不意に屋上の地面に雫が落ちるのが見えた。
 今日は雨の予報はないはずだけど、と思って顔を上げる。
 雫の正体は、椚君の涙だった。

『待って、まだ、続きがあるの』

 私は椚君の目元に手を伸ばし、透明な涙を拭う。

『うん、ごめん。つらいのは秋波なのに』

 私なんかのことで泣いてくれるの、嬉しいよ。私は力なく微笑む。
 椚君はブレザーの袖で乱暴に目元を擦った。

『最後まで、聞くから』

 潤んだ瞳で、真っ直ぐに私を見てくれた。
 私は小さく微笑んで体を屈めた。

『高校は祖父母の家から近いここを受験して、私は特別クラスの一員になった。耳が聞こえなくなってからは、上手く感情を表に出すことができなくなってたし、どうせそこでも馴染めないだろうなって思ってた』

 だけど、そこには新と巴がいた。
 とくに新は、妹のように私を気に掛けてくれた。
 腫れもの扱いじゃなく、ずっと前から知っている友人みたいに扱ってくれた。
 高校になって初めてスマホを持っても、使う気すらなかった私に、音声入力アプリの存在を教えてくれたのは新だ。
 たくさん笑いかけてくれて、話しかけてくれて、私も少しずつ笑えるようになっていった。
 新がいなかったら、私はまだ上手く笑えていなかったかもしれない。

『新と巴と、あと明美ちゃん先生がいてくれたおかげで、学校が楽しいと思えるようになった。でも、みんなの声が聞けたら、とは、どうしても思えなかった』

 話したいとは思うけど、私が変わりたいとは思えなかった。
 でも……。

『でも、文化祭の時。椚君のライブを見てて、初めて悔しいと思った。耳が聞こえないのが、椚君の声が聞こえないのが、悔しくてたまらなくなった。椚君の歌を聞けない自分が初めて情けなくなった』

 耳が聞こえなくなって、初めて自分の状況をもどかしく思った。

『初めて、声が聴きたいと思った』

 私は顔を上げないまま、文字を書き連ねる。
 伝えたいことを全てノートに綴る。
 少しずつ字が汚くなってきたが、それでも手を止められなかった。

 両親ばかりを責めるのは違う。
 私こそ自分の気持ちを言わなかったんだから。
 それじゃダメだと巴が教えてくれた。

『椚君の傍にいるのは私じゃダメだって思ってた』

 ちゃんと会話ができて、耳が聞こえて、同じ教室に通えて、大好きな音楽を共有できる人のほうが、椚君にはあっている。
 そうやって勝手に決めつけて、椚君の気持ちから逃げていた。
 自分の気持ちから逃げていた。

『でもあの日教室で泣いてる椚君に手を伸ばせなくて、何も言葉が出てこなくて、俯いた椚君に拒否されたように感じて、初めてそれじゃ嫌だって思った。隣にいたい。隣にいてほしい。椚君に嫌われたくない』

 ノートに雫が落ちて、文字が滲んだ。
 視界を歪ませる鬱陶しい涙を、さっきの椚君のように乱暴にブレザーの袖で拭う。

『ライブの動画、2人に見せた。私、途中からしか撮れてなかったんだけど、椚君が曲の前に言ってたこと、教えてもらった。……もう、私のこと諦めちゃった? 今届いたんじゃ、遅いかな?』

 顔を上げられない。
 涙が止まらない。
 上手く文字が書けない。
 まだ言いたいことがあるのに。
 一番言いたいことなのに。

 私が諦めたくない。
 届いて欲しい。
 一番に椚君に届いて欲しい。

「好きだよ」

 手の甲で涙を拭いながら、口を動かした。
 きっと、声が出ていたと思う。
 どのくらいの大きさで声が出たのか分からない。
 声を出すのは久しぶりで、ちゃんと声が出ているのかも、上手く喋れているのかも分からない。

