でもそれはそれ。
 盛大なお祝いはいらないけど、喜んでくれるのは嬉しかった。巴と新には感謝しかない。
 私は新の席でノートを開き、『巴も新も、ありがとう』と丁寧な字で書いた。
 椚君が後ろからスマホを見せてくれた。

『どういたしましてー』
『上手くいってよかったよ』

 私ははにかんで自分の席に着いた。普段は明美ちゃん先生が使っている椅子を椚君に勧める。
 リュックから3つの弁当を出し、そのうちの1つを椚君に渡した。
 だけどよくよく考えたら、お箸は1つしかない。

『あ、箸ないね。購買でもらえるかな』

 教室を出て行こうとした椚君のブレザーを掴み、引き止める。
 まだ手はある。食べ切れていないおやつの入った袋を、リュックから引っ張り出した。

『これ、パン?』
『プリンもマカロンもあるよ。パンもあるけど。好きなの食べていいよ。これならお箸いらないし』
『でも、秋波のおやつなんじゃ』

 私は椚君に袋を押し付けた。
 椚君は苦笑して、『ありがとう』と言って袋を受け取った。

『教室でイチャ付くな』
『他所でやれー』

 新と巴がブーブーとヤジを飛ばしてきた。
 気恥ずかしさに顔が熱くなる。
 椚君をチラッと見ると、嬉しそうに笑っていた。
 椚君が私の机に置いた彼のスマホに、流れるように文字が入力され始めた。

『羨ましいでしょ、先輩』
『うわ、生意気だ』
『ねー、生意気だー』
『はは。でも、ありがとうございます、いろいろ』
『嘉那を泣かせたら許さないからな』
『嘉那のバックにお兄ちゃんが2人いること、忘れないでよねー』
『肝に銘じておきます』

 椚君が姿勢を正して言った。
 新も巴も、椚君の返答に深く頷いていた。

『あ、そうだ嘉那。スマホ返す』

 新がハッとしたように、机の中から私のスマホを出した。
 自分がスマホを持たずに教室を飛び出したことを、よくやく思い出した。危うく、また明美ちゃん先生に怒られるところだった。

『思わず、お前の耳が聞こえないの忘れて大声で呼んじゃったよ』
『僕ら走れないから、スマホ届けに行くのすぐに諦めたけどね』

 新が肩を竦め、巴がおかしそうに笑う。
 かたじけない……。

『あ、そうだ紅弥。ライブかっこよかったねー』
『ボーカルなだけあって、歌上手いな』
『ありがとうございます』

 2人が椚君を褒め、彼は照れ笑いを浮かべて頬をかいた。
 歌が聞こえない私への当てつけか、と捻くれた心で思った。
 3人が仲良しなのはいいけど、私だけ仲間外れにされている気分だ。

『オレも直接見たかったかも』
『きっとすごい熱気だったんだろうなー』

 新と巴が羨ましそうに話している。
 この2人も、文化祭の間はこんな気持ちだったかもしれないと思い直し、捻くれた考えを追い出した。

 そう言えば、椚君は何の曲を演奏していたんだろう。私の知ってる曲だろうか。
 もっとも、耳が聞こえていた頃もほとんど音楽は聴かなかったから、あまり知っている曲は多くはないけれど。

『椚君、文化祭で何歌ってたの?』
『んー? 秋波も知ってる曲。MONGOL800の、『小さな恋の歌』』

 その曲なら、中学の音楽の授業で聴いた。
 あぁ、そうか。そう言うことか。
 椚君、本当に私のこと好きすぎやしないだろうか。
 私は全てを理解して、清々しく負けた時のような笑みが零れた。椚君には敵わないな。
 椚君は、イタズラが成功した時のような笑みを浮かべていた。