 突然腕を引かれ、体ごと引っ張られた。
 驚きのあまり涙が止まった。

 椚君の腕の中だとすぐに気が付いた。
 お菓子のような、ほんのり甘い椚君の匂い。

 顔を上げようとしたけれど、椚君の手に頭を抑えられて動かせない。
 ギュッと私を抱きめてくれる椚君の体が、小さく震えている。泣いているのか、髪が濡れるのを感じた。

 私は身をよじって腕を出し、恐る恐る彼の背中に腕を回した。
 小さな子を宥めるように、ポンポンと背中を叩く。

 下を見ると、椚君のスマホが目に入った。
 さっきまではなかった文字が入力されている。

『好きだよ』

 これは、私が言った言葉だろう。
 だけどその次の文字に、私の涙腺は派手に崩壊した。

『おれも好き、大好き。遅くなんてない。届いてよかった。おれにも届いたよ、秋波の気持ち。考えてくれてありがとう。答えてくれてありがとう。話してくれてありがとう』

 私は椚君の背中を叩いていた手で、ぎゅっとブレザーを握った。
 よかった。届いた。
 遅くなかった。
 間に合った。
 よかった。

『好きだよ、椚君』

 私の声を、椚君のスマホが拾った。

***

 落ち着いた私たちはお互いの体を離して、グシャグシャになった顔を見合って笑った。

『はー。秋波の声、初めて聴けて嬉しすぎた。死にそう』
「死なないで!」

 私は首をブンブンと横に振った。
 椚君は口を開けて笑い、私の顔に手を伸ばした。
 制服の袖で、私の涙を拭ってくれた。
 私も椚君の顔に手を伸ばし、彼の涙をそっと拭いた。

『昼休み、半分以上終わっちゃったね』

 言われて、彼の腕時計を勝手に見る。
 本当だ。お昼ご飯、まだ食べていないのに。
 私が書くのに時間かかったせいだね。

『秋波、お腹鳴ってる』

 椚君に指摘され、恥ずかしさにお腹を押さえた。
 一気に顔に熱が集まる。

『購買、もう売り切れてるかな』

 どうしよう、私のせいで椚君のお昼がなくなってしまった。

『そんな顔しない。秋波のせいじゃないから』
『私のお弁当1つあげる!』
『でもそれは秋波のお昼じゃん』
『でも、椚君もお腹空いてるでしょ? 私のせいで、椚君を急かしちゃったから……』
『分かった分かった、もらうよ』

 椚君は焦った顔で早口に言ったのが分かった。
 椚君は私のことで、こんな風に焦ってくれるんだと思うと、擽ったい気持ちになった。
 それだけじゃない。泣いてくれてるし、喜んでもくれる。

『秋波、何笑ってんの?』
『なんでも。ただ、自分事みたいに思ってくれるんだなぁって』
『自分事だもん。自分の好きな人のことだもん』

 そんな風にストレートに言われると照れる。
 顔の熱を冷まそうと、パタパタとノートで扇いだ。

『秋波は違うの?』
『違わない、かな』

 私だって、椚君のことでたくさん悩んだ。
 他人事なんかじゃなかった。

『秋波』

 呼ばれてスマホを見る。次の言葉を待っていたが、椚君の手が私の頬を挟み、強制的に顔を上げさせた。

「好きだよ。おれと、付き合って」

 私は目を見開いた。
 私にも分かるように一言ずつ区切られた口の動きにではない。
 私の聴力は神様が持って行ったはずなのに、彼の声が聞こえた気がしたからだ。
 優しく、少し低い、柔らかい声だった。

 気のせいでもいい。でももし気のせいではなかったのなら。
 涙が溢れて止まらなかった。
 胸がとても苦しかった。
 それでも私は口角を上げた。

「はい」

 上手く言えたか分からない。
 頬を挟まれているから、スマホで確認することもできない。
 でもちゃんと伝わった。
 椚君が満面の笑みを浮かべていたから。